表示設定
表示設定
目次 目次




第18話:職人の意地、相模原の空

ー/ー



東京小菅、東京拘置所の重い鉄扉が背後で閉まり、数千人のヘルメットが朝日に反射して波打つ光景を目に焼き付けてから、一ヶ月が過ぎた。相沢恒一は、釈放後すぐに相模原の古い商店街へ向かい、一灯の街灯を修理した。カチリという音と共に灯ったオレンジ色の明かりは、微かではあったが、どんな資本の嵐にも消されることのない「不滅の回路」が、自分たちの中に完成したことを告げていた。一万二千人の職人が株主となり、三十万人の署名が自分を突き動かした。もはやトラスト・アイは、単なる会社という器を超えた、日本のインフラを支える「現場の意志」そのものとなっていた。


だが、現実の経営は、理念だけで回るほど甘くはなかった。釈放後の祝祭ムードが落ち着くと、恒一の前には「組織の肥大化」という、これまでに経験したことのない巨大な壁が立ちはだかっていた。かつて軽トラ一台、身一つで始めた頃とは違う。守るべき背中が増えすぎたがゆえの、歪みが現場を蝕み始めていた。


「……社長、今のうちの状態、正直に報告させてください」 トラスト・アイ・センターの執務室で、犬飼がため息混じりに分厚い月次報告書を置いた。拘置所での一件以降、銀行からの融資は再開の兆しを見せているものの、急激に膨れ上がった組織の維持費と、全国展開に伴う管理コストがキャッシュフローを激しく圧迫していた。
「全国の職人たちが味方についてくれたのは心強いですが、寄せ集めの集団であることも否定できません。大和建設から流れてきた、合理性とスピードを最優先する職人たち。そして、柴崎電設時代からの流れを汲む、手間を惜しまない泥臭い叩き上げの連中。この両者の間で、仕事の進め方を巡って深刻な、そして感情的な衝突が各地で起きています。このままでは、現場で事故が起きるのも時間の問題です」


恒一は、腰袋に刺さった使い古しのペンチを抜き、その冷たい鋼の感触を掌で確かめた。このペンチは、かつて師匠である柴崎龍司から「これがお前の命だ」と譲り受けたものだ。
「……金とか組織の形とか、難しいことはあんたに任せっきりで悪いな、犬飼さん。でも、現場がバラバラだってんなら、俺のやることは一つしかねぇよ。御託を並べる前に、指先に思い出させてやるだけだ」


恒一は窓の外、夕闇に包まれ始めた相模原の街並みを見つめた。かつて自分が走り回ったこの街には、まだ多くの「直すべき場所」が残っている。
そこへ、一本の電話が入った。相手は、かつて自分を厳しく、しかし誰よりも深く、電気屋としてのイロハを叩き込んでくれた柴崎電設の佐藤だった。


「……恒一、生きてるか。釈放されて浮かれてる暇があるなら、ちょっと現場に来い。手が足りねぇんだ。お前がトラスト・アイの社長だろうがなんだろうが、俺に言わせりゃまだ半人前の手元だ」


向かったのは、相模原の住宅街の端にある、古びた児童養護施設『ひだまり園』の改修現場だった。そこは、恒一がまだ十代の、世の中を斜めに見ていた「クソガキ」だった頃、柴崎に連れられて初めて「電気という見えない力の怖さと、それ以上に大切な人の心の温かさ」を教わった、いわば恒一の職人としての揺りかごだった。


「……佐藤さん、お久しぶりです。柴崎の親方はどうしたんですか。あの人がいない現場なんて、締まらないでしょう」
「親方は先週、無理が祟って腰をいわして入院中だ。この現場、工期がガタガタになってる。……それだけじゃねぇ。トラスト・アイから助っ人に来たっていう、効率重視の若い奴らが、この古い配線を見て『全取っ替えしなきゃ無理だ、そんな予算は受けてないし、修理なんて時間の無駄だ』って、作業を放り出して事務所でスマホいじってやがるんだ」


現場に入ると、そこにはトラスト・アイの最新のワッペンをつけ、ピカピカの工具を持つ若手職人たちと、昔ながらの、傷だらけの道具を愛用するベテランたちが、火花を散らして睨み合っていた。
「……社長、来てくださいよ! 見てくださいこの盤、もう骨董品ですよ。中身の銅線は硬化してるし、絶縁も怪しい。修理するより新しい既製品のユニットを組んでバイパスを通した方が早いし、確実に数字は出せるんです。それなのに、このおっさん連中は『一つずつ磨いて直せ』の一点張りだ。令和の時代に、そんな非効率なやり方、ついていけませんよ!」


若手の主張は、ビジネスとしては、あるいは工期短縮という点では「正論」だった。だが、その言葉を聞いた瞬間、恒一の胸の奥で、かつて自己破産し、全てを失って、ただ一本のペンチだけを握りしめて再起を誓ったあの夜の熱い塊が、激しく疼いた。
効率。コスト。スピード。 それは、かつて自分を使い捨てにし、地獄に突き落とした「数字の論理」そのものではなかったか。


「……真治。あんたはどう思う」 恒一は、そばで黙々と、古い端子台の錆をマイナスドライバーで削っていた真治に声をかけた。真治は煤だらけの顔を上げ、古い分電盤を、まるで死にかけた戦友を見守るような眼差しで見つめていた。
「……俺は、佐藤さんの言うことが分かります。この盤、ただの機械じゃない。……何十年も、ここで親のいない子供たちの夜を照らしてきた、この建物の心臓なんです。……壁を壊して新しくするのは簡単だ。でも、それを『古いから、金にならないから』の一言でゴミにするのは、俺たちの腕が、その場所に流れた時間に負けたってことになりませんか」


恒一は、ゆっくりと歩み寄り、その古い分電盤の前に立った。 そこには、十数年前、自分がまだ震える手でマジックを握り、柴崎に怒鳴られながら、一生懸命に汚い字で書いた「回路名称」のシールが、色褪せて剥がれかかったまま残っていた。
(……そうだ。あの時、俺はここで初めて、柴崎さんに『いい手元だ、この回路図は一生忘れるな』って褒められたんだ)


「……全員、手を止めろ!」 恒一の野太い声が、静まり返った廊下に、そして若手たちの鼓膜に叩きつけられた。
「……俺たちは、何のために職人になったんだ。会社をデカくして、システムの上で勝つためか? ……違うだろ。目の前の、明日を不安に思ってる誰かのために、光を灯すためだろうが! 効率がねぇってんなら、その効率を叩き出すだけの腕を磨いてから口を開け!」


恒一は、自ら作業着の袖を捲り、一番汚れの激しい、埃とカビにまみれた床下点検口へと潜り込んだ。 「……社長!? 待ってください、そんな泥だらけの場所、俺たちがやりますから……」
「……いいから黙って見てろ! 効率が悪いってんなら、俺がそのやり方を見せてやる。……一本の線を繋ぐ。その重みを忘れた奴は、今日限りで道具を置け! トラスト・アイの看板を外せ!」


恒一の背中は、瞬く間に土と埃で真っ黒になった。 かつて独立を夢見て、金も家もなかった頃。毎日、冷たいコーヒーを買いに通ったコンビニで、理恵に「絶対、直しに来る」と誓ったあの日。あの時の自分は、ただ一人の女性の笑顔を守るために、ただ一本の線を正しく繋ぐために、必死で指先を震わせていた。会社が大きくなっても、株主が一万人を超えても、その本質は一ミリも変わっていないはずだった。


「……真治、1.6のIV、三メーター切って持ってこい! 佐藤さん、ここの絶縁、俺が手作業で引き直します。若いの! 突っ立って見てる暇があるなら、ライトで照らせ!」


恒一の怒号に近い指示に、現場の空気が一変した。 「不屈の英雄」としてメディアに祭り上げられていた男が、今、誰よりも泥にまみれ、誰よりも手間のかかる「修理」という名の執念に、没頭している。その姿を見て、反発していた若手たちの目に、戸惑いから、かつてこの業界に飛び込んだ時に持っていたはずの「純粋な憧れ」の光が戻り始めた。


「……社長、俺も行きます。……床下の配線経路、俺が調べます」
若手の一人が、予備の照明を手に、覚悟を決めた顔で恒一を追って床下へ潜り込んだ。野村も、苦笑しながら古い手書きの図面を読み解き、最短で、かつ最も負荷の少ないルートを指示し始めた。
それは、組織の壁も、世代の差も、効率という名の鎖も超えた、純粋な「職人のチーム」が再起動した瞬間だった。


そこからは、まさに「青春」のやり直しのような、泥臭い日々が続いた。 古い端子の錆を一つずつ丁寧に、ヤスリと接点復活剤で落とし、絶縁テープを何重にも巻き直す。足りない部品があれば、柴崎電設の倉庫から何十年も眠っていた、油の切れた古いデッドストックを掘り起こし、新品同様に分解洗浄して組み上げる。
昼飯は、校庭の隅で全員でコンビニのパンを齧り、夜は仮設電球の下で、誰のペンチが一番切れるか、誰の結線が一番美しいか、互いのプライドをぶつけ合った。


「……社長、俺、初めて分かりました。……最新のユニットをただポン付けするより、この古い線を生かして、初めて通電させた時のあの指先のピリつき。……あれが、生きてるって感覚なんですね」 若手が、真っ黒になった手で額の汗を拭い、白い歯を見せて笑った。


そんな現場を、理恵は毎日欠かさず訪れた。彼女は、トラスト・アイという巨大な船が、再び「相沢恒一という一人の職人の現場」に戻ったことを、誰よりも早く察していた。
ある夜、作業が一段落した休憩時間。満天の星空の下、プレハブの事務所の階段に並んで座る恒一と理恵。


「……相沢さん。……独立するって、あの軽トラで走り回ってた頃の、あの必死な顔に戻ってるね。……今の相沢さん、すごく格好いいよ」 理恵が、温かいお茶のペットボトルを差し出して言った。 「……理恵。……俺、拘置所にいる時、ずっと考えてたんだ。……俺は何を成し遂げたかったんだろうって。……結局、この不器用な指先で、目の前の一本の線を正しく繋ぐこと。それ以上に自分を証明できる場所なんて、どこにもなかった。……会社がどうなるとか、利権がどうとか、そんなのは全部、二の次だったんだ」


理恵は、恒一の傷だらけで、タコで固くなった手を、そっと自分の掌で包み込んだ。 「……それでいいんだよ。……その手が、みんなを、この街を繋いでる。……私は、その手から生まれる光を、あのコンビニの時から、ずっとずっと信じてるから。……だから、迷わないで」


そして、一週間が過ぎた。 『ひだまり園』の全ての電灯が、再び生命を宿す時が来た。 最新の照明のような、冷たく鋭い白光ではない。古いフィラメントがゆっくりと熱を持ち、建物全体を包み込むような、オレンジ色の柔らかな温かさ。


「……主幹ブレーカー、投入」 恒一が、祈るような気持ちでレバーを押し上げる。 ……カチリ。 その瞬間、静まり返った施設の中に、パッと優しい光が溢れた。 「……点いた。……点いたぞ!」 若手もベテランも、国交省の役人も、施設で暮らす子供たちも、一斉に歓声を上げた。子供たちが嬉しそうに廊下を走り回る姿を見て、佐藤は目頭を押さえ、入院中の親方に代わって、恒一の背中を力一杯叩いた。


「……通電だ」 恒一のその言葉は、どんな華やかな演説よりも、ずっと深く現場の空気を震わせた。


この様子を、犬飼は黙って、しかし熱い眼差しでタブレットに収めていた。彼はそれを、全国の職人ネットワークへと発信した。 『我々の原点は、ここにある。巨大な資本に対抗する唯一の力は、効率という名の数字ではなく、一本の線に込める、この泥臭い誠実さだ』
そのメッセージは、組織の軋轢に悩んでいた全国の職人たちの心を、一瞬で一つにまとめ上げた。バラバラになりかけていたトラスト・アイの回路が、かつてない強力な電流を流し始めたのだ。


さらに、この「ひだまり園」の物語を知った地元の信用金庫の頭取が、現場に直接足を運び、恒一たちの「現場第一主義」を高く評価した。
「……相沢社長、あなたの手を見て、融資を決めました。……この手は、人を裏切る仕事はしない」
無理に権力と戦わなくても、現場の誇りを守り抜けば、信頼は後からついてくる。それが、相沢恒一がたどり着いた、身近で、けれど何よりも尊い真実だった。


夕暮れの相模原。 軽トラの荷台に腰掛け、仲間たちと灯した明かりを眺める恒一。 その横には、変わらぬ微笑みを浮かべる理恵がいた。
青春時代の、泥臭くも眩しいサクセスストーリー。 それは、誰かを打ち負かす物語ではなく、誰かの夜を照らすために、自分を磨き続ける終わりのない旅路だ。


「……よし、行くか。……明日も早いぞ。……次の現場が俺たちを待ってる」


恒一は軽トラのエンジンをかけ、アクセルを力強く踏み込んだ。 ギアをローに入れ、相模原の夜へと走り出す。 その先には、まだ暗闇に沈んでいる現場が、自分たちの光を待っている。


相沢恒一、二十三歳。 彼の手には、一本のペンチと、分かち合える仲間、そして信じてくれる人がいる。 それだけで、この世界を照らすには十分だった。



スタンプを贈って作者を応援しよう!

次のエピソードへ進む 第19話:鋼のプライド、光の継承


みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



東京小菅、東京拘置所の重い鉄扉が背後で閉まり、数千人のヘルメットが朝日に反射して波打つ光景を目に焼き付けてから、一ヶ月が過ぎた。相沢恒一は、釈放後すぐに相模原の古い商店街へ向かい、一灯の街灯を修理した。カチリという音と共に灯ったオレンジ色の明かりは、微かではあったが、どんな資本の嵐にも消されることのない「不滅の回路」が、自分たちの中に完成したことを告げていた。一万二千人の職人が株主となり、三十万人の署名が自分を突き動かした。もはやトラスト・アイは、単なる会社という器を超えた、日本のインフラを支える「現場の意志」そのものとなっていた。
だが、現実の経営は、理念だけで回るほど甘くはなかった。釈放後の祝祭ムードが落ち着くと、恒一の前には「組織の肥大化」という、これまでに経験したことのない巨大な壁が立ちはだかっていた。かつて軽トラ一台、身一つで始めた頃とは違う。守るべき背中が増えすぎたがゆえの、歪みが現場を蝕み始めていた。
「……社長、今のうちの状態、正直に報告させてください」 トラスト・アイ・センターの執務室で、犬飼がため息混じりに分厚い月次報告書を置いた。拘置所での一件以降、銀行からの融資は再開の兆しを見せているものの、急激に膨れ上がった組織の維持費と、全国展開に伴う管理コストがキャッシュフローを激しく圧迫していた。
「全国の職人たちが味方についてくれたのは心強いですが、寄せ集めの集団であることも否定できません。大和建設から流れてきた、合理性とスピードを最優先する職人たち。そして、柴崎電設時代からの流れを汲む、手間を惜しまない泥臭い叩き上げの連中。この両者の間で、仕事の進め方を巡って深刻な、そして感情的な衝突が各地で起きています。このままでは、現場で事故が起きるのも時間の問題です」
恒一は、腰袋に刺さった使い古しのペンチを抜き、その冷たい鋼の感触を掌で確かめた。このペンチは、かつて師匠である柴崎龍司から「これがお前の命だ」と譲り受けたものだ。
「……金とか組織の形とか、難しいことはあんたに任せっきりで悪いな、犬飼さん。でも、現場がバラバラだってんなら、俺のやることは一つしかねぇよ。御託を並べる前に、指先に思い出させてやるだけだ」
恒一は窓の外、夕闇に包まれ始めた相模原の街並みを見つめた。かつて自分が走り回ったこの街には、まだ多くの「直すべき場所」が残っている。
そこへ、一本の電話が入った。相手は、かつて自分を厳しく、しかし誰よりも深く、電気屋としてのイロハを叩き込んでくれた柴崎電設の佐藤だった。
「……恒一、生きてるか。釈放されて浮かれてる暇があるなら、ちょっと現場に来い。手が足りねぇんだ。お前がトラスト・アイの社長だろうがなんだろうが、俺に言わせりゃまだ半人前の手元だ」
向かったのは、相模原の住宅街の端にある、古びた児童養護施設『ひだまり園』の改修現場だった。そこは、恒一がまだ十代の、世の中を斜めに見ていた「クソガキ」だった頃、柴崎に連れられて初めて「電気という見えない力の怖さと、それ以上に大切な人の心の温かさ」を教わった、いわば恒一の職人としての揺りかごだった。
「……佐藤さん、お久しぶりです。柴崎の親方はどうしたんですか。あの人がいない現場なんて、締まらないでしょう」
「親方は先週、無理が祟って腰をいわして入院中だ。この現場、工期がガタガタになってる。……それだけじゃねぇ。トラスト・アイから助っ人に来たっていう、効率重視の若い奴らが、この古い配線を見て『全取っ替えしなきゃ無理だ、そんな予算は受けてないし、修理なんて時間の無駄だ』って、作業を放り出して事務所でスマホいじってやがるんだ」
現場に入ると、そこにはトラスト・アイの最新のワッペンをつけ、ピカピカの工具を持つ若手職人たちと、昔ながらの、傷だらけの道具を愛用するベテランたちが、火花を散らして睨み合っていた。
「……社長、来てくださいよ! 見てくださいこの盤、もう骨董品ですよ。中身の銅線は硬化してるし、絶縁も怪しい。修理するより新しい既製品のユニットを組んでバイパスを通した方が早いし、確実に数字は出せるんです。それなのに、このおっさん連中は『一つずつ磨いて直せ』の一点張りだ。令和の時代に、そんな非効率なやり方、ついていけませんよ!」
若手の主張は、ビジネスとしては、あるいは工期短縮という点では「正論」だった。だが、その言葉を聞いた瞬間、恒一の胸の奥で、かつて自己破産し、全てを失って、ただ一本のペンチだけを握りしめて再起を誓ったあの夜の熱い塊が、激しく疼いた。
効率。コスト。スピード。 それは、かつて自分を使い捨てにし、地獄に突き落とした「数字の論理」そのものではなかったか。
「……真治。あんたはどう思う」 恒一は、そばで黙々と、古い端子台の錆をマイナスドライバーで削っていた真治に声をかけた。真治は煤だらけの顔を上げ、古い分電盤を、まるで死にかけた戦友を見守るような眼差しで見つめていた。
「……俺は、佐藤さんの言うことが分かります。この盤、ただの機械じゃない。……何十年も、ここで親のいない子供たちの夜を照らしてきた、この建物の心臓なんです。……壁を壊して新しくするのは簡単だ。でも、それを『古いから、金にならないから』の一言でゴミにするのは、俺たちの腕が、その場所に流れた時間に負けたってことになりませんか」
恒一は、ゆっくりと歩み寄り、その古い分電盤の前に立った。 そこには、十数年前、自分がまだ震える手でマジックを握り、柴崎に怒鳴られながら、一生懸命に汚い字で書いた「回路名称」のシールが、色褪せて剥がれかかったまま残っていた。
(……そうだ。あの時、俺はここで初めて、柴崎さんに『いい手元だ、この回路図は一生忘れるな』って褒められたんだ)
「……全員、手を止めろ!」 恒一の野太い声が、静まり返った廊下に、そして若手たちの鼓膜に叩きつけられた。
「……俺たちは、何のために職人になったんだ。会社をデカくして、システムの上で勝つためか? ……違うだろ。目の前の、明日を不安に思ってる誰かのために、光を灯すためだろうが! 効率がねぇってんなら、その効率を叩き出すだけの腕を磨いてから口を開け!」
恒一は、自ら作業着の袖を捲り、一番汚れの激しい、埃とカビにまみれた床下点検口へと潜り込んだ。 「……社長!? 待ってください、そんな泥だらけの場所、俺たちがやりますから……」
「……いいから黙って見てろ! 効率が悪いってんなら、俺がそのやり方を見せてやる。……一本の線を繋ぐ。その重みを忘れた奴は、今日限りで道具を置け! トラスト・アイの看板を外せ!」
恒一の背中は、瞬く間に土と埃で真っ黒になった。 かつて独立を夢見て、金も家もなかった頃。毎日、冷たいコーヒーを買いに通ったコンビニで、理恵に「絶対、直しに来る」と誓ったあの日。あの時の自分は、ただ一人の女性の笑顔を守るために、ただ一本の線を正しく繋ぐために、必死で指先を震わせていた。会社が大きくなっても、株主が一万人を超えても、その本質は一ミリも変わっていないはずだった。
「……真治、1.6のIV、三メーター切って持ってこい! 佐藤さん、ここの絶縁、俺が手作業で引き直します。若いの! 突っ立って見てる暇があるなら、ライトで照らせ!」
恒一の怒号に近い指示に、現場の空気が一変した。 「不屈の英雄」としてメディアに祭り上げられていた男が、今、誰よりも泥にまみれ、誰よりも手間のかかる「修理」という名の執念に、没頭している。その姿を見て、反発していた若手たちの目に、戸惑いから、かつてこの業界に飛び込んだ時に持っていたはずの「純粋な憧れ」の光が戻り始めた。
「……社長、俺も行きます。……床下の配線経路、俺が調べます」
若手の一人が、予備の照明を手に、覚悟を決めた顔で恒一を追って床下へ潜り込んだ。野村も、苦笑しながら古い手書きの図面を読み解き、最短で、かつ最も負荷の少ないルートを指示し始めた。
それは、組織の壁も、世代の差も、効率という名の鎖も超えた、純粋な「職人のチーム」が再起動した瞬間だった。
そこからは、まさに「青春」のやり直しのような、泥臭い日々が続いた。 古い端子の錆を一つずつ丁寧に、ヤスリと接点復活剤で落とし、絶縁テープを何重にも巻き直す。足りない部品があれば、柴崎電設の倉庫から何十年も眠っていた、油の切れた古いデッドストックを掘り起こし、新品同様に分解洗浄して組み上げる。
昼飯は、校庭の隅で全員でコンビニのパンを齧り、夜は仮設電球の下で、誰のペンチが一番切れるか、誰の結線が一番美しいか、互いのプライドをぶつけ合った。
「……社長、俺、初めて分かりました。……最新のユニットをただポン付けするより、この古い線を生かして、初めて通電させた時のあの指先のピリつき。……あれが、生きてるって感覚なんですね」 若手が、真っ黒になった手で額の汗を拭い、白い歯を見せて笑った。
そんな現場を、理恵は毎日欠かさず訪れた。彼女は、トラスト・アイという巨大な船が、再び「相沢恒一という一人の職人の現場」に戻ったことを、誰よりも早く察していた。
ある夜、作業が一段落した休憩時間。満天の星空の下、プレハブの事務所の階段に並んで座る恒一と理恵。
「……相沢さん。……独立するって、あの軽トラで走り回ってた頃の、あの必死な顔に戻ってるね。……今の相沢さん、すごく格好いいよ」 理恵が、温かいお茶のペットボトルを差し出して言った。 「……理恵。……俺、拘置所にいる時、ずっと考えてたんだ。……俺は何を成し遂げたかったんだろうって。……結局、この不器用な指先で、目の前の一本の線を正しく繋ぐこと。それ以上に自分を証明できる場所なんて、どこにもなかった。……会社がどうなるとか、利権がどうとか、そんなのは全部、二の次だったんだ」
理恵は、恒一の傷だらけで、タコで固くなった手を、そっと自分の掌で包み込んだ。 「……それでいいんだよ。……その手が、みんなを、この街を繋いでる。……私は、その手から生まれる光を、あのコンビニの時から、ずっとずっと信じてるから。……だから、迷わないで」
そして、一週間が過ぎた。 『ひだまり園』の全ての電灯が、再び生命を宿す時が来た。 最新の照明のような、冷たく鋭い白光ではない。古いフィラメントがゆっくりと熱を持ち、建物全体を包み込むような、オレンジ色の柔らかな温かさ。
「……主幹ブレーカー、投入」 恒一が、祈るような気持ちでレバーを押し上げる。 ……カチリ。 その瞬間、静まり返った施設の中に、パッと優しい光が溢れた。 「……点いた。……点いたぞ!」 若手もベテランも、国交省の役人も、施設で暮らす子供たちも、一斉に歓声を上げた。子供たちが嬉しそうに廊下を走り回る姿を見て、佐藤は目頭を押さえ、入院中の親方に代わって、恒一の背中を力一杯叩いた。
「……通電だ」 恒一のその言葉は、どんな華やかな演説よりも、ずっと深く現場の空気を震わせた。
この様子を、犬飼は黙って、しかし熱い眼差しでタブレットに収めていた。彼はそれを、全国の職人ネットワークへと発信した。 『我々の原点は、ここにある。巨大な資本に対抗する唯一の力は、効率という名の数字ではなく、一本の線に込める、この泥臭い誠実さだ』
そのメッセージは、組織の軋轢に悩んでいた全国の職人たちの心を、一瞬で一つにまとめ上げた。バラバラになりかけていたトラスト・アイの回路が、かつてない強力な電流を流し始めたのだ。
さらに、この「ひだまり園」の物語を知った地元の信用金庫の頭取が、現場に直接足を運び、恒一たちの「現場第一主義」を高く評価した。
「……相沢社長、あなたの手を見て、融資を決めました。……この手は、人を裏切る仕事はしない」
無理に権力と戦わなくても、現場の誇りを守り抜けば、信頼は後からついてくる。それが、相沢恒一がたどり着いた、身近で、けれど何よりも尊い真実だった。
夕暮れの相模原。 軽トラの荷台に腰掛け、仲間たちと灯した明かりを眺める恒一。 その横には、変わらぬ微笑みを浮かべる理恵がいた。
青春時代の、泥臭くも眩しいサクセスストーリー。 それは、誰かを打ち負かす物語ではなく、誰かの夜を照らすために、自分を磨き続ける終わりのない旅路だ。
「……よし、行くか。……明日も早いぞ。……次の現場が俺たちを待ってる」
恒一は軽トラのエンジンをかけ、アクセルを力強く踏み込んだ。 ギアをローに入れ、相模原の夜へと走り出す。 その先には、まだ暗闇に沈んでいる現場が、自分たちの光を待っている。
相沢恒一、二十三歳。 彼の手には、一本のペンチと、分かち合える仲間、そして信じてくれる人がいる。 それだけで、この世界を照らすには十分だった。