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第8話 娘の嘆きと母の思い

ー/ー



 慌てて女中が手ぬぐいを持ち、すぐに湯へと案内してくれた。着物も洗うからと言われ、替わりを借りた。
 が、その間ずっとキョウの機嫌は悪く、平時あれだけ犬のように人懐っこいというのにしばし殺気だっていた。「忠義者」とからかうように笑うと拗ねるので、よしよしと頭を撫でてやった。

 そうして頼んだ通り、二人は離れに宿を取った。詫びの気持ちだろうか、二人分の布団が敷かれた部屋には新しい徳利とお猪口が用意されている。

「おや、嬉しい事です。どうやら主の新左衛門様は下の者にも心を砕く御仁のよう。本来民としては、そのような主人こそが良いでしょうに」

 早速一献、とキョウへとお猪口を差し出すが機嫌が悪い。苦笑し、キョウの分のお猪口に酒を注いで前に置き、自身は手酌で月見酒。酒は舌にスッキリと、鼻には軽く華やかに、そして体を僅かに熱くする。上物に間違いがない。

「この酒は、本来こんなにも美味いものだったのですね」

 実に残念な事だ。あのような者が同席していなければ、さぞ楽しい宴であっただろう。ヨリとてあのような話を選んだりはしなかった。もっと……そう、亡き妻を思わせるような、夫婦の温かな話を選んだだろうに。

 しばらくヨリが一人飲むのを見ていたキョウも、少しして荒っぽくお猪口を手にし、一気に飲み干していく。これ一つでキョウの頬は僅かに赤くなった。

「ヨリ様!」
「なんですか?」
「どうして止めたんです! あんなの、斬ってしまえば万事解決するじゃないですか!」

 ずっとそれが引っかかっていたのだと言いたげに、キョウは珍しくヨリを睨む。この男、酒を飲むと顔はすぐ赤くなるがここからが長いし、酔って粗相をしたこともない。だが、いつもより少しだけ大胆な事を言うようになる。

「主をあのように愚弄され、手を上げられて平気な顔をしている用心棒はないんです! 貴方の目が見えないのは、俺が…………くそ!」
「くくっ」
「何も面白くない」
「ふふっ、忠義者。私は気にしていないと言ったでしょ。あんな安い言葉に乗って面倒を起こす方が大変です。言わせておきなさい」
「ですが!」
「弱い犬ほどよく吠える。まぁ、ここに強いのに吠える犬もおりますが」

 キョウは思い切りふて腐れてぶすくれている。笑い、手を伸ばして頭を撫でてやっても今日は駄目らしい。困った忠犬に苦笑し、ヨリは本当の所を語った。

「ここでお前がアレを斬れば、迷惑が掛かるのはこの家の者です。私たちは土地を遠く離れて寄らぬようにすれば難を逃れますが、ここの者は違う。故郷を離れる事は、寂しい気持ちになりますよ」
「…………はい」

 分からぬ男ではない。根が優しい男だ、怒りが収まれば理解もする。納得したかは別の話だが。

「ですが、あの男が大きな顔をするのは業腹です。どうにかなりませんか」
「私は厄介ごとを治める為にいるのではないのですがね。まったく」

 とはいえヨリも、あの男が大きな顔をしてこの家に入り込み、我が物顔をするのは気に入らない。秩序というものが壊れるだろう。

「ただ」
「?」
「あの男はこの家に相応しくない。そう思う者は多いでしょう。そういうモノが、あれを追い出しますよ」
「いい手があるのですか!」

 途端に嬉々とした顔をするキョウに、ヨリはニッと三日月の笑みを見せた。

「それは、これからですよ」


 その夜、眠りについたヨリは急激に周囲が冷えていくのを感じた。

 ひた……ひた……

 足下から気配がする。それはゆっくりと、指の一本一本を絡めるように足首を強く握る。
 冷たいその手は確実に、ひたり、ひたりと這い上がる。足首から、膝、太股へと、二つの手だけが徐々に上がり、冷気も一緒にあがってくる。足先から徐々に雪の中に埋められていくような、芯から冷える感覚が全身を包んでいく。腹から、胸……そうして、冷たい手が首にかかった。

『出て行け……私の邪魔をするな!』

 それは間違いなく、女性の声であった。首にかかる手も女性のようにほっそりとしているし、胸に掛かる重みも男のモノとは違う。
 確信した。此度の怪異はこの女性が起こしている。

「邪魔だなんて。私は貴方の味方ですよ、奥方様」
『!』

 虚を突かれたように女の気配が少し離れそうになる。だがその前に、ヨリは白銀の目を開いた。

『何者!』
「貴方の憂いを見せていただきます」

 女の黒い目が合い、思いが流れ込む。そこには娘と家を案ずる、優しい母の気持ちが込められていた。

◇◆◇

 今際の際、涙に濡れる愛しい娘と、愛しい旦那。そして離れた戸口では、息子のように可愛がった伊助がいる。

「お母様、死んでは嫌です。小夜を置いて逝かないで」
――あぁ、泣かないで。貴方に泣かれると辛いのです。

 心配で、心配で。大切な人を残して逝かなければいけないなんて、なんて残酷な事でしょう。

 母には一つ、大変な気がかりがあった。あの強欲な金貸しの男が、何も知らない旦那を騙してこの家を乗っ取ってしまわないかと。
 この家には先代様、先々代様が残された価値のある品が沢山ある。息子は興味がないからと、彼女が全てを受け継いだ。見る者が見れば金などいくらでも作れる。
 旦那は人が良すぎるから、心配でたまらない。

 娘の事も心配だ。あの男は娘の小夜を妙な目で見ていた。何か言い出さないか。

 母はこの家の番人であった。家を守る者として、その役目を真っ当していた。


 それでも、人の命は延びるものではない。程なく息を引き取った彼女は、心配から逝くことができなかった。
 心配は的中した。価値のある多くの骨董が二束三文で買いたたかれる。
 伝えたいが、伝える声を持たない。目録の場所は伝えられなかった。一番大事な蔵の鍵と共に隠してしまったから。

 身ぐるみを剥がされるように家が貧しくなる。あれだけ仕事に誇りを持っていた旦那が萎れていく。全ての気力をなくしたように呆けて、その間に何もかもを取られてしまう。
 伝えようとした。だが、死んでは声が届かない。喉の病だった。異変に気づいた時には声を取られてしまっていた。

 死んで三年。とうとうあの強欲な男はこの家の見える金の全てをむしり、あろうことか可愛い娘にまで手を伸ばした。

「お母様、私…………私、あんな男と結婚するだなんて、嫌です!」

 毎日のように離れの部屋で涙を流す娘に、手を添えてやりたい。大丈夫だと伝えたい。表に出してあるものなど見栄えの良いものばかり。本当に価値ある大切なものは蔵の中の、更に大事な隠し戸の中にしまっている。

「私は、伊助が…………」

 それも、知っている。親のない伊助は慎ましい子で、娘の気持ちに応じるかわからないが、娘はずっと伊助を思っていた。こっそり、恥ずかしそうに教えてくれた娘を思い出す事など容易だ。

 なんとかしなければ、この家は落ちてしまう。娘婿になったあの男は悠々とこの家を、娘を、旦那を蝕む。
 あのような毒虫に、愛しい者達を取られてなるものか。例えこの魂が魔に落ちようとも、あの男だけは許すものか!

◇◆◇

 はっとして、女の幽霊はヨリから離れた。白銀の目は再び閉じ、ゆっくりと半身を起こす。そして深く頷いた。

「貴方の無念、確かに聞き届けました」
『伝わったのか?』
「えぇ、勿論。さて……キョウ」
「はい、ヨリ様」

 同じく起きていたキョウが半身を上げた。

「ここに、この家の奥方様がいらっしゃいます。見えますか?」
「………………いいえ」

 確かに目を開けて辺りを見回すキョウは、少ししてシュンと項垂れる。だがこれに、ヨリは満足そうな笑みを浮かべた。

「上々です。死して三年もの月日が経っておりますのに、貴方は魔に落ちる事なく霊としてあり続けたのですね」

 未練が人だった魂をこの世に留める。留まった魂は徐々に歪み、本来の性質を変えて、やがては魔物と化してしまう。強い恨みや憎しみで一気に変容する者もあれば、時が垢のようにこびりついて変容する者もあるのだ。
 だがこの奥方は姿も魂も歪んではいない。きっと、未練は残っても恨んではいなかったから。死を受け入れ歯がゆい思いをしながらも、心は清らかであったから。

 だがこのままではそうはゆかないだろう。近江がこの家に入り愛しい娘を苛むようになれば、おそらく一気に魔物へと変わっていく。大切な者を守りたいという気持ちの強い女性だ、その為ならば人を食らう事に躊躇いは無いように思う。

「娘さんを、眠らせたのは貴方ですね」
『……そうです。あの男との祝言など、挙げさせてなるものか』
「私もそれには賛成いたします。あの男はこの家に相応しくない」
『だが、どうしたらいいと言うのです。旦那様は私が死んで、悲しみで心が一杯のまま腑抜けております。あの方がしっかりとして下されば、あんな男を入れるはずがないのです!』

 奥方の霊もまた、困り果てて俯いてしまう。その魂は少しずつ、歪み始めているように感じた。

「……知恵と力を、貸さないではありませんよ」
『え?』
「あの男を追い出すのですよね? ならば貴方の仰る通り、主人の目を覚まさせてやればよいのです。娘の為に誰が相応しいのかを見れば、目も冷めましょう」
『ですが、どうすれば良いのです? 鬼子母神様がほんの少しお力をお貸しくださいましたが、これ以上は本当に落ちてしまいそうなのです。あの子を眠らせ、日々が過ぎるにつれて私の心は段々と醜くなっていくようなのです』

 苦悩する奥方の額は、二つ僅かに隆起している。信仰している鬼子母神の影響だろうが、彼の女神は元は魔物。近づきすぎれば落ちてゆくのだろう。

「貴方が気を確かに持ち、落ちきらないようにすれば良いのです」
『できません! 魔物となれば娘や旦那様を傷つけてしまうかもしれない。そうなっては……』
「大丈夫ですよ」

 涙ながらに訴える奥方の霊に、ヨリはにっこりと笑みを浮かべた。

「貴方の始末は私と、そこのキョウが致しましょう」
『お前達は……』
「なに、しがない語り部と、その用心棒ですよ」

 奥方の霊は目を見張り、やがて確かに頷いた。


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次のエピソードへ進む 第9話 怪談、鬼女の婿選び


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 慌てて女中が手ぬぐいを持ち、すぐに湯へと案内してくれた。着物も洗うからと言われ、替わりを借りた。
 が、その間ずっとキョウの機嫌は悪く、平時あれだけ犬のように人懐っこいというのにしばし殺気だっていた。「忠義者」とからかうように笑うと拗ねるので、よしよしと頭を撫でてやった。
 そうして頼んだ通り、二人は離れに宿を取った。詫びの気持ちだろうか、二人分の布団が敷かれた部屋には新しい徳利とお猪口が用意されている。
「おや、嬉しい事です。どうやら主の新左衛門様は下の者にも心を砕く御仁のよう。本来民としては、そのような主人こそが良いでしょうに」
 早速一献、とキョウへとお猪口を差し出すが機嫌が悪い。苦笑し、キョウの分のお猪口に酒を注いで前に置き、自身は手酌で月見酒。酒は舌にスッキリと、鼻には軽く華やかに、そして体を僅かに熱くする。上物に間違いがない。
「この酒は、本来こんなにも美味いものだったのですね」
 実に残念な事だ。あのような者が同席していなければ、さぞ楽しい宴であっただろう。ヨリとてあのような話を選んだりはしなかった。もっと……そう、亡き妻を思わせるような、夫婦の温かな話を選んだだろうに。
 しばらくヨリが一人飲むのを見ていたキョウも、少しして荒っぽくお猪口を手にし、一気に飲み干していく。これ一つでキョウの頬は僅かに赤くなった。
「ヨリ様!」
「なんですか?」
「どうして止めたんです! あんなの、斬ってしまえば万事解決するじゃないですか!」
 ずっとそれが引っかかっていたのだと言いたげに、キョウは珍しくヨリを睨む。この男、酒を飲むと顔はすぐ赤くなるがここからが長いし、酔って粗相をしたこともない。だが、いつもより少しだけ大胆な事を言うようになる。
「主をあのように愚弄され、手を上げられて平気な顔をしている用心棒はないんです! 貴方の目が見えないのは、俺が…………くそ!」
「くくっ」
「何も面白くない」
「ふふっ、忠義者。私は気にしていないと言ったでしょ。あんな安い言葉に乗って面倒を起こす方が大変です。言わせておきなさい」
「ですが!」
「弱い犬ほどよく吠える。まぁ、ここに強いのに吠える犬もおりますが」
 キョウは思い切りふて腐れてぶすくれている。笑い、手を伸ばして頭を撫でてやっても今日は駄目らしい。困った忠犬に苦笑し、ヨリは本当の所を語った。
「ここでお前がアレを斬れば、迷惑が掛かるのはこの家の者です。私たちは土地を遠く離れて寄らぬようにすれば難を逃れますが、ここの者は違う。故郷を離れる事は、寂しい気持ちになりますよ」
「…………はい」
 分からぬ男ではない。根が優しい男だ、怒りが収まれば理解もする。納得したかは別の話だが。
「ですが、あの男が大きな顔をするのは業腹です。どうにかなりませんか」
「私は厄介ごとを治める為にいるのではないのですがね。まったく」
 とはいえヨリも、あの男が大きな顔をしてこの家に入り込み、我が物顔をするのは気に入らない。秩序というものが壊れるだろう。
「ただ」
「?」
「あの男はこの家に相応しくない。そう思う者は多いでしょう。そういうモノが、あれを追い出しますよ」
「いい手があるのですか!」
 途端に嬉々とした顔をするキョウに、ヨリはニッと三日月の笑みを見せた。
「それは、これからですよ」
 その夜、眠りについたヨリは急激に周囲が冷えていくのを感じた。
 ひた……ひた……
 足下から気配がする。それはゆっくりと、指の一本一本を絡めるように足首を強く握る。
 冷たいその手は確実に、ひたり、ひたりと這い上がる。足首から、膝、太股へと、二つの手だけが徐々に上がり、冷気も一緒にあがってくる。足先から徐々に雪の中に埋められていくような、芯から冷える感覚が全身を包んでいく。腹から、胸……そうして、冷たい手が首にかかった。
『出て行け……私の邪魔をするな!』
 それは間違いなく、女性の声であった。首にかかる手も女性のようにほっそりとしているし、胸に掛かる重みも男のモノとは違う。
 確信した。此度の怪異はこの女性が起こしている。
「邪魔だなんて。私は貴方の味方ですよ、奥方様」
『!』
 虚を突かれたように女の気配が少し離れそうになる。だがその前に、ヨリは白銀の目を開いた。
『何者!』
「貴方の憂いを見せていただきます」
 女の黒い目が合い、思いが流れ込む。そこには娘と家を案ずる、優しい母の気持ちが込められていた。
◇◆◇
 今際の際、涙に濡れる愛しい娘と、愛しい旦那。そして離れた戸口では、息子のように可愛がった伊助がいる。
「お母様、死んでは嫌です。小夜を置いて逝かないで」
――あぁ、泣かないで。貴方に泣かれると辛いのです。
 心配で、心配で。大切な人を残して逝かなければいけないなんて、なんて残酷な事でしょう。
 母には一つ、大変な気がかりがあった。あの強欲な金貸しの男が、何も知らない旦那を騙してこの家を乗っ取ってしまわないかと。
 この家には先代様、先々代様が残された価値のある品が沢山ある。息子は興味がないからと、彼女が全てを受け継いだ。見る者が見れば金などいくらでも作れる。
 旦那は人が良すぎるから、心配でたまらない。
 娘の事も心配だ。あの男は娘の小夜を妙な目で見ていた。何か言い出さないか。
 母はこの家の番人であった。家を守る者として、その役目を真っ当していた。
 それでも、人の命は延びるものではない。程なく息を引き取った彼女は、心配から逝くことができなかった。
 心配は的中した。価値のある多くの骨董が二束三文で買いたたかれる。
 伝えたいが、伝える声を持たない。目録の場所は伝えられなかった。一番大事な蔵の鍵と共に隠してしまったから。
 身ぐるみを剥がされるように家が貧しくなる。あれだけ仕事に誇りを持っていた旦那が萎れていく。全ての気力をなくしたように呆けて、その間に何もかもを取られてしまう。
 伝えようとした。だが、死んでは声が届かない。喉の病だった。異変に気づいた時には声を取られてしまっていた。
 死んで三年。とうとうあの強欲な男はこの家の見える金の全てをむしり、あろうことか可愛い娘にまで手を伸ばした。
「お母様、私…………私、あんな男と結婚するだなんて、嫌です!」
 毎日のように離れの部屋で涙を流す娘に、手を添えてやりたい。大丈夫だと伝えたい。表に出してあるものなど見栄えの良いものばかり。本当に価値ある大切なものは蔵の中の、更に大事な隠し戸の中にしまっている。
「私は、伊助が…………」
 それも、知っている。親のない伊助は慎ましい子で、娘の気持ちに応じるかわからないが、娘はずっと伊助を思っていた。こっそり、恥ずかしそうに教えてくれた娘を思い出す事など容易だ。
 なんとかしなければ、この家は落ちてしまう。娘婿になったあの男は悠々とこの家を、娘を、旦那を蝕む。
 あのような毒虫に、愛しい者達を取られてなるものか。例えこの魂が魔に落ちようとも、あの男だけは許すものか!
◇◆◇
 はっとして、女の幽霊はヨリから離れた。白銀の目は再び閉じ、ゆっくりと半身を起こす。そして深く頷いた。
「貴方の無念、確かに聞き届けました」
『伝わったのか?』
「えぇ、勿論。さて……キョウ」
「はい、ヨリ様」
 同じく起きていたキョウが半身を上げた。
「ここに、この家の奥方様がいらっしゃいます。見えますか?」
「………………いいえ」
 確かに目を開けて辺りを見回すキョウは、少ししてシュンと項垂れる。だがこれに、ヨリは満足そうな笑みを浮かべた。
「上々です。死して三年もの月日が経っておりますのに、貴方は魔に落ちる事なく霊としてあり続けたのですね」
 未練が人だった魂をこの世に留める。留まった魂は徐々に歪み、本来の性質を変えて、やがては魔物と化してしまう。強い恨みや憎しみで一気に変容する者もあれば、時が垢のようにこびりついて変容する者もあるのだ。
 だがこの奥方は姿も魂も歪んではいない。きっと、未練は残っても恨んではいなかったから。死を受け入れ歯がゆい思いをしながらも、心は清らかであったから。
 だがこのままではそうはゆかないだろう。近江がこの家に入り愛しい娘を苛むようになれば、おそらく一気に魔物へと変わっていく。大切な者を守りたいという気持ちの強い女性だ、その為ならば人を食らう事に躊躇いは無いように思う。
「娘さんを、眠らせたのは貴方ですね」
『……そうです。あの男との祝言など、挙げさせてなるものか』
「私もそれには賛成いたします。あの男はこの家に相応しくない」
『だが、どうしたらいいと言うのです。旦那様は私が死んで、悲しみで心が一杯のまま腑抜けております。あの方がしっかりとして下されば、あんな男を入れるはずがないのです!』
 奥方の霊もまた、困り果てて俯いてしまう。その魂は少しずつ、歪み始めているように感じた。
「……知恵と力を、貸さないではありませんよ」
『え?』
「あの男を追い出すのですよね? ならば貴方の仰る通り、主人の目を覚まさせてやればよいのです。娘の為に誰が相応しいのかを見れば、目も冷めましょう」
『ですが、どうすれば良いのです? 鬼子母神様がほんの少しお力をお貸しくださいましたが、これ以上は本当に落ちてしまいそうなのです。あの子を眠らせ、日々が過ぎるにつれて私の心は段々と醜くなっていくようなのです』
 苦悩する奥方の額は、二つ僅かに隆起している。信仰している鬼子母神の影響だろうが、彼の女神は元は魔物。近づきすぎれば落ちてゆくのだろう。
「貴方が気を確かに持ち、落ちきらないようにすれば良いのです」
『できません! 魔物となれば娘や旦那様を傷つけてしまうかもしれない。そうなっては……』
「大丈夫ですよ」
 涙ながらに訴える奥方の霊に、ヨリはにっこりと笑みを浮かべた。
「貴方の始末は私と、そこのキョウが致しましょう」
『お前達は……』
「なに、しがない語り部と、その用心棒ですよ」
 奥方の霊は目を見張り、やがて確かに頷いた。