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28話 キリトの混乱

ー/ー



 世の中には、「見なかったことにする」という処世術がある。

 前世の俺も、それなりに使いこなしていた。取引先の不正な帳簿。上司の経費の水増し。見て見ぬふりができる人間こそが、長く生き残るサラリーマンの素養というものだ。

 それをキリトは、どうにも苦手としているらしい。


 ◆


「なぁ」

 酒場のカウンターに突っ伏したまま、キリトは独り言のように言った。

「なぁって何だ、俺に言ってんのか」

 隣のガラの悪い冒険者が眉を上げる。

「……独り言だ、気にするな」
「あ、そ。じゃあうるせぇ」

 冒険者はエールを飲み干し、すたすたと立ち去った。キリトはカウンターに頬をつけたまま、手元のジョッキを眺めた。

 昼間っから飲んでいた。

 飲まなきゃやってられないということもあったし、酒場にいれば話が入ってくるということもあった。最近は特に、“エルメス嬢の武勇伝”が格好のつまみになっていた。

「……なぁ」

 また呟いた。
 今度は誰も反応しない。

 ジョッキの中のエールが、微かに揺れている。

 キリトはその水面を見つめながら、ここ数日頭の中で繰り返していることを、また繰り返した。

 エルメス=バーキンが、ダンジョンを攻略した。

 エルメス=バーキンが、勇者候補のパーティを救った。

 エルメス=バーキンが、AAAクラスのモンスターと戦った。

「……なんで」

 おかしい。
 何がおかしいかというと、全部おかしい。

 キリトはエルメスのことをよく知っている。知りすぎているとも言えた。アズナのことがある。姉のことがある。あの女が俺の大切な人たちをどう扱ったか、骨の髄まで知っていた。

 だからこそ分かる。
 あの女は、リスクを冒さない。

 自分が傷つく可能性のあることは絶対にやらない。困っている人間がいれば、助けるのではなく利用することを考える。仲間のために動くなんて発想は、エルメス=バーキンの辞書に存在しない。

 なのに。

「仲間のために……?」

 あの女が。

「リスクを冒して……?」

 あのエルメスが。

「……どういうことだよ!」

 キリトはジョッキを置き、両手で顔を覆った。

 英雄譚というのは誰かが盛るものだ。それは知っている。ガストンという男が昨夜も酒場で武勇伝を語り散らかしていたし、話が大きくなること自体は不思議じゃない。

 だが。

 紅蓮のメンバー全員が、一様に言うのだ。

「エルメス嬢が前に出た」

「エルメス嬢が盾になった」

「エルメス嬢がいなければ、俺たちは全員死んでいた」

 脚色じゃない。あの目をしている人間が、嘘をつく理由がない。

「……本当に中身が別人なんじゃないか」

 ぽつりと、声に出してしまった。

 すぐに自分で笑い飛ばそうとした。

 でも、笑えなかった。

 気になることが、もう一つある。

 酒場で再会した日のことだ。あの時エルメスは、キリトのことを一瞬“知らない人間を見るような目”で見た。本当に一瞬だったから、見間違いかもしれない。だが確かに、あの目は“自分を殺そうとした男”を見る目ではなかった。

 それから急いで「いがみ合っていても仕方ない」という話に切り替えてきた。

 妙に手際が良すぎた。

 エルメスは喧嘩が好きな女だ。売られた喧嘩は十倍にして買い戻すような女だ。それがあの場面で、まるで別人のように丸くなっていた。

「……なんで俺、今まで気にしなかったんだ」

 キリトは額をカウンターに打ちつけた。
 鈍い音がした。

 隣の冒険者が「うるさい」と言った。


 ◆


 礼拝堂を出たリリアは、その日の夕方、いつもの路地裏の井戸端で水を汲んでいた。

 作業の手が止まったのは、人の気配を感じたからだ。

「……話がある」

 振り向くと、黒髪の青年が立っていた。

 年は十代の終わりくらいか。眉間に皺を寄せ、明らかに寝不足の顔をしている。口調は妙に剣呑だが、目に敵意はない。ただ、困り果てている人間の目だ。

「キリトさん」

 リリアは名前を呼んだ。ギルドで何度か顔を見たことがある。エルメスとも接点があった男だ。

「……知ってるのか、俺のことを」
「少しだけ」
「……そっか」

 キリトはため息をついて、井戸の縁に背中を預けた。

「単刀直入に聞く」

 リリアは水桶を地面に置いた。
 それから、キリトの顔をじっと見た。そして、胸元に顔を近づけた。

「お、おい……」

 くんくんとキリトの匂いを嗅いでいた。

「……優しい匂い」
「も、もういいだろ。ちょっと離れてくれ。俺にはアズナって恋人がいるんだ」
「ごめんなさい。癖なんです」
「その癖、直したほうがいいぞ。そんなことより、聞きたいことがある」
「どうぞ」
「エルメスのこと、おかしいと思わないか」

 リリアは人差し指を下くちびるに押し当て、僅かに考えた。

「……なぜ、私に聞くんですか」
「ギルドで声をかけてただろ。あの時の顔、覚えてる。あいつに何かを感じてる顔だった」

 鋭い。リリアは少しだけ目を細めた。

「……聞かせてください。あなたは何を感じましたか」
「感じたってより……おかしいんだよ」

 キリトは言葉を選ぶように、ゆっくりと話した。

 エルメスが昔どんな女だったか。リスクを冒さず、仲間を利用し、自分の利益しか考えない女だった。
 それが今、まるで別人のように動いている。言葉遣いすら変わった。あいつは俺のことを「キリト」と呼ばなかった。いつも「あなた」か「そっちの」だった。なのに再会した日、「キリトはどうしますの」と名前で呼んだ。一瞬で取り繕ったが、あの一瞬は確かにあった。

「……それで、私に何を期待していますか」
「答えを持ってるかもしれない、そう思っただけだ」

 リリアは少しの間、黙っていた。
 それから静かに言った。

「……私も、見てました」
「やっぱり」
「ダンジョン攻略の日。あの瞬間、彼女の首筋の紋様が一瞬だけ、強く光りました」

 キリトの眉が跳ねた。

「紋様?」
「彼女の首筋に、黒い紋様があります。あなたには見えませんか」
「……見えない」
「私の目には見えます」

 リリアは静かに続けた。

「最初に会った時から、ずっと。それが今は、以前より濃くなっています」
「……なんだよ、それ」
「分かりません。でも、あれは人間の魔力じゃない」

 キリトは沈黙した。

 頭の中で何かが繋がっていく音が、自分でも聞こえるようだった。

 あの日、確かにエルメスを殺そうとした。実際に死んだと思った。だけど、彼女は生きていた。まるで何事もなかったように、平然としている。

 あの日、自分が去ったあとで何かがあった。そう考えたほうが辻褄が合う。

 ダンジョンで起きること……。

「……まさか」
「断言はできません」
「でも、可能性はある、ってことか」

 リリアは答えなかった。

 その沈黙が、答えだった。

「あいつ……一体何者なんだ」

 キリトは声を絞り出した。

「分かりません」

 リリアは正直に言った。

「でも、見続けることはできます」
「……それだけか」
「今できることは、それだけです」

 キリトはもう一度ため息をついた。長い、長い溜め息だ。それからぼそりと言った。

「……俺、どうすればいい」
「何もしなくていいと思います。今は」
「なんで」
「動けば、向こうも動きます」

 キリトは顔を上げ、リリアを見た。

 白いローブの小柄な神官が、静かにこちらを見ていた。感情を抑えた顔だが、目の奥に何か確固たるものがある。この子は怖がっていないのだと、キリトは思った。

「……あんた、変わってるな」
「よく言われます」
「怖くないのか」
「怖いです」

 間を置かずに答えた。

「でも、知りたいという気持ちの方が、今は強いので」

 キリトは苦笑いした。

「そういう奴が一番危ないんだぞ」
「そうかもしれません」

 リリアは水桶を持ち上げた。

「また何か気づいたら、教えてください」
「……ああ」

 キリトは井戸の縁から離れ、路地の出口に向かいかけた。

 その背中に、リリアが静かに声をかけた。

「キリトさん」
「なんだ」
「一人で動かないでください。今は、まだ」

 キリトは振り返らなかった。

 しかし足が止まった。

「……わかった」

 それだけ言って、路地を出た。

 リリアは水桶を脇に抱え、空を見上げた。

 夕暮れが、街を橙色に染めていた。


 ◆


 路地を抜けてしばらく歩いたところで、キリトはまた立ち止まった。

「……だな」

 独り言を言う癖が、最近酷くなっている。

 後ろから声がした。

「珍しい組み合わせだな」

 振り向くと、男が立っていた。

 赤髪をかき上げ、涼しい目でこちらを見ている。右腕の袖が、風に揺れた。その先には、何もない。

 アルエルだった。

「……紅蓮の」
「アルエルだ」

 アルエルはキリトの隣に並んだ。追ってきたわけではないらしい。ただ、通りかかった。そういう歩き方だった。

「さっきの神官と、何を話していたんだい」
「……聞いてたのか」
「たまたま近くにいただけさ。内容までは聞こえなかったが、顔は見えた」

 アルエルは笑わなかった。

「エルメス嬢のことを話していただろう」

 断定だった。

 キリトは警戒した。だが、アルエルの目に敵意はない。どこか疲れたような、それでいて諦めていない目だ。

「……なんで分かる」
「君の顔が、そういう顔をしているから」
「そういう顔、って」
「何かを飲み込めずにいる人の顔だ」

 キリトは口を閉じた。

 アルエルは続けた。

「僕も、気になってる」
「……エルメスのことか」
「ああ」

 短く言った。

「理由を聞いてもいいか」

 キリトが問うと、アルエルはしばらく黙った。

 それから、少しだけ苦笑するような顔をした。

「直感だ」
「……直感」
「言霊を使う時、相手の意思が邪魔をする。人間は必ず、無意識に抵抗する。それが自然なんだ」

 アルエルは空を見上げた。

「エルメス嬢には、それがなかった」
「……それが、おかしいのか」
「どうだろ? ただ、普通じゃない。意思がないわけじゃないんだ。戦っている間、彼女は確かに判断していた。的確に。無駄なく。だが僕の言霊を受け入れた時だけ、まるで自分の意思を持たないかのように、一切の抵抗がなかった」

 キリトは黙って聞いていた。

「何かが、いる」

 アルエルは静かに言った。

「エルメス嬢の中に。あるいは、エルメス嬢の代わりに動いている何かが」
「……さっきの神官も、同じことを言ってた」
「だろうね」

 アルエルは目を細めた。

「あの神官は見えているんだろう。僕には見えないが、感じることはできる。似たようなものだ」

 しばらく沈黙が続いた。

 夕風が路地を吹き抜けた。

「……どうするつもりだ」

 キリトが問うと、アルエルは少しだけ間を置いた。

「見る。今は、それだけだ」
「動かないのか」
「動けない」

 アルエルは自分の右腕の袖を、一度だけ見た。

「それに――彼女は僕たちを救ってくれた。それだけは事実だ。何者であれ、その事実は変わらない」
「……お人好しだな」
「そうかもしれない」

 アルエルは笑わなかった。

「ただ僕は、よく分からないものを、よく分からないまま斬りたくない。それだけだよ」

 キリトは何も言えなかった。


 ◆


 その夜遅く、キリトとリリアは礼拝堂の前で再び顔を合わせた。

 示し合わせたわけではない。キリトが考えごとをしながら歩いていたら、礼拝堂の前にリリアがいた。それだけだ。

「アルエルさんとも話したんですか」
「……筒抜けだな」
「この街は狭いので」

 リリアは礼拝堂の石段に腰を下ろした。キリトも、少し離れた段に座った。

 夜の礼拝堂は静かだ。蝋燭の光が窓からわずかに滲んでいた。

「……アルエルの腕、治せないのか」

 キリトが唐突に言った。
 リリアは少し驚いたような顔をした。それから、静かに答えた。

「この街の治癒魔法では、欠損の再生はできません。もっと高位の神殿か、特別な術者が必要です」
「お前なら、どうだ」

 リリアは少しの間、黙った。

「……なぜ私に聞くんですか」
「なんとなく。お前が普通の神官じゃないのはわかる」
「普通ですよ」
「神眼を持ってる神官が普通なのか」

 リリアは答えなかった。

「……欠損の再生は、難しいです」
「難しい、じゃなくて、できないのかって聞いているんだ」
「難しいです」

 同じ言葉を繰り返した。
 キリトは横目でリリアを見た。

 リリアは膝の上に手を揃えて、真っすぐ前を向いていた。表情は穏やかで、何も語っていない。

「……それ、答える気がない顔だな。姉ちゃんがいつもそんな顔してた」
「そんなことはありません」
「あるだろ」
「……」

 微笑んだ。

 何も答えない微笑だった。キリトはやれやれと首を振った。

「とっつきにくい奴だな、お前」
「よく言われます」
「それさっきも言ってたな」
「本当によく言われるので」

 しばらく、二人とも黙った。

 礼拝堂の蝋燭が、窓の向こうで揺れた。

「……なあ」
「エルメスの中にいる何かが、悪いものだと決まったわけじゃないよな」

 リリアは前を向いたまま答えた。

「……まだ、分かりません」
「あいつが紅蓮を救ったのは、そいつのせいかもしれない。そういう可能性もあるか」
「あります」
「だったら――」
「だったら、何ですか」

 キリトは言葉に詰まった。

「……わかんねぇ」
「私も、分かりません」

 リリアは少しだけ、空を見上げた。
 星が出ていた。

「ただ」とリリアは言った。

「彼女が何かに操られているなら、それがいいことであれ悪いことであれ、本人は苦しいかもしれない、と思っています」

 キリトは黙って聞いた。

「もしも本当に彼女がエルメスさん本人ではないのなら、本物のエルメスさんは、どこにいるんだろう、と。時々考えます」

 風が吹いた。
 石段の上で、白いローブが静かに揺れた。

「あいつ……本当に、生きてるのかな」

 キリトが、ぼそりと言った。

 答えは返ってこなかった。
 ただリリアは、星を見上げたまま、小さく息を吐いた。

 礼拝堂の蝋燭が、また一度だけ、揺れた。


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 世の中には、「見なかったことにする」という処世術がある。
 前世の俺も、それなりに使いこなしていた。取引先の不正な帳簿。上司の経費の水増し。見て見ぬふりができる人間こそが、長く生き残るサラリーマンの素養というものだ。
 それをキリトは、どうにも苦手としているらしい。
 ◆
「なぁ」
 酒場のカウンターに突っ伏したまま、キリトは独り言のように言った。
「なぁって何だ、俺に言ってんのか」
 隣のガラの悪い冒険者が眉を上げる。
「……独り言だ、気にするな」
「あ、そ。じゃあうるせぇ」
 冒険者はエールを飲み干し、すたすたと立ち去った。キリトはカウンターに頬をつけたまま、手元のジョッキを眺めた。
 昼間っから飲んでいた。
 飲まなきゃやってられないということもあったし、酒場にいれば話が入ってくるということもあった。最近は特に、“エルメス嬢の武勇伝”が格好のつまみになっていた。
「……なぁ」
 また呟いた。
 今度は誰も反応しない。
 ジョッキの中のエールが、微かに揺れている。
 キリトはその水面を見つめながら、ここ数日頭の中で繰り返していることを、また繰り返した。
 エルメス=バーキンが、ダンジョンを攻略した。
 エルメス=バーキンが、勇者候補のパーティを救った。
 エルメス=バーキンが、AAAクラスのモンスターと戦った。
「……なんで」
 おかしい。
 何がおかしいかというと、全部おかしい。
 キリトはエルメスのことをよく知っている。知りすぎているとも言えた。アズナのことがある。姉のことがある。あの女が俺の大切な人たちをどう扱ったか、骨の髄まで知っていた。
 だからこそ分かる。
 あの女は、リスクを冒さない。
 自分が傷つく可能性のあることは絶対にやらない。困っている人間がいれば、助けるのではなく利用することを考える。仲間のために動くなんて発想は、エルメス=バーキンの辞書に存在しない。
 なのに。
「仲間のために……?」
 あの女が。
「リスクを冒して……?」
 あのエルメスが。
「……どういうことだよ!」
 キリトはジョッキを置き、両手で顔を覆った。
 英雄譚というのは誰かが盛るものだ。それは知っている。ガストンという男が昨夜も酒場で武勇伝を語り散らかしていたし、話が大きくなること自体は不思議じゃない。
 だが。
 紅蓮のメンバー全員が、一様に言うのだ。
「エルメス嬢が前に出た」
「エルメス嬢が盾になった」
「エルメス嬢がいなければ、俺たちは全員死んでいた」
 脚色じゃない。あの目をしている人間が、嘘をつく理由がない。
「……本当に中身が別人なんじゃないか」
 ぽつりと、声に出してしまった。
 すぐに自分で笑い飛ばそうとした。
 でも、笑えなかった。
 気になることが、もう一つある。
 酒場で再会した日のことだ。あの時エルメスは、キリトのことを一瞬“知らない人間を見るような目”で見た。本当に一瞬だったから、見間違いかもしれない。だが確かに、あの目は“自分を殺そうとした男”を見る目ではなかった。
 それから急いで「いがみ合っていても仕方ない」という話に切り替えてきた。
 妙に手際が良すぎた。
 エルメスは喧嘩が好きな女だ。売られた喧嘩は十倍にして買い戻すような女だ。それがあの場面で、まるで別人のように丸くなっていた。
「……なんで俺、今まで気にしなかったんだ」
 キリトは額をカウンターに打ちつけた。
 鈍い音がした。
 隣の冒険者が「うるさい」と言った。
 ◆
 礼拝堂を出たリリアは、その日の夕方、いつもの路地裏の井戸端で水を汲んでいた。
 作業の手が止まったのは、人の気配を感じたからだ。
「……話がある」
 振り向くと、黒髪の青年が立っていた。
 年は十代の終わりくらいか。眉間に皺を寄せ、明らかに寝不足の顔をしている。口調は妙に剣呑だが、目に敵意はない。ただ、困り果てている人間の目だ。
「キリトさん」
 リリアは名前を呼んだ。ギルドで何度か顔を見たことがある。エルメスとも接点があった男だ。
「……知ってるのか、俺のことを」
「少しだけ」
「……そっか」
 キリトはため息をついて、井戸の縁に背中を預けた。
「単刀直入に聞く」
 リリアは水桶を地面に置いた。
 それから、キリトの顔をじっと見た。そして、胸元に顔を近づけた。
「お、おい……」
 くんくんとキリトの匂いを嗅いでいた。
「……優しい匂い」
「も、もういいだろ。ちょっと離れてくれ。俺にはアズナって恋人がいるんだ」
「ごめんなさい。癖なんです」
「その癖、直したほうがいいぞ。そんなことより、聞きたいことがある」
「どうぞ」
「エルメスのこと、おかしいと思わないか」
 リリアは人差し指を下くちびるに押し当て、僅かに考えた。
「……なぜ、私に聞くんですか」
「ギルドで声をかけてただろ。あの時の顔、覚えてる。あいつに何かを感じてる顔だった」
 鋭い。リリアは少しだけ目を細めた。
「……聞かせてください。あなたは何を感じましたか」
「感じたってより……おかしいんだよ」
 キリトは言葉を選ぶように、ゆっくりと話した。
 エルメスが昔どんな女だったか。リスクを冒さず、仲間を利用し、自分の利益しか考えない女だった。
 それが今、まるで別人のように動いている。言葉遣いすら変わった。あいつは俺のことを「キリト」と呼ばなかった。いつも「あなた」か「そっちの」だった。なのに再会した日、「キリトはどうしますの」と名前で呼んだ。一瞬で取り繕ったが、あの一瞬は確かにあった。
「……それで、私に何を期待していますか」
「答えを持ってるかもしれない、そう思っただけだ」
 リリアは少しの間、黙っていた。
 それから静かに言った。
「……私も、見てました」
「やっぱり」
「ダンジョン攻略の日。あの瞬間、彼女の首筋の紋様が一瞬だけ、強く光りました」
 キリトの眉が跳ねた。
「紋様?」
「彼女の首筋に、黒い紋様があります。あなたには見えませんか」
「……見えない」
「私の目には見えます」
 リリアは静かに続けた。
「最初に会った時から、ずっと。それが今は、以前より濃くなっています」
「……なんだよ、それ」
「分かりません。でも、あれは人間の魔力じゃない」
 キリトは沈黙した。
 頭の中で何かが繋がっていく音が、自分でも聞こえるようだった。
 あの日、確かにエルメスを殺そうとした。実際に死んだと思った。だけど、彼女は生きていた。まるで何事もなかったように、平然としている。
 あの日、自分が去ったあとで何かがあった。そう考えたほうが辻褄が合う。
 ダンジョンで起きること……。
「……まさか」
「断言はできません」
「でも、可能性はある、ってことか」
 リリアは答えなかった。
 その沈黙が、答えだった。
「あいつ……一体何者なんだ」
 キリトは声を絞り出した。
「分かりません」
 リリアは正直に言った。
「でも、見続けることはできます」
「……それだけか」
「今できることは、それだけです」
 キリトはもう一度ため息をついた。長い、長い溜め息だ。それからぼそりと言った。
「……俺、どうすればいい」
「何もしなくていいと思います。今は」
「なんで」
「動けば、向こうも動きます」
 キリトは顔を上げ、リリアを見た。
 白いローブの小柄な神官が、静かにこちらを見ていた。感情を抑えた顔だが、目の奥に何か確固たるものがある。この子は怖がっていないのだと、キリトは思った。
「……あんた、変わってるな」
「よく言われます」
「怖くないのか」
「怖いです」
 間を置かずに答えた。
「でも、知りたいという気持ちの方が、今は強いので」
 キリトは苦笑いした。
「そういう奴が一番危ないんだぞ」
「そうかもしれません」
 リリアは水桶を持ち上げた。
「また何か気づいたら、教えてください」
「……ああ」
 キリトは井戸の縁から離れ、路地の出口に向かいかけた。
 その背中に、リリアが静かに声をかけた。
「キリトさん」
「なんだ」
「一人で動かないでください。今は、まだ」
 キリトは振り返らなかった。
 しかし足が止まった。
「……わかった」
 それだけ言って、路地を出た。
 リリアは水桶を脇に抱え、空を見上げた。
 夕暮れが、街を橙色に染めていた。
 ◆
 路地を抜けてしばらく歩いたところで、キリトはまた立ち止まった。
「……だな」
 独り言を言う癖が、最近酷くなっている。
 後ろから声がした。
「珍しい組み合わせだな」
 振り向くと、男が立っていた。
 赤髪をかき上げ、涼しい目でこちらを見ている。右腕の袖が、風に揺れた。その先には、何もない。
 アルエルだった。
「……紅蓮の」
「アルエルだ」
 アルエルはキリトの隣に並んだ。追ってきたわけではないらしい。ただ、通りかかった。そういう歩き方だった。
「さっきの神官と、何を話していたんだい」
「……聞いてたのか」
「たまたま近くにいただけさ。内容までは聞こえなかったが、顔は見えた」
 アルエルは笑わなかった。
「エルメス嬢のことを話していただろう」
 断定だった。
 キリトは警戒した。だが、アルエルの目に敵意はない。どこか疲れたような、それでいて諦めていない目だ。
「……なんで分かる」
「君の顔が、そういう顔をしているから」
「そういう顔、って」
「何かを飲み込めずにいる人の顔だ」
 キリトは口を閉じた。
 アルエルは続けた。
「僕も、気になってる」
「……エルメスのことか」
「ああ」
 短く言った。
「理由を聞いてもいいか」
 キリトが問うと、アルエルはしばらく黙った。
 それから、少しだけ苦笑するような顔をした。
「直感だ」
「……直感」
「言霊を使う時、相手の意思が邪魔をする。人間は必ず、無意識に抵抗する。それが自然なんだ」
 アルエルは空を見上げた。
「エルメス嬢には、それがなかった」
「……それが、おかしいのか」
「どうだろ? ただ、普通じゃない。意思がないわけじゃないんだ。戦っている間、彼女は確かに判断していた。的確に。無駄なく。だが僕の言霊を受け入れた時だけ、まるで自分の意思を持たないかのように、一切の抵抗がなかった」
 キリトは黙って聞いていた。
「何かが、いる」
 アルエルは静かに言った。
「エルメス嬢の中に。あるいは、エルメス嬢の代わりに動いている何かが」
「……さっきの神官も、同じことを言ってた」
「だろうね」
 アルエルは目を細めた。
「あの神官は見えているんだろう。僕には見えないが、感じることはできる。似たようなものだ」
 しばらく沈黙が続いた。
 夕風が路地を吹き抜けた。
「……どうするつもりだ」
 キリトが問うと、アルエルは少しだけ間を置いた。
「見る。今は、それだけだ」
「動かないのか」
「動けない」
 アルエルは自分の右腕の袖を、一度だけ見た。
「それに――彼女は僕たちを救ってくれた。それだけは事実だ。何者であれ、その事実は変わらない」
「……お人好しだな」
「そうかもしれない」
 アルエルは笑わなかった。
「ただ僕は、よく分からないものを、よく分からないまま斬りたくない。それだけだよ」
 キリトは何も言えなかった。
 ◆
 その夜遅く、キリトとリリアは礼拝堂の前で再び顔を合わせた。
 示し合わせたわけではない。キリトが考えごとをしながら歩いていたら、礼拝堂の前にリリアがいた。それだけだ。
「アルエルさんとも話したんですか」
「……筒抜けだな」
「この街は狭いので」
 リリアは礼拝堂の石段に腰を下ろした。キリトも、少し離れた段に座った。
 夜の礼拝堂は静かだ。蝋燭の光が窓からわずかに滲んでいた。
「……アルエルの腕、治せないのか」
 キリトが唐突に言った。
 リリアは少し驚いたような顔をした。それから、静かに答えた。
「この街の治癒魔法では、欠損の再生はできません。もっと高位の神殿か、特別な術者が必要です」
「お前なら、どうだ」
 リリアは少しの間、黙った。
「……なぜ私に聞くんですか」
「なんとなく。お前が普通の神官じゃないのはわかる」
「普通ですよ」
「神眼を持ってる神官が普通なのか」
 リリアは答えなかった。
「……欠損の再生は、難しいです」
「難しい、じゃなくて、できないのかって聞いているんだ」
「難しいです」
 同じ言葉を繰り返した。
 キリトは横目でリリアを見た。
 リリアは膝の上に手を揃えて、真っすぐ前を向いていた。表情は穏やかで、何も語っていない。
「……それ、答える気がない顔だな。姉ちゃんがいつもそんな顔してた」
「そんなことはありません」
「あるだろ」
「……」
 微笑んだ。
 何も答えない微笑だった。キリトはやれやれと首を振った。
「とっつきにくい奴だな、お前」
「よく言われます」
「それさっきも言ってたな」
「本当によく言われるので」
 しばらく、二人とも黙った。
 礼拝堂の蝋燭が、窓の向こうで揺れた。
「……なあ」
「エルメスの中にいる何かが、悪いものだと決まったわけじゃないよな」
 リリアは前を向いたまま答えた。
「……まだ、分かりません」
「あいつが紅蓮を救ったのは、そいつのせいかもしれない。そういう可能性もあるか」
「あります」
「だったら――」
「だったら、何ですか」
 キリトは言葉に詰まった。
「……わかんねぇ」
「私も、分かりません」
 リリアは少しだけ、空を見上げた。
 星が出ていた。
「ただ」とリリアは言った。
「彼女が何かに操られているなら、それがいいことであれ悪いことであれ、本人は苦しいかもしれない、と思っています」
 キリトは黙って聞いた。
「もしも本当に彼女がエルメスさん本人ではないのなら、本物のエルメスさんは、どこにいるんだろう、と。時々考えます」
 風が吹いた。
 石段の上で、白いローブが静かに揺れた。
「あいつ……本当に、生きてるのかな」
 キリトが、ぼそりと言った。
 答えは返ってこなかった。
 ただリリアは、星を見上げたまま、小さく息を吐いた。
 礼拝堂の蝋燭が、また一度だけ、揺れた。