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on your side

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序章

 覚えているのは、小さな神社の境内に生えている巨木の枝にまたがって町を眺めている 自分の姿だ。
 学校には馴染めずにこっそり早退して、1時間でも2時間でも暮れゆく街並みを眺めていた。故郷は海の近い港町で、高台にある神社からは遠くに小さく海が見えたものだった。
 ぼくはひとりだった。
 ……一人になりたかった。
 僕には学校も家も、夜眠るときさえ 、この世の中には怖いものだらけだった。
 いないはずのものが見え、あるはずのものが見えない。
 音は全て雑音に聞こえ、流行りのポップスに耳が苛まれた。

 僕には、幼い自分も両親さえも気づかない、生まれながらの障害があった。

 音に敏感で、眠れない。
 意識しないとまっすぐに歩けない。
 人の顔が覚えられず、人の顔を直視できない。
 鋏さえまっすぐ使えない不器用さに表情のなさ。
 頭が常に重く、緊張していて、倦怠感ですぐに眠くなる。
 小学校の絵画の時間などは毎日見ているはずの家族の顔や髪型を思い出せずに、半泣きになった。
 卒業式や体育祭でも、教師に真っ直ぐに並べと言われた僕はどうしても半歩横にずれた位置にしか並べなかった。前の人の頭の位置を見て、足元のラインを見て、ここだと思う位置に並ぶのに必ず叱られる。教師によって修正された位置は、僕から見ればやや斜めにずれた位置で――後年、僕は自分にとってやや斜め右前方に立つことで他の人の正面になるらしいということを学び実践していた。
 注意されたり笑われたりした経験が積み重なり、学校は億劫だった。
 毎日毎日、各種様々な不便があったが、皆こんなものだろうと思って頑張ってきた。
 普通の人間はそんなこと頑張らなくても良いのだということを知りもしないで。
 だから僕は自分に自信がなく、顔を上げて歩けた試しがなかった。

 それでもなんとか大人になれた。
 大人になった僕は朝起きて、15分で身なりを整える。

 髪は短すぎるとよく言われるが気にしない。
 坊主手前まで刈り上げた短い髪、高身長とやや筋肉質な体。整った顔と相まって、ゲイっぽいなどとよく言われるが、それも僕は気にしない。
 プレスされた服は苦手で、許可をもらって職場ではハイネックのTシャツやポロシャツで通している。灰色や白ばかり着るものだから、子供達からは 同じ服を何着持ってるのと笑われる。僕も笑う。「一週間分同じ服を持っているよ」と。
 僕は大人になって塾の講師となった。
 毎日は楽しい。子供達は可愛い。一緒に学ぶ楽しさを日々実感している。
 大人になるとは素晴らしいなと、たまに 欠落した子供の頃の思い出を反芻などしたりして、僕は今日も職場へ行く準備をする。
 
 僕は朝起きて、15分で身なりを整える。
 ニャーとすり寄ってきた猫へ餌をやって、行ってきますと声をかける。

 仕事は好きだ。子供は可愛い。頭でっかちの大人より、よほど話が通じる。
 もちろん分かり合えない子もいる。
 けれど、毎日は楽しい。
 さあ授業へ行かなければ。

 右手にはビジネスバッグ、左手には授業用の資料を詰め込んだトートバッグ。
 …… 両手が塞がっていては携帯が持てない。
 鍵はどこだ。
 思い出せない。
 頭の中はパニックで、一度カバンを床に置くことさえ思いつかない。
 玄関で僕は呆然と立ち尽くす。
 動けないままどうにか首だけを左へと回す。足がもつれてその場に倒れ込む。
 目の前がチカチカした。
「鍵……」
 小さな声でつぶやくと、ニャァと猫が近寄ってきて、ふふっ……と自嘲で涙がこぼれそうになる。
 分かっている。
 僕は小さい頃から何も変わっていない。出来損ないだ。
 両手に荷物を持っていては、家の鍵を掴むことも携帯を探すこともできない。
 うつむくと感情が溢れ出し、涙で目の前がにじむ。泣くようなことじゃない。扉の向こうでは、外の世界では仕事が待っている 。
 僕はどこへ行くのだろう。どうしてそこへ行くのだろう。
 僕は……そのまま、何分も家の玄関で座り込んで泣いた。


第1章

 目覚めるとコンクリートの天井が見えた。
 部屋は薄暗くしんと冷えていて、厚いカーテンの隙間から漏れる薄青い光だけが細く床に落ちている。部屋の明かりが自動点灯していないということは、まだ夜明け前の時刻の筈だった。
(今日も寒そうだな……)
 そんな思考が男、新藤一哉の頭の隅をかすめる。
「……アダム……、明かりと暖房をつけてくれ……」
 命令してから寝返りをして、こめかみを指で押さえる。
 微かな電子音とともに暖房の送風口が口を開き、ほんのりと白い明かりが灯った。
 指の動きに連動して電子コンタクトレンズが起動する。すると、【 Good morning ! 】という薄青い文字が目の前にほんのりと立ち上がった。
 デフォルトのスタート画面は数秒で消え、自動で視界補正が行われる。薄闇の視界の中にキラキラと美しい銀粉が舞い上がり、縦に細く光が走る。光は眩しいと思われるほどでもなく、弱々しく、どこか温かい。銀扮で覆われた世界を左右に掻き分けるようにその光は広がり、その奥から、輪郭が鋭く、視認性の高いクリアな視界――電子ビューが目の前へ展開した。
視界の隅々まで色鮮やかで、ポップで美しい視界。
 電子ビューで見ると、世界はまるでプラスチックでできた玩具だった。くっきりとした陰影は世界をきらめかせる。
 目の前で確認すべきタスクが次々に表示され、重要度順にパタパタと自動で並び替えられる。【2038年2月12日午前6時2分】【東京】【晴れ】【気温1.8度、湿度70%。室内12.5度、湿度44%】【本日のニュース配信3件】【クライアントより仕事の依頼2件、うち新規は1件です。内容は……】
 薄く発光する文字列は鮮やかなオレンジで、枕へ顔を埋めながら一通り目を通す頃には目も覚めている。
 一哉は少し考えると、親指と人差し指でこめかみと眉間に触れ、一度電子ビューを終了させた。
 鮮やかな視界は本来の落ち着いた色調に戻る。境界が曖昧で、ぼんやりとした世界。タスクや時刻を表示する文字列もほとんど認識できないレベルにまで透明化され、視界の隅にちらつくだけになる。世界の尖った輪郭は鋭さを失い、遠くの事象はぼんやりと霞むように見えた。
「っ……」
 一気に本来の世界が押し寄せて、寝ているのにめまいのような感覚が一哉を襲った。
 ブレる視界に、右耳の耳鳴り。恐怖から心臓が高く打つ音が体内から聞こえる。
 起き抜けに電子ビューから視界を切り替えると、よくこういった感覚になる。電子ビューに頼ってばかりではなく、たまには現実を裸眼で見るのも良いかと試してみるのだけれど、どうも一哉の体は自身の目とは相性が良くないらしかった。
【心拍が乱れています。大丈夫ですか、一哉】
 穏やかな声が枕元から聞こえた。スピーカーを通じておしゃべりができるAI、アダム。
「……大、丈夫。おはよう、アダム」
【それは良かったです。おはようございます、一哉】
 部屋の管理を任せているアダムは男とも女ともつかない声で一哉へ2〜3問診をすると続いて今日の天気やニュースを読み上げ始める。
一哉はそろそろと起き上がり、ベッドから足を下ろす。ひんやりとした床の感触が足裏に伝わってくる。ベッドへ腰掛けたまま、白っぽい光のシャワーを頭上から浴びた。
 ぐらぐらとする頭を抱えて一哉はうなだれる。小さい頃から体は不調だらけだった。大人になってからそれは病気――障害のせいだと分かった。毎日死ぬほど頑張れば、日常のあれこれは人並みにできていた幼い頃。自身の異常に気づかなかった幼い自分が哀れでならない。自覚してみれば、朝起きるのでさえ、こんなにも難しい。
 今は電子ビューでの視覚補正やもろもろのサポートツールによって、ある程度まともな日常が送れている。そしてたまに、本来の自分を思い出したくて電子ビューを切るなどしてみるが……以前はこんな世界に住んでいたかと思うとぞっとする。
 一哉はため息をついてこめかみに指を当て、電子ビューを再開させた。左右にグラグラと揺さぶられているような感覚だった頭が、次第にクリアになっていく。それに伴って、意識しなくても小さく揺れていた体が次第におさまる。

(もう大丈夫だな……)

 ゆっくりと顔を上げ見渡す。相変わらず殺風景な部屋だった。
 ベッドしか置いていない狭い寝室。シーツも壁も灰色一色で、壁には青で描かれた大きな抽象画だけを唯一飾っていた。
 このマンションは梁や柱が室内へ張り出ている古い造りを気に入っていた。打ちっぱなしのコンクリートの壁に無垢の廃材の床。間取りは変形の1DK。広いダイニングキッチンは、普通なら一角をリビングにするのだろうけど、そこを籐のパーティションで区切り同居人の寝室とした。そしてたった1室しかない個室を自分の寝室に。
 クラシカルな雰囲気が良いように思えて、引っ越してきてはや数年。転職は何度かしたが転居する気にはならなかった。物が大量にあると管理ができない一哉の手によって、今では家具らしい家具や、片付けるものさえ何もない。
 頭へと手を添えてそのまま首を傾け、首筋をゆっくりと伸ばす。右へ10秒、手を変えて左へも10秒。両手を後頭部へ添えて前へ10秒。
 首を回し、腰をひねり、肩や腕を順々に解していく。
 上半身をストレッチしていると、次第に床に着いた足裏がじんわりと温まってきた。
 視線を移動させ、視界の端で透けて見える時刻表示に視線を固定させる。
 目の前へほの青く浮き上がった時刻を確認すると、本来の起床予定時間だった。視線を外せばその文字列はすぐに遠ざかる。
 と、
「……起きてるな?」
 ノックの音とともに自動で扉が開き、白いシャツに弛いハーレムパンツを穿いた国籍不明の男――もう一人のアダムが顔を出した。一哉の同居人だ。と言っても彼は電子ビューを使うことによって見えるホログラムで、ノックの音はスピーカーのアダムが演出してくれているだけなのだけれど。
「あぁ、起きてる」
「なら良かった。新規の仕事の連絡がきてるが……」
「わかってる。あとできちんと見るよ」
「了解」
 一哉より年長の、30代も後半のやけに整った顔が奥へ引っ込んだ。緩くウェーブのかかった長めの黒髪に浅黒い肌、色素の薄い瞳。常に笑みを浮かべているような薄い唇は酷薄そうだが、彼は一哉のカウンセラー兼同居人だ。
 どことなく異国を感じさせる風貌の彼に一哉はもう慣れたけれど、この田舎では、一哉たちが並んでいると初対面の相手にはよく不審な眼差しを向けられる。

 一哉は立ち上がり伸びをした。

 部屋をあとにし、ダイニングを素通りして洗面所まで来ると、短い黒髪がボサボサに乱れた寝起きの青年の姿が鏡に写る。誠実そうな、と言われるそこそこ整った顔。中身はともかく体だけは人並みに育ったが、どうにも締まらない雰囲気の男。若く見えるといえば聞こえは良いけれど、見目に構わない一哉はどうにも軽く扱われることが多い。
 仕方なく、こめかみと眉間に指を当てて、髪をかき上げる仕草で電子ビューを2重に立ち上げる。鏡に映る一哉の姿はゆっくりと足元から瓦解し、爪先ほどの小さなブロックの欠片となった一哉の一部はちらちらと瞬きを繰り返しながら次々に新しい像を結んでいく。電子ビューが以前登録しておいた一哉の姿を再現してくれるのだ。
 ヨレヨレの部屋着がきれいにプレスされたシャツとジーンズに変わり、短めの髪はきれいに後ろへとなでつけられ、耳元があらわになる。小奇麗な青年の完成だ。
 一哉が電子ビューを起動している限り、電子ビューを通せば誰でも、この一哉の姿を見ることができた。
 午前中は仕事もないし、外に出るのも買い物程度だ。わざわざ本物の自分を飾る必要もない。顔だけ洗い洗面所を出ると、アダムがダイニングのソファに寝転がったまま一哉を手招いた。そばへ近寄ると、アダムは首を傾げて一哉の姿を上から下まで眺める。
「よく眠れたらしいな」
 アダムが器用に片眉を引き上げる。
「おかげさまで朝までぐっすりだ。――アダム、【電子ビュー】に今日のニュースの続きを動画で配信して」
 一哉は後半、テーブルの上へ置かれたスピーカーへ大きめの声で呼びかける。
 スピーカーのアダムと人型のホログラムのアダム。彼らは二人で一人、同一個体だった。
 ただ機能の問題か、性格や言葉遣いは違う。
 家のセキュリティや管理をするスピカ―型のアダムは礼儀正しく朗らかだ。対して同居人兼仕事のサポートを行ってくれるホログラムのアダムは口調こそ砕けているがやや偏屈だ。
 本来はどちらかの名前を変えて使用するのが正しいのだろうが、片方に伝えたことはもう片方に伝わっているし、記憶違いなどもない。不便を特に感じていない一哉は初期設定のままで彼らを使用していた。そして、彼らは一哉の呼びかけのニュアンスをきちんと聞き分ける。
【畏まりました】
 涼やかなスピーカーのアダムの声とともに、視界の半分に動画配信のサイトが立ち上がった。人型のアダムは一哉の顔をじっと見てから、気が済んだのか指で追い払う仕草をする。一哉はキッチンへ向かい、ニュース映像を透かしてみながら、手元ではコーヒーを入れる準備を始めた。

「……か?」
 ダイニングからアダムの声だけが追いかけてきて、水を使っている一哉にはニュースの音ともそれが混じり合いよく聞こえない。
「なに?」
 一哉はアダムに声を張り上げて答える。アダムは了解したのか、無線LANシステムを経由して一哉の内耳のスピーカーに話しかけてきた。
【今日の新規の仕事、予備調査はするか?】
【そうだな、……アダムはどっちが良いと思う?まだよく見てないけど、予備調査なしでも大丈夫じゃないかと僕は思うんだけど】
【現場が近いからまずは行ってみるのもありかもな。いつもの現場にも近いから、ナカタニのばあさんにも会える】
【あの人か……】
新規の仕事以外に、以前から受けていた別件も持ち出されて一哉は呻いた。
【わかった、なら予備調査はなしで。報告書も現地調査からにしよう】
 一哉が淹れたてのコーヒーをテーブルへ差し出すと、どうもと言ってアダムはまた目を手元に落とした。
 勿論アダムは飲めないとわかって入るが、コーヒーを1杯だけいれるというのも味気ない。一哉は時折、自身のコーヒーをいれるのに合わせてアダムのも用意していた。アダムはそれに良いとも悪いとも言わない。
 一哉はアダムの手元に目を落とした。
 最近アダムは読書に嵌っている。今はジャック・ロンドンの「白い牙」を読んでいると、昨夜自慢げに話していた。
「それ、面白いか?」
 どうせ一瞬で読めるくせにと、白けた気分で一哉は聞く。
「面白い。犬の思考を人間目線で語っているところが特に」
 舌で唇を湿らせて、ぼろぼろの本のホログラムから目を話さずにアダムが言う。

 一哉は手早くスクランブルエッグを作って、ハムと一緒に皿へ載せた。カフェオレとともに食卓へ運べば、朝食の出来上がりだ。
 カフェオレには氷を一つだけ入れる。
「それで、話の続き。新規の仕事のことだけど」
 卵3つのスクランブルエッグを頬張りながら一哉はアダムに話しかける。アダムはこち
らに横顔を向けたまま、目線だけを寄こしてこめかみを指で示した。
「第3地区、市内での在宅確認。今日の午後一の出発では?」
 視界の斜め右上で、メモの形のアイコンが点滅する。アダムが一哉の電子ビューへ仕事のまとめ資料を送ってくれたらしかった。
「了解」
 なら11時過ぎには着替えないとな、と一哉は頭で計算する。
 朝食を終えると、読書に夢中のアダムを残して買い物にでかける準備をする。コートを羽織り玄関を出る時に、パジャマのままなんだよな……とちょっと迷ったものの、結局そのままの姿で外に出る。
 どうせ西日本の第3地区はどこも人口過疎地域だ。道はガラガラだし、コンビニには店員もいない。自動レジなのだ。わずかに暮らす人々も、99%は電子ビューを使って生活している。彼らの目には一哉はグレーのジーンズにコートを羽織った普通の若者に見えるはずだ。
「久々にカレーにするか」
 夕飯のメニューを考えながら一哉はコートの前を合わせてエントランスを出た。


第2章

 一哉たちが住んでいるのは、日本の国土の約3分の2を占める第3地区だった。
 住人は社会保障費の優遇措置を受ける代わりに、国の賃金格差是正措置――最低賃金の保証対象から外されている。一哉自身も職を転々としてきたが、ここに引っ越してきてからは第1地区時代の半分以上は稼げた試しがない。
 いわゆる、地方と都市部との格差是正がされる見込みがないことが判明したのが、今から数十年前。人口減少に伴い田舎から都会へと人々の流出が止まらない時代だった。
 人々の生活費は安いが、それ以上に恐ろしく賃金が安い地域。
 インフラの整備を進めても、そこで暮らす人々は少なく、税収が見込めない地域。
 高齢化も進み、なぜか出生率だけは高い地域。健康で意欲のある子どもたちは働き手として自立すると、その多くが都市部へ流入してしまう地方都市。
 当時の日本にはそんな地域が溢れていた。
 圧倒的な人手不足ながら、そこに住む人々を切り捨てるわけには行かないという矛盾。そこにいくら公費を投入しても改善できないなら、もう根底の考え方を変えるしかない。
 そこで国は3つの政策を取った。
 インフラ整備に代わるインヴィジュアルプラン(IP法)、地方再編成法、それに労働賃金改正法。
 インヴィジュアルプランは地方のICT化の義務化を、地方再編成法は日本を第1〜3地区に分け、住む地域によって年金の上限額や受給基準が変動させることを、労働賃金改正法は、主に第3地区における最低賃金の下限を大幅に引き下げることを定めたのだ。
 これにより、第1地区には富んだ人々が高い税率、高い年金受給に高い給金を求めて集った。
 第3地区には貧しい人々が低い税率、早い年齢での年金の受給開始を求めて、低賃金を受け入れ移り住んだ。
 第2地区にはその中間の人々が。
 そして数十年。
 第3地区は高度にICTの化された地域ながら、極めて貧しい人々が集う、人口過疎地域になっていた。大手スーパーや小売店、コンビニエンスストアは機械化が進み、自動レジには人間はいない。役所の窓口は閉鎖され、web上でほとんどのことが行える。
 人々は電子コンタクトを両目に埋め込み、24時間インターネットに繋がり、電子ビューを日常に使って生活している。

 バスや鉄道は廃止され、廃墟となった駅にはたまに貸し切りバスで他の地区から観光客が訪れる。自動運転の軽自動車や自動三輪車が田舎道を悠々と走り、特に過疎の進んだ山間地域では、人々の移動には軽飛行機が使用される。物品の輸送はもっぱらドローンで、人々はスマホが手放せない。
 それが、一哉らが暮らす第3地区。日本の中で最もゆっくりと人間が滅びていく、そういう地域だった。

 午後になり二人してマンションのエントランスを出ると、海の匂いを微かにのせた風が綺麗に整備された工場の緑地帯を駆け下りてくる。2月の穏やかな日だった。
「それで、今日の仕事は何だ?」
 人通りの少ない路地を選びながら、アダムは一哉を振り返った。一哉が今回の仕事に適しているかの問診を兼ねた、資料の復習だ。
 仕事は常に二人でする。
 ホログラムのアダムはこうやって外に連れ出されることも多い。電子ビューを利用してさえいれば、どこでも誰にでもアダムが見えているからだ。
 実際、アダム自身は一哉のスマートフォンの中にいるのだけれど、一定の距離ならば一哉から離れていても行動は可能だった。
 一哉は指でこめかみに触れまばたきをすると、電子ビューに本部からの仕事の資料を立ち上げた。抜粋して読み上げる。周囲の雑踏に紛れるほどの小さな声だったが、アダムは一哉の声をしっかりと聞いていた。
「親族から居住確認を要請されている人物がいる。名前はアレク・サワムラ。39歳。一人暮らし。履歴を調べたところ、クレジットカードを半年以上使用していない」
 一哉が喋る度、白い呼気が口元から漏れる。2月の瀬戸内はまだ寒い。一哉のシャツの襟元から白い喉がのぞくのを見て、アダムは自分のコートの前を掻き合わせた。
「――数年前に第2地区から引っ越してきて第3地区に身寄りはなし。叔父が第2地区に暮らしていて、彼からの依頼で先月事前調査が行われた」
「依頼の具体的な内容は?」
 アダムが尋ねる。
「彼が実際、親族に知らされている住所に居住しているか……生きているのか確認してほしい、とのこと。サワムラは両親を早くに亡くして、父親の代わりがこの叔父だったらしい。良好な関係だったが、昨年夏に連絡が途絶えた。電話をしても留守で、SNSで呼びかけても返事がない。忙しいのかと、12月にクリスマスプレゼントを送ったところ、宛先不明で返送された。心配になった叔父は国民IDポータルを通じてサワムラへ呼びかけたが、年が明けて現在も返事がない。国民IDポータルのAIはサワムラのクレジットカード履歴をチェック、昨年8月から利用履歴がないことから調査が必要と判断した」
「なるほど、問題だな」
 アダムは目を細めて町並みを見た。
 昨今、第3地区では現金はもはや死滅したと言われている。クレジットカードを全く利用せず生活できる人間がこの地域にいるのかと疑いが出るくらいだ。
 第3地区では食料に医薬品、通信サービスに居住費、コンビニのコーヒー1杯にさえ、人々は国民IDポータルを通してクレジット決済や電子決済を利用する。
 Japan Identification 通称「国民ID」。
 12年前に制定された国民番号法により、国民一人ひとりには13桁の国民番号「国民ID」と写真入りの「国民IDカード」が発行されるようになった。
 国民IDカードは、いわゆる公的な身分証明書だ。
 保険証、運転免許証、年金手帳に障害者手帳。その他諸々の煩わしいカード類がこのIDカードに一本化された。写真入りで、生年月日に由来する13桁の国民IDや電子署名が刻まれている。
 法の施行から数年で、国や一部民間が提供する福祉教育サービスは、国民IDカードの提示で無償利用できるようになった。現在では国が運営する国民IDのポータルサイトに接続すれば指先一つで住所の変更が行え、役所への照会ができ、起業ができる。
 民間も同様だった。
 例えば件のクレジットカード。
 申し込み欄に国民IDを入力さえすれば、カード会社が勝手に国民IDのポータルサイトにアクセスし、個人の信用度を調査、AIが約30秒で審査結果を送ってくる。早ければ翌日にはもう手元にカードが届く仕組みだ。
 同法では同時に国民IDカードの携帯が義務付けられ、不携帯や偽造などには各種の罰則規定が設けられている。そのため当初こそ反発があったが、最近ではそれも下火だ。徹底的な情報開示と自己管理が可能なポータルサイトの仕様、官民共同プロジェクトという先進さ。そして何より、大幅に削減された社会保障費が後押しした形だった。
 実際、第3地区の住民の間で国民IDについて否定的な意見を聞くことはほぼなくなった。
来年には携帯義務のあるカードに代わって、皮下に埋め込む形の国民IDICチップの運用が国会で審議入りになる予定だという。最近の若者の中には既に電子決済対応のICチップを皮下に埋め込んでいる者も一定数いるから、法整備さえ進めば、それもあまり違和感なく受け入れられる筈だった。
「居住確認っていうか、孤独死案件の気がするな……」
 一哉がぼやく。人口減少著しい第3地区ではたいして珍しくもない。年に数件はぶちあたる仕事だ。だからといって気が休まるわけではないが。
 一哉の仕事は補助司という福祉職だった。
 市からの依頼で住人の「居住」「在宅」「通院」を確認する仕事だ。
 「居住」はIDポータルへ登録されている住所へ住人が実際に住んでいるかの確認。「在宅」は決められた日時に住人が家へいるかの確認。利用者の多くは前科がある者や仮釈放中の者が対象の者だった。「通院」は定期的な通院を行う住人の医療施設への付き添いだ。
 簡単な調査や確認、付き添いだけなので給料は安い。
 利用者に何かあれば福祉や医療の専門へつなぐか、警察へ連絡するのが常だった。
「事前調査では何だって?」
 アダムが先を促す。一哉はどうしても孤独死の現場を想像するのか、嫌そうに資料の続きを読み上げる。
「ちょうど1ヶ月前……叔父の依頼を受けて、ポータルサイトのAIがサワムラを捜した。携帯しているはずの個別IDカードの信号と、映像で。その結果すぐに、自宅前と、自宅近くの無人コンビニで彼は捕捉された。それぞれの入口を見張る防犯カメラの映像に、通りかかるサワムラの姿が何度か記録されている。それを叔父に確認してもらった」
「なら、生きてるんじゃないか?」
「そうだけど、まぁ……あれだよ」
 一哉が言いよどむ。アダムも同時進行で資料を読んでいたので一哉が言いづらそうにしている内容は分かった。
 一哉の過去に突かれると痛いことが同様にあるのだ。仕方なくアダムは自分で答えた。
「サワムラの叔父曰く『このアレクは別人だ』……だったか?」
「そう」
 一哉が肩をすくめた。
「……もしかしたらID偽造による成りすましかもな」
 身分証の偽造などによる、他人への成りすまし自体は昔からよくあることだ。ただその場合、成りすまされた相手はどうなったのかという問題が立ちふさがる。
 実は一哉自身、アダムと連携してなりすましを偽装しようとした過去がある。しかし、それは実現しなかったのだが。
「そろそろだ。地図はいるか?」
「あぁ。欲しい」
 アダムは尋ねて、頷く一哉を横目で見た。アダムは人差し指で十字を切って一哉の電子ビューへ地図アプリを立ち上げた。
 一哉の視界では、目の前の景色に同期して目的地までのストリートビューが3Dで展開したと同時に、重なり合った景色とストリートビューが一瞬ブレる。
 一哉がよろめくのを見てアダムはとっさに手を出しかけた。が、無駄だと判断してすぐに手を引っ込める。ホログラムの体を持つアダムでは一哉を支えられない。
 左右に大きく揺れた一哉だったが、視覚補正が行われ、体勢をどうにか立て直す。気づけば足元から進行方向への歩道へは蛍光グリーンの矢印で道順が描かれ、視界の左端にはオレンジで目的地までの詳細な情報が描かれていた。
 徒歩であと7分。
 アダムは目線だけで一哉を振り返る。一哉は独り言のように呟く。
「偽装なら、っ……やっかいそうだ。けど、半年もクレジットを使わずに生活できるもんかな。収入はどうだっけ?」
 何らかの方法で金を手に入れないことには生活できないはずだ。今度はアダムが資料を読み込んで返事する。
「サワムラ本人は会社員だな。電子ビュー開発の下請け企業でプログラマーをしていた。1年前から休職中で、精神疾患……軽度の鬱状態と診断されて半年間の療養を言い渡されている。即座に失業保険も支払われているが、夏以降は手を付けていない」
「ふうん。本人は働けない状態で、資金の動きもなし、か」
「そういうことになるな」
 喋っているうちに目的地へと着いた。
 二人の家とそう大差ない、鉄筋コンクリートのマンション。
 間口は狭く高さだけは立派で、三階しかない低層のオフィスビルと二階建ての民家の間というなんともバランスの悪い立地で、6階建てというその姿はやや悪目立ちしている。
「海からは少し離れてるけど、ここも上階なら海が見えそうだ」
 自宅を思い出すのか一哉が呟く。つられてアダムがマンションを見上げると、横に並んだ一哉が周囲を見渡した。
「僕は……、すぐそこのカフェで待ってる」
 向かいの通りにあるファストフード店を示す。
 まずはアダムが現場へ赴き、本人と面会する手筈だった。面会と言ってもアダムはホログラムだから、近くの何かの「視界」をジャックする。一哉はそのアダムの視界を通じて映像をチェックし、危険がない場合、必要ならば合流する予定だった。
「了解」
 アダムは頷き、指先でチェックを描き一哉の地図アプリを終了させた。
 代わって、一哉の内耳のインカムと電子コンタクトのカメラアプリを同期させた。これで音声と映像をリアルタイムで一哉の電子コンタクトへ送ることができる。
 アダムが振り向くと、一哉はアダムがジャックした近くの監視カメラの信号を電子ビュー上で受信したらしく、小さく手を上げてから向かいの通りへと渡ろうとしていた。それを確認し、アダムは前へ向き直る。
「国民ID局所属、補助司No.102216。調査No.010212-07の案件につき記録を開始します」
 アダムが所属部署とナンバーを詠唱すると、調査局に常駐するAIが周囲50メートル以内の監視カメラの使用許可を通知してきた。
 カメラが自動録画を始める。許可された映像を探ってみれば、サワムラのマンションではマンション前や個別の部屋の前に必ず監視カメラがついているらしい。そうであれば「面会」は簡単だ。
 まずは本当にアレク・サワムラが生きているのか、実際に会って確かめなくてはいけない。


第3章

 古いアパートにエレベーターはなく、アダムは徒歩で5階まで上がった。
 階段は踊り場を折れ曲がるコの字型で、踊り場を一つ過ぎると次の踊り場には左右に部屋が一つずつある構造だった。古びてはいたが壁も床も清潔で、落書きやごみがほとんど見当たらない。管理会社がしっかりしているのかもしれないとアダムは分析する。
 部屋の前に辿り着く。強い風に頬をなぶられて目線をやると、一哉の言うとおりここの踊り場からは遠くに海が見えた。
「何か用か?」
 ふいに、低い声が聞こえた。
 アダムが振り返ると、今通ってきた踊り場を曲がって男が現れたところだった。
「……どうも」
 アダムは無愛想に男に相対した。
 男はアダムを数段下の階段に足をかけて胡乱げな表情で見返してきた。アダムがしっかりと見えている様子だ。
 アダムと同年代、――30代後半だろうか。大きな鷲鼻に鋭い眼つき。白い肌は純粋な日本人の肌色ではないように見えた。髪は栗色でやや長めのそれを後ろへと流していた。
 男が階段の一段下に立つと、そこそこ上背はある筈のアダムと目線の高さが同じくらいになる。男は白のセーターにダメージジーンズというシンプルな装いだったが、どこか暴力的な気配を感じて、アダムは思わず一歩下がった。
 アダムの横をすり抜け階段を登ってきた男に身分証を見せると、男はアダムへ不審そうな目を向けてきた。
「それで?アレク・サワムラは確かに俺だが……補助司が何の用だ」
 男はアダムへ挑むような目をしてきて、腕組みをして玄関扉へともたれかかった。
 アダムは視線、監視カメラを動かして、周囲を見渡した。
 玄関の扉の周囲は新しくコンクリートを塗り替えた跡がある。扉は集合住宅では珍しいタイプの引き戸だった。向かいの玄関は普通の開き戸だったから、サワムラ家は最近改築したらしい。
 事情を説明すると、男は合点がいったようだった。
 ふいに笑い、腰を上げる。今までの剣呑な雰囲気が嘘のようだった。肩をすくめて背後の扉を気にするように声を潜める男は、どこにでもいる普通の青年だ。
「なるほどな、何かと思ったら」
「というと?」
「……あまり大きな声では言えないが、クレジットは使わずに、恋人の金で生活をしているんだ」
 失業保険の残りも少ないしと男はぼやく。自身の境遇へうんざりしている様子で床を蹴る男へアダムは頷いて、理解を示す。
「なるほど。金銭関係はそれで説明が付きますね。……それで、その恋愛関係の方と連絡は取れますか?」
 男は背後の自宅を示して首を傾げた。白い首筋から幾何学模様のタトゥーが覗く。
「家にいるが?」
「それなら、」
「いや、待て。会うのはやめてくれ。……プライベートだ」
 視線を玄関へ投げたこちらの気配を察してか、男の声音がやや低くなった。あきらかに迷惑そうだった。そして、ため息をついて投げやりに男が目線をそらす。
「分かるだろ。俺はメンタル病んで休職中で……あいつにこれ以上迷惑をかけたくないんだよ」
 狭い共用廊下で玄関を背に、有無を言わせずそう言われては、それ以上の捜査権限は補助司にはない。
 一応と、アダムが国民IDカードの提示を要求すると、男は素直に応じた。
 2-2001-1108-4153。上着のポケットから差し出されたそれは、間違いなくアレク・サワムラの国民IDカードだった。カードに添付された顔写真も目の前の男で間違いない。
(面倒だな……)
 写真と男の顔は一致していたが、それは事前に確認していたアレクの姿と似ても似つかないものだった。
 アダムは顔には表さず礼を言うと、男はこれで用事は終わったとばかりにこちらへ背を向けた。玄関フレームにIDカードを翳して解錠し、ドアを引き開ける。特に警戒する様子もない男の背中とドアの隙間から室内が見えた。
 アパートにしては広い玄関の三和土に、こちらへ背を向けて畳まれた車椅子。
(……車椅子?)
 違和感を感じた途端、視界がブレた。
 軽く、頭を振って瞬きをする。監視カメラ自体も少し動かしてみるが異常はない。
 駄目だ。映像ノイズがひどい。アダムが顔を上げようとすると、急に目の前の景色から色が失われて、処理落ちのコマ送りになった。
「っ……」
 立っていられない。
 アダムはホログラムの体で壁へ手をつき、前のめりでなんとか身体を支えようとした。膝が笑い、脱力する感覚をアダムは初めて味わった。うまく調節がきかずに手が壁にめり込んでしまう。
 震える手でこめかみを探った。強制的に視界を遮断する手順を踏む。一哉の方に問題があるのかもしれない。地図アプリがまだ終了していなかったとか。アプリを複数開いたときに生じるバグであれば、一度こちらの視界を再起動すればリセットできるはずだった。
 視界の色は今や灰色から奇妙な色の重なりとなっていた。
 目の前の景色の輪郭が何重にも重なって、そここで極彩色の絵を描き、一方では泥を捏ねたような灰色を作っている。
 あまりの色の多さに何が目の前にあるのか判断ができない。
(ダメだ、きちんと……記録に残さないと……)
 輪郭が幾重にもブレる視界の中、真下を向いてしまった顔を、カメラを無理矢理に上げる。
 と、目の前の車椅子にぽつんと小柄な男が座っていた。
 こちらへ背を向けて、真っ直ぐに廊下の奥を見つめている。
(なに……?)
 考えるとすぐに、視線代わりの監視カメラがそこへフォーカスした。
 でたらめな抽象画のような映像の中で、黒髪の後頭部がゆっくりとこちらを振り返ろうとする。その姿だけがあまりに明瞭で、アダムの背筋をゾッとしたものが這い上がった。
「……っ」
 思わず仰け反ったアダムの耳元で一哉が何かを叫んだ。
 珍しく声が上ずっている。だが、よく聞こえない。
 アダム自身はホログラムの体なのに、足元までがグラグラと揺れているような錯覚に陥った。画像を共有している一哉は大丈夫だろうか。
「あんた、……大丈夫か?」
 訝しむ男の声と同時に、視界が切り替わった。
 咄嗟に顔を上げると、穏やかで雑然とした視界の中には茶髪の男と明るい玄関。奥へと伸びる廊下。もちろん、誰も座っていない車椅子。
(どうなってる……)
「はい、……いえ、……大丈夫です」
 汗が止まらなかった。この感覚は一哉のものだろうかとアダムは考える。素早く指を振って、視界を切り替える一哉の指示が伝わってきた。監視カメラで周囲を見渡しても、不可解なものは何もなかった。
「すみませんが、それは……?」
 めまいのような感覚を堪えて、確認する。男は怪訝そうに振り向き、それから玄関先の車椅子を見た。
「ああ。……ツレのだが?」
 特に何の感想もない様子だった。なぜそんなことを聞くのかと不思議そうでもある。室内からは微かに空調の音がするのみで、人の気配はない。
「さあ、問題ないなら帰ってくれ」
 男が気を取り直した様子で言った。階段へと顎を向ける。
 一哉がインカムを通してアダムへそっと話しかける。
【一旦、出直そう】
 それに促され、アダムはその場をあとにした。


第4章

「しかし、困ったな……」
 再生した映像をコマ送りにしながら一哉は嘆いた。
 シンプルに孤独死案件、とはならなかったからだ。死体を見つけるのも嫌だが、話がこじれるのはもっと嫌だ。関係者が増え、自分が出ていかなければならなくなる
 複数の人間とコミュニケーションを取ることは、一哉の最も苦手とする作業だった。

 映像をもう一度流す。
 サワムラと名乗った男が玄関を開け、車椅子が現れる。途端に映像は乱れ、アダムが俯いたせいで監視カメラも下を向き、灰色の床がざらざらとした質感のまま映り込む。
 アダムが上向いた次の瞬間、玄関では車椅子に男が座っている。少し揺れている頭部が今にも振り返りそうで、肩の動きは息遣いまでリアルに感じられる。周囲の映像が乱れているせいで、くっきりと映る男と車椅子が異様な存在感を持ってそこにあった。
 一哉が待機していたカフェで二人は合流した。
 そのまま、自宅へと引き返す。一哉は部屋を区切るパーティションを全開にしてベッドへ腰掛け、天井を仰いだ。
「まぁ……サワムラで言えば、顔が違ったな」
 冷静な声でアダムが返事をする。肩をすくめて一哉はアダムに振り返った。
「顔どころじゃない。あれがサワムラだって言うなら、全身整形っていうレベルで別人だ」
 アダムは目の前のテーブルへと調査報告書の電子データを展開させた。
 そこには、国民IDポータルで調べたアレク・サワムラの顔写真が大きく映し出されていた。
 やや垂れ目の黒く大きな瞳。意志の強そうな上がり気味の眉。サラリーマン風の短い黒髪は前髪がアシンメトリーでお洒落だ。実年齢よりは随分若く見える快活そうな若者がこちらへ微笑んでいる。
 写真の出典は、2年半ほど前にサワムラ自身の手で更新された国民IDカードの身分証明データだ。今日会った男とは似ても似つかない。
「で、あの大男は誰なんだと思う、一哉?」
「分かるわけないよ」
 一哉は憮然と、アダムへ返した。
 アダムは指を左右に振って、目の前の写真を次の写真へ切り替えた。
 今度は、1ヶ月前、コンビニ前の防犯カメラが捉えた映像だ。
 中肉の細身な男が自宅方向へと自動車椅子で移動している姿が映し出されている。
 顔はプライバシー配慮の関係から紗がかかったようにボカされているが、今回は携帯した国民IDカードの微かな磁気や体格から、この男がアレク・サワムラだということは分かっている。
 アダムは次々とアレク・サワムラと思しき画像を見ていく。
 成人から2年おきに更新義務がある国民IDカードの身分証明の画像ログ、現在のパスポートの顔写真、国民ID制度施行前に登録された旧運転免許証の荒い顔写真。
「電子データ上は、この黒髪がサワムラだな」
 確認をし終わったアダムへ、一哉がちらりと目線を向けた。
「アダムの見解は?」
「俺に意見はない。一哉はどう考える?」
「黒髪のサワムラ黒髪が茶髪の大男に全身整形した」
「金も使わずに?」
「なら、何らかの事情で、今日の男がカードをサワムラから……あの男がサワムラの恋人だとして、サワムラからカードを借り受けてるってのはどうだ」
「それこそどういった事情で?カードの不携帯はバレれば一時勾留、運が悪ければ禁錮3年、もし偽造となれば執行猶予なしの実刑だ……よく知っているだろう」
 以前の、現実が嫌で一哉が失踪しかけた事件を当てこすり、アダムは返す。
 一哉は気づかなかったふりをしてもう一度サワムラの写真を見返す。
 確かな違法行為が確認できれば通報もできるが今の段階ではそれも不確かでできない。
 なぜなら、先程大男のカードを読み込んだ端末から再度照会を試してみれば、このカードはアレク・サワムラのもので、対面した彼がサワムラだと答えがくるからだ。
 バグでもあるのかもしれないが、これではお手上げだと一哉は天を仰いだ。
「本物のサワムラがどこに行ったのか……だよなぁ」
 だいたい、補助司にできることは少ない。
 調査といえば、本人へ面会することと、国民IDポータルへの事実照会程度だ。
 一哉の場合はパートナーがアダム、AIなおかげで監視カメラの映像にアクセスできることはできるが、アダムが実際に対象に面会したときのデータにしか遡ることができないことになっている。
 ありとあらゆることが電子の世界で行えるようになってきた現代でも、対人に関することでいえば可能なことはそもそもそんなに多くはない。
 人間の目で見て、触って、匂いをかげば明白な違いも、コンピューターでは認識できない事象というものが数多くある。
 作業の主導はAI。人間はそのサポートを行う。人間が便利に暮らすためには技術と仲良く手を取り合うことが大切だ。
 国民IDのポータルサイトに常駐するAIは今回のサワムラの挙動に不審さを認めて調査を依頼してきた。だが、なぜ妙なことが起こっているのかを推測することはできない。現場を見ることもできない。だから人間が介入する。考える。『なぜ』と。
「とにかく成りすましの可能性が一番高い。もう一度、資料を確認したら再面談だ」
 一哉が呟く。アダムが提案してきた。
「夕方からの、ノナカのばあさんの件は後日に回すか?」
「いや、今日の方が良いだろう。できたら、他の補助司……ハヤシさんあたりに回してくれ」
「了解」
 今日は午後いっぱいを使っての資料とのにらみ合いになりそうだった。


第5話

「……サワムラが何らかの障害を持っているのは本当らしいな」
 一哉が呟く。
 障害認定の手続きのログを見つけた、とアダムへ資料を見せる。
 そこには補助具を要する障害、と記されている。それ以上の記載はない。こういった個人情報はプライバシーへの配慮から詳しい事故や病歴、障害の部位などは隠されていることが多い。
 それでも、実際に見てきた補助具、車椅子から、サワムラが身体に何らかの障害を持っていることは分かる。
「で、どうする?」
 アダムは資料を投げ返して相棒に聞き返す。考えるのは一哉担当だ。
「この顔が問題なんだよな……」
 黙ってテーブルの上を見つめていた一哉がぽつりと言った。
「……顔?」
 ふとアダムが一哉の手元を覗き込むと、サワムラの国民IDポータルの閲覧履歴を見ているようだった。
 新着は、2月27日PM1︰13。たった今、二人がサワムラの情報にアクセスしていますよという履歴だった。
 国民ID法が重んじる情報の透明性・明確性の観点から導入されているシステム。
 国民は国民IDポータルサイトにアクセスすれば、どの情報を誰がいつ閲覧したかをログで確認できる。だからこうして、一哉達がアレク・サワムラの情報に触れていることはリアルタイムでサワムラにも伝わっている。
 一哉は画面をスクロールさせて過去の履歴を遡っていた。
「すごい数だな……」
「ん。しかも見てくれよ」
 一哉の手元をアダムは覗き込んだ。
 膨大な閲覧の履歴数。多い日で2万件もの履歴が残っている。
 サイト内を万編なくぐるぐると見て回った履歴が続くかと思えば、数秒ごとに証明写真にアクセス、一定時間をおいてまた最初からサイト内を回って…。
 それが、半年前まで遡れる。
「誰だ?こんな妙な閲覧履歴を残してるのは。しかも、ここまで不自然な履歴をなぜポータルのAIが今まで見過ごして……」
 アダムを遮るように一哉が一枚の画像ファイルを投げてよこした。
「今調べたよ。閲覧者2-2001-1108-4153−a」
 ファイルを開くと、国民ID検索サイトから検索した2-2001-1108-4153−aは、アレク・サワムラの顔写真だった。
「サワムラ……本人?」
 黒髪の、どこか幼くも見える青年がこちらへ笑っている。一番最初に見た、本人証明の画像だ。
 ただよく見ると、違和感があった。
 証明写真のデータと比べると、その画像は顔が正面からやや傾いていた。部屋の中なのか彼の背後には本棚とソファ、車椅子が写り込んでいる。
 そして何より、彼の肩に正面から触れる無骨な指。車椅子で生活するサワムラの不安定な上半身を腕で支えて、正面から写真を撮る誰か。その誰かへサワムラは笑いかけていて……。
「これは、証明写真の原簿らしいんだよ。サワムラはこの写真を撮ってポータルサイトへアップ、そこでポータルサイトのAIが部屋の背景を消すなど画像処理を行った。画像処理された写真はそのままポータルサイトへ登録され、原簿は廃棄されるはずだったんだけど……。半年前、なぜか廃棄されずにいたこの写真が、正式な証明写真へ上書きされた。……この写真へのアクセス履歴が異常に多い」
 一哉の声にアダムは我に返る。
「いや、いや待て。そもそも、末尾αの番号は正確には本人の国民IDじゃない。これは……」
「ああ。末尾αは国民IDが何らかの事情でロックされたときの、仮ナンバーだ。基本はロック解除の時や国民IDカードの権限制限にしか使われない。ポータルサイトでも情報の閲覧くらいしかできないし、本人の携帯義務はない。ただこのα番号カードは成年後見人や介護AIは携帯することを許されているから……」
「つまりサワムラは国民IDを利用しなかったんじゃなくて、利用できなかったのか。正規の番号がロックされたおかげで、買い物も移動もできなかった。そしてそもそもなぜ、ロックを解除しなかったのかといえば」
「その時点で既に、『サワムラ本人には、ロックの解除ができなかった』から」
 一哉がアダムの言葉をそのまま引き継いだ。そして、自身の言葉に血の気が引いたのか、珍しく真正面からアダムの顔を見る。その手が震えていた。
「なぁ……お前は、誰と会ってきたんだ……?」
 アダムは呻き、ジャケットを手に立ち上がる。
「行こう。『俺』の目では分からない。お前の助けがいる」


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序章
 覚えているのは、小さな神社の境内に生えている巨木の枝にまたがって町を眺めている 自分の姿だ。
 学校には馴染めずにこっそり早退して、1時間でも2時間でも暮れゆく街並みを眺めていた。故郷は海の近い港町で、高台にある神社からは遠くに小さく海が見えたものだった。
 ぼくはひとりだった。
 ……一人になりたかった。
 僕には学校も家も、夜眠るときさえ 、この世の中には怖いものだらけだった。
 いないはずのものが見え、あるはずのものが見えない。
 音は全て雑音に聞こえ、流行りのポップスに耳が苛まれた。
 僕には、幼い自分も両親さえも気づかない、生まれながらの障害があった。
 音に敏感で、眠れない。
 意識しないとまっすぐに歩けない。
 人の顔が覚えられず、人の顔を直視できない。
 鋏さえまっすぐ使えない不器用さに表情のなさ。
 頭が常に重く、緊張していて、倦怠感ですぐに眠くなる。
 小学校の絵画の時間などは毎日見ているはずの家族の顔や髪型を思い出せずに、半泣きになった。
 卒業式や体育祭でも、教師に真っ直ぐに並べと言われた僕はどうしても半歩横にずれた位置にしか並べなかった。前の人の頭の位置を見て、足元のラインを見て、ここだと思う位置に並ぶのに必ず叱られる。教師によって修正された位置は、僕から見ればやや斜めにずれた位置で――後年、僕は自分にとってやや斜め右前方に立つことで他の人の正面になるらしいということを学び実践していた。
 注意されたり笑われたりした経験が積み重なり、学校は億劫だった。
 毎日毎日、各種様々な不便があったが、皆こんなものだろうと思って頑張ってきた。
 普通の人間はそんなこと頑張らなくても良いのだということを知りもしないで。
 だから僕は自分に自信がなく、顔を上げて歩けた試しがなかった。
 それでもなんとか大人になれた。
 大人になった僕は朝起きて、15分で身なりを整える。
 髪は短すぎるとよく言われるが気にしない。
 坊主手前まで刈り上げた短い髪、高身長とやや筋肉質な体。整った顔と相まって、ゲイっぽいなどとよく言われるが、それも僕は気にしない。
 プレスされた服は苦手で、許可をもらって職場ではハイネックのTシャツやポロシャツで通している。灰色や白ばかり着るものだから、子供達からは 同じ服を何着持ってるのと笑われる。僕も笑う。「一週間分同じ服を持っているよ」と。
 僕は大人になって塾の講師となった。
 毎日は楽しい。子供達は可愛い。一緒に学ぶ楽しさを日々実感している。
 大人になるとは素晴らしいなと、たまに 欠落した子供の頃の思い出を反芻などしたりして、僕は今日も職場へ行く準備をする。
 僕は朝起きて、15分で身なりを整える。
 ニャーとすり寄ってきた猫へ餌をやって、行ってきますと声をかける。
 仕事は好きだ。子供は可愛い。頭でっかちの大人より、よほど話が通じる。
 もちろん分かり合えない子もいる。
 けれど、毎日は楽しい。
 さあ授業へ行かなければ。
 右手にはビジネスバッグ、左手には授業用の資料を詰め込んだトートバッグ。
 …… 両手が塞がっていては携帯が持てない。
 鍵はどこだ。
 思い出せない。
 頭の中はパニックで、一度カバンを床に置くことさえ思いつかない。
 玄関で僕は呆然と立ち尽くす。
 動けないままどうにか首だけを左へと回す。足がもつれてその場に倒れ込む。
 目の前がチカチカした。
「鍵……」
 小さな声でつぶやくと、ニャァと猫が近寄ってきて、ふふっ……と自嘲で涙がこぼれそうになる。
 分かっている。
 僕は小さい頃から何も変わっていない。出来損ないだ。
 両手に荷物を持っていては、家の鍵を掴むことも携帯を探すこともできない。
 うつむくと感情が溢れ出し、涙で目の前がにじむ。泣くようなことじゃない。扉の向こうでは、外の世界では仕事が待っている 。
 僕はどこへ行くのだろう。どうしてそこへ行くのだろう。
 僕は……そのまま、何分も家の玄関で座り込んで泣いた。
第1章
 目覚めるとコンクリートの天井が見えた。
 部屋は薄暗くしんと冷えていて、厚いカーテンの隙間から漏れる薄青い光だけが細く床に落ちている。部屋の明かりが自動点灯していないということは、まだ夜明け前の時刻の筈だった。
(今日も寒そうだな……)
 そんな思考が男、新藤一哉の頭の隅をかすめる。
「……アダム……、明かりと暖房をつけてくれ……」
 命令してから寝返りをして、こめかみを指で押さえる。
 微かな電子音とともに暖房の送風口が口を開き、ほんのりと白い明かりが灯った。
 指の動きに連動して電子コンタクトレンズが起動する。すると、【 Good morning ! 】という薄青い文字が目の前にほんのりと立ち上がった。
 デフォルトのスタート画面は数秒で消え、自動で視界補正が行われる。薄闇の視界の中にキラキラと美しい銀粉が舞い上がり、縦に細く光が走る。光は眩しいと思われるほどでもなく、弱々しく、どこか温かい。銀扮で覆われた世界を左右に掻き分けるようにその光は広がり、その奥から、輪郭が鋭く、視認性の高いクリアな視界――電子ビューが目の前へ展開した。
視界の隅々まで色鮮やかで、ポップで美しい視界。
 電子ビューで見ると、世界はまるでプラスチックでできた玩具だった。くっきりとした陰影は世界をきらめかせる。
 目の前で確認すべきタスクが次々に表示され、重要度順にパタパタと自動で並び替えられる。【2038年2月12日午前6時2分】【東京】【晴れ】【気温1.8度、湿度70%。室内12.5度、湿度44%】【本日のニュース配信3件】【クライアントより仕事の依頼2件、うち新規は1件です。内容は……】
 薄く発光する文字列は鮮やかなオレンジで、枕へ顔を埋めながら一通り目を通す頃には目も覚めている。
 一哉は少し考えると、親指と人差し指でこめかみと眉間に触れ、一度電子ビューを終了させた。
 鮮やかな視界は本来の落ち着いた色調に戻る。境界が曖昧で、ぼんやりとした世界。タスクや時刻を表示する文字列もほとんど認識できないレベルにまで透明化され、視界の隅にちらつくだけになる。世界の尖った輪郭は鋭さを失い、遠くの事象はぼんやりと霞むように見えた。
「っ……」
 一気に本来の世界が押し寄せて、寝ているのにめまいのような感覚が一哉を襲った。
 ブレる視界に、右耳の耳鳴り。恐怖から心臓が高く打つ音が体内から聞こえる。
 起き抜けに電子ビューから視界を切り替えると、よくこういった感覚になる。電子ビューに頼ってばかりではなく、たまには現実を裸眼で見るのも良いかと試してみるのだけれど、どうも一哉の体は自身の目とは相性が良くないらしかった。
【心拍が乱れています。大丈夫ですか、一哉】
 穏やかな声が枕元から聞こえた。スピーカーを通じておしゃべりができるAI、アダム。
「……大、丈夫。おはよう、アダム」
【それは良かったです。おはようございます、一哉】
 部屋の管理を任せているアダムは男とも女ともつかない声で一哉へ2〜3問診をすると続いて今日の天気やニュースを読み上げ始める。
一哉はそろそろと起き上がり、ベッドから足を下ろす。ひんやりとした床の感触が足裏に伝わってくる。ベッドへ腰掛けたまま、白っぽい光のシャワーを頭上から浴びた。
 ぐらぐらとする頭を抱えて一哉はうなだれる。小さい頃から体は不調だらけだった。大人になってからそれは病気――障害のせいだと分かった。毎日死ぬほど頑張れば、日常のあれこれは人並みにできていた幼い頃。自身の異常に気づかなかった幼い自分が哀れでならない。自覚してみれば、朝起きるのでさえ、こんなにも難しい。
 今は電子ビューでの視覚補正やもろもろのサポートツールによって、ある程度まともな日常が送れている。そしてたまに、本来の自分を思い出したくて電子ビューを切るなどしてみるが……以前はこんな世界に住んでいたかと思うとぞっとする。
 一哉はため息をついてこめかみに指を当て、電子ビューを再開させた。左右にグラグラと揺さぶられているような感覚だった頭が、次第にクリアになっていく。それに伴って、意識しなくても小さく揺れていた体が次第におさまる。
(もう大丈夫だな……)
 ゆっくりと顔を上げ見渡す。相変わらず殺風景な部屋だった。
 ベッドしか置いていない狭い寝室。シーツも壁も灰色一色で、壁には青で描かれた大きな抽象画だけを唯一飾っていた。
 このマンションは梁や柱が室内へ張り出ている古い造りを気に入っていた。打ちっぱなしのコンクリートの壁に無垢の廃材の床。間取りは変形の1DK。広いダイニングキッチンは、普通なら一角をリビングにするのだろうけど、そこを籐のパーティションで区切り同居人の寝室とした。そしてたった1室しかない個室を自分の寝室に。
 クラシカルな雰囲気が良いように思えて、引っ越してきてはや数年。転職は何度かしたが転居する気にはならなかった。物が大量にあると管理ができない一哉の手によって、今では家具らしい家具や、片付けるものさえ何もない。
 頭へと手を添えてそのまま首を傾け、首筋をゆっくりと伸ばす。右へ10秒、手を変えて左へも10秒。両手を後頭部へ添えて前へ10秒。
 首を回し、腰をひねり、肩や腕を順々に解していく。
 上半身をストレッチしていると、次第に床に着いた足裏がじんわりと温まってきた。
 視線を移動させ、視界の端で透けて見える時刻表示に視線を固定させる。
 目の前へほの青く浮き上がった時刻を確認すると、本来の起床予定時間だった。視線を外せばその文字列はすぐに遠ざかる。
 と、
「……起きてるな?」
 ノックの音とともに自動で扉が開き、白いシャツに弛いハーレムパンツを穿いた国籍不明の男――もう一人のアダムが顔を出した。一哉の同居人だ。と言っても彼は電子ビューを使うことによって見えるホログラムで、ノックの音はスピーカーのアダムが演出してくれているだけなのだけれど。
「あぁ、起きてる」
「なら良かった。新規の仕事の連絡がきてるが……」
「わかってる。あとできちんと見るよ」
「了解」
 一哉より年長の、30代も後半のやけに整った顔が奥へ引っ込んだ。緩くウェーブのかかった長めの黒髪に浅黒い肌、色素の薄い瞳。常に笑みを浮かべているような薄い唇は酷薄そうだが、彼は一哉のカウンセラー兼同居人だ。
 どことなく異国を感じさせる風貌の彼に一哉はもう慣れたけれど、この田舎では、一哉たちが並んでいると初対面の相手にはよく不審な眼差しを向けられる。
 一哉は立ち上がり伸びをした。
 部屋をあとにし、ダイニングを素通りして洗面所まで来ると、短い黒髪がボサボサに乱れた寝起きの青年の姿が鏡に写る。誠実そうな、と言われるそこそこ整った顔。中身はともかく体だけは人並みに育ったが、どうにも締まらない雰囲気の男。若く見えるといえば聞こえは良いけれど、見目に構わない一哉はどうにも軽く扱われることが多い。
 仕方なく、こめかみと眉間に指を当てて、髪をかき上げる仕草で電子ビューを2重に立ち上げる。鏡に映る一哉の姿はゆっくりと足元から瓦解し、爪先ほどの小さなブロックの欠片となった一哉の一部はちらちらと瞬きを繰り返しながら次々に新しい像を結んでいく。電子ビューが以前登録しておいた一哉の姿を再現してくれるのだ。
 ヨレヨレの部屋着がきれいにプレスされたシャツとジーンズに変わり、短めの髪はきれいに後ろへとなでつけられ、耳元があらわになる。小奇麗な青年の完成だ。
 一哉が電子ビューを起動している限り、電子ビューを通せば誰でも、この一哉の姿を見ることができた。
 午前中は仕事もないし、外に出るのも買い物程度だ。わざわざ本物の自分を飾る必要もない。顔だけ洗い洗面所を出ると、アダムがダイニングのソファに寝転がったまま一哉を手招いた。そばへ近寄ると、アダムは首を傾げて一哉の姿を上から下まで眺める。
「よく眠れたらしいな」
 アダムが器用に片眉を引き上げる。
「おかげさまで朝までぐっすりだ。――アダム、【電子ビュー】に今日のニュースの続きを動画で配信して」
 一哉は後半、テーブルの上へ置かれたスピーカーへ大きめの声で呼びかける。
 スピーカーのアダムと人型のホログラムのアダム。彼らは二人で一人、同一個体だった。
 ただ機能の問題か、性格や言葉遣いは違う。
 家のセキュリティや管理をするスピカ―型のアダムは礼儀正しく朗らかだ。対して同居人兼仕事のサポートを行ってくれるホログラムのアダムは口調こそ砕けているがやや偏屈だ。
 本来はどちらかの名前を変えて使用するのが正しいのだろうが、片方に伝えたことはもう片方に伝わっているし、記憶違いなどもない。不便を特に感じていない一哉は初期設定のままで彼らを使用していた。そして、彼らは一哉の呼びかけのニュアンスをきちんと聞き分ける。
【畏まりました】
 涼やかなスピーカーのアダムの声とともに、視界の半分に動画配信のサイトが立ち上がった。人型のアダムは一哉の顔をじっと見てから、気が済んだのか指で追い払う仕草をする。一哉はキッチンへ向かい、ニュース映像を透かしてみながら、手元ではコーヒーを入れる準備を始めた。
「……か?」
 ダイニングからアダムの声だけが追いかけてきて、水を使っている一哉にはニュースの音ともそれが混じり合いよく聞こえない。
「なに?」
 一哉はアダムに声を張り上げて答える。アダムは了解したのか、無線LANシステムを経由して一哉の内耳のスピーカーに話しかけてきた。
【今日の新規の仕事、予備調査はするか?】
【そうだな、……アダムはどっちが良いと思う?まだよく見てないけど、予備調査なしでも大丈夫じゃないかと僕は思うんだけど】
【現場が近いからまずは行ってみるのもありかもな。いつもの現場にも近いから、ナカタニのばあさんにも会える】
【あの人か……】
新規の仕事以外に、以前から受けていた別件も持ち出されて一哉は呻いた。
【わかった、なら予備調査はなしで。報告書も現地調査からにしよう】
 一哉が淹れたてのコーヒーをテーブルへ差し出すと、どうもと言ってアダムはまた目を手元に落とした。
 勿論アダムは飲めないとわかって入るが、コーヒーを1杯だけいれるというのも味気ない。一哉は時折、自身のコーヒーをいれるのに合わせてアダムのも用意していた。アダムはそれに良いとも悪いとも言わない。
 一哉はアダムの手元に目を落とした。
 最近アダムは読書に嵌っている。今はジャック・ロンドンの「白い牙」を読んでいると、昨夜自慢げに話していた。
「それ、面白いか?」
 どうせ一瞬で読めるくせにと、白けた気分で一哉は聞く。
「面白い。犬の思考を人間目線で語っているところが特に」
 舌で唇を湿らせて、ぼろぼろの本のホログラムから目を話さずにアダムが言う。
 一哉は手早くスクランブルエッグを作って、ハムと一緒に皿へ載せた。カフェオレとともに食卓へ運べば、朝食の出来上がりだ。
 カフェオレには氷を一つだけ入れる。
「それで、話の続き。新規の仕事のことだけど」
 卵3つのスクランブルエッグを頬張りながら一哉はアダムに話しかける。アダムはこち
らに横顔を向けたまま、目線だけを寄こしてこめかみを指で示した。
「第3地区、市内での在宅確認。今日の午後一の出発では?」
 視界の斜め右上で、メモの形のアイコンが点滅する。アダムが一哉の電子ビューへ仕事のまとめ資料を送ってくれたらしかった。
「了解」
 なら11時過ぎには着替えないとな、と一哉は頭で計算する。
 朝食を終えると、読書に夢中のアダムを残して買い物にでかける準備をする。コートを羽織り玄関を出る時に、パジャマのままなんだよな……とちょっと迷ったものの、結局そのままの姿で外に出る。
 どうせ西日本の第3地区はどこも人口過疎地域だ。道はガラガラだし、コンビニには店員もいない。自動レジなのだ。わずかに暮らす人々も、99%は電子ビューを使って生活している。彼らの目には一哉はグレーのジーンズにコートを羽織った普通の若者に見えるはずだ。
「久々にカレーにするか」
 夕飯のメニューを考えながら一哉はコートの前を合わせてエントランスを出た。
第2章
 一哉たちが住んでいるのは、日本の国土の約3分の2を占める第3地区だった。
 住人は社会保障費の優遇措置を受ける代わりに、国の賃金格差是正措置――最低賃金の保証対象から外されている。一哉自身も職を転々としてきたが、ここに引っ越してきてからは第1地区時代の半分以上は稼げた試しがない。
 いわゆる、地方と都市部との格差是正がされる見込みがないことが判明したのが、今から数十年前。人口減少に伴い田舎から都会へと人々の流出が止まらない時代だった。
 人々の生活費は安いが、それ以上に恐ろしく賃金が安い地域。
 インフラの整備を進めても、そこで暮らす人々は少なく、税収が見込めない地域。
 高齢化も進み、なぜか出生率だけは高い地域。健康で意欲のある子どもたちは働き手として自立すると、その多くが都市部へ流入してしまう地方都市。
 当時の日本にはそんな地域が溢れていた。
 圧倒的な人手不足ながら、そこに住む人々を切り捨てるわけには行かないという矛盾。そこにいくら公費を投入しても改善できないなら、もう根底の考え方を変えるしかない。
 そこで国は3つの政策を取った。
 インフラ整備に代わるインヴィジュアルプラン(IP法)、地方再編成法、それに労働賃金改正法。
 インヴィジュアルプランは地方のICT化の義務化を、地方再編成法は日本を第1〜3地区に分け、住む地域によって年金の上限額や受給基準が変動させることを、労働賃金改正法は、主に第3地区における最低賃金の下限を大幅に引き下げることを定めたのだ。
 これにより、第1地区には富んだ人々が高い税率、高い年金受給に高い給金を求めて集った。
 第3地区には貧しい人々が低い税率、早い年齢での年金の受給開始を求めて、低賃金を受け入れ移り住んだ。
 第2地区にはその中間の人々が。
 そして数十年。
 第3地区は高度にICTの化された地域ながら、極めて貧しい人々が集う、人口過疎地域になっていた。大手スーパーや小売店、コンビニエンスストアは機械化が進み、自動レジには人間はいない。役所の窓口は閉鎖され、web上でほとんどのことが行える。
 人々は電子コンタクトを両目に埋め込み、24時間インターネットに繋がり、電子ビューを日常に使って生活している。
 バスや鉄道は廃止され、廃墟となった駅にはたまに貸し切りバスで他の地区から観光客が訪れる。自動運転の軽自動車や自動三輪車が田舎道を悠々と走り、特に過疎の進んだ山間地域では、人々の移動には軽飛行機が使用される。物品の輸送はもっぱらドローンで、人々はスマホが手放せない。
 それが、一哉らが暮らす第3地区。日本の中で最もゆっくりと人間が滅びていく、そういう地域だった。
 午後になり二人してマンションのエントランスを出ると、海の匂いを微かにのせた風が綺麗に整備された工場の緑地帯を駆け下りてくる。2月の穏やかな日だった。
「それで、今日の仕事は何だ?」
 人通りの少ない路地を選びながら、アダムは一哉を振り返った。一哉が今回の仕事に適しているかの問診を兼ねた、資料の復習だ。
 仕事は常に二人でする。
 ホログラムのアダムはこうやって外に連れ出されることも多い。電子ビューを利用してさえいれば、どこでも誰にでもアダムが見えているからだ。
 実際、アダム自身は一哉のスマートフォンの中にいるのだけれど、一定の距離ならば一哉から離れていても行動は可能だった。
 一哉は指でこめかみに触れまばたきをすると、電子ビューに本部からの仕事の資料を立ち上げた。抜粋して読み上げる。周囲の雑踏に紛れるほどの小さな声だったが、アダムは一哉の声をしっかりと聞いていた。
「親族から居住確認を要請されている人物がいる。名前はアレク・サワムラ。39歳。一人暮らし。履歴を調べたところ、クレジットカードを半年以上使用していない」
 一哉が喋る度、白い呼気が口元から漏れる。2月の瀬戸内はまだ寒い。一哉のシャツの襟元から白い喉がのぞくのを見て、アダムは自分のコートの前を掻き合わせた。
「――数年前に第2地区から引っ越してきて第3地区に身寄りはなし。叔父が第2地区に暮らしていて、彼からの依頼で先月事前調査が行われた」
「依頼の具体的な内容は?」
 アダムが尋ねる。
「彼が実際、親族に知らされている住所に居住しているか……生きているのか確認してほしい、とのこと。サワムラは両親を早くに亡くして、父親の代わりがこの叔父だったらしい。良好な関係だったが、昨年夏に連絡が途絶えた。電話をしても留守で、SNSで呼びかけても返事がない。忙しいのかと、12月にクリスマスプレゼントを送ったところ、宛先不明で返送された。心配になった叔父は国民IDポータルを通じてサワムラへ呼びかけたが、年が明けて現在も返事がない。国民IDポータルのAIはサワムラのクレジットカード履歴をチェック、昨年8月から利用履歴がないことから調査が必要と判断した」
「なるほど、問題だな」
 アダムは目を細めて町並みを見た。
 昨今、第3地区では現金はもはや死滅したと言われている。クレジットカードを全く利用せず生活できる人間がこの地域にいるのかと疑いが出るくらいだ。
 第3地区では食料に医薬品、通信サービスに居住費、コンビニのコーヒー1杯にさえ、人々は国民IDポータルを通してクレジット決済や電子決済を利用する。
 Japan Identification 通称「国民ID」。
 12年前に制定された国民番号法により、国民一人ひとりには13桁の国民番号「国民ID」と写真入りの「国民IDカード」が発行されるようになった。
 国民IDカードは、いわゆる公的な身分証明書だ。
 保険証、運転免許証、年金手帳に障害者手帳。その他諸々の煩わしいカード類がこのIDカードに一本化された。写真入りで、生年月日に由来する13桁の国民IDや電子署名が刻まれている。
 法の施行から数年で、国や一部民間が提供する福祉教育サービスは、国民IDカードの提示で無償利用できるようになった。現在では国が運営する国民IDのポータルサイトに接続すれば指先一つで住所の変更が行え、役所への照会ができ、起業ができる。
 民間も同様だった。
 例えば件のクレジットカード。
 申し込み欄に国民IDを入力さえすれば、カード会社が勝手に国民IDのポータルサイトにアクセスし、個人の信用度を調査、AIが約30秒で審査結果を送ってくる。早ければ翌日にはもう手元にカードが届く仕組みだ。
 同法では同時に国民IDカードの携帯が義務付けられ、不携帯や偽造などには各種の罰則規定が設けられている。そのため当初こそ反発があったが、最近ではそれも下火だ。徹底的な情報開示と自己管理が可能なポータルサイトの仕様、官民共同プロジェクトという先進さ。そして何より、大幅に削減された社会保障費が後押しした形だった。
 実際、第3地区の住民の間で国民IDについて否定的な意見を聞くことはほぼなくなった。
来年には携帯義務のあるカードに代わって、皮下に埋め込む形の国民IDICチップの運用が国会で審議入りになる予定だという。最近の若者の中には既に電子決済対応のICチップを皮下に埋め込んでいる者も一定数いるから、法整備さえ進めば、それもあまり違和感なく受け入れられる筈だった。
「居住確認っていうか、孤独死案件の気がするな……」
 一哉がぼやく。人口減少著しい第3地区ではたいして珍しくもない。年に数件はぶちあたる仕事だ。だからといって気が休まるわけではないが。
 一哉の仕事は補助司という福祉職だった。
 市からの依頼で住人の「居住」「在宅」「通院」を確認する仕事だ。
 「居住」はIDポータルへ登録されている住所へ住人が実際に住んでいるかの確認。「在宅」は決められた日時に住人が家へいるかの確認。利用者の多くは前科がある者や仮釈放中の者が対象の者だった。「通院」は定期的な通院を行う住人の医療施設への付き添いだ。
 簡単な調査や確認、付き添いだけなので給料は安い。
 利用者に何かあれば福祉や医療の専門へつなぐか、警察へ連絡するのが常だった。
「事前調査では何だって?」
 アダムが先を促す。一哉はどうしても孤独死の現場を想像するのか、嫌そうに資料の続きを読み上げる。
「ちょうど1ヶ月前……叔父の依頼を受けて、ポータルサイトのAIがサワムラを捜した。携帯しているはずの個別IDカードの信号と、映像で。その結果すぐに、自宅前と、自宅近くの無人コンビニで彼は捕捉された。それぞれの入口を見張る防犯カメラの映像に、通りかかるサワムラの姿が何度か記録されている。それを叔父に確認してもらった」
「なら、生きてるんじゃないか?」
「そうだけど、まぁ……あれだよ」
 一哉が言いよどむ。アダムも同時進行で資料を読んでいたので一哉が言いづらそうにしている内容は分かった。
 一哉の過去に突かれると痛いことが同様にあるのだ。仕方なくアダムは自分で答えた。
「サワムラの叔父曰く『このアレクは別人だ』……だったか?」
「そう」
 一哉が肩をすくめた。
「……もしかしたらID偽造による成りすましかもな」
 身分証の偽造などによる、他人への成りすまし自体は昔からよくあることだ。ただその場合、成りすまされた相手はどうなったのかという問題が立ちふさがる。
 実は一哉自身、アダムと連携してなりすましを偽装しようとした過去がある。しかし、それは実現しなかったのだが。
「そろそろだ。地図はいるか?」
「あぁ。欲しい」
 アダムは尋ねて、頷く一哉を横目で見た。アダムは人差し指で十字を切って一哉の電子ビューへ地図アプリを立ち上げた。
 一哉の視界では、目の前の景色に同期して目的地までのストリートビューが3Dで展開したと同時に、重なり合った景色とストリートビューが一瞬ブレる。
 一哉がよろめくのを見てアダムはとっさに手を出しかけた。が、無駄だと判断してすぐに手を引っ込める。ホログラムの体を持つアダムでは一哉を支えられない。
 左右に大きく揺れた一哉だったが、視覚補正が行われ、体勢をどうにか立て直す。気づけば足元から進行方向への歩道へは蛍光グリーンの矢印で道順が描かれ、視界の左端にはオレンジで目的地までの詳細な情報が描かれていた。
 徒歩であと7分。
 アダムは目線だけで一哉を振り返る。一哉は独り言のように呟く。
「偽装なら、っ……やっかいそうだ。けど、半年もクレジットを使わずに生活できるもんかな。収入はどうだっけ?」
 何らかの方法で金を手に入れないことには生活できないはずだ。今度はアダムが資料を読み込んで返事する。
「サワムラ本人は会社員だな。電子ビュー開発の下請け企業でプログラマーをしていた。1年前から休職中で、精神疾患……軽度の鬱状態と診断されて半年間の療養を言い渡されている。即座に失業保険も支払われているが、夏以降は手を付けていない」
「ふうん。本人は働けない状態で、資金の動きもなし、か」
「そういうことになるな」
 喋っているうちに目的地へと着いた。
 二人の家とそう大差ない、鉄筋コンクリートのマンション。
 間口は狭く高さだけは立派で、三階しかない低層のオフィスビルと二階建ての民家の間というなんともバランスの悪い立地で、6階建てというその姿はやや悪目立ちしている。
「海からは少し離れてるけど、ここも上階なら海が見えそうだ」
 自宅を思い出すのか一哉が呟く。つられてアダムがマンションを見上げると、横に並んだ一哉が周囲を見渡した。
「僕は……、すぐそこのカフェで待ってる」
 向かいの通りにあるファストフード店を示す。
 まずはアダムが現場へ赴き、本人と面会する手筈だった。面会と言ってもアダムはホログラムだから、近くの何かの「視界」をジャックする。一哉はそのアダムの視界を通じて映像をチェックし、危険がない場合、必要ならば合流する予定だった。
「了解」
 アダムは頷き、指先でチェックを描き一哉の地図アプリを終了させた。
 代わって、一哉の内耳のインカムと電子コンタクトのカメラアプリを同期させた。これで音声と映像をリアルタイムで一哉の電子コンタクトへ送ることができる。
 アダムが振り向くと、一哉はアダムがジャックした近くの監視カメラの信号を電子ビュー上で受信したらしく、小さく手を上げてから向かいの通りへと渡ろうとしていた。それを確認し、アダムは前へ向き直る。
「国民ID局所属、補助司No.102216。調査No.010212-07の案件につき記録を開始します」
 アダムが所属部署とナンバーを詠唱すると、調査局に常駐するAIが周囲50メートル以内の監視カメラの使用許可を通知してきた。
 カメラが自動録画を始める。許可された映像を探ってみれば、サワムラのマンションではマンション前や個別の部屋の前に必ず監視カメラがついているらしい。そうであれば「面会」は簡単だ。
 まずは本当にアレク・サワムラが生きているのか、実際に会って確かめなくてはいけない。
第3章
 古いアパートにエレベーターはなく、アダムは徒歩で5階まで上がった。
 階段は踊り場を折れ曲がるコの字型で、踊り場を一つ過ぎると次の踊り場には左右に部屋が一つずつある構造だった。古びてはいたが壁も床も清潔で、落書きやごみがほとんど見当たらない。管理会社がしっかりしているのかもしれないとアダムは分析する。
 部屋の前に辿り着く。強い風に頬をなぶられて目線をやると、一哉の言うとおりここの踊り場からは遠くに海が見えた。
「何か用か?」
 ふいに、低い声が聞こえた。
 アダムが振り返ると、今通ってきた踊り場を曲がって男が現れたところだった。
「……どうも」
 アダムは無愛想に男に相対した。
 男はアダムを数段下の階段に足をかけて胡乱げな表情で見返してきた。アダムがしっかりと見えている様子だ。
 アダムと同年代、――30代後半だろうか。大きな鷲鼻に鋭い眼つき。白い肌は純粋な日本人の肌色ではないように見えた。髪は栗色でやや長めのそれを後ろへと流していた。
 男が階段の一段下に立つと、そこそこ上背はある筈のアダムと目線の高さが同じくらいになる。男は白のセーターにダメージジーンズというシンプルな装いだったが、どこか暴力的な気配を感じて、アダムは思わず一歩下がった。
 アダムの横をすり抜け階段を登ってきた男に身分証を見せると、男はアダムへ不審そうな目を向けてきた。
「それで?アレク・サワムラは確かに俺だが……補助司が何の用だ」
 男はアダムへ挑むような目をしてきて、腕組みをして玄関扉へともたれかかった。
 アダムは視線、監視カメラを動かして、周囲を見渡した。
 玄関の扉の周囲は新しくコンクリートを塗り替えた跡がある。扉は集合住宅では珍しいタイプの引き戸だった。向かいの玄関は普通の開き戸だったから、サワムラ家は最近改築したらしい。
 事情を説明すると、男は合点がいったようだった。
 ふいに笑い、腰を上げる。今までの剣呑な雰囲気が嘘のようだった。肩をすくめて背後の扉を気にするように声を潜める男は、どこにでもいる普通の青年だ。
「なるほどな、何かと思ったら」
「というと?」
「……あまり大きな声では言えないが、クレジットは使わずに、恋人の金で生活をしているんだ」
 失業保険の残りも少ないしと男はぼやく。自身の境遇へうんざりしている様子で床を蹴る男へアダムは頷いて、理解を示す。
「なるほど。金銭関係はそれで説明が付きますね。……それで、その恋愛関係の方と連絡は取れますか?」
 男は背後の自宅を示して首を傾げた。白い首筋から幾何学模様のタトゥーが覗く。
「家にいるが?」
「それなら、」
「いや、待て。会うのはやめてくれ。……プライベートだ」
 視線を玄関へ投げたこちらの気配を察してか、男の声音がやや低くなった。あきらかに迷惑そうだった。そして、ため息をついて投げやりに男が目線をそらす。
「分かるだろ。俺はメンタル病んで休職中で……あいつにこれ以上迷惑をかけたくないんだよ」
 狭い共用廊下で玄関を背に、有無を言わせずそう言われては、それ以上の捜査権限は補助司にはない。
 一応と、アダムが国民IDカードの提示を要求すると、男は素直に応じた。
 2-2001-1108-4153。上着のポケットから差し出されたそれは、間違いなくアレク・サワムラの国民IDカードだった。カードに添付された顔写真も目の前の男で間違いない。
(面倒だな……)
 写真と男の顔は一致していたが、それは事前に確認していたアレクの姿と似ても似つかないものだった。
 アダムは顔には表さず礼を言うと、男はこれで用事は終わったとばかりにこちらへ背を向けた。玄関フレームにIDカードを翳して解錠し、ドアを引き開ける。特に警戒する様子もない男の背中とドアの隙間から室内が見えた。
 アパートにしては広い玄関の三和土に、こちらへ背を向けて畳まれた車椅子。
(……車椅子?)
 違和感を感じた途端、視界がブレた。
 軽く、頭を振って瞬きをする。監視カメラ自体も少し動かしてみるが異常はない。
 駄目だ。映像ノイズがひどい。アダムが顔を上げようとすると、急に目の前の景色から色が失われて、処理落ちのコマ送りになった。
「っ……」
 立っていられない。
 アダムはホログラムの体で壁へ手をつき、前のめりでなんとか身体を支えようとした。膝が笑い、脱力する感覚をアダムは初めて味わった。うまく調節がきかずに手が壁にめり込んでしまう。
 震える手でこめかみを探った。強制的に視界を遮断する手順を踏む。一哉の方に問題があるのかもしれない。地図アプリがまだ終了していなかったとか。アプリを複数開いたときに生じるバグであれば、一度こちらの視界を再起動すればリセットできるはずだった。
 視界の色は今や灰色から奇妙な色の重なりとなっていた。
 目の前の景色の輪郭が何重にも重なって、そここで極彩色の絵を描き、一方では泥を捏ねたような灰色を作っている。
 あまりの色の多さに何が目の前にあるのか判断ができない。
(ダメだ、きちんと……記録に残さないと……)
 輪郭が幾重にもブレる視界の中、真下を向いてしまった顔を、カメラを無理矢理に上げる。
 と、目の前の車椅子にぽつんと小柄な男が座っていた。
 こちらへ背を向けて、真っ直ぐに廊下の奥を見つめている。
(なに……?)
 考えるとすぐに、視線代わりの監視カメラがそこへフォーカスした。
 でたらめな抽象画のような映像の中で、黒髪の後頭部がゆっくりとこちらを振り返ろうとする。その姿だけがあまりに明瞭で、アダムの背筋をゾッとしたものが這い上がった。
「……っ」
 思わず仰け反ったアダムの耳元で一哉が何かを叫んだ。
 珍しく声が上ずっている。だが、よく聞こえない。
 アダム自身はホログラムの体なのに、足元までがグラグラと揺れているような錯覚に陥った。画像を共有している一哉は大丈夫だろうか。
「あんた、……大丈夫か?」
 訝しむ男の声と同時に、視界が切り替わった。
 咄嗟に顔を上げると、穏やかで雑然とした視界の中には茶髪の男と明るい玄関。奥へと伸びる廊下。もちろん、誰も座っていない車椅子。
(どうなってる……)
「はい、……いえ、……大丈夫です」
 汗が止まらなかった。この感覚は一哉のものだろうかとアダムは考える。素早く指を振って、視界を切り替える一哉の指示が伝わってきた。監視カメラで周囲を見渡しても、不可解なものは何もなかった。
「すみませんが、それは……?」
 めまいのような感覚を堪えて、確認する。男は怪訝そうに振り向き、それから玄関先の車椅子を見た。
「ああ。……ツレのだが?」
 特に何の感想もない様子だった。なぜそんなことを聞くのかと不思議そうでもある。室内からは微かに空調の音がするのみで、人の気配はない。
「さあ、問題ないなら帰ってくれ」
 男が気を取り直した様子で言った。階段へと顎を向ける。
 一哉がインカムを通してアダムへそっと話しかける。
【一旦、出直そう】
 それに促され、アダムはその場をあとにした。
第4章
「しかし、困ったな……」
 再生した映像をコマ送りにしながら一哉は嘆いた。
 シンプルに孤独死案件、とはならなかったからだ。死体を見つけるのも嫌だが、話がこじれるのはもっと嫌だ。関係者が増え、自分が出ていかなければならなくなる
 複数の人間とコミュニケーションを取ることは、一哉の最も苦手とする作業だった。
 映像をもう一度流す。
 サワムラと名乗った男が玄関を開け、車椅子が現れる。途端に映像は乱れ、アダムが俯いたせいで監視カメラも下を向き、灰色の床がざらざらとした質感のまま映り込む。
 アダムが上向いた次の瞬間、玄関では車椅子に男が座っている。少し揺れている頭部が今にも振り返りそうで、肩の動きは息遣いまでリアルに感じられる。周囲の映像が乱れているせいで、くっきりと映る男と車椅子が異様な存在感を持ってそこにあった。
 一哉が待機していたカフェで二人は合流した。
 そのまま、自宅へと引き返す。一哉は部屋を区切るパーティションを全開にしてベッドへ腰掛け、天井を仰いだ。
「まぁ……サワムラで言えば、顔が違ったな」
 冷静な声でアダムが返事をする。肩をすくめて一哉はアダムに振り返った。
「顔どころじゃない。あれがサワムラだって言うなら、全身整形っていうレベルで別人だ」
 アダムは目の前のテーブルへと調査報告書の電子データを展開させた。
 そこには、国民IDポータルで調べたアレク・サワムラの顔写真が大きく映し出されていた。
 やや垂れ目の黒く大きな瞳。意志の強そうな上がり気味の眉。サラリーマン風の短い黒髪は前髪がアシンメトリーでお洒落だ。実年齢よりは随分若く見える快活そうな若者がこちらへ微笑んでいる。
 写真の出典は、2年半ほど前にサワムラ自身の手で更新された国民IDカードの身分証明データだ。今日会った男とは似ても似つかない。
「で、あの大男は誰なんだと思う、一哉?」
「分かるわけないよ」
 一哉は憮然と、アダムへ返した。
 アダムは指を左右に振って、目の前の写真を次の写真へ切り替えた。
 今度は、1ヶ月前、コンビニ前の防犯カメラが捉えた映像だ。
 中肉の細身な男が自宅方向へと自動車椅子で移動している姿が映し出されている。
 顔はプライバシー配慮の関係から紗がかかったようにボカされているが、今回は携帯した国民IDカードの微かな磁気や体格から、この男がアレク・サワムラだということは分かっている。
 アダムは次々とアレク・サワムラと思しき画像を見ていく。
 成人から2年おきに更新義務がある国民IDカードの身分証明の画像ログ、現在のパスポートの顔写真、国民ID制度施行前に登録された旧運転免許証の荒い顔写真。
「電子データ上は、この黒髪がサワムラだな」
 確認をし終わったアダムへ、一哉がちらりと目線を向けた。
「アダムの見解は?」
「俺に意見はない。一哉はどう考える?」
「黒髪のサワムラ黒髪が茶髪の大男に全身整形した」
「金も使わずに?」
「なら、何らかの事情で、今日の男がカードをサワムラから……あの男がサワムラの恋人だとして、サワムラからカードを借り受けてるってのはどうだ」
「それこそどういった事情で?カードの不携帯はバレれば一時勾留、運が悪ければ禁錮3年、もし偽造となれば執行猶予なしの実刑だ……よく知っているだろう」
 以前の、現実が嫌で一哉が失踪しかけた事件を当てこすり、アダムは返す。
 一哉は気づかなかったふりをしてもう一度サワムラの写真を見返す。
 確かな違法行為が確認できれば通報もできるが今の段階ではそれも不確かでできない。
 なぜなら、先程大男のカードを読み込んだ端末から再度照会を試してみれば、このカードはアレク・サワムラのもので、対面した彼がサワムラだと答えがくるからだ。
 バグでもあるのかもしれないが、これではお手上げだと一哉は天を仰いだ。
「本物のサワムラがどこに行ったのか……だよなぁ」
 だいたい、補助司にできることは少ない。
 調査といえば、本人へ面会することと、国民IDポータルへの事実照会程度だ。
 一哉の場合はパートナーがアダム、AIなおかげで監視カメラの映像にアクセスできることはできるが、アダムが実際に対象に面会したときのデータにしか遡ることができないことになっている。
 ありとあらゆることが電子の世界で行えるようになってきた現代でも、対人に関することでいえば可能なことはそもそもそんなに多くはない。
 人間の目で見て、触って、匂いをかげば明白な違いも、コンピューターでは認識できない事象というものが数多くある。
 作業の主導はAI。人間はそのサポートを行う。人間が便利に暮らすためには技術と仲良く手を取り合うことが大切だ。
 国民IDのポータルサイトに常駐するAIは今回のサワムラの挙動に不審さを認めて調査を依頼してきた。だが、なぜ妙なことが起こっているのかを推測することはできない。現場を見ることもできない。だから人間が介入する。考える。『なぜ』と。
「とにかく成りすましの可能性が一番高い。もう一度、資料を確認したら再面談だ」
 一哉が呟く。アダムが提案してきた。
「夕方からの、ノナカのばあさんの件は後日に回すか?」
「いや、今日の方が良いだろう。できたら、他の補助司……ハヤシさんあたりに回してくれ」
「了解」
 今日は午後いっぱいを使っての資料とのにらみ合いになりそうだった。
第5話
「……サワムラが何らかの障害を持っているのは本当らしいな」
 一哉が呟く。
 障害認定の手続きのログを見つけた、とアダムへ資料を見せる。
 そこには補助具を要する障害、と記されている。それ以上の記載はない。こういった個人情報はプライバシーへの配慮から詳しい事故や病歴、障害の部位などは隠されていることが多い。
 それでも、実際に見てきた補助具、車椅子から、サワムラが身体に何らかの障害を持っていることは分かる。
「で、どうする?」
 アダムは資料を投げ返して相棒に聞き返す。考えるのは一哉担当だ。
「この顔が問題なんだよな……」
 黙ってテーブルの上を見つめていた一哉がぽつりと言った。
「……顔?」
 ふとアダムが一哉の手元を覗き込むと、サワムラの国民IDポータルの閲覧履歴を見ているようだった。
 新着は、2月27日PM1︰13。たった今、二人がサワムラの情報にアクセスしていますよという履歴だった。
 国民ID法が重んじる情報の透明性・明確性の観点から導入されているシステム。
 国民は国民IDポータルサイトにアクセスすれば、どの情報を誰がいつ閲覧したかをログで確認できる。だからこうして、一哉達がアレク・サワムラの情報に触れていることはリアルタイムでサワムラにも伝わっている。
 一哉は画面をスクロールさせて過去の履歴を遡っていた。
「すごい数だな……」
「ん。しかも見てくれよ」
 一哉の手元をアダムは覗き込んだ。
 膨大な閲覧の履歴数。多い日で2万件もの履歴が残っている。
 サイト内を万編なくぐるぐると見て回った履歴が続くかと思えば、数秒ごとに証明写真にアクセス、一定時間をおいてまた最初からサイト内を回って…。
 それが、半年前まで遡れる。
「誰だ?こんな妙な閲覧履歴を残してるのは。しかも、ここまで不自然な履歴をなぜポータルのAIが今まで見過ごして……」
 アダムを遮るように一哉が一枚の画像ファイルを投げてよこした。
「今調べたよ。閲覧者2-2001-1108-4153−a」
 ファイルを開くと、国民ID検索サイトから検索した2-2001-1108-4153−aは、アレク・サワムラの顔写真だった。
「サワムラ……本人?」
 黒髪の、どこか幼くも見える青年がこちらへ笑っている。一番最初に見た、本人証明の画像だ。
 ただよく見ると、違和感があった。
 証明写真のデータと比べると、その画像は顔が正面からやや傾いていた。部屋の中なのか彼の背後には本棚とソファ、車椅子が写り込んでいる。
 そして何より、彼の肩に正面から触れる無骨な指。車椅子で生活するサワムラの不安定な上半身を腕で支えて、正面から写真を撮る誰か。その誰かへサワムラは笑いかけていて……。
「これは、証明写真の原簿らしいんだよ。サワムラはこの写真を撮ってポータルサイトへアップ、そこでポータルサイトのAIが部屋の背景を消すなど画像処理を行った。画像処理された写真はそのままポータルサイトへ登録され、原簿は廃棄されるはずだったんだけど……。半年前、なぜか廃棄されずにいたこの写真が、正式な証明写真へ上書きされた。……この写真へのアクセス履歴が異常に多い」
 一哉の声にアダムは我に返る。
「いや、いや待て。そもそも、末尾αの番号は正確には本人の国民IDじゃない。これは……」
「ああ。末尾αは国民IDが何らかの事情でロックされたときの、仮ナンバーだ。基本はロック解除の時や国民IDカードの権限制限にしか使われない。ポータルサイトでも情報の閲覧くらいしかできないし、本人の携帯義務はない。ただこのα番号カードは成年後見人や介護AIは携帯することを許されているから……」
「つまりサワムラは国民IDを利用しなかったんじゃなくて、利用できなかったのか。正規の番号がロックされたおかげで、買い物も移動もできなかった。そしてそもそもなぜ、ロックを解除しなかったのかといえば」
「その時点で既に、『サワムラ本人には、ロックの解除ができなかった』から」
 一哉がアダムの言葉をそのまま引き継いだ。そして、自身の言葉に血の気が引いたのか、珍しく真正面からアダムの顔を見る。その手が震えていた。
「なぁ……お前は、誰と会ってきたんだ……?」
 アダムは呻き、ジャケットを手に立ち上がる。
「行こう。『俺』の目では分からない。お前の助けがいる」