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第5話 ヴォルグ

ー/ー



 坑口まではハイラックスで四十分ほどかかる。

 レベル2の辺縁部にあたるこのあたりは、レベル1の中心からは離れているが、それでもまだ界差が比較的安定しているとされる区域だ。
 「とされる」というのは、計測器の数値が日によってまちまちで、安定しているのか計測器がおかしいのか判断がつかないからだ。

 いずれにせよ、ヤシマが操業を続けているのはこの立地条件による。
 レベル3に入ればミスリルの鉱脈はもっと太くなるが、アンカー効果が薄まり、重機や設備の管理メンテナンスの人員を出すのも難しくなる。
 商社にとって、安定供給ができるという事実は、供給量以上に価値がある。

 ナイリザは助手席でワンカップを開けた。午前十時だった。

「飲むな」

「現場視察でしょう。わたしが行く意味ある?」

 ナイリザとの会話は、日本語で、お互い敬語丁寧語は使わない方向で落ち着いている。
 別にしめし合わせたわけではない。
 ナイリザには敬語等を使う気は一切ないようであり、上司である俺だけが丁寧語を使うのもおかしいので、自然とそうなった。

「通訳を頼みたい」

 イヤーバッズの翻訳精度は悪くない。相手が何を言っているかはだいたい分かる。
 問題はこちらの発話だ。

 スピーカーモードもあるが、ニュアンスには弱い。
 言葉を濁したり、曖昧に含みを持たせたりする類の会話は、翻訳機が律儀に直訳して台無しにする。
 現場監督との初対面で、そういう場面がないとは限らない。

「あなたの曖昧な日本語を曖昧なまま届ける係ね。高度な仕事だわ」

「そういうことだ」

 ナイリザは眼鏡の奥で目を細めたが、ワンカップは膝の上に置いた。

 舗装がなくなると車体が跳ねた。
 サスペンションの(きし)みが妙に生々しく響く。レベル1では聞こえなかった音だ。

 出発前、帳簿のコピーにざっくりと目を通した。
 宇田川が残した月次の産量推移。直近6か月、数字は微減を続けてみえる。
 月ごとの振れ幅が大きいのでいまいち確信を持てなかったが、前年前々年と比較しても、やはり直近6か月の推移はおかしい。
 低下傾向であることは間違いない。

 他方、人員の入れ替わりが増えているようだ。
 ゴブリンの作業班は三ヶ月前に全員が交代していた。コボルトの班長も二代目だ。
 交代、というのは帳簿上の表現で、要するに損耗だった。
 怪我か、逃亡か、あるいはそれ以外か。記録には「契約終了」としか書かれていない。

 例えば、人が大幅に入れ替わるような労働災害や労務トラブルがあれば、現場の混乱で産量も落ちるだろう。
 その場合は、その労災やトラブルの原因は何かということになる。
 逆に、産量が低下して、埋め合わせのために労働災害・労務トラブルが増えるパターンもあり得る。
 それならそれで、結局、産量低下の原因が何かという話に戻ってしまう。
 いずれにせよ、帳簿だけでは何もわからない。

 * * *

 坑口の手前に作業小屋が三棟と、資材置き場を兼ねた天幕が一張り。その前に、二メートルを優に超える毛むくじゃらの影が立っていた。
 現場監督のヴォルグだ。

 ワーウルフ。直立した狼、というのが一番近い。
 灰色の体毛に覆われた筋肉質の体躯。鼻面は長く、犬歯が唇からはみ出ている。
 巨躯をヤシマの作業着、蛍光オレンジのベストに窮屈そうに収め、胸ポケットには「ヴォルグ」と片仮名で刺繍されたネームプレートが縫いつけてあった。
 自分で縫ったのだろうか。糸が太い。
 ヴォルグが吠えるように何かを言った。イヤーバッズが拾う。

「カトウ課長代理殿、お待ちしておりました」

 声は低く、喉の奥で(うな)るような喘鳴(ぜんめい)がある。だが翻訳された言葉だけを取り出せば、日本のどこかの工場で聞いてもおかしくない挨拶だった。

「引き継ぎで来た。現場を見せてくれ」

 ナイリザが俺の言葉を現地語に直した。ヴォルグもナイリザも、俺がイヤーバッズで聴き取れることは承知している。
 通訳の仕事は一方通行だ。
 俺の日本語を、俺が意図した温度のまま届けること。

 ヴォルグは(かかと)を揃え、四十五度の角度で頭を下げた。
 礼の角度まで統一している。
 宇田川次長に教わったのか、自分で調べたのか。

 坑道に入る。
 入口付近は木材と鉄骨の支保工(しほこう)が交互に組まれている。
 奥に進むにつれ、鉄骨が減り、木材が増え、さらに奥では石積みだけになった。
 照明は電球からランタンへ、ランタンから松明へと切り替わる。
 界差の勾配がそのまま可視化されていた。

 時折、作業員とすれ違うが、怯えるようにこちらを見上げ、足早に走り過ぎていく。

 一番坑の中程に、巨大な重機が停止していた。
 坑道掘進用の大型削孔機(ドリルジャンボ)だろう。
 だが、ビニールシートが被せてあり、壁際に寄せられていた。

「あれは故障か」

 ナイリザが訳した。ヴォルグが答える。

「修理中であります。部品の到着を待っております」

「見せてくれ」

 近づこうとしたが、ヴォルグに止められた。

「アンゼンダイイチであります。あちらは落盤の危険があり、立入を制限しております」。

 安全第一。この言葉はカタカナで出力された。
 ヴォルグの語彙に日本語がそのまま混じっている。

「落盤の危険?」
「はい。支保工の補強が完了するまで、作業員以外の立入はご遠慮いただいております」

 先に進むと、切羽(せっぱ)の手前で、ゴブリンの作業班が鶴嘴(つるはし)を振るっていた。
 小柄な緑色の体が六体。統率しているのはコボルトの班長で、犬面の顔に安全ヘルメットを被っている。
 ヘルメットはヤシマの支給品だが、耳の形に合わないのか、顎紐を後頭部に回して無理やり固定していた。

 削孔機のある場所から離れた切羽で、手掘りをやっている。
 機械が止まっているなら、その分の掘進を人力で補っているということだ。

 ヴォルグが背後で吠えた。

「ノルマ、ノルマ!」。

 イヤーバッズはその部分をカタカナのまま出力する。
 作業班の動きが目に見えて速くなった。
 ゴブリンの一体がこちらを振り返り、絶望的な目で——俺ではなく、俺の背後のヴォルグを見た。
 鶴嘴を握る手が震えている。

 ヴォルグが胸を張って何か言った。イヤーバッズが拾う。

「月間産量、維持しております」

 維持。帳簿上はそう見える。
 機械が故障で一時停止している分を、人を増やし、人を替え、労働強化で埋めている。
 ヴォルグの統制が強ければ強いほど、数字は「維持」に見える。だが損耗率が上がっている以上、それは維持ではない。
 穴に砂を詰めているだけだ。

 ヴォルグが長い説明を始めた。イヤーバッズの逐語訳では文脈が取りづらい。ナイリザが端的に要約した。

「来月はさらに改善する。三番坑の掘進を加速させる、と言っているわ」

「無理はしなくていい」

 ナイリザが訳した。ヴォルグの返答がイヤーバッズ越しに聞こえる。

「無理ではありません。ノルマです」

 その響きが耳に残った。ノルマ。
 彼の母語にはおそらくその概念に正確に対応する言葉がない。
 だからヴォルグも日本語をそのまま使う。翻訳機もカタカナでそのまま出力する。
 ヴォルグがその日本語をどのようなものとして理解しているかはブラックボックスだ。
 ノルマ。ノルム。規範。群れの掟。

 奥の支保工を確認しながら歩いた。
 二番坑との連絡横坑の手前で、ヴォルグが足を止めた。

「ウタガワ殿からお聞きになっておりますか。本社への推薦の件、進捗はいかがでしょうか」

 俺はヘッドランプの光を支保工の接合部に当てたまま、少し間を置いた。

 宇田川次長の引き継ぎ資料には、ヴォルグの推薦についてなど、一行も書かれていなかった。
 そもそも現地採用の契約社員を正社員登用する制度自体、異界統括オフィスには存在しない。
 次長がどういう言い方をしたのかは知らない。
 「検討する」と言ったのか、「推薦する」と言ったのか。
 いずれにしても、ヴォルグはそれを約束として受け取っている。

 ナイリザが俺を見ている。暗い坑道の中で、眼鏡の奥の緑色の瞳がやけに鮮やかだった。

「本社と調整中だ」

 ナイリザが一瞬だけ間を置いてから、訳した。
 何と訳したかは分からない。だが、ヴォルグは満足したように頭を下げた。

 調整などしていない。する余地もない。
 だが「制度がない」と言えば、ヴォルグのこの現場管理体制が崩壊する。
 ゴブリンやコボルトを統率しているのは契約でも給与でもなく、ヴォルグの暴力と、その暴力を支える忠誠心だ。
 忠誠の対象はヤシマという群れであり、正社員という称号は群れの中核に迎え入れられることを意味している。少なくとも彼にとっては。

 地上に戻ると、ヴォルグが資材置き場の在庫表を差し出した。
 手書きだった。
 罫線はまっすぐで、数字は几帳面に揃えられている。
 字そのものは読みにくいが——爪が筆記具に向いていない——記載内容は正確だった。
 消耗品の減り具合、交換部品の残数、松明の在庫。削孔機の部品については「発注済・未着」とだけ書かれていた。

「毎日つけているのか」

 ナイリザが訳し、ヴォルグが答える。
 イヤーバッズが拾う。

「日報は業務の基本と心得ております」

 宇田川次長がそう教えたのか。あるいはヴォルグが独自に学んだのか。
 どちらでもいい。在庫管理ができる現場監督は、人間の社員でも珍しい。

 * * *

 ハイラックスに戻り、エンジンをかけた。
 バックミラーにヴォルグが映っている。
 直立不動で、車が見えなくなるまで頭を下げ続けるつもりらしい。

 ナイリザがワンカップの封を切った。

「飲むなと言った」

「現場視察は終わったでしょう」

 一口飲んでから、窓の外を見た。

「あの犬、正社員になれると本気で思ってるの」

「知らない」

「嘘ね」

 舗装路に出るまで、どちらも喋らなかった。

 事務所に戻って、採掘現場視察報告書の体裁を整えた。
 産量、安全管理、設備状況、人員配置。ヴォルグの管理手法については「現場責任者による労務管理が機能しており、産量は維持されている」と書いた。
 暴力による統制とは書かなかった。書く欄がない。

 報告書をファクシミリで本社に送った。
 送信完了のビープ音を聞いて、煙草に火をつけた。

 削孔機の故障。部品待ち。人力で補填。ヴォルグの統制強化。帳尻は合う。
 だが、帳簿を見る限り、人員の損耗率が上がり始めたのは半年前からだ。
 削孔機の故障が最近の話なら、半年分の労働強化の説明にはならない。

 ナイリザが経費精算の書類を持ってきた。

「ガソリン代。あと松明の追加発注、承認印」

 判を押した。松明一本、銅貨10枚。電球が使えない区域では松明を()く。
 削孔機が止まった区域では鶴嘴を振る。

「ナイリザ」

「何?」

「直近6か月の採掘関係の経費で、それ以前にない費目・支払先がないか見てくれないか」

「意味あるの? それ」

「わからない。何かとっかかりが見つかる、かもしれない」

「はいはい」

 デスクチェアに背中を預けて煙を吐いた。
 天井のシミを数える。三つ。昨日と同じだ。



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 坑口まではハイラックスで四十分ほどかかる。
 レベル2の辺縁部にあたるこのあたりは、レベル1の中心からは離れているが、それでもまだ界差が比較的安定しているとされる区域だ。
 「とされる」というのは、計測器の数値が日によってまちまちで、安定しているのか計測器がおかしいのか判断がつかないからだ。
 いずれにせよ、ヤシマが操業を続けているのはこの立地条件による。
 レベル3に入ればミスリルの鉱脈はもっと太くなるが、アンカー効果が薄まり、重機や設備の管理メンテナンスの人員を出すのも難しくなる。
 商社にとって、安定供給ができるという事実は、供給量以上に価値がある。
 ナイリザは助手席でワンカップを開けた。午前十時だった。
「飲むな」
「現場視察でしょう。わたしが行く意味ある?」
 ナイリザとの会話は、日本語で、お互い敬語丁寧語は使わない方向で落ち着いている。
 別にしめし合わせたわけではない。
 ナイリザには敬語等を使う気は一切ないようであり、上司である俺だけが丁寧語を使うのもおかしいので、自然とそうなった。
「通訳を頼みたい」
 イヤーバッズの翻訳精度は悪くない。相手が何を言っているかはだいたい分かる。
 問題はこちらの発話だ。
 スピーカーモードもあるが、ニュアンスには弱い。
 言葉を濁したり、曖昧に含みを持たせたりする類の会話は、翻訳機が律儀に直訳して台無しにする。
 現場監督との初対面で、そういう場面がないとは限らない。
「あなたの曖昧な日本語を曖昧なまま届ける係ね。高度な仕事だわ」
「そういうことだ」
 ナイリザは眼鏡の奥で目を細めたが、ワンカップは膝の上に置いた。
 舗装がなくなると車体が跳ねた。
 サスペンションの|軋《きし》みが妙に生々しく響く。レベル1では聞こえなかった音だ。
 出発前、帳簿のコピーにざっくりと目を通した。
 宇田川が残した月次の産量推移。直近6か月、数字は微減を続けてみえる。
 月ごとの振れ幅が大きいのでいまいち確信を持てなかったが、前年前々年と比較しても、やはり直近6か月の推移はおかしい。
 低下傾向であることは間違いない。
 他方、人員の入れ替わりが増えているようだ。
 ゴブリンの作業班は三ヶ月前に全員が交代していた。コボルトの班長も二代目だ。
 交代、というのは帳簿上の表現で、要するに損耗だった。
 怪我か、逃亡か、あるいはそれ以外か。記録には「契約終了」としか書かれていない。
 例えば、人が大幅に入れ替わるような労働災害や労務トラブルがあれば、現場の混乱で産量も落ちるだろう。
 その場合は、その労災やトラブルの原因は何かということになる。
 逆に、産量が低下して、埋め合わせのために労働災害・労務トラブルが増えるパターンもあり得る。
 それならそれで、結局、産量低下の原因が何かという話に戻ってしまう。
 いずれにせよ、帳簿だけでは何もわからない。
 * * *
 坑口の手前に作業小屋が三棟と、資材置き場を兼ねた天幕が一張り。その前に、二メートルを優に超える毛むくじゃらの影が立っていた。
 現場監督のヴォルグだ。
 ワーウルフ。直立した狼、というのが一番近い。
 灰色の体毛に覆われた筋肉質の体躯。鼻面は長く、犬歯が唇からはみ出ている。
 巨躯をヤシマの作業着、蛍光オレンジのベストに窮屈そうに収め、胸ポケットには「ヴォルグ」と片仮名で刺繍されたネームプレートが縫いつけてあった。
 自分で縫ったのだろうか。糸が太い。
 ヴォルグが吠えるように何かを言った。イヤーバッズが拾う。
「カトウ課長代理殿、お待ちしておりました」
 声は低く、喉の奥で|唸《うな》るような|喘鳴《ぜんめい》がある。だが翻訳された言葉だけを取り出せば、日本のどこかの工場で聞いてもおかしくない挨拶だった。
「引き継ぎで来た。現場を見せてくれ」
 ナイリザが俺の言葉を現地語に直した。ヴォルグもナイリザも、俺がイヤーバッズで聴き取れることは承知している。
 通訳の仕事は一方通行だ。
 俺の日本語を、俺が意図した温度のまま届けること。
 ヴォルグは|踵《かかと》を揃え、四十五度の角度で頭を下げた。
 礼の角度まで統一している。
 宇田川次長に教わったのか、自分で調べたのか。
 坑道に入る。
 入口付近は木材と鉄骨の|支保工《しほこう》が交互に組まれている。
 奥に進むにつれ、鉄骨が減り、木材が増え、さらに奥では石積みだけになった。
 照明は電球からランタンへ、ランタンから松明へと切り替わる。
 界差の勾配がそのまま可視化されていた。
 時折、作業員とすれ違うが、怯えるようにこちらを見上げ、足早に走り過ぎていく。
 一番坑の中程に、巨大な重機が停止していた。
 坑道掘進用の大型削孔機(ドリルジャンボ)だろう。
 だが、ビニールシートが被せてあり、壁際に寄せられていた。
「あれは故障か」
 ナイリザが訳した。ヴォルグが答える。
「修理中であります。部品の到着を待っております」
「見せてくれ」
 近づこうとしたが、ヴォルグに止められた。
「アンゼンダイイチであります。あちらは落盤の危険があり、立入を制限しております」。
 安全第一。この言葉はカタカナで出力された。
 ヴォルグの語彙に日本語がそのまま混じっている。
「落盤の危険?」
「はい。支保工の補強が完了するまで、作業員以外の立入はご遠慮いただいております」
 先に進むと、|切羽《せっぱ》の手前で、ゴブリンの作業班が|鶴嘴《つるはし》を振るっていた。
 小柄な緑色の体が六体。統率しているのはコボルトの班長で、犬面の顔に安全ヘルメットを被っている。
 ヘルメットはヤシマの支給品だが、耳の形に合わないのか、顎紐を後頭部に回して無理やり固定していた。
 削孔機のある場所から離れた切羽で、手掘りをやっている。
 機械が止まっているなら、その分の掘進を人力で補っているということだ。
 ヴォルグが背後で吠えた。
「ノルマ、ノルマ!」。
 イヤーバッズはその部分をカタカナのまま出力する。
 作業班の動きが目に見えて速くなった。
 ゴブリンの一体がこちらを振り返り、絶望的な目で——俺ではなく、俺の背後のヴォルグを見た。
 鶴嘴を握る手が震えている。
 ヴォルグが胸を張って何か言った。イヤーバッズが拾う。
「月間産量、維持しております」
 維持。帳簿上はそう見える。
 機械が故障で一時停止している分を、人を増やし、人を替え、労働強化で埋めている。
 ヴォルグの統制が強ければ強いほど、数字は「維持」に見える。だが損耗率が上がっている以上、それは維持ではない。
 穴に砂を詰めているだけだ。
 ヴォルグが長い説明を始めた。イヤーバッズの逐語訳では文脈が取りづらい。ナイリザが端的に要約した。
「来月はさらに改善する。三番坑の掘進を加速させる、と言っているわ」
「無理はしなくていい」
 ナイリザが訳した。ヴォルグの返答がイヤーバッズ越しに聞こえる。
「無理ではありません。ノルマです」
 その響きが耳に残った。ノルマ。
 彼の母語にはおそらくその概念に正確に対応する言葉がない。
 だからヴォルグも日本語をそのまま使う。翻訳機もカタカナでそのまま出力する。
 ヴォルグがその日本語をどのようなものとして理解しているかはブラックボックスだ。
 ノルマ。ノルム。規範。群れの掟。
 奥の支保工を確認しながら歩いた。
 二番坑との連絡横坑の手前で、ヴォルグが足を止めた。
「ウタガワ殿からお聞きになっておりますか。本社への推薦の件、進捗はいかがでしょうか」
 俺はヘッドランプの光を支保工の接合部に当てたまま、少し間を置いた。
 宇田川次長の引き継ぎ資料には、ヴォルグの推薦についてなど、一行も書かれていなかった。
 そもそも現地採用の契約社員を正社員登用する制度自体、異界統括オフィスには存在しない。
 次長がどういう言い方をしたのかは知らない。
 「検討する」と言ったのか、「推薦する」と言ったのか。
 いずれにしても、ヴォルグはそれを約束として受け取っている。
 ナイリザが俺を見ている。暗い坑道の中で、眼鏡の奥の緑色の瞳がやけに鮮やかだった。
「本社と調整中だ」
 ナイリザが一瞬だけ間を置いてから、訳した。
 何と訳したかは分からない。だが、ヴォルグは満足したように頭を下げた。
 調整などしていない。する余地もない。
 だが「制度がない」と言えば、ヴォルグのこの現場管理体制が崩壊する。
 ゴブリンやコボルトを統率しているのは契約でも給与でもなく、ヴォルグの暴力と、その暴力を支える忠誠心だ。
 忠誠の対象はヤシマという群れであり、正社員という称号は群れの中核に迎え入れられることを意味している。少なくとも彼にとっては。
 地上に戻ると、ヴォルグが資材置き場の在庫表を差し出した。
 手書きだった。
 罫線はまっすぐで、数字は几帳面に揃えられている。
 字そのものは読みにくいが——爪が筆記具に向いていない——記載内容は正確だった。
 消耗品の減り具合、交換部品の残数、松明の在庫。削孔機の部品については「発注済・未着」とだけ書かれていた。
「毎日つけているのか」
 ナイリザが訳し、ヴォルグが答える。
 イヤーバッズが拾う。
「日報は業務の基本と心得ております」
 宇田川次長がそう教えたのか。あるいはヴォルグが独自に学んだのか。
 どちらでもいい。在庫管理ができる現場監督は、人間の社員でも珍しい。
 * * *
 ハイラックスに戻り、エンジンをかけた。
 バックミラーにヴォルグが映っている。
 直立不動で、車が見えなくなるまで頭を下げ続けるつもりらしい。
 ナイリザがワンカップの封を切った。
「飲むなと言った」
「現場視察は終わったでしょう」
 一口飲んでから、窓の外を見た。
「あの犬、正社員になれると本気で思ってるの」
「知らない」
「嘘ね」
 舗装路に出るまで、どちらも喋らなかった。
 事務所に戻って、採掘現場視察報告書の体裁を整えた。
 産量、安全管理、設備状況、人員配置。ヴォルグの管理手法については「現場責任者による労務管理が機能しており、産量は維持されている」と書いた。
 暴力による統制とは書かなかった。書く欄がない。
 報告書をファクシミリで本社に送った。
 送信完了のビープ音を聞いて、煙草に火をつけた。
 削孔機の故障。部品待ち。人力で補填。ヴォルグの統制強化。帳尻は合う。
 だが、帳簿を見る限り、人員の損耗率が上がり始めたのは半年前からだ。
 削孔機の故障が最近の話なら、半年分の労働強化の説明にはならない。
 ナイリザが経費精算の書類を持ってきた。
「ガソリン代。あと松明の追加発注、承認印」
 判を押した。松明一本、銅貨10枚。電球が使えない区域では松明を|焚《た》く。
 削孔機が止まった区域では鶴嘴を振る。
「ナイリザ」
「何?」
「直近6か月の採掘関係の経費で、それ以前にない費目・支払先がないか見てくれないか」
「意味あるの? それ」
「わからない。何かとっかかりが見つかる、かもしれない」
「はいはい」
 デスクチェアに背中を預けて煙を吐いた。
 天井のシミを数える。三つ。昨日と同じだ。