最後の芳香 後編
ー/ー 季節はたしか、春だったはずだ。
どこかに薔薇があったような気がする。
彼がどんな言葉を最初に言ったのか、その時自分がどんな服を着ていたのかーー懸命に思い出そうとしても、霧の中に沈んでいる。
五十年近くも長いあいだ一緒にいたというのに、始まりの日が思い出せない。
そのことが、ずっと胸の底に引っかかっていた。
六日目の夕方、澄子はそっとカプセルを開けた。
白い小箱の蓋を外すと、内側に小さなガラス管が収まっていた。細い栓を抜くと、ほんの一瞬だけ、何かが空気に溶けた。
薔薇の香りだった。
それも、庭の薔薇とは少し違う。若くて、少し青くて、甘さの中に雨の気配があるような、そういう香り。澄子は目を閉じた。
何かが来る、と思った。
記憶が、波のように押し寄せてくるのではないか、と。
けれど記憶は、いつまでたってもぼんやりとしたままで、どうしても掴めない。
香りだけはそこにあって、澄子の中には何もなかった。あるはずの記憶が、どこにもなかった。
ー*ー
澄子は台所の椅子に座ったまま、長いあいだ動けなかった。
泣いているのか、泣いていないのか、自分でもよくわからなかった。康介はこの香りを覚えていたのだ。二人が出会ったあの日の薔薇の香りを、七十歳を超えてもまだ覚えていて、妻に遺そうとしていた。
でも澄子には、その記憶がない。
香りだけが、証明している。あの日があったことを。二人の始まりがあったことを。
澄子は目を開けて、窓の外の庭を見た。康介の薔薇が、夕暮れの光の中で静かに揺れていた。
彼は覚えていた。私は忘れていた。それでも、五十年が確かにあった。
悲しいのか、温かいのか、澄子にはうまく言葉にできなかった。ただ、カプセルの小さなガラス管を両手で包んで、しばらくそのまま座っていた。庭から薔薇の香りがかすかに流れ込んできて、澄子の知らない記憶と、今この瞬間が、静かに混ざり合った。
翌朝、澄子はいつもより少し深く、薔薇に顔を近づけた。
ー了ー
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