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猫が顔を洗えば(上)

ー/ー



 化け猫。
 あるいは猫又(ねこまた)
 どちらもネコが化けた妖怪であるという点では同じなのだが、どうやら両種はそれぞれ別の妖怪であるらしい。しかし、その区別は曖昧(あいまい)で、実際のところは混同されることがしばしばのようである。
 一応、歳を取って化けたものが猫又、歳に関係なく化けたものが化け猫、とする説もあるが、いまいち判然としない。
 だが、一説によると、猫又と言う名前の語源は、尻尾が二股に分かれていることから来ているらしく、その説を真とするならば「猫又の尻尾は二本」ということになるだろう。
 であるならば、やはり、私の家に居候(いそうろう)している例の妖怪は、猫又ではなく、化け猫とするのが正しい解釈なのかもしれない。
 そいつ自身、自分のことを化け猫と(しょう)していたし、猫又と言う言葉も、まさか九本の尻尾(、、、、、)を持つ猫のことまでは想定していないだろう。
 まあ、浅学な私の知識ではどこまでいっても確証はなく「かもしれない」が関の山なのだが――、
 だが、なにはともあれ今日は木曜日。
 芒野不思議相談所(すすきのふしぎそうだんじょ)の定休日である。
 仕事が休みの日はもれなく部屋にこもって読書に(ふけ)るのが常なのだが、今日に限っては、ちょっとした用事があって、街に繰り出している。
 そう、ちょっとした用事。
 間違いなく、ちょっとしたことだ。
 それは、わざわざ文字に起こすのもはばかられるような、つまらなくてどうでもいいことという意味であり、つまり、あえて問題にするようなことではないということである。
 言うなれば、好奇心に殺された猫でさえ少しも興味を示さないであろう、実に些末(さまつ)なことなのだが、話の都合上、説明しなくてはならないのは私としても大変心苦しい。
 実に恐縮だ。
 私は、ちょっと――、
 ちょっと、猫の尻尾を探しているだけなのだから――
「…………いや、」
 私は青空を仰いで呆然と呟く。
「どういうこと……?」
 本当にどういうことだろう。
 言葉遊びでも、何かを表した隠語というわけでもない。言葉そのままの意味で、私は猫の尻尾を探している。
 なのだが――
 早朝に家を出て、五時間ほど街を歩き回っても手掛かりすら掴めず、挙句、交番で猫の尻尾の落し物はないかを尋ねてみたら、お巡りさんに不審な顔をされてしまった。
 そこでようやくというか、流石に我に返った。
 私はいったい何をしているのだろう。
 第三者に疑われたことで頭が冷えて、自分の行動がひどく疑わしく思えてきた。
 家を出た頃の私には確かな目的があったはずなのだが、今となってはそれすらも怪しい。
 ここはひとつ、私自身を立ち直らせるためにも、奇異な行動を説明するためにも、言い訳のように回想させてほしい。
 少し日を(さかのぼ)り、それは三日前の朝のことだ。
 私は苦しさのあまり目を覚ました。
 初めに覚えたのは異様な身体の重さ、そして腹部をリズミカルに圧迫される柔らかな感覚だった。
 どうにも起き上がれそうになく、なんとか首だけ起こして見てみると、そこには、私の両脚の上に(またが)って、両手で交互に私の腹を押している――成人女性がいた。
「あ、あの……何をしてるんですか? ていうか誰……?」
 彼女は私の腹をこねながら答える。
「それは難しい質問だが、にゃるほど、本質を突いた質問だにゃ」
「本質っていうか、誰なのか訊いてるだけなんだけど……」
「いったい我々は何者(にゃにもの)で、どこから来て、どこへ向かっているのか……」
「そんな難しい話はしていない……」
「自分という存在を定義できにゃいなら、俺はお前で、お前は俺だと言えるんじゃにゃいのか?」
「そんな簡単な話でもない……」
「にゃんで俺という意識があるにゃ? 死んだらどうにゃっちゃうのにゃ?」
「なんなの? 思春期なの……?」
 眠れない夜に考えて不安になるやつじゃん。
 考えることは皆同じなのかと、変な親近感は覚えたけども。
「とりあえず……苦しいのでそれやめてください……」
 私は、彼女の手を指し示す。
「それは無理にゃ(はにゃし)だにゃ。考えることをやめること、それすにゃわち自分であることを諦めることだからにゃ」
「わかった。お前は中二病だ……!」
 絶対にそうだ。間違いない。
 私にはわかる。
 私もそうだったからな!
「それで――、」
 体の上から彼女をどかすことに成功して(彼女の手を軽く掴んだら、すぐにどいてくれた)、私はベッドに腰を掛けながら、床で身体を伸ばしている彼女に問いかける。
「それで、結局あなたは誰なんですか? 答えようによっては警察に通報する義務があるんですけど」
「本当にわからにゃいのか? 俺をよく見てみろにゃ」
 彼女は私に向き直る。
「よく見ろって言われても……」
 私の目の前の、背中を丸めて座るその女性は――ぎょろぎょろとした怪しい瞳に、長い犬歯を覗かせる(いや)しい口、すらりとした細長い体躯……
 そう言えば、先程からこの部屋にいるはずのものが見当たらない。一週間前からこの部屋で世話をしている、訳ありの猫――
「も、もしかして……あなた、おはぎどん!?」
「ったく、前からそのくそダサい呼び名(よびにゃ)について文句を言いたかったんだにゃ」
 けけっ、と。
 彼女は卑しく笑う。
「しかしまあ、文句よりもまずは礼を言うにゃ。此度(こたび)は世話になったにゃ。感謝するぞ、ニンゲン」
「あ、いえ、どういたしまして……」
 突然の展開からの素直な感謝の言葉に、私はどぎまぎとしてしまった。
 そんな私をからかうように、彼女は軽薄(けいはく)に笑う。
「それにしても、一週間も一緒に生活した(にゃか)だというのに、俺のことがすぐにわからにゃいなんて、お前は薄情にゃ奴だにゃ」
「いや、だってまさか人間の姿になるとは思わないし、その姿、猫の要素が全くと言っていいほどないし……」
「ああ、そうか」
 彼女はおもむろに自分の腰のあたりを右手でつまむと、さながらコードを引っ張り出すかのように、ずるずると二本の黒い尻尾を出現させた。
「これでいいか?」
「なんか、思っていたのと違う」
 もっとポップで可愛い感じに出してくれるものだとばかり考えていたが、それは人間の(おろ)かな欲望なのだろうか。
 白目を()いて、ぶちぶちと言わせながら引っ張り出された、ぬらぬらと光る尻尾から、血のような赤い液体が(したた)っては蒸発しているこの状況の方が妥当(だとう)な現実なのだろうか。
「ちにゃみに死ぬほど痛いにゃ」
「ドン引きだよ!」
 そんな気軽な感じに決死の覚悟を決めるな!
 自分を大事にしろ!
 とか。
 もはや説教のような突っ込みを披露(ひろう)してみせると、彼女はショックを受けたような表情を浮かべる。
「え、にゃにも出さにゃい方がよかったにゃ?」
「違う違う! そうじゃなくて! 出し方の問題だよ!」
「え、違う? 尻尾じゃにゃくて、ひげの方がよかったにゃ?」
「違くない違くない! 尻尾ありがとう! 尻尾かわいいよ! 尻尾最高! 撫でまわしたい!」
 そこまで言ってやると、やっと彼女の表情が(やわ)らぐ。
「そうか。もう二度と痛い思いはしにゃいと決めていたんだが、よかったにゃ」
「重いーー!!」
 退屈は人を殺すと言うが、案外、罪悪感でも簡単に死ねそうだ。
 とにかく、もう二度と軽率に文句は言うまいと心に誓った私だった。
「結局さ――何のために人間に化けたの?」
 自分の朝ごはん用のカップ麺にお湯を注いだ後、彼女のご飯はキャットフードにするか人間用の食べ物にするかを迷いながら、彼女に問いかけた。
「にゃ? どういうことにゃ?」
 リビングのローテーブルの前でちょこんと正座をしてご飯を待っている彼女は、きょとんとした表情を浮かべる。
「いや、ほら、何か目的があったんじゃないの? 言いたいことがあるとかさ」
 と、思い付くままに言ってみると、彼女ははっとしたような仕草を見せる。
「あー、そうにゃそうにゃ。思い出した。お前に言いたいことがあったんだにゃ」
「やっぱり? 言ってみて」
 私が先を促すと、彼女はへらへらと笑いながら言った。
「俺の尻尾を探して欲しいのにゃ」
「へっ? 尻尾?」
 私は思わず、彼女の二本の尻尾を見る。
「そうにゃ。尻尾にゃ」
 彼女は(つや)っぽく尻尾を揺らしながら、こう言葉を続ける。
「元々は俺の尻尾は九本あったんだが、色々訳があって尻尾を(にゃ)くしたにゃ。だからそれを探して、集めて欲しいのにゃ」
「はあ、なるほど……?」
 私は曖昧(あいまい)に返事をしながら、皿に開けたツナ缶を彼女の前に出した。
 迷った挙句、猫用の食べ物と人間用の食べ物の間を取ったのだ。
 彼女は、皿の上のツナをちょんちょんと指で触ってから、顔を皿に突っ込むようにして食べ始めた。
 私も、出来上がったカップ麺を食べ始める。
「にゃにもタダでとは言わにゃいにゃ。ちゃんと礼はするにゃ」
「お礼ね。それはどんな?」
 特に何かを期待したわけでもなく、それこそ軽率に訊いてみたのだが、彼女の口から出たものは、私の想像を絶するものだった。
「願いを(かにゃ)えてやるにゃ」
 私は、口に運びかけていた麺を箸からこぼしてしまう。
「は?」
「だから、願いを(かにゃ)えてやるって言ってるんだにゃ」
「願いを叶えるって……そんなことができるの?」
 私は思わず訊き返した。
 彼女の提案があまりにも破格で、つい疑ってしまったのだ。
「できる……できると、思うにゃ……」
「不安の残る言い方だ……」
 先ほどまでの威勢の良さはどこにいったんだ……
「自信がないなら、無理しなくてもいいんだよ……?」
「できるったらできるにゃ! 俺を信用しろにゃ!」
 いや、そう言われても……。
「じゃあ、私が信じられるだけの根拠を出して」
 当然、私がそう言うと、彼女は薄い身体を反らして、自慢気に言う。
「俺は、元神様だにゃ」
「あーはいはい(笑) 元神様ね(笑)」
「にゃーっ!! こいつ絶対に信じてにゃいにゃ!」
 憤慨(ふんがい)する彼女を、私は思いっきり鼻で笑う。
「いやだって、おはぎどんって名前で神様って、そりゃないでしょ」
「それはお前が付けた名前(にゃまえ)だろ!」
「なによ! 私が付けた名前に文句があるっていうの!?」
「だからあるって言ってるにゃ! ありまくりにゃ!」
「いいわ、言ってみなさいよ!」
 と、威勢よく啖呵(たんか)を切ってみたが、彼女の口からはまっとうな意見が返ってくる。
「じゃあ言わせてもらうが、百歩譲っておはぎどんって名前(にゃまえ)を考え付く壊滅的(かいめつてき)にゃセンスには目を(つむ)るとして、お前のイントネーションはどうにかにゃらにゃいのか。お前の言い方じゃ、おはぎどんっていうか、おはぎ丼じゃねえか。米に米じゃねえか」
「ぐっ……」
 的確な指摘だ……。
 こうなったらもう、逆切れするしかない。
「別にいいじゃない、おはぎでお米を食べたって!」
「いいわけにゃいだろ。一緒に食べても実質的におはぎしか食べてにゃいんだぞ」
「え、本当だ!」
 知る前と後では世界が変わって見えるような気付きを、思わぬ形で得てしまった。
 世界一どうでもいいパラダイムシフトだ。
 たまには逆切れもしてみるものである。
「ていうか、俺には元々別の名前(にゃまえ)があるにゃ」
「あ、そうなの? じゃあ、それを教えてよ」
 と、またも軽率に訊いた私だったが、すぐに後悔することになる。
「思い出せにゃいのにゃ」
「え?」
 彼女は、平坦な口調で言う。
名前(にゃまえ)があったはずにゃんだが、今は思い出せにゃいにゃ」
「そ、そっか……なんかごめん……」
 まずいことを訊いてしまったと、私はひとり気まずくなる。
 だが、当の彼女は案外けろっとしていて――
「まあ、そのうち思い出すと思うにゃ」
 と、気楽に締めくくった。
「それで、尻尾のことにゃんだが……」
「ああ、それね。とりあえず、尻尾は探すよ」
「本当にゃ!? いいのか!?」
「だって困ってるんでしょ? それとまあ、乗りかかった舟だし……」
「わーい! 嬉しいにゃ! 嬉しすぎて、お前のこと好きににゃりそうだにゃ!」
「えっ、今まで好きか嫌いかの二択だったら嫌いだったし、今も決して好きになったわけではないってこと?」
 と、聞き捨てならぬ台詞(せりふ)に必死に噛み付く私だったが、彼女のひとことに一蹴(いっしゅう)される。
「ニンゲン」
 左手で(そら)()いて、細い目でにやりと笑い、猫は言った。
「よしにゃに、にゃ」



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 化け猫。
 あるいは猫又《ねこまた》。
 どちらもネコが化けた妖怪であるという点では同じなのだが、どうやら両種はそれぞれ別の妖怪であるらしい。しかし、その区別は曖昧《あいまい》で、実際のところは混同されることがしばしばのようである。
 一応、歳を取って化けたものが猫又、歳に関係なく化けたものが化け猫、とする説もあるが、いまいち判然としない。
 だが、一説によると、猫又と言う名前の語源は、尻尾が二股に分かれていることから来ているらしく、その説を真とするならば「猫又の尻尾は二本」ということになるだろう。
 であるならば、やはり、私の家に居候《いそうろう》している例の妖怪は、猫又ではなく、化け猫とするのが正しい解釈なのかもしれない。
 そいつ自身、自分のことを化け猫と|称《しょう》していたし、猫又と言う言葉も、まさか|九本の尻尾《、、、、、》を持つ猫のことまでは想定していないだろう。
 まあ、浅学な私の知識ではどこまでいっても確証はなく「かもしれない」が関の山なのだが――、
 だが、なにはともあれ今日は木曜日。
 |芒野不思議相談所《すすきのふしぎそうだんじょ》の定休日である。
 仕事が休みの日はもれなく部屋にこもって読書に耽《ふけ》るのが常なのだが、今日に限っては、ちょっとした用事があって、街に繰り出している。
 そう、ちょっとした用事。
 間違いなく、ちょっとしたことだ。
 それは、わざわざ文字に起こすのもはばかられるような、つまらなくてどうでもいいことという意味であり、つまり、あえて問題にするようなことではないということである。
 言うなれば、好奇心に殺された猫でさえ少しも興味を示さないであろう、実に些末《さまつ》なことなのだが、話の都合上、説明しなくてはならないのは私としても大変心苦しい。
 実に恐縮だ。
 私は、ちょっと――、
 ちょっと、猫の尻尾を探しているだけなのだから――
「…………いや、」
 私は青空を仰いで呆然と呟く。
「どういうこと……?」
 本当にどういうことだろう。
 言葉遊びでも、何かを表した隠語というわけでもない。言葉そのままの意味で、私は猫の尻尾を探している。
 なのだが――
 早朝に家を出て、五時間ほど街を歩き回っても手掛かりすら掴めず、挙句、交番で猫の尻尾の落し物はないかを尋ねてみたら、お巡りさんに不審な顔をされてしまった。
 そこでようやくというか、流石に我に返った。
 私はいったい何をしているのだろう。
 第三者に疑われたことで頭が冷えて、自分の行動がひどく疑わしく思えてきた。
 家を出た頃の私には確かな目的があったはずなのだが、今となってはそれすらも怪しい。
 ここはひとつ、私自身を立ち直らせるためにも、奇異な行動を説明するためにも、言い訳のように回想させてほしい。
 少し日を|遡《さかのぼ》り、それは三日前の朝のことだ。
 私は苦しさのあまり目を覚ました。
 初めに覚えたのは異様な身体の重さ、そして腹部をリズミカルに圧迫される柔らかな感覚だった。
 どうにも起き上がれそうになく、なんとか首だけ起こして見てみると、そこには、私の両脚の上に跨《またが》って、両手で交互に私の腹を押している――成人女性がいた。
「あ、あの……何をしてるんですか? ていうか誰……?」
 彼女は私の腹をこねながら答える。
「それは難しい質問だが、にゃるほど、本質を突いた質問だにゃ」
「本質っていうか、誰なのか訊いてるだけなんだけど……」
「いったい我々は何者《にゃにもの》で、どこから来て、どこへ向かっているのか……」
「そんな難しい話はしていない……」
「自分という存在を定義できにゃいなら、俺はお前で、お前は俺だと言えるんじゃにゃいのか?」
「そんな簡単な話でもない……」
「にゃんで俺という意識があるにゃ? 死んだらどうにゃっちゃうのにゃ?」
「なんなの? 思春期なの……?」
 眠れない夜に考えて不安になるやつじゃん。
 考えることは皆同じなのかと、変な親近感は覚えたけども。
「とりあえず……苦しいのでそれやめてください……」
 私は、彼女の手を指し示す。
「それは無理にゃ話《はにゃし》だにゃ。考えることをやめること、それすにゃわち自分であることを諦めることだからにゃ」
「わかった。お前は中二病だ……!」
 絶対にそうだ。間違いない。
 私にはわかる。
 私もそうだったからな!
「それで――、」
 体の上から彼女をどかすことに成功して(彼女の手を軽く掴んだら、すぐにどいてくれた)、私はベッドに腰を掛けながら、床で身体を伸ばしている彼女に問いかける。
「それで、結局あなたは誰なんですか? 答えようによっては警察に通報する義務があるんですけど」
「本当にわからにゃいのか? 俺をよく見てみろにゃ」
 彼女は私に向き直る。
「よく見ろって言われても……」
 私の目の前の、背中を丸めて座るその女性は――ぎょろぎょろとした怪しい瞳に、長い犬歯を覗かせる卑《いや》しい口、すらりとした細長い体躯……
 そう言えば、先程からこの部屋にいるはずのものが見当たらない。一週間前からこの部屋で世話をしている、訳ありの猫――
「も、もしかして……あなた、おはぎどん!?」
「ったく、前からそのくそダサい|呼び名《よびにゃ》について文句を言いたかったんだにゃ」
 けけっ、と。
 彼女は卑しく笑う。
「しかしまあ、文句よりもまずは礼を言うにゃ。|此度《こたび》は世話になったにゃ。感謝するぞ、ニンゲン」
「あ、いえ、どういたしまして……」
 突然の展開からの素直な感謝の言葉に、私はどぎまぎとしてしまった。
 そんな私をからかうように、彼女は|軽薄《けいはく》に笑う。
「それにしても、一週間も一緒に生活した|仲《にゃか》だというのに、俺のことがすぐにわからにゃいなんて、お前は薄情にゃ奴だにゃ」
「いや、だってまさか人間の姿になるとは思わないし、その姿、猫の要素が全くと言っていいほどないし……」
「ああ、そうか」
 彼女はおもむろに自分の腰のあたりを右手でつまむと、さながらコードを引っ張り出すかのように、ずるずると二本の黒い尻尾を出現させた。
「これでいいか?」
「なんか、思っていたのと違う」
 もっとポップで可愛い感じに出してくれるものだとばかり考えていたが、それは人間の|愚《おろ》かな欲望なのだろうか。
 白目を|剥《む》いて、ぶちぶちと言わせながら引っ張り出された、ぬらぬらと光る尻尾から、血のような赤い液体が|滴《したた》っては蒸発しているこの状況の方が|妥当《だとう》な現実なのだろうか。
「ちにゃみに死ぬほど痛いにゃ」
「ドン引きだよ!」
 そんな気軽な感じに決死の覚悟を決めるな!
 自分を大事にしろ!
 とか。
 もはや説教のような突っ込みを|披露《ひろう》してみせると、彼女はショックを受けたような表情を浮かべる。
「え、にゃにも出さにゃい方がよかったにゃ?」
「違う違う! そうじゃなくて! 出し方の問題だよ!」
「え、違う? 尻尾じゃにゃくて、ひげの方がよかったにゃ?」
「違くない違くない! 尻尾ありがとう! 尻尾かわいいよ! 尻尾最高! 撫でまわしたい!」
 そこまで言ってやると、やっと彼女の表情が|和《やわ》らぐ。
「そうか。もう二度と痛い思いはしにゃいと決めていたんだが、よかったにゃ」
「重いーー!!」
 退屈は人を殺すと言うが、案外、罪悪感でも簡単に死ねそうだ。
 とにかく、もう二度と軽率に文句は言うまいと心に誓った私だった。
「結局さ――何のために人間に化けたの?」
 自分の朝ごはん用のカップ麺にお湯を注いだ後、彼女のご飯はキャットフードにするか人間用の食べ物にするかを迷いながら、彼女に問いかけた。
「にゃ? どういうことにゃ?」
 リビングのローテーブルの前でちょこんと正座をしてご飯を待っている彼女は、きょとんとした表情を浮かべる。
「いや、ほら、何か目的があったんじゃないの? 言いたいことがあるとかさ」
 と、思い付くままに言ってみると、彼女ははっとしたような仕草を見せる。
「あー、そうにゃそうにゃ。思い出した。お前に言いたいことがあったんだにゃ」
「やっぱり? 言ってみて」
 私が先を促すと、彼女はへらへらと笑いながら言った。
「俺の尻尾を探して欲しいのにゃ」
「へっ? 尻尾?」
 私は思わず、彼女の二本の尻尾を見る。
「そうにゃ。尻尾にゃ」
 彼女は|艶《つや》っぽく尻尾を揺らしながら、こう言葉を続ける。
「元々は俺の尻尾は九本あったんだが、色々訳があって尻尾を|失《にゃ》くしたにゃ。だからそれを探して、集めて欲しいのにゃ」
「はあ、なるほど……?」
 私は|曖昧《あいまい》に返事をしながら、皿に開けたツナ缶を彼女の前に出した。
 迷った挙句、猫用の食べ物と人間用の食べ物の間を取ったのだ。
 彼女は、皿の上のツナをちょんちょんと指で触ってから、顔を皿に突っ込むようにして食べ始めた。
 私も、出来上がったカップ麺を食べ始める。
「にゃにもタダでとは言わにゃいにゃ。ちゃんと礼はするにゃ」
「お礼ね。それはどんな?」
 特に何かを期待したわけでもなく、それこそ軽率に訊いてみたのだが、彼女の口から出たものは、私の想像を絶するものだった。
「願いを|叶《かにゃ》えてやるにゃ」
 私は、口に運びかけていた麺を箸からこぼしてしまう。
「は?」
「だから、願いを|叶《かにゃ》えてやるって言ってるんだにゃ」
「願いを叶えるって……そんなことができるの?」
 私は思わず訊き返した。
 彼女の提案があまりにも破格で、つい疑ってしまったのだ。
「できる……できると、思うにゃ……」
「不安の残る言い方だ……」
 先ほどまでの威勢の良さはどこにいったんだ……
「自信がないなら、無理しなくてもいいんだよ……?」
「できるったらできるにゃ! 俺を信用しろにゃ!」
 いや、そう言われても……。
「じゃあ、私が信じられるだけの根拠を出して」
 当然、私がそう言うと、彼女は薄い身体を反らして、自慢気に言う。
「俺は、元神様だにゃ」
「あーはいはい(笑) 元神様ね(笑)」
「にゃーっ!! こいつ絶対に信じてにゃいにゃ!」
 |憤慨《ふんがい》する彼女を、私は思いっきり鼻で笑う。
「いやだって、おはぎどんって名前で神様って、そりゃないでしょ」
「それはお前が付けた|名前《にゃまえ》だろ!」
「なによ! 私が付けた名前に文句があるっていうの!?」
「だからあるって言ってるにゃ! ありまくりにゃ!」
「いいわ、言ってみなさいよ!」
 と、威勢よく|啖呵《たんか》を切ってみたが、彼女の口からはまっとうな意見が返ってくる。
「じゃあ言わせてもらうが、百歩譲っておはぎどんって|名前《にゃまえ》を考え付く|壊滅的《かいめつてき》にゃセンスには目を|瞑《つむ》るとして、お前のイントネーションはどうにかにゃらにゃいのか。お前の言い方じゃ、おはぎどんっていうか、おはぎ丼じゃねえか。米に米じゃねえか」
「ぐっ……」
 的確な指摘だ……。
 こうなったらもう、逆切れするしかない。
「別にいいじゃない、おはぎでお米を食べたって!」
「いいわけにゃいだろ。一緒に食べても実質的におはぎしか食べてにゃいんだぞ」
「え、本当だ!」
 知る前と後では世界が変わって見えるような気付きを、思わぬ形で得てしまった。
 世界一どうでもいいパラダイムシフトだ。
 たまには逆切れもしてみるものである。
「ていうか、俺には元々別の|名前《にゃまえ》があるにゃ」
「あ、そうなの? じゃあ、それを教えてよ」
 と、またも軽率に訊いた私だったが、すぐに後悔することになる。
「思い出せにゃいのにゃ」
「え?」
 彼女は、平坦な口調で言う。
「|名前《にゃまえ》があったはずにゃんだが、今は思い出せにゃいにゃ」
「そ、そっか……なんかごめん……」
 まずいことを訊いてしまったと、私はひとり気まずくなる。
 だが、当の彼女は案外けろっとしていて――
「まあ、そのうち思い出すと思うにゃ」
 と、気楽に締めくくった。
「それで、尻尾のことにゃんだが……」
「ああ、それね。とりあえず、尻尾は探すよ」
「本当にゃ!? いいのか!?」
「だって困ってるんでしょ? それとまあ、乗りかかった舟だし……」
「わーい! 嬉しいにゃ! 嬉しすぎて、お前のこと好きににゃりそうだにゃ!」
「えっ、今まで好きか嫌いかの二択だったら嫌いだったし、今も決して好きになったわけではないってこと?」
 と、聞き捨てならぬ|台詞《せりふ》に必死に噛み付く私だったが、彼女のひとことに|一蹴《いっしゅう》される。
「ニンゲン」
 左手で|空《そら》を|掻《か》いて、細い目でにやりと笑い、猫は言った。
「よしにゃに、にゃ」