表示設定
表示設定
目次 目次




17話 芋虫VS蜘蛛 その3

ー/ー



「行くぞ、二人とも!」

 アラクネクイーンを前に、俺は声を張り上げた。

 睨み合いは悪手だ。時間を与えれば与えるほど、あいつの土俵に引きずり込まれる。

「シャネル、左から回り込め! エルメスは正面から撃ち続けろ! 注意を引きつけるんだ!」
「……分かった」
「撃ち続ければいいんですのね」

 シャネルの気配が消える。エルメスの詠唱が空気を震わせる。

 そして――

「サンダーボルトッ!」

 閃光が一直線に走り、アラクネクイーンの胴を正確に撃ち抜いた。轟音。弾ける雷光。さっきまでのアラクネなら、確実に吹き飛んでいた威力だ。

 だが。

「……くすぐったいわね」

 ほんのわずか、眉が動いただけだった。

「っ……!」

 エルメスの呼吸が、わずかに乱れる。

 次の瞬間、左の死角から三本の矢が滑り込んだ。首筋、脇腹、膝裏――急所を寸分違わず射抜く軌道。

 アラクネクイーンは振り返りもしない。腕を軽く振る。それだけで、糸が矢を絡め取り、空中に縫い止めた。

「……ッ」

 シャネルの息を呑む気配が伝わってくる。

「面白い動きをするじゃない」

 ゆっくりと、視線だけが横へ滑る。

「でも――遅い」

 糸が弾けた。絡め取った矢が反転し、今度はシャネルへと牙を剥く。

「くっ!」

 紙一重で躱す。だが一本が腕を掠めた。血が細く散る。

「シャネル!」
「問題ない」

 足運びが、ほんの僅かに鈍っている。

 エルメスが追撃を叩き込む。間断なく、連続で。雷光、爆ぜる魔力、圧縮された衝撃。だがアラクネクイーンは避けない。薄く展開された魔力の膜が、すべてを受け止め霧散させる。

「魔法使いとしては及第点ね」

 興味を失ったように呟く。

「でも――"観察対象"としては、もう十分かしら」

 じわじわと、押し込まれていく。エルメスの詠唱が荒れ、魔力の収束が甘くなる。シャネルの動きも翳り始めた。足の置き方が半拍ずれるたびに、被弾のリスクが跳ね上がっていく。

 それでもアラクネクイーンには、傷一つつかない。

 五分。たったそれだけの時間で、戦況は完全に詰みへと近づいていた。

「そろそろ飽きてきたわ」

 指先が、ほんの僅かに動く。

 それだけだった。

 ざわ、と空気が変わる。俺の支配下にあるはずの芋虫たちが、一斉に動きを止めた。命令を無視したわけじゃない。そもそも命令を受け取る状態ですらない。本能が、強制的に体を伏せさせている。

「……っ」

 繋がりが、断ち切られている。積み上げてきたものが、指一本の動作で踏み潰された。

「もう、いいわね。……つまらない」

 アラクネクイーンが歩き出す。ゆっくりと、確実に。

 このままでは終わる。間違いなく、全滅だ。

「シャネル」

 静かに呼ぶ。肉体ではなく、その奥に残っているはずの意識へ向けて。

「……なに」

「一個、謝っておかないといけないことがある」

 動きが、わずかに止まった。

「……何をするつもり?」

 俺は答えず、意識を内側へ潜らせる。赤パイセンの胃の奥。ずっと温存していた"それ"は、腐敗が進み限界に近い。使えるのは、もう一度きりだ。

「ごめんな、シャネル」

 芋虫たちはもう動けない。アラクネクイーンの圧に、本能が完全に屈服している。指示を出しても届かない。ならば、俺が直接動くしかない。

 俺は意識を、近くで伏せていた一匹の赤パイセンへと移した。その体を動かし、這い出る。本体の隣まで移動し――腹の底から、それを押し出した。

 ぐちゃり、と湿った音が鳴った。

 赤パイセンの口内から、何かが這い出てくる。人の形をしている。だが、人ではない。肌の色が違う。繋ぎ目がある。腕の長さが合っていない。首の角度が、あり得ない方向へ歪んでいる。

 五つの死体を無理やり繋ぎ合わせた、歪な一体。

「……ぁ」

 喉が鳴る。

 朝焼けの翼――マルジェル、ルーベリオン、セシリカ、ダッチ、ユグルド。その成れの果てを継ぎ接ぎにして作り上げたもの。対冒険者用に仕込んでいた、最後の兵器。

「……すまん」

 視線を向ける。

 シャネルは、無表情のまま立っている。

 だが――涙が、頬を伝っていた。

 叫ぼうとしているのかもしれない。だが寄生虫が、その声帯すら許さない。流れる涙だけが、内側にいる彼女の唯一の叫びだった。

 寄生によって意識は封じているはずだ。今ここにいるのは俺の操る個体のはず。それでも、内側でまだ見ているのかもしれない。全部。だから、本当は見せたくなかった。

「……行くぞ」

 口ではそう言いながら、触手はすでに動いていた。迷いも躊躇いも、そこには一切ない。生き残るために必要な手を、ただ最短で打つだけだ。

 俺は最後の手札――アサヤケへ、命令を下した。


 ◆


「――――ッ」

 アサヤケが、動いた。

 踏み込みは軽い。だが次の瞬間、間合いが消える。ルーベリオンの脚力でアラクネクイーンの懐へ滑り込み、片手剣を最短距離で振り抜く。振りかぶりもない。

「速いわね。でも――」

 糸が走る。刃のように張り巡らされた線が、進路を塞ぐ。

 避けない。正面から突っ込む。

 肩口から腕にかけて深く裂け、胴にも走る。骨が見えるほどの傷だ。だが止まらない。むしろ踏み込みが深くなる。千切れかけた腕で剣を振り抜く。マルジェルの火力が、防御越しに叩き込まれた。

「……なに、それ」

 アラクネクイーンの声が、わずかに揺れる。

 今度は絡みつく糸が胴と脚を締め上げる。だが肉が内側から蠢いた。セシリカの回復が拘束の最中に走り、裂けた箇所が繋がっていく。同時に体勢を無理やり捻る。通常なら骨が折れる角度。だがダッチの耐久がそれを成立させる。

 糸を足場にして、さらに一歩踏み込む。距離が消える。剣が至近で振り抜かれた。

「……っ」

 衝撃が通る。アラクネクイーンの体が、ほんの僅かに後ろへ揺れた。

 間髪入れず、アサヤケが消える。後方へ跳んだのではない。途中で軌道が変わる。重心移動が不自然に切り替わる。次の瞬間には、背後にいる。

 振り向くより早く、二撃目。横薙ぎの一閃。さらに三撃目。斬撃の軌道が途中で変わる。人間の剣筋じゃない。だが、すべてが最適解だ。

「気持ち悪いわね、それ」

 アラクネクイーンの視線が細くなる。空間が軋む。広範囲に糸が展開される。

 アサヤケは退かない。踏み込む。無数の糸が体を切り刻む。脚が断たれ、片腕が飛ぶ。血と肉片が散る。それでも止まらない。残った脚で無理やり跳び、着地の衝撃で肉がさらに裂けても構わず前へ出る。再生が走る。動くために必要な箇所だけを優先して繋ぎ直しながら、前へ。

 そのとき、アサヤケの口が不自然に開いた。

 声が、重なる。

「――そこ」「――まだいける」「――耐えろ」「――癒す」「――斬れ」

 同時に加速する。詠唱はない。だが剣に魔力が乗る。ユグルドの強化が振り抜きと完全に同期し、踏み込み、斬撃、加速、再生、防御――すべてが一拍のズレもなく重なった。

 次の一撃が、これまでで最も深く入った。

 アラクネクイーンが、初めて後ろへ下がった。明確な後退。

「……そういうこと」

 低く呟く。

「人間を繋ぎ合わせている。一体で複数の動きを同時に行う。……イかれてるわね」

 口元が歪む。

「面白いじゃない」

 空気が、さらに重くなる。だが――均衡が崩れたのは確かだった。

 張り巡らされた糸が、ただの障害ではなく"殺意そのもの"へと変わる。密度が違う。鋭さが違う。空間そのものが刃になったかのように、踏み込めばその分だけ削り取られる。

 だが――アサヤケは止まらない。

 いや、止まれない。

 すでに限界は越えている。再生は追いついていない。繋ぎ合わせた肉体の各所が、動くたびに悲鳴を上げている。それでも踏み込む。躱さない。避ければ崩れる。ならば前へ出るしかない。

 糸が肩を裂き、腹を抉り、脚を断つ。

 それでも一歩。

 肉が裂ける音と同時に、内側から無理やり繋ぎ直す。完全な再生ではない。動くために必要な最低限だけを優先し、他を切り捨てる。歪な最適化。それでも前に出る。

「……っ、いい加減に――」

 アラクネクイーンが腕を振るう。

 空間を埋め尽くす糸の奔流。

 回避不能。

 だがアサヤケは、そのまま踏み込んだ。

 全身が切り刻まれる。皮膚が裂け、筋肉が断たれ、骨が露出する。それでも速度は落ちない。むしろ加速する。すべてを代償にした踏み込み。

 そのまま――抱きつくように、アラクネクイーンへと突っ込んだ。

「――なに?」

 初めて、明確な困惑が浮かぶ。

 アサヤケの腕が回る。千切れかけの腕で、それでも強引に絡みつく。脚は半ば崩れながらも、絡みつくように支点を作る。体の内部から、まだ使える筋繊維を引きずり出し、無理やり固定する。

 糸がさらに食い込む。拘束しようとする力と、拘束し返す力がぶつかり合う。

 アサヤケの肉体が、音を立てて崩れ始める。

 だが――離さない。

「――シャネル!」

 叫ぶ。

 応答はない。だが――気配は、ある。

 揺れている。迷っている。見ている。

 全部を。

「撃て」

 短く、押し切る。

「今だ」

 だが――動かない。

 シャネルの弓が、震えている。矢を番えたまま、引き絞れない。当然だ。目の前にいるのは、仲間だった者たちの成れの果てだ。

 その一瞬の躊躇が、致命的だった。

 アラクネクイーンが、拘束を引き剥がし始める。

 アサヤケの腕が軋む。千切れかけの筋肉が、限界を超えて引き伸ばされる。それでも離さない。だが、じりじりと押し返されていく。

「離れなさいと言ったわ」

 低く、冷たい声。

 糸が爆ぜる。アサヤケの胴が深く裂ける。骨が露出し、内側が見える。それでも腕だけは離さない。

 だが――限界だ。

 あと一息で、拘束が解ける。

「シャネル!」

 もう一度、叫ぶ。

 今度は命令じゃない。

 懇願だ。

 ほんの一瞬の静寂。

 シャネルの瞳が、変わった。

 魔力が灯る。あれは千里眼だ。

 何かを、見ている。

 アサヤケに拘束され続けたアラクネクイーンの体のどこかを、俺には見えない何かを、正確に射抜こうとしている。

 震えが、消えた。

 次の瞬間、空気が裂けた。

 一矢。

 それだけが、まっすぐに走った。

 無駄のない軌道。迷いを削ぎ落とした結果としての直線。すべてを見た上で、それでも選んだ一撃。

 アラクネクイーンの視線が、わずかに動く。

 だが遅い。

 矢は、その中心を正確に射抜いた。

「――ぁ」

 かすかな、声。

 だが――倒れない。

 アラクネクイーンの体が揺れる。膝をつきかける。それでも、残った力を振り絞るように、視線がシャネルへと向いた。

「……道連れに、してあげるわ」

 最後の糸が走る。

 シャネルへ向かって、一直線に。

 その瞬間。

 アサヤケが、動いた。

 もう、ほとんど形を保っていない。片腕は飛び、脚は半ば崩れている。それでも、残った体を投げ出すように、シャネルの前へ出た。

 糸が、アサヤケの胴を貫いた。

 ずぶり、と音がした。

 それでもアサヤケは、倒れなかった。

 シャネルを背に、ただそこに立っていた。

「……なに、それ」

 アラクネクイーンの声が、初めて揺れた。怒りでも嘲りでもない。純粋な、困惑だった。

「死体が、庇うの?」

 答えはなかった。

 ただ――

「――終わりですわ」

 冷たい声が、静寂を切り裂いた。

 エルメスが杖を向ける。詠唱はない。魔力だけが、静かに収束していく。

「サンダーボルト」

 閃光が走った。

 轟音もなく、ただ真っすぐに。

 アラクネクイーンの体が、光の中に倒れていく。

 静寂が戻る。

 アサヤケは、その場に立っていた。

 もう、ほとんど形を保っていない。繋ぎ合わせた肉は限界を超え、崩壊を始めている。それでも、わずかに顔を上げた。

 視線の先に、シャネルがいる。

 弓を構えたまま、動けずにいる。

 涙が、頬を伝っていた。

 アサヤケの口元が、僅かに動く。

 それが意思によるものかどうかは、分からない。

 歪に繋ぎ合わされた顔の、その一部が――笑ったように見えた。

 次の瞬間、崩れた。

 アサヤケの体が、音もなく崩壊していく。内側から焼け落ちるように、灰へと変わっていく。繋ぎ止めていた何かが、完全に尽きたのだと分かる。

 崩れ落ちるその最後まで、視線だけは外れなかった。

 やがて、それも消えた。

 最後の瞬間、俺には見えないはずのものが見えた気がした。

 五つの影。

 はっきりとした輪郭はない。ただ、そこにいた。灰になっていく中で、それぞれが別々の方向を向いていた。

 ――仲間の元へ、帰ろうとしていたのかもしれない。

 分からない。分からないが。

 その瞬間、意識の端で何かが千切れるような感覚があった。痛みとは違う。ただ、何かが終わったのだと、それだけがわかった。

 エルメスは何も言わなかった。焦げた杖を握ったまま、ただ戦場を見つめていた。あの毒舌が、今だけは出てこない。

 あとに残ったのは、灰と、沈黙だけだった。


スタンプを贈って作者を応援しよう!

次のエピソードへ進む 18話 沈黙


みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



「行くぞ、二人とも!」
 アラクネクイーンを前に、俺は声を張り上げた。
 睨み合いは悪手だ。時間を与えれば与えるほど、あいつの土俵に引きずり込まれる。
「シャネル、左から回り込め! エルメスは正面から撃ち続けろ! 注意を引きつけるんだ!」
「……分かった」
「撃ち続ければいいんですのね」
 シャネルの気配が消える。エルメスの詠唱が空気を震わせる。
 そして――
「サンダーボルトッ!」
 閃光が一直線に走り、アラクネクイーンの胴を正確に撃ち抜いた。轟音。弾ける雷光。さっきまでのアラクネなら、確実に吹き飛んでいた威力だ。
 だが。
「……くすぐったいわね」
 ほんのわずか、眉が動いただけだった。
「っ……!」
 エルメスの呼吸が、わずかに乱れる。
 次の瞬間、左の死角から三本の矢が滑り込んだ。首筋、脇腹、膝裏――急所を寸分違わず射抜く軌道。
 アラクネクイーンは振り返りもしない。腕を軽く振る。それだけで、糸が矢を絡め取り、空中に縫い止めた。
「……ッ」
 シャネルの息を呑む気配が伝わってくる。
「面白い動きをするじゃない」
 ゆっくりと、視線だけが横へ滑る。
「でも――遅い」
 糸が弾けた。絡め取った矢が反転し、今度はシャネルへと牙を剥く。
「くっ!」
 紙一重で躱す。だが一本が腕を掠めた。血が細く散る。
「シャネル!」
「問題ない」
 足運びが、ほんの僅かに鈍っている。
 エルメスが追撃を叩き込む。間断なく、連続で。雷光、爆ぜる魔力、圧縮された衝撃。だがアラクネクイーンは避けない。薄く展開された魔力の膜が、すべてを受け止め霧散させる。
「魔法使いとしては及第点ね」
 興味を失ったように呟く。
「でも――"観察対象"としては、もう十分かしら」
 じわじわと、押し込まれていく。エルメスの詠唱が荒れ、魔力の収束が甘くなる。シャネルの動きも翳り始めた。足の置き方が半拍ずれるたびに、被弾のリスクが跳ね上がっていく。
 それでもアラクネクイーンには、傷一つつかない。
 五分。たったそれだけの時間で、戦況は完全に詰みへと近づいていた。
「そろそろ飽きてきたわ」
 指先が、ほんの僅かに動く。
 それだけだった。
 ざわ、と空気が変わる。俺の支配下にあるはずの芋虫たちが、一斉に動きを止めた。命令を無視したわけじゃない。そもそも命令を受け取る状態ですらない。本能が、強制的に体を伏せさせている。
「……っ」
 繋がりが、断ち切られている。積み上げてきたものが、指一本の動作で踏み潰された。
「もう、いいわね。……つまらない」
 アラクネクイーンが歩き出す。ゆっくりと、確実に。
 このままでは終わる。間違いなく、全滅だ。
「シャネル」
 静かに呼ぶ。肉体ではなく、その奥に残っているはずの意識へ向けて。
「……なに」
「一個、謝っておかないといけないことがある」
 動きが、わずかに止まった。
「……何をするつもり?」
 俺は答えず、意識を内側へ潜らせる。赤パイセンの胃の奥。ずっと温存していた"それ"は、腐敗が進み限界に近い。使えるのは、もう一度きりだ。
「ごめんな、シャネル」
 芋虫たちはもう動けない。アラクネクイーンの圧に、本能が完全に屈服している。指示を出しても届かない。ならば、俺が直接動くしかない。
 俺は意識を、近くで伏せていた一匹の赤パイセンへと移した。その体を動かし、這い出る。本体の隣まで移動し――腹の底から、それを押し出した。
 ぐちゃり、と湿った音が鳴った。
 赤パイセンの口内から、何かが這い出てくる。人の形をしている。だが、人ではない。肌の色が違う。繋ぎ目がある。腕の長さが合っていない。首の角度が、あり得ない方向へ歪んでいる。
 五つの死体を無理やり繋ぎ合わせた、歪な一体。
「……ぁ」
 喉が鳴る。
 朝焼けの翼――マルジェル、ルーベリオン、セシリカ、ダッチ、ユグルド。その成れの果てを継ぎ接ぎにして作り上げたもの。対冒険者用に仕込んでいた、最後の兵器。
「……すまん」
 視線を向ける。
 シャネルは、無表情のまま立っている。
 だが――涙が、頬を伝っていた。
 叫ぼうとしているのかもしれない。だが寄生虫が、その声帯すら許さない。流れる涙だけが、内側にいる彼女の唯一の叫びだった。
 寄生によって意識は封じているはずだ。今ここにいるのは俺の操る個体のはず。それでも、内側でまだ見ているのかもしれない。全部。だから、本当は見せたくなかった。
「……行くぞ」
 口ではそう言いながら、触手はすでに動いていた。迷いも躊躇いも、そこには一切ない。生き残るために必要な手を、ただ最短で打つだけだ。
 俺は最後の手札――アサヤケへ、命令を下した。
 ◆
「――――ッ」
 アサヤケが、動いた。
 踏み込みは軽い。だが次の瞬間、間合いが消える。ルーベリオンの脚力でアラクネクイーンの懐へ滑り込み、片手剣を最短距離で振り抜く。振りかぶりもない。
「速いわね。でも――」
 糸が走る。刃のように張り巡らされた線が、進路を塞ぐ。
 避けない。正面から突っ込む。
 肩口から腕にかけて深く裂け、胴にも走る。骨が見えるほどの傷だ。だが止まらない。むしろ踏み込みが深くなる。千切れかけた腕で剣を振り抜く。マルジェルの火力が、防御越しに叩き込まれた。
「……なに、それ」
 アラクネクイーンの声が、わずかに揺れる。
 今度は絡みつく糸が胴と脚を締め上げる。だが肉が内側から蠢いた。セシリカの回復が拘束の最中に走り、裂けた箇所が繋がっていく。同時に体勢を無理やり捻る。通常なら骨が折れる角度。だがダッチの耐久がそれを成立させる。
 糸を足場にして、さらに一歩踏み込む。距離が消える。剣が至近で振り抜かれた。
「……っ」
 衝撃が通る。アラクネクイーンの体が、ほんの僅かに後ろへ揺れた。
 間髪入れず、アサヤケが消える。後方へ跳んだのではない。途中で軌道が変わる。重心移動が不自然に切り替わる。次の瞬間には、背後にいる。
 振り向くより早く、二撃目。横薙ぎの一閃。さらに三撃目。斬撃の軌道が途中で変わる。人間の剣筋じゃない。だが、すべてが最適解だ。
「気持ち悪いわね、それ」
 アラクネクイーンの視線が細くなる。空間が軋む。広範囲に糸が展開される。
 アサヤケは退かない。踏み込む。無数の糸が体を切り刻む。脚が断たれ、片腕が飛ぶ。血と肉片が散る。それでも止まらない。残った脚で無理やり跳び、着地の衝撃で肉がさらに裂けても構わず前へ出る。再生が走る。動くために必要な箇所だけを優先して繋ぎ直しながら、前へ。
 そのとき、アサヤケの口が不自然に開いた。
 声が、重なる。
「――そこ」「――まだいける」「――耐えろ」「――癒す」「――斬れ」
 同時に加速する。詠唱はない。だが剣に魔力が乗る。ユグルドの強化が振り抜きと完全に同期し、踏み込み、斬撃、加速、再生、防御――すべてが一拍のズレもなく重なった。
 次の一撃が、これまでで最も深く入った。
 アラクネクイーンが、初めて後ろへ下がった。明確な後退。
「……そういうこと」
 低く呟く。
「人間を繋ぎ合わせている。一体で複数の動きを同時に行う。……イかれてるわね」
 口元が歪む。
「面白いじゃない」
 空気が、さらに重くなる。だが――均衡が崩れたのは確かだった。
 張り巡らされた糸が、ただの障害ではなく"殺意そのもの"へと変わる。密度が違う。鋭さが違う。空間そのものが刃になったかのように、踏み込めばその分だけ削り取られる。
 だが――アサヤケは止まらない。
 いや、止まれない。
 すでに限界は越えている。再生は追いついていない。繋ぎ合わせた肉体の各所が、動くたびに悲鳴を上げている。それでも踏み込む。躱さない。避ければ崩れる。ならば前へ出るしかない。
 糸が肩を裂き、腹を抉り、脚を断つ。
 それでも一歩。
 肉が裂ける音と同時に、内側から無理やり繋ぎ直す。完全な再生ではない。動くために必要な最低限だけを優先し、他を切り捨てる。歪な最適化。それでも前に出る。
「……っ、いい加減に――」
 アラクネクイーンが腕を振るう。
 空間を埋め尽くす糸の奔流。
 回避不能。
 だがアサヤケは、そのまま踏み込んだ。
 全身が切り刻まれる。皮膚が裂け、筋肉が断たれ、骨が露出する。それでも速度は落ちない。むしろ加速する。すべてを代償にした踏み込み。
 そのまま――抱きつくように、アラクネクイーンへと突っ込んだ。
「――なに?」
 初めて、明確な困惑が浮かぶ。
 アサヤケの腕が回る。千切れかけの腕で、それでも強引に絡みつく。脚は半ば崩れながらも、絡みつくように支点を作る。体の内部から、まだ使える筋繊維を引きずり出し、無理やり固定する。
 糸がさらに食い込む。拘束しようとする力と、拘束し返す力がぶつかり合う。
 アサヤケの肉体が、音を立てて崩れ始める。
 だが――離さない。
「――シャネル!」
 叫ぶ。
 応答はない。だが――気配は、ある。
 揺れている。迷っている。見ている。
 全部を。
「撃て」
 短く、押し切る。
「今だ」
 だが――動かない。
 シャネルの弓が、震えている。矢を番えたまま、引き絞れない。当然だ。目の前にいるのは、仲間だった者たちの成れの果てだ。
 その一瞬の躊躇が、致命的だった。
 アラクネクイーンが、拘束を引き剥がし始める。
 アサヤケの腕が軋む。千切れかけの筋肉が、限界を超えて引き伸ばされる。それでも離さない。だが、じりじりと押し返されていく。
「離れなさいと言ったわ」
 低く、冷たい声。
 糸が爆ぜる。アサヤケの胴が深く裂ける。骨が露出し、内側が見える。それでも腕だけは離さない。
 だが――限界だ。
 あと一息で、拘束が解ける。
「シャネル!」
 もう一度、叫ぶ。
 今度は命令じゃない。
 懇願だ。
 ほんの一瞬の静寂。
 シャネルの瞳が、変わった。
 魔力が灯る。あれは千里眼だ。
 何かを、見ている。
 アサヤケに拘束され続けたアラクネクイーンの体のどこかを、俺には見えない何かを、正確に射抜こうとしている。
 震えが、消えた。
 次の瞬間、空気が裂けた。
 一矢。
 それだけが、まっすぐに走った。
 無駄のない軌道。迷いを削ぎ落とした結果としての直線。すべてを見た上で、それでも選んだ一撃。
 アラクネクイーンの視線が、わずかに動く。
 だが遅い。
 矢は、その中心を正確に射抜いた。
「――ぁ」
 かすかな、声。
 だが――倒れない。
 アラクネクイーンの体が揺れる。膝をつきかける。それでも、残った力を振り絞るように、視線がシャネルへと向いた。
「……道連れに、してあげるわ」
 最後の糸が走る。
 シャネルへ向かって、一直線に。
 その瞬間。
 アサヤケが、動いた。
 もう、ほとんど形を保っていない。片腕は飛び、脚は半ば崩れている。それでも、残った体を投げ出すように、シャネルの前へ出た。
 糸が、アサヤケの胴を貫いた。
 ずぶり、と音がした。
 それでもアサヤケは、倒れなかった。
 シャネルを背に、ただそこに立っていた。
「……なに、それ」
 アラクネクイーンの声が、初めて揺れた。怒りでも嘲りでもない。純粋な、困惑だった。
「死体が、庇うの?」
 答えはなかった。
 ただ――
「――終わりですわ」
 冷たい声が、静寂を切り裂いた。
 エルメスが杖を向ける。詠唱はない。魔力だけが、静かに収束していく。
「サンダーボルト」
 閃光が走った。
 轟音もなく、ただ真っすぐに。
 アラクネクイーンの体が、光の中に倒れていく。
 静寂が戻る。
 アサヤケは、その場に立っていた。
 もう、ほとんど形を保っていない。繋ぎ合わせた肉は限界を超え、崩壊を始めている。それでも、わずかに顔を上げた。
 視線の先に、シャネルがいる。
 弓を構えたまま、動けずにいる。
 涙が、頬を伝っていた。
 アサヤケの口元が、僅かに動く。
 それが意思によるものかどうかは、分からない。
 歪に繋ぎ合わされた顔の、その一部が――笑ったように見えた。
 次の瞬間、崩れた。
 アサヤケの体が、音もなく崩壊していく。内側から焼け落ちるように、灰へと変わっていく。繋ぎ止めていた何かが、完全に尽きたのだと分かる。
 崩れ落ちるその最後まで、視線だけは外れなかった。
 やがて、それも消えた。
 最後の瞬間、俺には見えないはずのものが見えた気がした。
 五つの影。
 はっきりとした輪郭はない。ただ、そこにいた。灰になっていく中で、それぞれが別々の方向を向いていた。
 ――仲間の元へ、帰ろうとしていたのかもしれない。
 分からない。分からないが。
 その瞬間、意識の端で何かが千切れるような感覚があった。痛みとは違う。ただ、何かが終わったのだと、それだけがわかった。
 エルメスは何も言わなかった。焦げた杖を握ったまま、ただ戦場を見つめていた。あの毒舌が、今だけは出てこない。
 あとに残ったのは、灰と、沈黙だけだった。