第4話
ー/ー 夕方、公園に戻ってみると、老人がベンチに座っていた。
傘を置いたベンチだった。老人は七十代くらいで、グレーのコートを着ていた。膝の上に傘を横たえて、ぼんやりと池を見ていた。
日和が自転車を押しながら近づいていくと、老人は静かに顔を向けた。
「あなたが置いていったの、これ」
日和は少し驚いた。気づかれることは、あまりない。
「はい」
「なんで」
なんで、という問いは、この仕事をしていると時々受ける。日和はいつも少し迷う。予報が出たから、とは言いたくなかった。それは本当のことだが、それだけではない気がする。
「今日、少し寂しくなるかもしれないと思って」
老人はしばらく日和を見ていた。それから、池に視線を戻した。
「当たってるよ」
静かな声だった。
「妻の命日でね」
日和は何も言わなかった。言えなかった。ごめんなさい、も、そうですか、も、どれも違う気がした。
「毎年ここに来るんだ。妻と、よく来た場所だから。それで、今日は特にね」
老人は傘を両手で持ったまま、池を見ていた。
日和は、老人の隣のベンチの端に、少し間を置いて腰を下ろした。
池の水面が、夕日を受けて橙色に変わっていた。端から端へと、水鳥が一羽、ゆっくりと泳いでいた。何もない方向へ向かうような、目的のない泳ぎ方だった。それでも水を掻く足だけは、規則正しく動いていた。
しばらく、二人は黙っていた。
老人が口を開いたのは、水鳥が対岸に着いてからだった。
「気持ちの天気が予報できるなんて、変な時代だね」
「そうですね」
「でも」
老人は少し間を置いた。
「傘を置いといてくれるのは、悪くない」
悪くない、という言葉が、日和の胸の中でゆっくりと広がった。
感謝の言葉は、時々もらう。ありがとう、助かった、嬉しかった。でも「悪くない」は、違った。それは評価でも感謝でもなく、ただ、そこにあったことを認める言葉だった。
あなたがここにいてくれたことは、悪くなかった。それだけの言葉が、なぜかとても深いところに届いた。
日和は何も言わなかった。池を見ていた。
水鳥が岸に上がって、羽を一度だけ広げた。それから閉じて、じっとした。夕日が低くなって、池の色がだんだん濃くなっていった。
「そろそろ帰るよ」と老人が言った。
「はい」
「傘、返さなくていいの」
「どうぞ持っていってください」
老人は立ち上がって、傘を手に持った。少し腰が曲がっていたが、足取りはしっかりしていた。橙色の光の中に、老人の背中が遠ざかっていった。
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