最後の芳香 前編
ー/ー 香りを、売る時代になった。
正確には、記憶を香りに変換して保存する技術が普及した、ということだ。
MnemOS社が開発した小さなカプセルの中に、人々は大切な記憶を閉じ込める。悲しい記憶も、嬉しい記憶も、そしてもう二度と戻らないとわかっている記憶も。
カプセルを開ければ、その香りが空気に溶け出して、脳が勝手に過去へ連れ戻してくれる。
世の中の人々はそれをノスタルジア・カプセルと呼んで、引き出しの奥にしまったり、大切な人へ贈ったりした。
澄子はその技術が、少し怖かった。
ー*ー
七十二歳になった今も、澄子の指先は器用だった。毎朝、狭い台所で丁寧にコーヒーを淹れ、庭に出て薔薇の様子を確認する。
夫の康介が遺していった薔薇たちは、今年も几帳面に咲いた。深い赤と、かすかに甘い芳香。澄子はいつも少しだけ顔を近づけて、それからすぐに離れる。
深く香りを吸い込むのが、怖かった。
康介が逝って、三年が経つ。
娘の麻衣が訪ねてきたのは、六月の終わりだった。麻衣は玄関に入るなり、小さな白い箱を差し出した。
「これ。お父さんのカプセル、できたって」
澄子は受け取りながら、箱の軽さに少し驚いた。記憶というのは、こんなにも軽いものなのか。
「いつ頼んだの」澄子は聞いた。
「お父さんが入院する前に、自分で申し込んでたの。お母さんには内緒にしたいからって、私のところで預かることにしてたから」
麻衣はそれだけ言って、お茶を飲んで、夕方には帰っていった。気を遣ってくれているのだとわかった。
ー*ー
澄子は箱を、しばらくの間テーブルの上に置いたままにした。
三日間、見るだけにした。
四日目の朝、コーヒーを淹れながら、ふと思った。怖いのは何だろう。記憶が戻ってくることか。それとも、戻ってこないことか。
澄子には、康介と初めて会った日のことが、もうはっきり思い出せなかった。
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