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第一章 氷の魔女

ー/ー



 アワは馬上にいた。
 ヴェルディナ暦五六四年、深冬の頃のこと。
 馬が踏み込むたびに、ちらつく雪は(きし)む鈍い音と変わっていく。誰の気配もない白い道に、足跡だけが細く続いていた。
 アルベルサ領国北端の小さな村『キーキ』を離れ、さらに北を目指していた。
 厚手のマントを幾重にも重ね、顔を襟元に深く埋めても、肌を刺すような寒さは容赦なく襲う。白く、今にも凍りつきそうな吐息は、行く手に広がる灰色の景色に消えて無くなった。
 やがて、森が見えてくる。常ならぬ気配に、アワは自然と手綱を引いた。
 ——そこに、あったのは。
 言葉を失う。
 森も、道も、すべてが、氷に覆われていた。いや、ただ雪が積もったわけではない。枝も幹も、草も、岩も。空気さえ凍りついたかのように、透明な氷に閉ざされている。
 時間が止まった世界に思わず息を呑んだ。

「何が——一体、何が起こったんだ?」

 馬も動かなかった。
 (くら)から降りると、ひときわ凍りついた木々の間で風が鳴った。
 馬を引きながら、慎重に足を進めた。どこまでも森は凍った息を吐き続ける。地面も、枝も、葉脈の一本に至るまで、薄い氷膜に覆われている。漂う冷気は、肌に触れるたび細かくひび割れ、微かな音を立てた。
 生き物の気配がなかった。森を抜ける道も形を失っていた。氷の森にあるのは、差し込む陽の光だけだ。
 手綱を引いた時、ふと胸元に違和感を覚えた。わずかに生暖かい気配。
 次の瞬間——マントの内側から、何かが、ぬるりと顔を覗かせた。濡れたように艶やかな毛並みは、淡い青の光を帯びていた。

「……まあ、冬だからな」

 幼い声が、胸元でぼそりと呟いた。しゃがれた子供のような、妙に生意気な声だった。
 アワは地面に飛び降りた獣を無言で睨みつけた。
 小さな四肢(しし)。しなやかな尾。どこか異国の伝承に語られる幻獣のようであり、ひどく幼い無邪気さもある。

「ああ、悪かった。冗談だって。悪い、悪い」

 そう言って獣は、小さく身じろぎしてから、バツが悪そうに目を逸らした。

「たく、さみーなー。なんで真冬にこんなとこ来ないといけないんだよ」

 尻尾(しっぽ)をぱたぱたと揺らしながらアワの前を歩き始める声の主は、アワの相棒でもある水の精霊——テテポだ。
 はにかむように覗かせる小さな牙は、沈黙に閉ざされた白銀の森のなかに、ほんのわずかながらだが、温かな気配を生んだ。
  森の奥へ進むほど、辺りを満たす空気は張り詰めていった。しかし、テテポはそんなことなど意に介さず、アワの前をとぼとぼと歩いていく。
ところが、それは突然のことだった。まるで張り詰めた空気に耐えきれなくなったかのように、テテポはふかふかに積もった雪の地面に身を投げ出した。

「……あー、もうダメだーー。おれ、こんな空気、たえきれねーよおー。早くエリディオに帰りてぇーよおー……」


<i965721|47130>


 そのまま、ころり、ころりと無邪気に転がり始める。雪が柔らかな毛並みに(まと)わりつき、ひときわ白く染め上げていた。
 足を止めたアワは、ため息をひとつ。テテポを冷めた目で見下ろした。

「……付き合いきれないな。そもそも精霊なのに寒さなんて感じるのか?」

 そう呟くと、アワは転がるテテポを追い越し、急ぎ足で先へと進んだ。 足元には霜が広がり、枯れかけた枝がかろうじてぶら下がっていた。そして一枚の葉に、思わず指を伸ばしかけた——その刹那(せつな)

「おい、触れるなよ?」

 テテポの声が鋭く跳ねた。アワは手を止め、すぐに理解したように小さく頷いた。目の前で凍った葉が音もなく砕けた。崩れた粒子は陽光を浴び、煌めく無数の光の粒となって空へ舞い上がっていく。
 よく目を凝らせば、森のあちこちで同じ光景が繰り返されていた。凍りついた花、しおれた枝、羽根を閉じたまま動かぬ小鳥たち——それらが、命の重みを失ったもののように、ほろほろと崩れ落ちていく。

「あまり吸い込むなよ?」

 背後からテテポの声。

「おれがついてるからって油断できないからな?」
「……わかってる」

 アワは頷き、マントを引き寄せ鼻と口を覆った。
 その瞬間だ。

「おい、気をつけろ!」

 今度はテテポの声が、はっきりと緊張を帯びた。

「何に?」

 テテポの合図に、アワは立ち止まり耳を澄ます。

「……静かに」

 ——静寂。
 砕けた氷がはらはらと舞う音だけが、微かに聞こえる。しかし、そのなかに紛れるようにして、わずかな、ほんの微々たる——誰かの声が耳の奥に触れた。

「……歌声?」

 アワが低く呟く。
 テテポは、真剣な顔で小さな牙を覗かせた。

「氷の魔女だ——」


 そのまま緩やかな傾斜を登ると、 木々の密度が(まばら)になってきた。凍てついた枝の合間から、それまで以上に陽の光が降り注ぎ、辺りを明るく照らした。
 氷の森を抜け、開けた尾根の上に出た。冷たい風が吹き抜け、アワのマントの端が揺れた。
 そして目に映る谷底の光景に、アワは息を呑んだ。そこにあるはずだった。ベルー国の町並みが。
 かつて北の海に門を開いた静かな交易の都は、巨大な透明な氷塊に閉ざされ、人々の営みごと全てが氷の下に沈んでいた。今や、風化し崩れかけた屋根や砦の一角のみが残る。
 谷底では粒子が舞っていた。
 きらきらと氷の粉は光と共に漂い続け、確実にこの世界を(むしば)んでいた。

「……な、なんだよ、これは……」

 アワの膝が折れる。
 その場に崩れ落ち、冷たい岩に両手をついた。

「もう……お終いだな。人間の欲望のなれ果てだ」
「……あの、海は?」

 アワの声は震えていた。谷の奥、町のさらに先に広がるはずだった海——そこにも目を凝らす。
 白い。すべてが。
 波も、潮の匂いもない。
 ただ、時間を止められたような氷原が、地平の向こうまで続いていた。

「さあな、わからねえ。でも、おそらくそうなんだろう……」

 テテポは首を傾げる。

「きっと、あの海の向こうも全部、こうなってる。世界が、全てが、氷で埋め尽くされてるんじゃないか?」

 光景を想像するだけで、ぞっとした。アワは頭を垂れ、肩を震わせた。目の前の現実を、まだ心が受け止めきれない。

「……なんてことを」
「氷の粒子は徐々に世界を飲み込んでいって……いずれは……」

 その言葉の意味を、アワは理解していた。……いずれは、エリディオ国も。
 精霊の力でさえ止められない何かが、今、動いている。舞う粒子は、沈黙のなかでさえ、微かに煌めき、空を染めていた。

「戻ろう」

 呆然としていたアワが、長く息を吐いてからゆっくりと立ち上がった。
 にやりとアワを見上げたテテポは、ふん、と息を巻く。

「とっとと陽が落ちる前に寝床に戻らねーと、凍えて死んじまうからな?」


 氷の森を引き返してから、自らが付けた馬の足跡を、逆に辿って戻った。二日目には、積もった雪にその痕跡もすっかり消えていたが、それでもなお、十日かけてやってきた道のりを、記憶と勘を頼りに進み続けた。
 さらに何日かが過ぎると、道は次第に緩やかになり、森の奥には、ところどころ緑が見えはじめた。
 今晩の寝床が、視界に飛び込んできた。これで明日には、キーキの村へ戻れる。
 出発した初日と同じ小屋だ。黒ずんだ丸太に、苔のようにこびりついた雪の屋根。風に晒され(ゆが)んだ扉は、半ば外れかけていた。
 すでに太陽は低く、森に長い影を落としていた。
 凍てつく地を抜けたとはいえ、夜の寒気は肌を刺すように鋭く、油断すればあっという間に体温を奪われる。
 アワは手早く()に火を起こし、残されたわずかな食糧を煮立てた。香ばしい湯気が立ち上り、湿った空気に温もりが広がっていった。

「……なあ、テテポ」

 アワは焚き火の揺らめく炎越しに問いかけた。


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 アワは馬上にいた。
 ヴェルディナ暦五六四年、深冬の頃のこと。
 馬が踏み込むたびに、ちらつく雪は|軋《きし》む鈍い音と変わっていく。誰の気配もない白い道に、足跡だけが細く続いていた。
 アルベルサ領国北端の小さな村『キーキ』を離れ、さらに北を目指していた。
 厚手のマントを幾重にも重ね、顔を襟元に深く埋めても、肌を刺すような寒さは容赦なく襲う。白く、今にも凍りつきそうな吐息は、行く手に広がる灰色の景色に消えて無くなった。
 やがて、森が見えてくる。常ならぬ気配に、アワは自然と手綱を引いた。
 ——そこに、あったのは。
 言葉を失う。
 森も、道も、すべてが、氷に覆われていた。いや、ただ雪が積もったわけではない。枝も幹も、草も、岩も。空気さえ凍りついたかのように、透明な氷に閉ざされている。
 時間が止まった世界に思わず息を呑んだ。
「何が——一体、何が起こったんだ?」
 馬も動かなかった。
 |鞍《くら》から降りると、ひときわ凍りついた木々の間で風が鳴った。
 馬を引きながら、慎重に足を進めた。どこまでも森は凍った息を吐き続ける。地面も、枝も、葉脈の一本に至るまで、薄い氷膜に覆われている。漂う冷気は、肌に触れるたび細かくひび割れ、微かな音を立てた。
 生き物の気配がなかった。森を抜ける道も形を失っていた。氷の森にあるのは、差し込む陽の光だけだ。
 手綱を引いた時、ふと胸元に違和感を覚えた。わずかに生暖かい気配。
 次の瞬間——マントの内側から、何かが、ぬるりと顔を覗かせた。濡れたように艶やかな毛並みは、淡い青の光を帯びていた。
「……まあ、冬だからな」
 幼い声が、胸元でぼそりと呟いた。しゃがれた子供のような、妙に生意気な声だった。
 アワは地面に飛び降りた獣を無言で睨みつけた。
 小さな|四肢《しし》。しなやかな尾。どこか異国の伝承に語られる幻獣のようであり、ひどく幼い無邪気さもある。
「ああ、悪かった。冗談だって。悪い、悪い」
 そう言って獣は、小さく身じろぎしてから、バツが悪そうに目を逸らした。
「たく、さみーなー。なんで真冬にこんなとこ来ないといけないんだよ」
 |尻尾《しっぽ》をぱたぱたと揺らしながらアワの前を歩き始める声の主は、アワの相棒でもある水の精霊——テテポだ。
 はにかむように覗かせる小さな牙は、沈黙に閉ざされた白銀の森のなかに、ほんのわずかながらだが、温かな気配を生んだ。
  森の奥へ進むほど、辺りを満たす空気は張り詰めていった。しかし、テテポはそんなことなど意に介さず、アワの前をとぼとぼと歩いていく。
ところが、それは突然のことだった。まるで張り詰めた空気に耐えきれなくなったかのように、テテポはふかふかに積もった雪の地面に身を投げ出した。
「……あー、もうダメだーー。おれ、こんな空気、たえきれねーよおー。早くエリディオに帰りてぇーよおー……」
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 そのまま、ころり、ころりと無邪気に転がり始める。雪が柔らかな毛並みに|纏《まと》わりつき、ひときわ白く染め上げていた。
 足を止めたアワは、ため息をひとつ。テテポを冷めた目で見下ろした。
「……付き合いきれないな。そもそも精霊なのに寒さなんて感じるのか?」
 そう呟くと、アワは転がるテテポを追い越し、急ぎ足で先へと進んだ。 足元には霜が広がり、枯れかけた枝がかろうじてぶら下がっていた。そして一枚の葉に、思わず指を伸ばしかけた——その|刹那《せつな》。
「おい、触れるなよ?」
 テテポの声が鋭く跳ねた。アワは手を止め、すぐに理解したように小さく頷いた。目の前で凍った葉が音もなく砕けた。崩れた粒子は陽光を浴び、煌めく無数の光の粒となって空へ舞い上がっていく。
 よく目を凝らせば、森のあちこちで同じ光景が繰り返されていた。凍りついた花、しおれた枝、羽根を閉じたまま動かぬ小鳥たち——それらが、命の重みを失ったもののように、ほろほろと崩れ落ちていく。
「あまり吸い込むなよ?」
 背後からテテポの声。
「おれがついてるからって油断できないからな?」
「……わかってる」
 アワは頷き、マントを引き寄せ鼻と口を覆った。
 その瞬間だ。
「おい、気をつけろ!」
 今度はテテポの声が、はっきりと緊張を帯びた。
「何に?」
 テテポの合図に、アワは立ち止まり耳を澄ます。
「……静かに」
 ——静寂。
 砕けた氷がはらはらと舞う音だけが、微かに聞こえる。しかし、そのなかに紛れるようにして、わずかな、ほんの微々たる——誰かの声が耳の奥に触れた。
「……歌声?」
 アワが低く呟く。
 テテポは、真剣な顔で小さな牙を覗かせた。
「氷の魔女だ——」
 そのまま緩やかな傾斜を登ると、 木々の密度が|疎《まばら》になってきた。凍てついた枝の合間から、それまで以上に陽の光が降り注ぎ、辺りを明るく照らした。
 氷の森を抜け、開けた尾根の上に出た。冷たい風が吹き抜け、アワのマントの端が揺れた。
 そして目に映る谷底の光景に、アワは息を呑んだ。そこにあるはずだった。ベルー国の町並みが。
 かつて北の海に門を開いた静かな交易の都は、巨大な透明な氷塊に閉ざされ、人々の営みごと全てが氷の下に沈んでいた。今や、風化し崩れかけた屋根や砦の一角のみが残る。
 谷底では粒子が舞っていた。
 きらきらと氷の粉は光と共に漂い続け、確実にこの世界を|蝕《むしば》んでいた。
「……な、なんだよ、これは……」
 アワの膝が折れる。
 その場に崩れ落ち、冷たい岩に両手をついた。
「もう……お終いだな。人間の欲望のなれ果てだ」
「……あの、海は?」
 アワの声は震えていた。谷の奥、町のさらに先に広がるはずだった海——そこにも目を凝らす。
 白い。すべてが。
 波も、潮の匂いもない。
 ただ、時間を止められたような氷原が、地平の向こうまで続いていた。
「さあな、わからねえ。でも、おそらくそうなんだろう……」
 テテポは首を傾げる。
「きっと、あの海の向こうも全部、こうなってる。世界が、全てが、氷で埋め尽くされてるんじゃないか?」
 光景を想像するだけで、ぞっとした。アワは頭を垂れ、肩を震わせた。目の前の現実を、まだ心が受け止めきれない。
「……なんてことを」
「氷の粒子は徐々に世界を飲み込んでいって……いずれは……」
 その言葉の意味を、アワは理解していた。……いずれは、エリディオ国も。
 精霊の力でさえ止められない何かが、今、動いている。舞う粒子は、沈黙のなかでさえ、微かに煌めき、空を染めていた。
「戻ろう」
 呆然としていたアワが、長く息を吐いてからゆっくりと立ち上がった。
 にやりとアワを見上げたテテポは、ふん、と息を巻く。
「とっとと陽が落ちる前に寝床に戻らねーと、凍えて死んじまうからな?」
 氷の森を引き返してから、自らが付けた馬の足跡を、逆に辿って戻った。二日目には、積もった雪にその痕跡もすっかり消えていたが、それでもなお、十日かけてやってきた道のりを、記憶と勘を頼りに進み続けた。
 さらに何日かが過ぎると、道は次第に緩やかになり、森の奥には、ところどころ緑が見えはじめた。
 今晩の寝床が、視界に飛び込んできた。これで明日には、キーキの村へ戻れる。
 出発した初日と同じ小屋だ。黒ずんだ丸太に、苔のようにこびりついた雪の屋根。風に晒され|歪《ゆが》んだ扉は、半ば外れかけていた。
 すでに太陽は低く、森に長い影を落としていた。
 凍てつく地を抜けたとはいえ、夜の寒気は肌を刺すように鋭く、油断すればあっという間に体温を奪われる。
 アワは手早く|炉《ろ》に火を起こし、残されたわずかな食糧を煮立てた。香ばしい湯気が立ち上り、湿った空気に温もりが広がっていった。
「……なあ、テテポ」
 アワは焚き火の揺らめく炎越しに問いかけた。