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第2話 ニュー・エデン

ー/ー



 そこは完璧な空調に支配された別世界だった。

 暗がりに沈むようなダークトーンの壁。革張りのソファ。間接照明の鈍い光が、グラスの縁をなぞっている。
 閉塞感がないように、しかし視線が通らないように、間仕切りと段差が絶妙に配置された店内。
 「ニュー・エデン」。歓楽街の入り口、比較的高級な店が立ち並ぶ一角に構えられた、日本人向けの会員制クラブだ。
 バザールの熱気とスパイスの臭気は厚い防音扉の向こう側に消え、代わりに(かす)かな煙草の香りと、ディフューザーの匂いが鼻をくすぐる。

 先ほどの電話に折り返すと言って、宇田川次長は席を外していた。
 高級ソファの沈み込みに、身を任せる。
 冷たいおしぼりで手を拭っていると、正面の席に、いつの間にか一人の男が座っていた。

 黒のスーツに身を包んだ、細身の男だった。
 肌は異常なほど白く、凹凸の少ないのっぺりとした顔立ちをしている。店側の人間かとも思ったが、客を迎え入れるような卑屈さも、媚びるような愛想もない。
 男は微笑をたたえたまま、テーブル越しに腰を浮かせ、一枚の名刺を差し出してきた。

「どうもはじめまして。鰐淵(わにぶち)と申します」

 反射的に受け取ってしまった名刺を見る。氏名と連絡先だけが記され、所属も肩書きも空白だった。

「……加藤です。失礼、名刺を切らしておりまして」

 咄嗟に嘘をつく。男――鰐淵は、こちらの反応を楽しむように目を細めた。

「ヤシマの加藤さん。宇田川次長の後任のアンカーの方ですね」

 名刺をしまおうとした手が止まる。

「いやいや、他意はありませんよ。今そこで宇田川次長をお見かけしたので。新しく来られた方にご挨拶だけでも、と思いましてね」

 そこへ、携帯をポケットに収めた宇田川次長が戻ってきた。
 鰐淵の姿を認めると、宇田川次長の眉が不機嫌そうに跳ね上がる。

「おや、鰐淵君」

 宇田川次長は卓上の名刺を一瞥し、冷淡に言い放った。

「外してくれないか。加藤君は今日が初日なのでね」

「これは宇田川次長。いや、失礼いたしました。すぐに退散いたしますよ」

 鰐淵は立ち上がると、去り際、俺の耳元で囁くように言った。

「またお会いすることもあるでしょう。加藤さん。そのときにでも、ゆるりと」

 影が消えるように、男は店の奥へと去っていった。
 俺は名刺をしまい、どかりとソファに腰を下ろした宇田川次長に尋ねた。

「名刺……受け取ったのはまずかったですかね」

「構わんよ。狭い日本人社会だ、他所の人事情報が広まるのもあっという間だ」

 宇田川次長は吐き捨てるように言い、グラスの氷を鳴らした。

「ただ、鰐淵のような人間には気を付けたまえ。我々とは違う人種だ。レベル1に所属がない。日本に戻れない。戻らない」

 脳裏に、「帰還不能者」という単語が浮かんだ。
 レベル1では不吉な噂話のように囁かれる言葉だが、都市伝説でもなんでもない。むしろ日常の現実だからこそ、忌まわしい。
 アダプテーション(変異)が進み、ゲートの検問で弾かれ、日本国籍を失った者たち。あるいは、その徴候を察知し、レベル2の巷に潜むことを選んだドロップアウト組。

「我々には戸籍がある。ヤシマという立派な看板がある。……加藤君、君は結婚していたかな?」

「いいえ。独り身です」

「そうか。戻ったら身を固めることを考えた方がいい。家族はいいぞ」

 宇田川の表情が、一瞬だけ父親のそれに変わる。

「小学生の娘がいるんだが、中学受験の予定でね。サピックスだ何だと、妻がやかましい。最初から私立に入れていれば良かったんだが、まあ後の祭りだ。
 だがな、加藤君。帰るべき『現実』があるからこそ、こんな地球ですらない場所での勤務にも耐えられる」

 俺は曖昧に頷いた。

「こんばんは」「お待たせしました」

 不意に、流暢な日本語が聞こえて視線を上げた。

 二人の女が近づいてくる。
 一人は、銀髪に黒檀色の肌を持つダークエルフ。もう一人は、頭頂両側に獣の耳を冠した猫獣人だった。
 ダークエルフはサテン地の、光沢のあるマーメイドラインのドレス。
 猫獣人は裾が軽やかに広がるミニドレスで、二人とも髪をアップにまとめている。
 耳の形と肌の色に目をつぶれば、まるで日本のキャバクラ嬢だ。
 二人は優雅に一礼すると、ダークエルフは宇田川次長の隣へ、そして猫獣人は俺の隣へと滑り込んだ。

 猫獣人の女が「はじめまして」と微笑み、両手で名刺を差し出してくる。
 名刺には日本語で『小夏(こなつ)』と記されていた。

「ここは高級店だからね。日本人客向けのサービスを心得ているというわけだ。
 とはいえ、挨拶だけだよ。実際に日本語を話せるわけではない。まあ、雰囲気だ。相応の楽しみ方をすればいい」

 宇田川次長は笑いながら、ダークエルフの腰を無遠慮に抱き寄せた。女は慣れた様子で身を任せ、体を密着させる。
 どうやら「ボディタッチ禁止」という概念はこの世界に輸入されなかったらしい。

 ふと、太腿に柔らかな感触を覚えた。
 猫獣人の小夏が、そっと手を添えてきたのだ。薄い柔毛に覆われた指先が、スラックスの折り目をなぞるように、ツツ、と上へ滑っていく。
 見れば、吐息がかかるほどの至近距離に彼女の顔があった。
 香水とは違う、動物的な甘ったるい体臭が脳の奥を焼く。
 俺は目の前の水割りをぐいと呷った。

 * * *

 宿舎に戻った頃には、日付が変わっていた。
 レベル1にある合同宿舎は、新しく、清潔だった。しかし間取りは極端に狭く、天井も低い。機能性だけを追求したその造りは、どこか高級な刑務所を思わせる閉塞感に満ちている。

 自室に入る。荷造りを終えたばかりの室内はがらんとして殺風景だ。
 飲み過ぎたせいで、胃のあたりにまだじっとりとした不快感が居座っている。
 宇田川次長の世間話と、柔毛の感触しか記憶に残っていない。結局、アンカー業務が何なのか、具体的な話はなかった。
 胃薬を探そうとバッグに手をかけたが、荷解きの(わずら)わしさが勝り、そのままパイプベッドに身を投げ出した。

 薄い壁を通して、隣人の電話の声が聞こえてくる。
 最初は、ひそひそとした囁き声だった。しかし、次第に切迫した様子で声のトーンが上がり、時折漏れ出す感情が、話の内容を克明に伝えてきた。

「帰れないって、どういうことですか」

「……聞いてない……内示……なんで……」

 一気に酔いが醒めた。
 気が滅入るような、絶望の余韻を孕んだ会話。
 俺は壁際から逃げるように身を起こすと、こびりついた「夢の国」の残り香を洗い流すため、ユニットバスの戸を強く開けた。



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 そこは完璧な空調に支配された別世界だった。
 暗がりに沈むようなダークトーンの壁。革張りのソファ。間接照明の鈍い光が、グラスの縁をなぞっている。
 閉塞感がないように、しかし視線が通らないように、間仕切りと段差が絶妙に配置された店内。
 「ニュー・エデン」。歓楽街の入り口、比較的高級な店が立ち並ぶ一角に構えられた、日本人向けの会員制クラブだ。
 バザールの熱気とスパイスの臭気は厚い防音扉の向こう側に消え、代わりに|微《かす》かな煙草の香りと、ディフューザーの匂いが鼻をくすぐる。
 先ほどの電話に折り返すと言って、宇田川次長は席を外していた。
 高級ソファの沈み込みに、身を任せる。
 冷たいおしぼりで手を拭っていると、正面の席に、いつの間にか一人の男が座っていた。
 黒のスーツに身を包んだ、細身の男だった。
 肌は異常なほど白く、凹凸の少ないのっぺりとした顔立ちをしている。店側の人間かとも思ったが、客を迎え入れるような卑屈さも、媚びるような愛想もない。
 男は微笑をたたえたまま、テーブル越しに腰を浮かせ、一枚の名刺を差し出してきた。
「どうもはじめまして。鰐淵(わにぶち)と申します」
 反射的に受け取ってしまった名刺を見る。氏名と連絡先だけが記され、所属も肩書きも空白だった。
「……加藤です。失礼、名刺を切らしておりまして」
 咄嗟に嘘をつく。男――鰐淵は、こちらの反応を楽しむように目を細めた。
「ヤシマの加藤さん。宇田川次長の後任のアンカーの方ですね」
 名刺をしまおうとした手が止まる。
「いやいや、他意はありませんよ。今そこで宇田川次長をお見かけしたので。新しく来られた方にご挨拶だけでも、と思いましてね」
 そこへ、携帯をポケットに収めた宇田川次長が戻ってきた。
 鰐淵の姿を認めると、宇田川次長の眉が不機嫌そうに跳ね上がる。
「おや、鰐淵君」
 宇田川次長は卓上の名刺を一瞥し、冷淡に言い放った。
「外してくれないか。加藤君は今日が初日なのでね」
「これは宇田川次長。いや、失礼いたしました。すぐに退散いたしますよ」
 鰐淵は立ち上がると、去り際、俺の耳元で囁くように言った。
「またお会いすることもあるでしょう。加藤さん。そのときにでも、ゆるりと」
 影が消えるように、男は店の奥へと去っていった。
 俺は名刺をしまい、どかりとソファに腰を下ろした宇田川次長に尋ねた。
「名刺……受け取ったのはまずかったですかね」
「構わんよ。狭い日本人社会だ、他所の人事情報が広まるのもあっという間だ」
 宇田川次長は吐き捨てるように言い、グラスの氷を鳴らした。
「ただ、鰐淵のような人間には気を付けたまえ。我々とは違う人種だ。レベル1に所属がない。日本に戻れない。戻らない」
 脳裏に、「帰還不能者」という単語が浮かんだ。
 レベル1では不吉な噂話のように囁かれる言葉だが、都市伝説でもなんでもない。むしろ日常の現実だからこそ、忌まわしい。
 アダプテーション(変異)が進み、ゲートの検問で弾かれ、日本国籍を失った者たち。あるいは、その徴候を察知し、レベル2の巷に潜むことを選んだドロップアウト組。
「我々には戸籍がある。ヤシマという立派な看板がある。……加藤君、君は結婚していたかな?」
「いいえ。独り身です」
「そうか。戻ったら身を固めることを考えた方がいい。家族はいいぞ」
 宇田川の表情が、一瞬だけ父親のそれに変わる。
「小学生の娘がいるんだが、中学受験の予定でね。サピックスだ何だと、妻がやかましい。最初から私立に入れていれば良かったんだが、まあ後の祭りだ。
 だがな、加藤君。帰るべき『現実』があるからこそ、こんな地球ですらない場所での勤務にも耐えられる」
 俺は曖昧に頷いた。
「こんばんは」「お待たせしました」
 不意に、流暢な日本語が聞こえて視線を上げた。
 二人の女が近づいてくる。
 一人は、銀髪に黒檀色の肌を持つダークエルフ。もう一人は、頭頂両側に獣の耳を冠した猫獣人だった。
 ダークエルフはサテン地の、光沢のあるマーメイドラインのドレス。
 猫獣人は裾が軽やかに広がるミニドレスで、二人とも髪をアップにまとめている。
 耳の形と肌の色に目をつぶれば、まるで日本のキャバクラ嬢だ。
 二人は優雅に一礼すると、ダークエルフは宇田川次長の隣へ、そして猫獣人は俺の隣へと滑り込んだ。
 猫獣人の女が「はじめまして」と微笑み、両手で名刺を差し出してくる。
 名刺には日本語で『|小夏《こなつ》』と記されていた。
「ここは高級店だからね。日本人客向けのサービスを心得ているというわけだ。
 とはいえ、挨拶だけだよ。実際に日本語を話せるわけではない。まあ、雰囲気だ。相応の楽しみ方をすればいい」
 宇田川次長は笑いながら、ダークエルフの腰を無遠慮に抱き寄せた。女は慣れた様子で身を任せ、体を密着させる。
 どうやら「ボディタッチ禁止」という概念はこの世界に輸入されなかったらしい。
 ふと、太腿に柔らかな感触を覚えた。
 猫獣人の小夏が、そっと手を添えてきたのだ。薄い柔毛に覆われた指先が、スラックスの折り目をなぞるように、ツツ、と上へ滑っていく。
 見れば、吐息がかかるほどの至近距離に彼女の顔があった。
 香水とは違う、動物的な甘ったるい体臭が脳の奥を焼く。
 俺は目の前の水割りをぐいと呷った。
 * * *
 宿舎に戻った頃には、日付が変わっていた。
 レベル1にある合同宿舎は、新しく、清潔だった。しかし間取りは極端に狭く、天井も低い。機能性だけを追求したその造りは、どこか高級な刑務所を思わせる閉塞感に満ちている。
 自室に入る。荷造りを終えたばかりの室内はがらんとして殺風景だ。
 飲み過ぎたせいで、胃のあたりにまだじっとりとした不快感が居座っている。
 宇田川次長の世間話と、柔毛の感触しか記憶に残っていない。結局、アンカー業務が何なのか、具体的な話はなかった。
 胃薬を探そうとバッグに手をかけたが、荷解きの|煩《わずら》わしさが勝り、そのままパイプベッドに身を投げ出した。
 薄い壁を通して、隣人の電話の声が聞こえてくる。
 最初は、ひそひそとした囁き声だった。しかし、次第に切迫した様子で声のトーンが上がり、時折漏れ出す感情が、話の内容を克明に伝えてきた。
「帰れないって、どういうことですか」
「……聞いてない……内示……なんで……」
 一気に酔いが醒めた。
 気が滅入るような、絶望の余韻を孕んだ会話。
 俺は壁際から逃げるように身を起こすと、こびりついた「夢の国」の残り香を洗い流すため、ユニットバスの戸を強く開けた。