13話 5人目

ー/ー



「まずは、自然な形でマイレディーと接触する必要がある」

 そのためには、情報だ。

 俺はここ数日、ハミルトンを動かし、クロエ=パディントンについて徹底的に調べ上げた。

 分かったことは二つ。

 一つ――貧困街で謎の病が流行していること。クロエちゃんは、金のない連中のために無償で治療にあたっている。

 脳裏に、以前シャネル越しに見た光景がよぎる。
 あの異様な人だかり――あれがそうか。

 二つ目――クロエが毒の密売人と接触していること。

 この国では禁じられている代物だが、あのクロエちゃんが私利私欲で扱うとは思えない。おそらくは薬の研究用だろう。
 猛毒も使い方次第で薬になるとは、珍しくない話だ。

「……なら、話は早い」


 ◆


 貧困街。

 空気が違う。淀んでいる――そう言い換えたほうが正確だろう。

「さて……僕のマイレディーはどこかな?」

 歩いてすぐ、不自然な人だかりを見つけた。顔色の悪い連中ばかりだ。
 血を吐く者、足を引きずる者、包帯の隙間から滲む赤。

 中心にいるのは――

「……見つけた」

 東洋系の顔立ちに、ゆったりとした漢服。

 間違いない。
 クロエ=パディントンだ。

 そして――俺を拒んだ、最初の女でもある。

「そこのハニー、少しいいかな?」

 だがクロエは一瞥しただけで、すぐに患者へ視線を戻した。

「……患者なら並んでくださいです」
「残念ながら違う。商談に来た」
「ならお引き取りを。今は忙しいです」

 即切り捨て。取り付く島もない。

「そう言わずに。僕はこう見えても有能な商人でね」
「押し売りなら間に合っているです」
「安心してくれ。僕はホルプスみたいに法外な請求はしない」
「……今、誰の名前を出したです?」

 止まった。
 ようやく、こちらを見る。

「さあ、誰のことだろうね」

 一瞬の沈黙。

「……あなた、何者です?」
「しがない商人さ。少なくとも、君の敵ではない」

 その一言で、周囲の空気が変わった。

「……捕まえに来たわけじゃない、です?」

 周囲の連中が、一斉にこちらへ寄ってくる。

「おい、何しに来やがった」
「ちっちぇ先生に手ぇ出すなら――分かってんだろうな?」

 囲まれた。

 にしてもこのロリっ娘、貧困街の連中から相当好かれているようだな。

「誤解だ。僕は商売の話をしに来ただけだ」

 両手を軽く上げ、敵意がないことを示す。

「……商売?」

 クロエが一歩前に出る。

「近頃、妙な病が流行っているらしいね。広がれば、この街だけの問題じゃ済まない」

 クロエは否定しない。

「なら――薬を作れば、相当な金になる」
「……お金、ですか」
「そう。これは"善意"じゃない。"投資"だ」

「気に入らねぇな」
「人の命で儲ける気かよ」
「絵に描いたようなクソ野郎だな。先生、こんな奴の話なんざ聞く必要ねぇぞ」

 やかましいわ!
 優秀な経営者の鑑と言え! そんなだから貴様らは貧困街から脱出できねぇんだよ。

 クロエだけを見る。

「興味ないです」

 即答か。
 ま、だろうな。

 日本の近代医学の父、北里柴三郎みたいな生き方をしているロリっ娘が、こんな儲け話に乗ってこないことくらい百も承知だ。

「……なら質問を変えよう」

 一歩、踏み込む。

「ハニー、行き詰まっているだろう?」
「……」
「隠さなくてもいい。だからこそ、ホルプスに頼った。違うかい?」

 わずかに、指先が止まる。

「……だったらなんです」
「資金を出す。材料も揃える――表に出せないものも含めてね」
「……ずいぶんと都合のいい話です」
「その代わり、完成した薬の権利は僕がもらう。当然だろう? これは慈善事業じゃない」
「失敗したら、どうするです?」
「損をするのは僕だ」
「……私が途中で逃げたら?」
「その時は見る目がなかったと諦めるさ」

 少しの間、視線がぶつかる。

「……本気、ですか」
「商人は常に本気だよ、ハニー」

 クロエは小さく息を吐いた。

「……条件があります」
「聞こう」
「この人たちを優先すること。外で売るのは、その後です」
「いいだろう」
「それと――治療内容に口出しはさせないです」
「餅は餅屋というだろ? 専門外に口は出さない主義でね」
「……分かりました。協力するです」

 交渉成立。
 これで第一段階、彼女との接触は成功だ。

「……」

 クロエが手を差し出す。

「握手、です」

 ――さて。

 触れて大丈夫なのかな? あの護符が発動したら洒落にならない。
 またあれを喰らうのは御免だぞ。

「どうかしました?」
「いや、その、なんだ……えー……と」
「あ、そうですね。接触感染の可能性があるです。不用意でした」
「……ああ、助かるよ」

 内心で息を吐く。
 ふうー、なんとかなった。


 ◆


 クロエ=パディントンとの商談を成立させてから、数日が経過した。

 その間に俺がやったことは単純だ。
 献身的にロリっ娘に尽くし、治療薬の材料になりそうな物を貢ぎ続けること。パトロンとして信用を得ることに全力を尽くしていた。

 だというのに。

「くそっ! なんであそこまで警戒してくるんだよ!」

 モニター越しからでも分かる。
 クロエは明らかにハミルトンを警戒している。

 しかも最近では、護符をネックレスのように首からぶら下げたままだ。一度外させるために高級な衣服を贈ってみたが、「動きにくい」の一言で突き返された。

 それならばと、シャネルを使って湯浴みの隙を突くことも計画したが――なんと湯浴みの際にも護符を外さなかった。

 思いきって理由を尋ねてみると、神官様に肌身離さずつけておくように言われたんだと。

「どこの神官だよ! くそったれぇッ!」

 こうなれば、神官以上の信用を勝ち取り、護符をあちらから外させるしかない。そのためにはまず、周囲から固める必要がある。


 ◆


「やあ、ドブネズミくんじゃなくて……ドミネスくんだったか。体の調子はどうだい?」
「誰がドブネズミだぁッ! てめぇ喧嘩売ってんのか! いっ……」
「ほら、興奮するな。傷が開いてる」
「誰のせいだ!」

 軽く肩をすくめる。

 しかし――相変わらず妙な病だな。
 古傷が開いたり、軽くぶつけただけで皮膚が裂けるとは。

「……また痣、増えてないか?」
「ああ……まあな」

 歯切れが悪い。

「その歯、どうした」
「抜けたんだよ」
「抜けた?」

 そういえば、近頃貧困街の人たちの歯がよく抜け落ちると、クロエが言っていた。てっきり年配の話だと思っていたが。

「歳はいくつだ」
「たぶん十四」

 十四で歯が抜ける?

「虫歯だったのか」
「わっかんねぇ」

 わっかんねぇ、か。阿呆だな。まあ学校に行ってないならこんなもんか。

 貧困街で流行している病の症状を整理すると――倦怠感、歯茎からの出血、皮膚の内出血、治らない傷、軽くぶつかっただけで皮膚が裂ける、昔の傷跡が開く、そして歯が落ちる。

「……う〜ん、感染症ならとっくに外に広がってるはずなんだけどな」

 だが、症状が出ているのは貧困街の連中だけ。
 同じ街に住む人々には起きていない。

「感染じゃないのか……?」


 ◆


 考えながら歩いていると、ひときわ元気な子供が目に入った。
 今のこの街で、その健康さは異質だ。

「少しいいか」
「なんだ、おっさん」
「お兄さんな?」

 ぶん殴るぞくそガキ。
 自分でおっさんと自称するのはいい。だが人から言われると異常に腹立たしいのはなんでなんだろう。今の俺はハミルトン。歳は二十四。普通にお兄さんだろ。

「わ、悪かったよ、お兄さん」
「わかってくれればいい。それより、君は随分元気そうだな」
「ん……ああ、みんな変な病気になってるもんな」
「君はどこも悪くないのか?」
「うん。俺は平気」
「ちなみにどこへ行くんだ」
「飯を取りに行くんだ」
「……飯を取る?」
「おっさんじゃなくて、お兄さんも食うもんないのか? なら来いよ。少しくらいなら分けてやる」

 気になり、後をついていく。
 辿り着いたのは、街の外――森の中だった。

「これ、知ってるか?」

 差し出されたのは、ただの草だ。

「煮たら結構美味いんだ。こっちのは歯ごたえもあってさ。母ちゃんのお気に入り」
「ひとつ聞いてもいいか」
「ん、なに?」
「それ、いつから食べてる?」
「昔からだけど」
「家族みんな食べてるのか?」
「ああ、みんな食ってるよ」
「ちなみに、家族は全員元気なのか?」
「ったり前だろ」

 ――確信した。

 すべての点と点が繋がった。

 こいつは貧困街を救う英雄かもしれん。

「……そういうことか」


 ◆


 俺はクロエのもとへ急いだ。

「ハニー!」
「……ハミルトンさん?」

 振り向いた彼女の顔には、隠しきれない疲労が滲んでいる。目の下の隈、乾いた唇。寝ていないのは明らかだった。

「原因が分かった」
「……本当ですか?」

 かすれた声。
 それでも、その瞳にはわずかな希望が宿る。

「嘘は言わない。君には特にね」
「……それで、原因は?」
「食事だ」
「……はい?」

 パチクリと睫毛を鳴らして、固まってしまった。

「そんなわけないじゃないですか! 私を誂うのも大概にしてくださいです!」
「大真面目だ。"壊血病"だよ」
「……壊血病? 聞いたことない病名です」
「ビタミンC――コラーゲンを作るのに必要な栄養が極端に不足している状態のことだ」
「コラーゲン……?」

 まあ、そうなるよな。
 この世界にはビタミンという概念そのものがないのか。

「体の全タンパク質の約30%を占める繊維状の物質で、皮膚・骨・血管・軟骨を構成し、細胞同士をつなぐ接着剤のような役割を持っている。それが足りなくなると――体のあらゆる部分が"崩れ"はじめる」

 症状を思い出せ。
 血が止まらない。傷が治らない。歯が抜ける。

「……それが、食事とどう関係するです?」
「貧困街の食事はパンと粥と安い肉が中心だろう。ビタミンCがほぼゼロの食事内容だ。野菜は高騰すれば真っ先に口から消える」
「……でも、感染しているんじゃ……」
「感染しているなら、外の街にも広がっているはずだ。違うか?」

 クロエは俯く。図星か。

「一つ聞く。森で草を食っている連中がいるのを知っているか?」
「……え?」
「そいつらは元気だ。同じ貧困街に住んでいて、同じ空気を吸っているのに」
「……違いは……食事、です?」
「そういうことだ」

 沈黙が落ちた。

「……証明できるです?」

 顔を上げる。
 いい目だ。

「できるさ」


 ◆


 その日のうちに数人を集め、森で採れた山菜を食べさせる。クロエは、その様子をじっと見ていた。

 一日目。変化なし。

 二日目。わずかに出血が減る。

「……止まってる?」

 三日目。

「おい、傷が……閉じてるぞ……」

 ざわめきが広がる。クロエは、言葉を失っていた。

「な?」
「……薬じゃなく、食事で……」
「そうだ。ハニーの治療で傷は一時的に塞がる。だがすぐに開いていただろう?」
「……っ」
「それは、体そのものが崩れていたからだ。血管も、皮膚も、歯茎も」
「……」

 クロエは俯いたまま、動かない。やがて、かすかに肩が揺れた。

「私……気づけなかったです……目の前で苦しんでいる人たちがいたのに……」
「――折れるな! 君は医者だ。料理人じゃない。栄養面については専門外だろう」
「でも――」
「ずっと診続けていたのはハニーだ。僕は原因を見つけただけで、延命させていたのは間違いなくハニーだよ」
「……ありがとうございます、です」

 その目には、はっきりとした信頼が宿っていた。


 ◆


 それから数日後、壊血病の症状に苦しんでいた人々は、すっかり元気になっていた。

 ところが、一人だけ冴えない顔をしている者がいる。クロエである。

 浮かない表情の理由を尋ねると、

「たくさん支援してもらったのに、特効薬はできなかったです」

 ああ、そのことか。クロエと接触するための口実に過ぎなかったので、正直忘れていた。

「なら、一つ頼みがある」
「なんです? 私にできることなら何でも言うです」
「これを着てくれないか」

 差し出したのは、以前断られたドレスだ。

「……そんなことでいいです?」
「ハニーのドレス姿が見れるなら、それに勝る喜びはないよ」

 クロエは一瞬だけ迷うように視線を伏せ、それから小さく頷いた。




「……ど、どうです? こういうドレスは着慣れないので、恥ずかしいです」

 現れたクロエの姿に、思わず息を呑む。飾り気のない日常しか知らない少女が初めて纏う上質な布は、その違和感すら彼女を引き立てていた。

「完璧だ。ビューティフォー! エクセレント!!」
「そ、そんなに褒められると困るです……」

 頬を染め、視線を泳がせる。

 ――いい流れだ。

「――だが」
「?」
「その護符は、少し野暮だな。せっかくのドレスに似合わない」

 クロエの指が、首元に触れる。
 無意識だったのか、それとも――分かっていて触れたのか。

「そう、です?」
「ああ。せっかくの美しさが台無しだ」

 視線が揺れる。
 ほんのわずかに、眉が寄った。

「……でも、これは……」

 言いかけて、止まる。
 脳裏に浮かんでいるのは、きっとあの神官の言葉だろう。

 "肌身離さずつけていなさい"――そう言われていたはずだ。

 クロエの指が、ぎゅっと護符を握る。外さない理由は、ある。むしろ、外す理由のほうがない。

「……無理にとは言わない」

 あえて一歩引く。

「似合っているのは事実だ。ただ、もっと良くなると思っただけだよ」

 それだけ言って、視線を外す。

 沈黙。
 選ばせる時間を、残す。

「……」

 クロエは俯いたまま、動かない。指先だけが、わずかに震えている。

「……ハミルトンさんは」

 小さな声。

「私のこと、助けてくれたです。原因も分からなかった病気を……止めてくれたです」
「……」
「私、あの時……もう、どうしたらいいか分からなかったです」

 ぽつり、ぽつりと落ちる言葉。顔は上げないまま、続ける。

「……だから」

 一度、言葉が途切れる。息を吸う音が、やけに大きく聞こえた。

「ハミルトンさんのことは……信じてるです」

 その一言で、すべてが決まる。

 カチリ、と。小さな音。鎖が外れる。護符が、彼女の手の中に収まった。

「……少しくらいなら、大丈夫ですよね」

 自分に言い聞かせるような、弱い声。それでも――笑おうとしている。

 差し出すでもなく、ただ握ったまま。"完全には手放していない"その仕草が、逆に生々しい。

 無防備な首元が、露わになる。

 ――勝った。

 そう確信した、その瞬間。

「ハミルトンさん」

 クロエが、まっすぐこちらを見た。
 逃げない視線。どこまでも真っ直ぐで、疑いがない。

「……ありがとうございます」

 小さく、けれどはっきりと。

「私……ずっと怖かったです。原因も分からない病気で、みんな苦しんでて……私、薬師なのに、何もできなくて……」

 言葉が、ゆっくりと染み込んでくる。

「でも、ハミルトンさんが来てくれて」

 一歩、こちらへ近づく。
 無防備に。

「やっと……助けられたです」

 その顔は、泣きそうで――それでも、笑っていた。

「だから……」

 ほんのわずかに、手が止まる。

 ――理解しかける。
 この感情の正体を。
 この状況の意味を。

 少女は何も知らない。騙されていることも、信頼が武器として使われていることも、この"ありがとう"が自分の首を差し出す合図になっていることも。

 何ひとつ、知らない。

 だが。

 ――やめろ。
 これは予定通りだ。ただの工程。ここで止まる理由なんてない。

「どういたしまして、ハニー」

 いつも通りの軽い声音で、その感情を塗り潰す。距離を詰める。

 逃げない。逃げる理由が、彼女にはない。

 それが――信頼だ。

「――あの」

 何か言いかける唇に、触れる。
 一瞬、体が強張る。

 だが拒絶は来ない。
 ほんのわずかに、戸惑いが混じるだけだ。

「……んン……?」

 その隙間に、滑り込ませる。舌先。そして、見えない"それ"も一緒に。

 一拍。遅れて。クロエの瞳が揺れた。

「……え……?」

 違和感に気づいたのかもしれない。
 だが遅い。
 信頼は、すでに侵入経路になっている。
 体が力を失い、ぐらりと傾いた。抱き留める。

 ――軽い。

 こんなに軽い体で、あれだけの人間を支えていたのか。

「……ハミルトン、さん……?」

 焦点の合わない瞳が、こちらを見上げる。理解しようとしている。
 だが、思考が追いつかない。

「大丈夫。すぐ終わる」

 優しく囁く。
 それが、最後の安心材料になる。

 まぶたが落ちる。抵抗は、ない。
 あるのは――最後まで残った"信頼"だけだ。

 完全に崩れ落ちた体を、静かに横たえる。
 ほんの一瞬だけ、視線がその顔に残った。

 穏やかな寝顔だった。

 苦しんでいる人たちを助けようと奔走して、疲れ果てて、それでも笑おうとしていた少女が、今は何も知らずに眠っている。

「……さて」

 わずかに間を置いて、口元を拭う。
 侵食は順調。
 内部への定着も問題なし。

「五体目」

 淡々と告げる。
 だが、その声はほんのわずかに低かった。

 理由は――考えない。

「――クロエ=パディントン。攻略完了」


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「まずは、自然な形でマイレディーと接触する必要がある」
 そのためには、情報だ。
 俺はここ数日、ハミルトンを動かし、クロエ=パディントンについて徹底的に調べ上げた。
 分かったことは二つ。
 一つ――貧困街で謎の病が流行していること。クロエちゃんは、金のない連中のために無償で治療にあたっている。
 脳裏に、以前シャネル越しに見た光景がよぎる。
 あの異様な人だかり――あれがそうか。
 二つ目――クロエが毒の密売人と接触していること。
 この国では禁じられている代物だが、あのクロエちゃんが私利私欲で扱うとは思えない。おそらくは薬の研究用だろう。
 猛毒も使い方次第で薬になるとは、珍しくない話だ。
「……なら、話は早い」
 ◆
 貧困街。
 空気が違う。淀んでいる――そう言い換えたほうが正確だろう。
「さて……僕のマイレディーはどこかな?」
 歩いてすぐ、不自然な人だかりを見つけた。顔色の悪い連中ばかりだ。
 血を吐く者、足を引きずる者、包帯の隙間から滲む赤。
 中心にいるのは――
「……見つけた」
 東洋系の顔立ちに、ゆったりとした漢服。
 間違いない。
 クロエ=パディントンだ。
 そして――俺を拒んだ、最初の女でもある。
「そこのハニー、少しいいかな?」
 だがクロエは一瞥しただけで、すぐに患者へ視線を戻した。
「……患者なら並んでくださいです」
「残念ながら違う。商談に来た」
「ならお引き取りを。今は忙しいです」
 即切り捨て。取り付く島もない。
「そう言わずに。僕はこう見えても有能な商人でね」
「押し売りなら間に合っているです」
「安心してくれ。僕はホルプスみたいに法外な請求はしない」
「……今、誰の名前を出したです?」
 止まった。
 ようやく、こちらを見る。
「さあ、誰のことだろうね」
 一瞬の沈黙。
「……あなた、何者です?」
「しがない商人さ。少なくとも、君の敵ではない」
 その一言で、周囲の空気が変わった。
「……捕まえに来たわけじゃない、です?」
 周囲の連中が、一斉にこちらへ寄ってくる。
「おい、何しに来やがった」
「ちっちぇ先生に手ぇ出すなら――分かってんだろうな?」
 囲まれた。
 にしてもこのロリっ娘、貧困街の連中から相当好かれているようだな。
「誤解だ。僕は商売の話をしに来ただけだ」
 両手を軽く上げ、敵意がないことを示す。
「……商売?」
 クロエが一歩前に出る。
「近頃、妙な病が流行っているらしいね。広がれば、この街だけの問題じゃ済まない」
 クロエは否定しない。
「なら――薬を作れば、相当な金になる」
「……お金、ですか」
「そう。これは"善意"じゃない。"投資"だ」
「気に入らねぇな」
「人の命で儲ける気かよ」
「絵に描いたようなクソ野郎だな。先生、こんな奴の話なんざ聞く必要ねぇぞ」
 やかましいわ!
 優秀な経営者の鑑と言え! そんなだから貴様らは貧困街から脱出できねぇんだよ。
 クロエだけを見る。
「興味ないです」
 即答か。
 ま、だろうな。
 日本の近代医学の父、北里柴三郎みたいな生き方をしているロリっ娘が、こんな儲け話に乗ってこないことくらい百も承知だ。
「……なら質問を変えよう」
 一歩、踏み込む。
「ハニー、行き詰まっているだろう?」
「……」
「隠さなくてもいい。だからこそ、ホルプスに頼った。違うかい?」
 わずかに、指先が止まる。
「……だったらなんです」
「資金を出す。材料も揃える――表に出せないものも含めてね」
「……ずいぶんと都合のいい話です」
「その代わり、完成した薬の権利は僕がもらう。当然だろう? これは慈善事業じゃない」
「失敗したら、どうするです?」
「損をするのは僕だ」
「……私が途中で逃げたら?」
「その時は見る目がなかったと諦めるさ」
 少しの間、視線がぶつかる。
「……本気、ですか」
「商人は常に本気だよ、ハニー」
 クロエは小さく息を吐いた。
「……条件があります」
「聞こう」
「この人たちを優先すること。外で売るのは、その後です」
「いいだろう」
「それと――治療内容に口出しはさせないです」
「餅は餅屋というだろ? 専門外に口は出さない主義でね」
「……分かりました。協力するです」
 交渉成立。
 これで第一段階、彼女との接触は成功だ。
「……」
 クロエが手を差し出す。
「握手、です」
 ――さて。
 触れて大丈夫なのかな? あの護符が発動したら洒落にならない。
 またあれを喰らうのは御免だぞ。
「どうかしました?」
「いや、その、なんだ……えー……と」
「あ、そうですね。接触感染の可能性があるです。不用意でした」
「……ああ、助かるよ」
 内心で息を吐く。
 ふうー、なんとかなった。
 ◆
 クロエ=パディントンとの商談を成立させてから、数日が経過した。
 その間に俺がやったことは単純だ。
 献身的にロリっ娘に尽くし、治療薬の材料になりそうな物を貢ぎ続けること。パトロンとして信用を得ることに全力を尽くしていた。
 だというのに。
「くそっ! なんであそこまで警戒してくるんだよ!」
 モニター越しからでも分かる。
 クロエは明らかにハミルトンを警戒している。
 しかも最近では、護符をネックレスのように首からぶら下げたままだ。一度外させるために高級な衣服を贈ってみたが、「動きにくい」の一言で突き返された。
 それならばと、シャネルを使って湯浴みの隙を突くことも計画したが――なんと湯浴みの際にも護符を外さなかった。
 思いきって理由を尋ねてみると、神官様に肌身離さずつけておくように言われたんだと。
「どこの神官だよ! くそったれぇッ!」
 こうなれば、神官以上の信用を勝ち取り、護符をあちらから外させるしかない。そのためにはまず、周囲から固める必要がある。
 ◆
「やあ、ドブネズミくんじゃなくて……ドミネスくんだったか。体の調子はどうだい?」
「誰がドブネズミだぁッ! てめぇ喧嘩売ってんのか! いっ……」
「ほら、興奮するな。傷が開いてる」
「誰のせいだ!」
 軽く肩をすくめる。
 しかし――相変わらず妙な病だな。
 古傷が開いたり、軽くぶつけただけで皮膚が裂けるとは。
「……また痣、増えてないか?」
「ああ……まあな」
 歯切れが悪い。
「その歯、どうした」
「抜けたんだよ」
「抜けた?」
 そういえば、近頃貧困街の人たちの歯がよく抜け落ちると、クロエが言っていた。てっきり年配の話だと思っていたが。
「歳はいくつだ」
「たぶん十四」
 十四で歯が抜ける?
「虫歯だったのか」
「わっかんねぇ」
 わっかんねぇ、か。阿呆だな。まあ学校に行ってないならこんなもんか。
 貧困街で流行している病の症状を整理すると――倦怠感、歯茎からの出血、皮膚の内出血、治らない傷、軽くぶつかっただけで皮膚が裂ける、昔の傷跡が開く、そして歯が落ちる。
「……う〜ん、感染症ならとっくに外に広がってるはずなんだけどな」
 だが、症状が出ているのは貧困街の連中だけ。
 同じ街に住む人々には起きていない。
「感染じゃないのか……?」
 ◆
 考えながら歩いていると、ひときわ元気な子供が目に入った。
 今のこの街で、その健康さは異質だ。
「少しいいか」
「なんだ、おっさん」
「お兄さんな?」
 ぶん殴るぞくそガキ。
 自分でおっさんと自称するのはいい。だが人から言われると異常に腹立たしいのはなんでなんだろう。今の俺はハミルトン。歳は二十四。普通にお兄さんだろ。
「わ、悪かったよ、お兄さん」
「わかってくれればいい。それより、君は随分元気そうだな」
「ん……ああ、みんな変な病気になってるもんな」
「君はどこも悪くないのか?」
「うん。俺は平気」
「ちなみにどこへ行くんだ」
「飯を取りに行くんだ」
「……飯を取る?」
「おっさんじゃなくて、お兄さんも食うもんないのか? なら来いよ。少しくらいなら分けてやる」
 気になり、後をついていく。
 辿り着いたのは、街の外――森の中だった。
「これ、知ってるか?」
 差し出されたのは、ただの草だ。
「煮たら結構美味いんだ。こっちのは歯ごたえもあってさ。母ちゃんのお気に入り」
「ひとつ聞いてもいいか」
「ん、なに?」
「それ、いつから食べてる?」
「昔からだけど」
「家族みんな食べてるのか?」
「ああ、みんな食ってるよ」
「ちなみに、家族は全員元気なのか?」
「ったり前だろ」
 ――確信した。
 すべての点と点が繋がった。
 こいつは貧困街を救う英雄かもしれん。
「……そういうことか」
 ◆
 俺はクロエのもとへ急いだ。
「ハニー!」
「……ハミルトンさん?」
 振り向いた彼女の顔には、隠しきれない疲労が滲んでいる。目の下の隈、乾いた唇。寝ていないのは明らかだった。
「原因が分かった」
「……本当ですか?」
 かすれた声。
 それでも、その瞳にはわずかな希望が宿る。
「嘘は言わない。君には特にね」
「……それで、原因は?」
「食事だ」
「……はい?」
 パチクリと睫毛を鳴らして、固まってしまった。
「そんなわけないじゃないですか! 私を誂うのも大概にしてくださいです!」
「大真面目だ。"壊血病"だよ」
「……壊血病? 聞いたことない病名です」
「ビタミンC――コラーゲンを作るのに必要な栄養が極端に不足している状態のことだ」
「コラーゲン……?」
 まあ、そうなるよな。
 この世界にはビタミンという概念そのものがないのか。
「体の全タンパク質の約30%を占める繊維状の物質で、皮膚・骨・血管・軟骨を構成し、細胞同士をつなぐ接着剤のような役割を持っている。それが足りなくなると――体のあらゆる部分が"崩れ"はじめる」
 症状を思い出せ。
 血が止まらない。傷が治らない。歯が抜ける。
「……それが、食事とどう関係するです?」
「貧困街の食事はパンと粥と安い肉が中心だろう。ビタミンCがほぼゼロの食事内容だ。野菜は高騰すれば真っ先に口から消える」
「……でも、感染しているんじゃ……」
「感染しているなら、外の街にも広がっているはずだ。違うか?」
 クロエは俯く。図星か。
「一つ聞く。森で草を食っている連中がいるのを知っているか?」
「……え?」
「そいつらは元気だ。同じ貧困街に住んでいて、同じ空気を吸っているのに」
「……違いは……食事、です?」
「そういうことだ」
 沈黙が落ちた。
「……証明できるです?」
 顔を上げる。
 いい目だ。
「できるさ」
 ◆
 その日のうちに数人を集め、森で採れた山菜を食べさせる。クロエは、その様子をじっと見ていた。
 一日目。変化なし。
 二日目。わずかに出血が減る。
「……止まってる?」
 三日目。
「おい、傷が……閉じてるぞ……」
 ざわめきが広がる。クロエは、言葉を失っていた。
「な?」
「……薬じゃなく、食事で……」
「そうだ。ハニーの治療で傷は一時的に塞がる。だがすぐに開いていただろう?」
「……っ」
「それは、体そのものが崩れていたからだ。血管も、皮膚も、歯茎も」
「……」
 クロエは俯いたまま、動かない。やがて、かすかに肩が揺れた。
「私……気づけなかったです……目の前で苦しんでいる人たちがいたのに……」
「――折れるな! 君は医者だ。料理人じゃない。栄養面については専門外だろう」
「でも――」
「ずっと診続けていたのはハニーだ。僕は原因を見つけただけで、延命させていたのは間違いなくハニーだよ」
「……ありがとうございます、です」
 その目には、はっきりとした信頼が宿っていた。
 ◆
 それから数日後、壊血病の症状に苦しんでいた人々は、すっかり元気になっていた。
 ところが、一人だけ冴えない顔をしている者がいる。クロエである。
 浮かない表情の理由を尋ねると、
「たくさん支援してもらったのに、特効薬はできなかったです」
 ああ、そのことか。クロエと接触するための口実に過ぎなかったので、正直忘れていた。
「なら、一つ頼みがある」
「なんです? 私にできることなら何でも言うです」
「これを着てくれないか」
 差し出したのは、以前断られたドレスだ。
「……そんなことでいいです?」
「ハニーのドレス姿が見れるなら、それに勝る喜びはないよ」
 クロエは一瞬だけ迷うように視線を伏せ、それから小さく頷いた。
「……ど、どうです? こういうドレスは着慣れないので、恥ずかしいです」
 現れたクロエの姿に、思わず息を呑む。飾り気のない日常しか知らない少女が初めて纏う上質な布は、その違和感すら彼女を引き立てていた。
「完璧だ。ビューティフォー! エクセレント!!」
「そ、そんなに褒められると困るです……」
 頬を染め、視線を泳がせる。
 ――いい流れだ。
「――だが」
「?」
「その護符は、少し野暮だな。せっかくのドレスに似合わない」
 クロエの指が、首元に触れる。
 無意識だったのか、それとも――分かっていて触れたのか。
「そう、です?」
「ああ。せっかくの美しさが台無しだ」
 視線が揺れる。
 ほんのわずかに、眉が寄った。
「……でも、これは……」
 言いかけて、止まる。
 脳裏に浮かんでいるのは、きっとあの神官の言葉だろう。
 "肌身離さずつけていなさい"――そう言われていたはずだ。
 クロエの指が、ぎゅっと護符を握る。外さない理由は、ある。むしろ、外す理由のほうがない。
「……無理にとは言わない」
 あえて一歩引く。
「似合っているのは事実だ。ただ、もっと良くなると思っただけだよ」
 それだけ言って、視線を外す。
 沈黙。
 選ばせる時間を、残す。
「……」
 クロエは俯いたまま、動かない。指先だけが、わずかに震えている。
「……ハミルトンさんは」
 小さな声。
「私のこと、助けてくれたです。原因も分からなかった病気を……止めてくれたです」
「……」
「私、あの時……もう、どうしたらいいか分からなかったです」
 ぽつり、ぽつりと落ちる言葉。顔は上げないまま、続ける。
「……だから」
 一度、言葉が途切れる。息を吸う音が、やけに大きく聞こえた。
「ハミルトンさんのことは……信じてるです」
 その一言で、すべてが決まる。
 カチリ、と。小さな音。鎖が外れる。護符が、彼女の手の中に収まった。
「……少しくらいなら、大丈夫ですよね」
 自分に言い聞かせるような、弱い声。それでも――笑おうとしている。
 差し出すでもなく、ただ握ったまま。"完全には手放していない"その仕草が、逆に生々しい。
 無防備な首元が、露わになる。
 ――勝った。
 そう確信した、その瞬間。
「ハミルトンさん」
 クロエが、まっすぐこちらを見た。
 逃げない視線。どこまでも真っ直ぐで、疑いがない。
「……ありがとうございます」
 小さく、けれどはっきりと。
「私……ずっと怖かったです。原因も分からない病気で、みんな苦しんでて……私、薬師なのに、何もできなくて……」
 言葉が、ゆっくりと染み込んでくる。
「でも、ハミルトンさんが来てくれて」
 一歩、こちらへ近づく。
 無防備に。
「やっと……助けられたです」
 その顔は、泣きそうで――それでも、笑っていた。
「だから……」
 ほんのわずかに、手が止まる。
 ――理解しかける。
 この感情の正体を。
 この状況の意味を。
 少女は何も知らない。騙されていることも、信頼が武器として使われていることも、この"ありがとう"が自分の首を差し出す合図になっていることも。
 何ひとつ、知らない。
 だが。
 ――やめろ。
 これは予定通りだ。ただの工程。ここで止まる理由なんてない。
「どういたしまして、ハニー」
 いつも通りの軽い声音で、その感情を塗り潰す。距離を詰める。
 逃げない。逃げる理由が、彼女にはない。
 それが――信頼だ。
「――あの」
 何か言いかける唇に、触れる。
 一瞬、体が強張る。
 だが拒絶は来ない。
 ほんのわずかに、戸惑いが混じるだけだ。
「……んン……?」
 その隙間に、滑り込ませる。舌先。そして、見えない"それ"も一緒に。
 一拍。遅れて。クロエの瞳が揺れた。
「……え……?」
 違和感に気づいたのかもしれない。
 だが遅い。
 信頼は、すでに侵入経路になっている。
 体が力を失い、ぐらりと傾いた。抱き留める。
 ――軽い。
 こんなに軽い体で、あれだけの人間を支えていたのか。
「……ハミルトン、さん……?」
 焦点の合わない瞳が、こちらを見上げる。理解しようとしている。
 だが、思考が追いつかない。
「大丈夫。すぐ終わる」
 優しく囁く。
 それが、最後の安心材料になる。
 まぶたが落ちる。抵抗は、ない。
 あるのは――最後まで残った"信頼"だけだ。
 完全に崩れ落ちた体を、静かに横たえる。
 ほんの一瞬だけ、視線がその顔に残った。
 穏やかな寝顔だった。
 苦しんでいる人たちを助けようと奔走して、疲れ果てて、それでも笑おうとしていた少女が、今は何も知らずに眠っている。
「……さて」
 わずかに間を置いて、口元を拭う。
 侵食は順調。
 内部への定着も問題なし。
「五体目」
 淡々と告げる。
 だが、その声はほんのわずかに低かった。
 理由は――考えない。
「――クロエ=パディントン。攻略完了」