第一話:白いエプロンと40の背中
ー/ー 朝靄がまだ王宮の尖塔にまとわりついている時刻に、その少女は正門の前に立っていた。
ミレーユ・ハートフィールド。16歳。帝国辺境の中流商家の三女。栗色のセミロングを低い位置で一つに結び、灰色がかった青い瞳を不安げに揺らしている。素朴で地味な顔立ちだが、表情の豊かさが印象に残る娘だった。
手には革の旅行鞄がひとつ。中身は着替えと算盤、それから母が縫ってくれたお守り袋。
鞄の底には、一通の書簡が入っている。王室メイド隊の採用通知書。三ヶ月に及ぶ書類審査と実技試験を経て、ようやく手にした切符だ。
ただし、その書簡には「配属先」の欄が空白のままだった。
合格はしている。しかし、どの部門に配属されるかは記されていない。最終的な判断が、まだ下されていないということだ。
(もしかして、まだ落とされる可能性があるのだろうか……)
考えるほどに胃の奥が重くなる。
「王室メイド隊、本日付で着任の方ですね」
門衛の竜族の兵士に声をかけられ、ミレーユは弾かれたように背筋を伸ばした。
「は、はい。ミレーユ・ハートフィールドです。配属先はまだ伺っておりませんが——」
「最後の面接は長官室で行います。中庭を抜けて、東棟の三階」
兵士は事務的だったが、最後にほんの少しだけ声を和らげた。
「緊張するのは当たり前だ。だが、あの方の前では正直でいればいい」
あの方。王室メイド隊長官、リリア・シャイニング。
ヒカル王の幼馴染にして専属メイド。裏切りの夜に王を救い、建国以来十二年、その傍に仕え続けている女性。
ミレーユが王宮メイドに志願した理由も、突き詰めればこの人に行き着く。
10歳のとき、父に連れられて王宮の式典を見学した。広間の片隅で、控えめに微笑むメイド服の女性がいた。空気に溶け込むように、自然に佇んでいた。
ミレーユの目の前で、その女性は——笑顔のまま、背後から忍び寄った暗殺者の毒針を、指先ひとつで弾いた。
音はなかった。王も、周囲の貴族たちも、誰一人として気づいていなかった。
ただ、ミレーユだけが見てしまった。
あの瞬間から、「あの人のようになりたい」が人生の軸になった。
三階の突き当たり。重厚な樫の扉の前で、ミレーユは深呼吸をした。
ノックをする。
「どうぞ」
扉を開けると、窓際の執務机に一人の女性が座っていた。
明るい亜麻色のショートカット。柔らかな栗色の瞳。小柄で華奢な体躯。三十代半ばのはずだが、穏やかな笑みの奥に、現場を率いてきた者だけが持つ静かな凄みがある。
リリア・シャイニング。六年間憧れ続けた人が、三歩先にいた。
「ミレーユ・ハートフィールドさん。お父上はリヒター総帥の連合軍に物資を納入しておられた方ですね」
リリアは手元の書類にちらりと目を落としただけで、すぐにミレーユの顔に視線を戻した。
「書類は拝見しています。実技の成績も悪くありません」
穏やかな声だった。しかし、次の問いかけは単刀直入だった。
「商家のお嬢さんが、なぜ王宮メイドに?」
面接の想定問答は何度も練習してきた。志望動機、長所と短所、商家育ちの経験をどう活かすか。模範解答は暗記している。
だが、この人の前では——取り繕う気にならなかった。
「……10歳のとき、式典で長官を拝見しました」
声が震えている。
「暗殺者の毒針を、誰にも気づかれないまま弾かれた瞬間を、見てしまったのです」
リリアの表情がわずかに動いた。驚きではない。ああ、あの時の、と思い出すような、淡い追想の色だった。
「あの日から、ずっと——あの人のようになりたいと思ってきました。誰にも気づかれず、誰かを守れる人に」
我ながら青臭い。帳簿の腕とか、語学力とか、もっと実務的なことを言うべきだったかもしれない。
だが、これが本心だった。
リリアはしばらく黙ってミレーユを見つめていた。値踏みとも観察とも違う、もっと深い場所を覗き込むような眼差しだった。
やがて、静かに口を開く。
「ミレーユさん。王室メイド隊は、掃除や給仕をするだけの組織ではありません」
その声には、穏やかさの裏に鋼のような芯があった。
「私たちは、ヒカル様の——王の命を、最も近い場所で守る者です。暗殺者の毒針を弾くこともあれば、食事に盛られた毒を見分けることもある。外交の場で耳に入った密談を、一字一句記憶しなければならないこともあります」
リリアは立ち上がり、ミレーユの正面に歩み寄った。
「美しい仕事ではありません。華やかでもない。そして、いざという時には——自分の命を差し出す覚悟が要ります」
ミレーユの背筋に、冷たいものが走った。
これは面接ではない。覚悟の確認だ。
書類では測れないもの。実技試験では見えないもの。この人が最後に自分の目で見極めなければならない、ただ一つのこと。
「それでも、ここに立ちたいと思いますか?」
喉がカラカラに乾いた。用意していた言葉は全部どこかへ消えた。
残ったのは、十歳の夜から胸の奥で燃え続けてきた、小さな炎だけだった。
「——はい。王を守る盾に、なりたいです」
沈黙が降りる。
リリアの栗色の瞳が、ほんの一瞬だけ優しく細まった。
「配属は生活部門。ドーラ班長の下につきなさい」
配属先が、ようやく告げられた。全身から力が抜けそうになった。
リリアはサイドテーブルの引き出しから白い布を取り出し、ミレーユの前に差し出した。メイド隊のエプロンだった。糊がきいて、折り目が正しい。まだ誰の汗も涙も染みていない、真新しい白。
「ここでは種族も出自も関係ありません。王と国を支えるという誇りだけが、あなたの制服です」
ミレーユは両手でエプロンを受け取った。指先が震えていた。
「次の方をお通しして」
リリアが扉の方に声をかけると、廊下で控えていた別の候補生——エルフ族の若い娘が、緊張した面持ちで入ってきた。すれ違いざまに目が合う。同じ不安と覚悟を抱えた瞳だった。
(全員に、同じことを聞いているか……)
一人ひとりと向き合い、その目を見て、覚悟だけを確かめている。
朝礼は、厨房棟の隣にある訓練場で行われた。
40人近いメイドたちが既に整列していた。人間、竜族、エルフ、ドワーフ、混血。種族も体格もばらばらだ。しかし、全員のエプロンの白だけが揃っている。
リリアが訓練場の前に立った。
声を張るわけでもない。手を叩くわけでもない。ただ一歩、前に出ただけだった。
それだけで——40の背筋が、一斉に伸びた。
ミレーユは息を呑んだ。命令でも威圧でもない。この人が立つだけで、空気が変わる。十二年間この組織を率いてきた人間の重みだった。
生活部門の厨房は、戦場だった。
「遅い! 皿はもっと手早く! 竜族は食べる量が人間の三倍だよ、一枚ずつ丁寧に拭いてたら日が暮れるだろう!」
怒号を飛ばしているのは、赤銅色の巻き毛を頭の上で大きなお団子にまとめた小柄な女性——ドーラ・アイアンポット。生活部門班長。ドワーフ族。
身長は百40センチそこそこだが、前腕の太さと無数の火傷の痕が、この厨房の支配者が誰であるかを雄弁に物語っている。
「あんたが新入りかい。商家の娘だって? とりあえず、あの山を片付けな。昼までに終わらなかったら、晩飯は抜きだよ」
ドーラが顎で示した先には、文字通りの「山」があった。大皿、深鉢、スープ椀。ヒカル王と六龍姫、その子供たちの朝食の残骸が、流し台から溢れんばかりに積み上がっている。一つひとつが竜族サイズで、人間用の倍はある。
ミレーユは声にならない悲鳴を飲み込み、真新しいエプロンを結び直した。
「やります!」
三時間後。手は赤くふやけ、腰は悲鳴を上げ、エプロンは水と油でびしょ濡れだった。朝の真っ白がもう見る影もない。
だが、山は消えていた。
「ほう。根性はあるじゃないか」
ドーラが流し台の縁に指を走らせ、水滴の残りがないか確認する。
「手つきは素人だけど、皿の種類を揃えて重ねるあたり、帳簿屋の血が出てる。及第点としとこう」
「あ、ありがとうございます……」
「礼を言うのはまだ早いよ。昼食の仕込みが待ってる。レヴィア様は辛いもの、アクア様は薄味、テラ様は量が多い。六龍姫様方の好みを全部覚えるまで、あんたに休みはないからね」
ドーラはそう言い捨てて厨房の奥に消えた。その背中は小さいが、どこまでも頼もしかった。
日が傾き始めた頃。
ミレーユは与えられた小部屋のベッドに腰を下ろし、日記帳を開いた。
全身が軋んでいる。だが、心の奥には、疲労とは別の熱いものが灯っていた。
朝の整列。リリア長官が一歩前に出ただけで、40人の空気が変わった、あの瞬間。
そして——「自分の命を差し出す覚悟が要ります」というリリアの声。あの声の重さは、きっとこれから何年も自分の中で響き続けるだろう。
ミレーユはペンを握り、一行だけ書いた。
『ここは種族のサラダボウルだ。そして私は、まだ切られてもいないレタスだ。』
その頃、長官室。
リリアは今日の候補生たちの面接記録を整理していた。エルフの結界術士の娘、ドワーフの鍛冶見習い、獣人混血の通訳志望。それぞれに異なる才能を持ち、異なる事情を抱えている。
全員に、同じ問いを投げた。
答え方は様々だった。毅然と「はい」と言い切る者。涙ぐむ者。長い沈黙の後に頷く者。リリアが見ているのは、言葉の巧みさではない。瞳の奥に何が燃えているか——それだけだ。
ペンを置き、窓の外に目を向ける。夕空に、王宮の尖塔が影絵のように浮かんでいた。
六年前の式典。毒針を弾いた記憶は、リリアにもある。あの時、観衆の中に一人だけ、こちらを見ている子供がいたことも。
(あの目は——ヒカル様が、あの雨の夜に傷ついた竜の少女に手を差し伸べた時と、同じ色をしていた)
リリアは小さく微笑み、ミレーユの配属書類に判を押した。
明日もまた、40の背中を率いて王宮の裏側を回る朝が来る。その40一人目が、いつか自分の隣に立てる日が来るかどうかは、まだ分からない。
ただ——あのエプロンの結び目が、少し不格好だったことだけは、リリアの記憶に確かに残った。
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