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第12話 とある村の異変

ー/ー



――今より七年前。

 ここ、祥の都は代々良き藩主の元、この数年平穏な時を送っている。前藩主、坂本典久(さかもとのりひさ)は戦も強いがそれ以上に、政治と根回しに優れた人物であった。その為、必要な戦いは躊躇わないが、不要と思えば同盟なりを結んで和睦する。彼の手腕もあって、この祥の国は穏やかなのだ。

 田中幸正もまた、典久に見いだされた武将であった。
 元はしがない侍大将の倅であったが、田中は賢かった。冷静に辺りを見て判断をし、無理と思えば引く。そうした田中の賢さを、典久は買って小姓として取り立てたのだ。
 小姓として典久の側につき、多くの事を学ぶ田中は同時にその息子、義尚(よしたか)とも親しくなった。共に馬鹿な事もしたし、喧嘩もした。典久がそれを許したからだ。
 争いが起り、初陣の際も義尚と共に戦場を駆けた。

 やがて典久が老いて隠居し、義尚が殿となっても、田中は変わらぬ忠誠をこの国と坂本家へと向けている。


 それは、徐々に季節が夏へと向かい始めるのを肌で感じる、そんな季節の事だった。
 田中は珍しく城に呼び出されていた。平城である義尚の居城へと登城し、謁見用の広間へと向かう。そこには一段高い場所に座る義尚と、この場には不相応な身なりの男が田中を待っていた。

「ただ今参りました、殿」
「すまないな、幸正。少し、秘密の話だ」

 表情を僅かに崩し親しげな声で語りかけた主に、田中は内心嫌なものを感じる。何やら面倒ごとがある。そういう印象を受けたのだ。

「まず先に、こちらを紹介しよう。二つ先の町の者で、弥兵衛(やべえ)だ」

 よれた着物の裾をたくし上げ、股引の見える男は慌てて田中へと頭を下げる。それに、田中も視線だけで頷いた。

「それで、何がありました殿。この者と関わるのですか?」

 単刀直入に問うと、義尚は苦笑する。そして確かに頷いた。

「魔物が、出たかもしれない」
「魔物、ですか?」

 唐突に出たその言葉に、田中は面食らって思わず問い返してしまった。

 魔物というのは、人だった者が未練や憎しみから歪み、人ならざるものになった、その総称だ。
 人は強い憎しみや悲しみ、怨念、未練を残すとあの世に逝けず留まり、魂が歪んで変容し、魔物という恐ろしい化け物になるそうだ。その殆どは人を食らい、殺戮の限りを尽くす。
 これを鎮めるのは容易ではなく、徳を積んだ高僧や僧兵がかり出されることもあると聞く。屈強な武将が仕留めたという話も伝わっているが、正直日常とは切り離されたもののように感じてしまう。

 そんな物の名が義尚の口から出た事に違和感がある。この人物は父典久に似て聡明で、かつ信心深くは無い。非日常の化け物をそう簡単に信じて側近に相談するほど愚かではないのだ。

「三日程前、村に一人の男が酷い有様で転がり込んできたそうだ。胸も背も裂け、片目も潰されたその男は町から近い村の男で、助けた町の者にひたすら、『魔物が出た』と繰り返しているという。男の言う事には、村人の一人が突然魔物と化して村人を次々殺したのだそうだ」

 にわかには信じがたい。田中は弥兵衛へと視線を向けると、彼は畏まって頭を下げたまま口を開いた。

「坊さんの話じゃ、その男の傷は人がつけたもんでねぇと。でっけぇ獣の爪痕みたいだと言って。それに、普通じゃないんだ。その男の傷が見る間に黒くなって、毎日いでぇと泣き叫んで。とにかく、気味がわるいんで」
「少し気になる。そこでお前に、事件を調べてもらいたい」
「調べる、と言いますと?」
「事件の詳細は分からないが、どうやら村で何かあったことは確からしい。お前は賢いし強い。現場に行き、話を聞いて何があったのかを確かめてもらいたい。もしも盗賊などであれば改めて討伐の兵を起こすし、本当に魔物であれば対策を考えねばならない」

 義尚の命に、田中は多少難色を示した。骨の折れる重労働を押しつけられてしまったからだ。

「魔物であれば私も相手をしたことがありません。食われてしまうかもしれませんよ?」

 そんな事を言ってみたが、義尚は目を丸くした後大いに笑って、「それはないな」とあっけらかんと言ってのけた。

◇◆◇

 旅の準備をして翌日、田中は弥兵衛を連れて彼の町へと向かった。早くに出て、その日の夜更けに到着した町は宿場であり湯治場だというのに硬く門を閉じて余所者を入れないようにしている。田中も弥兵衛を伴って、かつ義尚の書状を持っていなければ入れてもらえなかったかもしれない。

 弥兵衛の案内でそのまま逃げ込んだ男がいるという町の寺へと向かうと、僧侶は快く迎えてくれた。

「ご足労頂き、有り難うございます田中様」
「それは構わないが、いつもこんなに硬く門を閉じているのか? ここは湯治場だろ」

 この町は温泉が涌く。その為近隣の町などからも人がくるし、特に傷にいいとされて古傷を癒やしに他藩からくる者もいる。夜が更けてもそこそこ賑やかだと記憶しているのだが、今は人が出歩く様子がない。
 寺の僧侶は困ったように眉を寄せ、首を横に振った。

「皆、恐れておりましてね。その……」
「魔物、ですか?」

 口にすると僧侶は静かに頷きながらも唇に人差し指を当てた。

「名は呼びます。あまり、口にされない方が宜しいかと」

 僧侶の言葉に田中は大人しく口をつぐんだ。

「あれは夜に活発になると言われておりましてな。故に夜は硬く門を閉じ、家に引きこもっております」
「そういうものか」
「それほど恐れているのですよ。特にあのような者を見ては、仕方の無い事かと」

 そう言いながら僧侶が足を止めたのは、寺の中でも奥まった一室だった。
 部屋に入るとぼんやりと行灯の明かりが見える。その中に、全身を包帯で巻かれた男がいた。胸や目に包帯を巻かれた男は苦しげに息をして、虚ろな視線を投げている。
 そしてこの部屋は、不快な臭いが充満していた。肉や魚が腐ったような、胃がムカムカする臭いだ。

「……生きながら、腐っていくようなのです」

 僧侶の呟きに、田中は目を見開いた。想像するだけで恐ろしく、皮膚の下がムズムズする。人が生きながら腐るなど、恐ろしくて叫びたくなる。

 僧侶は部屋に入り、男の側に座った。田中も覚悟を決めてそれに倣った。

「具合はどうだ?」

 僧侶の声に、男は虚ろながらも頭を動かす。そして田中を見て、涙を流した。

「こちらは都のお侍さんだ。お前が見たものを、すまないがもう一度教えてくれるか?」

 僧侶の言葉に、男の唇が僅かに動く。艶を失ったひび割れた唇が、苦しいだろうが言葉を発する。

「与助(よすけ)が…………化けもんになっちまったぁ…………」

 具体的な名前が出て、田中は多少驚いた。魔物というともっと得体の知れない、幻のようなものだと思っていた。どこの誰かも分からない、例えば深い森の中で不意に感じる不気味な空気のような、そんな実体のないものと思っていたのだ。

「みんな、死んじまって…………与助がぁ……」
「……これの繰り返しなのです」

 僧侶が項垂れて首を横に降る。そして男の肩をそっと叩き、眠るようにと促して部屋を出た。

 空き部屋に場を移した田中に、僧侶はこれまで分かっている事を伝えた。

「あの男の村はここからそう離れておりませんでな、明るくなって人をやったんですが……酷い有様だったようです」
「具体的には」
「……この世の地獄を見たと。男も女も、赤子も老人も皆、肉を裂かれ食いちぎられて倒れ伏し、家の壁などには血の跡の他、大きな爪痕も残っていたそうです」
「…………」

 田中も、この世の地獄と思った光景を何度か見た。戦場は常にそのようなものだったと思う。
 己の信念を胸にした者、もしくはただ従うしかなかった者。そういう者の亡骸が転がる光景は、戦いの高揚感を一気に冷ましていく。虚しいと、思えてしまう光景だ。

「犯人はその、与助という男なのか?」
「それは、我々にはなんとも。その場に生きた者はおりませんで」
「あの男の言葉しかないんだな」
「その通りです」
「……あの男は、長くないな?」
「はい、残念ながら。傷口から腐って、徐々に広がっております。どうする事もできません」

 僧侶の言葉に、田中も先ほどの臭いを思い出してまた腹がムカムカする感じがした。

「明日、この目で確かめてみたい。案内をお願いできるか」
「弥兵衛を出しましょう」
「頼む」

 それで、この夜は終いとなった。

◇◆◇

 翌日、弥兵衛に案内されたのは森の中へと踏み入った小さな村だった。朝方に出たと言うのに到着したのは日も高い時間だった。

 村には簡単な門があったが、獣よけ程度だろう。そこを開けた先は、思わず足を踏み入れる事を躊躇うものであった。
 まず、空気が重い。生ぬるい空気が肌を撫で、纏わり付いて離れない。しかもその空気はどこか生臭く、足下は泥沼に足を突っ込んでいるような重さと不快感がある。

「……これでも大分、ましになったんですよ」

 弥兵衛がそう、田中に言う。最初踏み込んだときは遺体が転がったままだったらしい。あの町の若い男らはその遺体を集め、櫓を組んで火葬にしたそうだ。魔物に殺された遺体は魔物を呼ぶとかで、火葬にするそうなのだ。

 村に踏み入ると、確かに地獄の痕跡が見える。土に染みこんだ血の跡、壁に飛び散った飛沫、草の色。どれもが時間が経って赤黒く変色している。壁には確かに大きな爪痕がある。それは刀でつけたものとは違う。
 言うなれば、熊の爪痕に似ている気もするが……それよりもずっと爪が大きく跡が深い。よほど手が大きくなければ、爪が長くなければこんな傷、つかないだろう。

 本当に、異形の仕業なのかもしれない。第一野の獣が何の理由で村一つを滅ぼすような殺戮をする。これが食料の乏しい冬だというならまだ分かるが、今は初夏。山にも川にも奴らの食料は豊富にある。野の獣だって理由なく人に近づきたいわけではない。案外臆病なのだから。

 それでも何か無いかと探してみた。盗賊や夜盗という可能性もあるのだから。
 だが……残された家を探しても家捜しの痕跡はない。荒れているが、探したのとは違う。ただ暴れた痕跡しかない。
 一番大きな村長の家を見るとお勝手には食べ物が残っているし、箪笥の中には金子が残っていた。
 盗賊や夜盗が食料や金を持ち出さないわけがない。ここを襲ったものは、そういうものに興味がないのだろう。

 なんとすべきか。
 田中が困って村長宅を出るとガサリと、不意に草を踏む音がして弥兵衛と二人足を止めた。顔を見合わせ、物陰に隠れる。ガサッ、ザリッと草を踏み、地を踏む音は徐々にこちらへと近づいてくる。
 こんな場所に誰が近づくのか。息を殺し、田中は腰の刀に手をかけた。

 ガサッ、ガサッ、ザッ、ザリッ……

 音は確かに近づいて来る。心臓が痛くなる緊張感というのは、ここしばらく感じていなかった。自然と浅くなる息を心持ち静かに。
 やがて草を分けるような音がなくなり、土を踏む音だけになった。

「酷い有様ですね、ヨリ様」

 ヨリ様?

 確かに聞こえる声は人のものだ。確かにそういう温かみや重み、存在感がある。

「不穏な空気を感じてきてはみましたが……手遅れだったようですね」

 次ぎに響いた声は男のものか、女のものか。性別というものを判断するのに困る声音だが、これも生きている人間のものと分かる。

 物陰からそっと様子を伺うと、そこには確かに人間だろうが、人間らしからぬ雰囲気の者達が立っていた。

 一人は腰までの白髪に色の白い肌、ほっそりと線が細く、白地の着物を着ている。
 もう一人は長身で体躯が良く、短い黒髪と紅い瞳の表情豊かそうな男だった。その男の腰には立派な太刀があり、戦う者だと直ぐに分かる。
 が、明らかに人間だ。それだけはその存在感から分かる。

 不意に、白髪の男が田中の方へと向いた。明らかな意志を持ってこちらを見ていると分かるが…………見えるはずがない。男の目は開いていない。なのにしっかりこちらを向いている。

「おや、先客のようですね。しかも、お侍様のようです」
「!」

 何故分かる、見えていないのに。

 田中は驚愕するが、こうなっては隠れる意味はない。素直に姿を現すと、黒髪の男は少し緊張したように警戒した。

「私は祥の都の藩主、坂本義尚様が家臣、田中幸正である。旅の者、名と目的を改める」

 固い声で伝えると、黒髪の男はスッと姿勢を正す。まだ警戒は解いていないが、一応は聞く耳を持つようだ。
 一方の白髪の男は表情が変わらない。薄く綺麗な笑みを浮かべたまま、随分と品良く一礼してみせた。

「語り部の、ヨリと申します。こちらは私の用心棒で、キョウと申します。ここに村があると聞いて参りましたが……どうやら、過去の事となってしまったようですね」

 この場の空気にそぐわない、ゆったりとした声。田中はヨリから目が離せなかった。それは怪しく、妖艶で、禍々しい。そんな空気を感じたからかもしれない。

 これが、語り部ヨリとその相棒キョウ、そして田中の出会いであった。


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――今より七年前。
 ここ、祥の都は代々良き藩主の元、この数年平穏な時を送っている。前藩主、坂本典久《さかもとのりひさ》は戦も強いがそれ以上に、政治と根回しに優れた人物であった。その為、必要な戦いは躊躇わないが、不要と思えば同盟なりを結んで和睦する。彼の手腕もあって、この祥の国は穏やかなのだ。
 田中幸正もまた、典久に見いだされた武将であった。
 元はしがない侍大将の倅であったが、田中は賢かった。冷静に辺りを見て判断をし、無理と思えば引く。そうした田中の賢さを、典久は買って小姓として取り立てたのだ。
 小姓として典久の側につき、多くの事を学ぶ田中は同時にその息子、義尚《よしたか》とも親しくなった。共に馬鹿な事もしたし、喧嘩もした。典久がそれを許したからだ。
 争いが起り、初陣の際も義尚と共に戦場を駆けた。
 やがて典久が老いて隠居し、義尚が殿となっても、田中は変わらぬ忠誠をこの国と坂本家へと向けている。
 それは、徐々に季節が夏へと向かい始めるのを肌で感じる、そんな季節の事だった。
 田中は珍しく城に呼び出されていた。平城である義尚の居城へと登城し、謁見用の広間へと向かう。そこには一段高い場所に座る義尚と、この場には不相応な身なりの男が田中を待っていた。
「ただ今参りました、殿」
「すまないな、幸正。少し、秘密の話だ」
 表情を僅かに崩し親しげな声で語りかけた主に、田中は内心嫌なものを感じる。何やら面倒ごとがある。そういう印象を受けたのだ。
「まず先に、こちらを紹介しよう。二つ先の町の者で、弥兵衛《やべえ》だ」
 よれた着物の裾をたくし上げ、股引の見える男は慌てて田中へと頭を下げる。それに、田中も視線だけで頷いた。
「それで、何がありました殿。この者と関わるのですか?」
 単刀直入に問うと、義尚は苦笑する。そして確かに頷いた。
「魔物が、出たかもしれない」
「魔物、ですか?」
 唐突に出たその言葉に、田中は面食らって思わず問い返してしまった。
 魔物というのは、人だった者が未練や憎しみから歪み、人ならざるものになった、その総称だ。
 人は強い憎しみや悲しみ、怨念、未練を残すとあの世に逝けず留まり、魂が歪んで変容し、魔物という恐ろしい化け物になるそうだ。その殆どは人を食らい、殺戮の限りを尽くす。
 これを鎮めるのは容易ではなく、徳を積んだ高僧や僧兵がかり出されることもあると聞く。屈強な武将が仕留めたという話も伝わっているが、正直日常とは切り離されたもののように感じてしまう。
 そんな物の名が義尚の口から出た事に違和感がある。この人物は父典久に似て聡明で、かつ信心深くは無い。非日常の化け物をそう簡単に信じて側近に相談するほど愚かではないのだ。
「三日程前、村に一人の男が酷い有様で転がり込んできたそうだ。胸も背も裂け、片目も潰されたその男は町から近い村の男で、助けた町の者にひたすら、『魔物が出た』と繰り返しているという。男の言う事には、村人の一人が突然魔物と化して村人を次々殺したのだそうだ」
 にわかには信じがたい。田中は弥兵衛へと視線を向けると、彼は畏まって頭を下げたまま口を開いた。
「坊さんの話じゃ、その男の傷は人がつけたもんでねぇと。でっけぇ獣の爪痕みたいだと言って。それに、普通じゃないんだ。その男の傷が見る間に黒くなって、毎日いでぇと泣き叫んで。とにかく、気味がわるいんで」
「少し気になる。そこでお前に、事件を調べてもらいたい」
「調べる、と言いますと?」
「事件の詳細は分からないが、どうやら村で何かあったことは確からしい。お前は賢いし強い。現場に行き、話を聞いて何があったのかを確かめてもらいたい。もしも盗賊などであれば改めて討伐の兵を起こすし、本当に魔物であれば対策を考えねばならない」
 義尚の命に、田中は多少難色を示した。骨の折れる重労働を押しつけられてしまったからだ。
「魔物であれば私も相手をしたことがありません。食われてしまうかもしれませんよ?」
 そんな事を言ってみたが、義尚は目を丸くした後大いに笑って、「それはないな」とあっけらかんと言ってのけた。
◇◆◇
 旅の準備をして翌日、田中は弥兵衛を連れて彼の町へと向かった。早くに出て、その日の夜更けに到着した町は宿場であり湯治場だというのに硬く門を閉じて余所者を入れないようにしている。田中も弥兵衛を伴って、かつ義尚の書状を持っていなければ入れてもらえなかったかもしれない。
 弥兵衛の案内でそのまま逃げ込んだ男がいるという町の寺へと向かうと、僧侶は快く迎えてくれた。
「ご足労頂き、有り難うございます田中様」
「それは構わないが、いつもこんなに硬く門を閉じているのか? ここは湯治場だろ」
 この町は温泉が涌く。その為近隣の町などからも人がくるし、特に傷にいいとされて古傷を癒やしに他藩からくる者もいる。夜が更けてもそこそこ賑やかだと記憶しているのだが、今は人が出歩く様子がない。
 寺の僧侶は困ったように眉を寄せ、首を横に振った。
「皆、恐れておりましてね。その……」
「魔物、ですか?」
 口にすると僧侶は静かに頷きながらも唇に人差し指を当てた。
「名は呼びます。あまり、口にされない方が宜しいかと」
 僧侶の言葉に田中は大人しく口をつぐんだ。
「あれは夜に活発になると言われておりましてな。故に夜は硬く門を閉じ、家に引きこもっております」
「そういうものか」
「それほど恐れているのですよ。特にあのような者を見ては、仕方の無い事かと」
 そう言いながら僧侶が足を止めたのは、寺の中でも奥まった一室だった。
 部屋に入るとぼんやりと行灯の明かりが見える。その中に、全身を包帯で巻かれた男がいた。胸や目に包帯を巻かれた男は苦しげに息をして、虚ろな視線を投げている。
 そしてこの部屋は、不快な臭いが充満していた。肉や魚が腐ったような、胃がムカムカする臭いだ。
「……生きながら、腐っていくようなのです」
 僧侶の呟きに、田中は目を見開いた。想像するだけで恐ろしく、皮膚の下がムズムズする。人が生きながら腐るなど、恐ろしくて叫びたくなる。
 僧侶は部屋に入り、男の側に座った。田中も覚悟を決めてそれに倣った。
「具合はどうだ?」
 僧侶の声に、男は虚ろながらも頭を動かす。そして田中を見て、涙を流した。
「こちらは都のお侍さんだ。お前が見たものを、すまないがもう一度教えてくれるか?」
 僧侶の言葉に、男の唇が僅かに動く。艶を失ったひび割れた唇が、苦しいだろうが言葉を発する。
「与助《よすけ》が…………化けもんになっちまったぁ…………」
 具体的な名前が出て、田中は多少驚いた。魔物というともっと得体の知れない、幻のようなものだと思っていた。どこの誰かも分からない、例えば深い森の中で不意に感じる不気味な空気のような、そんな実体のないものと思っていたのだ。
「みんな、死んじまって…………与助がぁ……」
「……これの繰り返しなのです」
 僧侶が項垂れて首を横に降る。そして男の肩をそっと叩き、眠るようにと促して部屋を出た。
 空き部屋に場を移した田中に、僧侶はこれまで分かっている事を伝えた。
「あの男の村はここからそう離れておりませんでな、明るくなって人をやったんですが……酷い有様だったようです」
「具体的には」
「……この世の地獄を見たと。男も女も、赤子も老人も皆、肉を裂かれ食いちぎられて倒れ伏し、家の壁などには血の跡の他、大きな爪痕も残っていたそうです」
「…………」
 田中も、この世の地獄と思った光景を何度か見た。戦場は常にそのようなものだったと思う。
 己の信念を胸にした者、もしくはただ従うしかなかった者。そういう者の亡骸が転がる光景は、戦いの高揚感を一気に冷ましていく。虚しいと、思えてしまう光景だ。
「犯人はその、与助という男なのか?」
「それは、我々にはなんとも。その場に生きた者はおりませんで」
「あの男の言葉しかないんだな」
「その通りです」
「……あの男は、長くないな?」
「はい、残念ながら。傷口から腐って、徐々に広がっております。どうする事もできません」
 僧侶の言葉に、田中も先ほどの臭いを思い出してまた腹がムカムカする感じがした。
「明日、この目で確かめてみたい。案内をお願いできるか」
「弥兵衛を出しましょう」
「頼む」
 それで、この夜は終いとなった。
◇◆◇
 翌日、弥兵衛に案内されたのは森の中へと踏み入った小さな村だった。朝方に出たと言うのに到着したのは日も高い時間だった。
 村には簡単な門があったが、獣よけ程度だろう。そこを開けた先は、思わず足を踏み入れる事を躊躇うものであった。
 まず、空気が重い。生ぬるい空気が肌を撫で、纏わり付いて離れない。しかもその空気はどこか生臭く、足下は泥沼に足を突っ込んでいるような重さと不快感がある。
「……これでも大分、ましになったんですよ」
 弥兵衛がそう、田中に言う。最初踏み込んだときは遺体が転がったままだったらしい。あの町の若い男らはその遺体を集め、櫓を組んで火葬にしたそうだ。魔物に殺された遺体は魔物を呼ぶとかで、火葬にするそうなのだ。
 村に踏み入ると、確かに地獄の痕跡が見える。土に染みこんだ血の跡、壁に飛び散った飛沫、草の色。どれもが時間が経って赤黒く変色している。壁には確かに大きな爪痕がある。それは刀でつけたものとは違う。
 言うなれば、熊の爪痕に似ている気もするが……それよりもずっと爪が大きく跡が深い。よほど手が大きくなければ、爪が長くなければこんな傷、つかないだろう。
 本当に、異形の仕業なのかもしれない。第一野の獣が何の理由で村一つを滅ぼすような殺戮をする。これが食料の乏しい冬だというならまだ分かるが、今は初夏。山にも川にも奴らの食料は豊富にある。野の獣だって理由なく人に近づきたいわけではない。案外臆病なのだから。
 それでも何か無いかと探してみた。盗賊や夜盗という可能性もあるのだから。
 だが……残された家を探しても家捜しの痕跡はない。荒れているが、探したのとは違う。ただ暴れた痕跡しかない。
 一番大きな村長の家を見るとお勝手には食べ物が残っているし、箪笥の中には金子が残っていた。
 盗賊や夜盗が食料や金を持ち出さないわけがない。ここを襲ったものは、そういうものに興味がないのだろう。
 なんとすべきか。
 田中が困って村長宅を出るとガサリと、不意に草を踏む音がして弥兵衛と二人足を止めた。顔を見合わせ、物陰に隠れる。ガサッ、ザリッと草を踏み、地を踏む音は徐々にこちらへと近づいてくる。
 こんな場所に誰が近づくのか。息を殺し、田中は腰の刀に手をかけた。
 ガサッ、ガサッ、ザッ、ザリッ……
 音は確かに近づいて来る。心臓が痛くなる緊張感というのは、ここしばらく感じていなかった。自然と浅くなる息を心持ち静かに。
 やがて草を分けるような音がなくなり、土を踏む音だけになった。
「酷い有様ですね、ヨリ様」
 ヨリ様?
 確かに聞こえる声は人のものだ。確かにそういう温かみや重み、存在感がある。
「不穏な空気を感じてきてはみましたが……手遅れだったようですね」
 次ぎに響いた声は男のものか、女のものか。性別というものを判断するのに困る声音だが、これも生きている人間のものと分かる。
 物陰からそっと様子を伺うと、そこには確かに人間だろうが、人間らしからぬ雰囲気の者達が立っていた。
 一人は腰までの白髪に色の白い肌、ほっそりと線が細く、白地の着物を着ている。
 もう一人は長身で体躯が良く、短い黒髪と紅い瞳の表情豊かそうな男だった。その男の腰には立派な太刀があり、戦う者だと直ぐに分かる。
 が、明らかに人間だ。それだけはその存在感から分かる。
 不意に、白髪の男が田中の方へと向いた。明らかな意志を持ってこちらを見ていると分かるが…………見えるはずがない。男の目は開いていない。なのにしっかりこちらを向いている。
「おや、先客のようですね。しかも、お侍様のようです」
「!」
 何故分かる、見えていないのに。
 田中は驚愕するが、こうなっては隠れる意味はない。素直に姿を現すと、黒髪の男は少し緊張したように警戒した。
「私は祥の都の藩主、坂本義尚様が家臣、田中幸正である。旅の者、名と目的を改める」
 固い声で伝えると、黒髪の男はスッと姿勢を正す。まだ警戒は解いていないが、一応は聞く耳を持つようだ。
 一方の白髪の男は表情が変わらない。薄く綺麗な笑みを浮かべたまま、随分と品良く一礼してみせた。
「語り部の、ヨリと申します。こちらは私の用心棒で、キョウと申します。ここに村があると聞いて参りましたが……どうやら、過去の事となってしまったようですね」
 この場の空気にそぐわない、ゆったりとした声。田中はヨリから目が離せなかった。それは怪しく、妖艶で、禍々しい。そんな空気を感じたからかもしれない。
 これが、語り部ヨリとその相棒キョウ、そして田中の出会いであった。