第13話:偽りの残火
ー/ー内神田の再開発ビル「ミッド・ステーション・タワー」が、初夏の陽光を反射して眩しく輝いていた。外装のカーテンウォールがほぼ完成し、現場はいよいよ「内装・設備」という、建物に命を吹き込む最終局面を迎えている。トラスト・アイの現場事務所には、相模原から通う職人たちに加え、都心で新たに雇用した電工、さらには犬飼が差配する管理スタッフを含め、百名を超える人間がひしめき合っていた。
「……社長、本日も検査合格です。施主側の設計監理からも、『トラスト・アイの配線は芸術品だ』とお褒めの言葉をいただきました」
真治が、汗を拭いながら誇らしげに報告にくる。その手元にある図面には、一ミリの妥協も許さない緻密なチェックマークがびっしりと書き込まれていた。資金危機を乗り越えた組織は、今や「鋼の絆」で結ばれ、現場の熱量は最高潮に達していた。
恒一は、パイプ椅子の背もたれに体を預け、窓の外に広がる東京のスカイラインを眺めた。 「……ああ、真治。だがな、完成間近が一番危ねぇんだ。浮き足立つなよ。最後まで『一本の線に魂を込める』。それを忘れた瞬間に、建物はただの箱に成り下がる」
「わかってます! 野村さんも今、若手をつかまえて『トラスト・アイの看板に泥を塗るな』って、耳にタコができるくらい説教してますから」
真治が笑いながら現場に戻っていく。その背中を見送りながら、恒一はふと、右手の指先に残る古い火傷の痕を撫でた。かつての自分なら、この成功に酔いしれ、派手な祝杯を上げていただろう。だが今の恒一には、静かな予感があった。凪(なぎ)が長すぎる。大和建設の金子が、三億の融資妨害を跳ね返されただけで引き下がるとは到底思えなかった。
その予感は、最悪の形で的中した。
翌朝。事務所のドアを、激しく叩く音が響いた。 「……警察だ。相沢恒一社長はいるか」
入ってきたのは、作業服姿の男たちではなく、重苦しいグレーのスーツを着た数人の男たちだった。捜査二課――知能犯を追う刑事たちだ。事務所内の空気が一瞬で氷結する。
「……俺が相沢だ。何の用だ」
恒一は立ち上がり、刑事の眼を真っ向から見据えた。 「株式会社トラスト・アイに対し、内神田再開発事業における『公契約関係競売入札妨害』、および『贈賄』の疑いで捜査令状が出ている。任意同行を願いたい」
「……何だと!? 贈賄……?
ふざけるな、誰にそんな真似をするってんだ!」 犬飼が叫び、デスクを叩いた。だが刑事は表情一つ変えず、一通の書類を恒一の前に突きつけた。
「相模原市役所、および東京都建設局の複数の職員に対し、貴社から多額の現金が振り込まれた形跡がある。……それも、例の『三億二千万』の融資が行われた直後にな」
恒一の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。 あの三億二千万。相模原の職人たちが、地元の有志たちが、恒一という男を信じて一円ずつ積み上げてくれた「信頼の塊」だ。それが、あろうことか汚職の原資に仕立て上げられているというのか。
「……待て。あの金は、地元の有志からの借入金だ。すべて契約書もあれば、出所もはっきりしている!」
「その『有志』の中に、大和建設の関係会社が含まれていることも、我々は掴んでいるんだよ、相沢さん」
刑事の言葉に、恒一は言葉を失った。 (……罠だ。最初から、あの三億さえも、奴らの計算の内だったのか……?)
大和建設が融資を止め、恒一を追い詰め、地元の善意に頼らざるを得ない状況を作り出す。そして、その善意の輪の中に「偽の協力者」を紛れ込ませ、後から汚い金だとレッテルを貼る。
恒一が地元の絆を信じれば信じるほど、その絆が彼自身の首を絞める縄になるように、巧妙に仕組まれていたのだ。
「……同行してもらおうか」
恒一が連行される姿を、現場の職人たちが騒然と見守っていた。 「社長!」「嘘だろ、あんなに信条(クレド)って言ってたのに……!」 不安と疑念の声が、波紋のように広がっていく。
取調室の冷たい空気の中で、恒一は数時間に及ぶ追及を受けた。 「認めろ。あの三億の一部は、大和建設から流れた工作資金だろう?」
「違う。俺は誰も買収なんてしていない!」 「じゃあ、この都庁の課長の口座に振り込まれた五百万はどう説明する? 振込人は『トラスト・アイ・代表 相沢恒一』となっている」
恒一は、机の下で拳を血が滲むほど握りしめた。 濡れ衣だ。だが、巧妙に偽造された証拠が、次々と彼を追い詰めていく。
二日後、証拠不十分で釈放されたものの、外に出た恒一を待っていたのは、さらに凄惨な光景だった。 事務所に戻ると、そこには立ち尽くす犬飼と、涙を流す理恵がいた。
「……社長。……現場で、火が出ました」
犬飼の声は、枯れ果てていた。
「何……?」
「三街区の地下ピット。……昨日、野村さんたちが完璧に仕上げたはずのメイン配線盤から、出火しました。ボヤで済みましたが……原因は、配線の施工不良によるショートだと断定されました」
恒一の視界が、真っ暗に染まった。 汚職疑惑、そして施工不良による火災。 「信頼」を掲げて登り詰めてきたトラスト・アイにとって、これ以上の致命傷はなかった。
「……野村さんたちは、そんなヘマはしない! 俺だって、一緒に確認したんだ!」
真治が叫ぶが、その声も虚しく、事務所の電話は鳴り止まない。施主からの契約解除の通告、協力会社からの工事中断、そして、あんなに熱く語り合った新入社員たちの「離職願」の山。
恒一は、壁に貼られた『信条(クレド)』を見上げた。 『一本の線に魂を込める』 その言葉が、今は皮肉な凶器となって自分を突き刺していた。
「……相沢さん。……大丈夫よ、きっと。真実は一つだもの」
理恵が震える手で、恒一の肩を抱いた。 だが、恒一は理恵の目を見ることができなかった。 自分が守ろうとした絆が、仲間たちの善意が、すべて悪意によって塗り替えられようとしている。
「……犬飼さん。……今の、うちの残高は」
「……警察の口座凍結こそ免れましたが、取引先が引き揚げを始めています。実質、あと三日で底を突きます。……現場の火災の賠償金を含めれば、もう、持ち堪える術はありません」
絶望。 かつて自己破産した時以上の、暗く、底の見えない深淵が足元に広がっていた。
その時、恒一の携帯が鳴った。非通知の着信。 恐る恐る耳に当てると、そこには、忘れもしないあの男の、低く、湿った声があった。
『……相沢くん。……言っただろう。経済という名の怪物は、情熱だけではねじ伏せられないと。……君の信条とやらは、炎に巻かれて消えてしまったようだな』
金子だった。 『……助けてやってもいい。今度こそ、君のすべてを私に差し出すならね。……明日の朝、大和建設本社の屋上で待っている。……これが最後の慈悲だ』
電話は切れた。 恒一は、暗闇の中で一人、ペンチを握りしめた。 右手の傷跡が、激しく疼いていた。
仲間への疑念、組織の崩壊、そして迫り来る完全な破滅。 恒一は、ある決意を固める。 それは、これまで築き上げてきたすべてを捨ててでも、守らなければならない「一本の線」のためだった。
「……真治。……野村。……犬飼さん。……理恵」 恒一は一人一人の名前を、噛み締めるように呟いた。
「……俺は、まだ諦めてねぇ。……この残火の中に、まだ『真実』が生きているはずだ」
恒一は雨の新宿へと、再び飛び出していった。 信条が死んだのではない。今こそ、その信条が本物かどうかを、神にではなく、自分自身に問うための、最も孤独な戦いが始まろうとしていた。
新宿の街を叩く雨は、夜が更けるにつれて激しさを増していた。ネオンの光が濡れたアスファルトに反射し、まるで色とりどりの毒液が街を流れているかのように見える。相沢恒一は、都心の喧騒を縫うようにして軽トラを走らせていた。隣には、沈黙を守る犬飼幸太郎がいる。
「……社長。どこへ向かっているんです。明朝には大和建設の本社へ行かなければ、事態は収拾しませんよ。汚職疑惑の釈明、現場火災の損害賠償……今の我々に、それらを撥ね退ける力はありません」
犬飼の声には、いつになく諦念が混じっていた。論理と数字を武器に戦ってきた男にとって、国家権力と巨大資本が結託した今回の包囲網は、もはや「詰み」の状態にしか見えなかった。
「……犬飼さん。あんたは数字を信じてる。だが、俺は『指先』を信じてるんだ」
恒一はハンドルを握りしめ、ワイパーが必死に拭うフロントガラスの先を見つめた。 「野村さんや真治が仕上げた配線が、施工不良で火を吹くなんて、天地がひっくり返ってもあり得ねぇ。……あいつらの指先は、俺の指先と同じだ。……一本の線に魂を込めた奴が、ショートするような緩い締め方をするはずがないんだよ」
恒一が向かったのは、警察によって立ち入り禁止措置が取られているはずの、内神田の現場だった。黄色い規制テープが雨に濡れて力なく垂れ下がっている。
「……不法侵入ですよ、社長」 「……構わねぇ。真実ってやつは、いつも現場に落ちてるもんだ」
二人は闇に乗じて、工事用エレベーターの脇から地下ピットへと滑り込んだ。懐中電灯の細い光が、煤け、焼け焦げた配線盤を照らし出す。鼻を突くのは、焦げたゴムと金属の混じった不快な臭いだ。
恒一は、焼け落ちたケーブルの束を、素手で一つずつ確認し始めた。煤で手が真っ黒に染まるが、構わなかった。 「……見ろ。ここだ」
懐中電灯の光の下、恒一が指し示したのは、メインブレーカーの端子台だった。激しく炭化しているが、その締め付けナットの形状がわずかに歪んでいる。
「……締めすぎだ。いや、強引にこじ開けたような跡がある。……犬飼さん。これは施工不良による過熱じゃない。……『熱風機』か何かで外側から焼かれ、その後で意図的にショートさせられた形跡だ。……つまり、放火だ」
「……何ですって? ですが、現場は厳重に戸締まりされていました。監視カメラにも不審な人影は……」
「……身内なら、カメラの死角も、鍵の場所も知ってる。……そして、このナットの回し方……。……うちの職人の道具じゃねぇ。もっと安物の、使い捨ての工具を使った跡だ」
恒一の脳裏に、ある男の顔が浮かんだ。大和建設の現場監督・佐々木の下で動いていた、柄の悪い作業員たち。彼らが、清掃業者や警備員を装って潜入していたとしたら。
「……犬飼さん。あんたの言ってた『大和建設の関係会社から流れた工作資金』ってやつ、その振込記録のIPアドレス、もう一度洗えるか? ……俺をハメた奴は、必ずどこかで『現場の感覚』を見落としてる」
犬飼は目を見開いた。 「……やってみましょう。……私はデジタル、社長はアナログ。……これで真実を掴めなければ、トラスト・アイは看板を下ろすべきですね」
二人は夜通し、現場の痕跡と犬飼が持ち出したデータの照合を続けた。 夜明けが近づく頃、犬飼のノートパソコンが、ある一つの事実を弾き出した。
「……社長、出ました。汚職の振込に使われた口座の開設住所……。……かつて大和建設の金子支店長が私設秘書に管理させていた、ペーパーカンパニーの所在地と一致します。……そして、現場火災の直前に、その会社の車両が内神田のゲートを通過した記録も……警備会社の中央サーバーに残っていました」
「……繋がったな。……一本の線が」
恒一は立ち上がり、泥と煤にまみれた作業着の襟を正した。 「……行くぞ。……金子の待つ、本社の屋上だ」
午前八時。 大和建設本社の屋上ヘリポート。 新宿のビル群を一望できるその場所で、金子は高級なコートを羽織り、悠然と葉巻を燻らせていた。
「……来たか。相沢くん。……いい顔をしているな。すべてを失い、泥を啜り尽くした男の顔だ」
「……金子。……あんたの『慈悲』ってやつを、聞きに来た」
恒一の声は低く、抑えられていた。 金子は勝ち誇ったように笑い、一枚の契約書を差し出した。 「トラスト・アイの全株式を、一円で大和建設に譲渡する。……その代わり、汚職の証拠は隠滅し、火災の損害賠償も我が社が被ってやろう。……君は、一職人に戻るんだ。相模原の小さな現場で、一生、泥にまみれて線を繋いでいればいい」
「……職人を、馬鹿にするなよ」
恒一は契約書を手に取らず、代わりに自分のスマホを金子の前にかざした。 そこには、犬飼が暴き出した「偽装工作の証拠」と、現場で撮影した「放火の物証」が映し出されていた。
「……あんたは、現場をナメすぎた。……あんたの部下は、ナット一つまともに締められない素人だ。……本物の職人なら、嘘の焼け跡なんて作らねぇ。……この証拠、今、警視庁の知能犯係に送ったところだ。……もちろん、あんたの裏口座のデータもセットでな」
金子の顔から、血の気が引いていくのがわかった。 「……なっ、何を……。そんなブラフが通用すると……」
「ブラフじゃねぇ。……これは、俺たちの『信条(クレド)』の、本当の力だ。……『現場の真実は、常に指先に宿る』。……あんたが殺そうとしたあの火災現場に、真実はしっかり残ってたんだよ」
その時、ヘリポートのドアが開き、数人の刑事が姿を現した。 昨日、恒一を取り調べた刑事たちだ。だが、その視線の先は恒一ではなく、金子に向けられていた。
「金子支店長。……警視庁です。……偽装工作、および業務妨害、放火教唆の疑いで署まで来てもらいたい」
「……馬鹿な。……私が、こんな小僧に……」
金子は力なく崩れ落ちた。 巨大な城が、一本の配線の不備から崩壊するように。 権力の怪物もまた、たった一人の職人が見抜いた「現場の真実」の前に、脆くも砕け散った。
一週間後。 内神田の現場事務所。 汚職疑惑は晴れ、トラスト・アイの名誉は完全に回復した。 それどころか、「巨大組織の陰謀に立ち向かった、日本一誠実な電気屋」として、その名は相模原を越え、全国的に知れ渡ることとなった。
事務所の中では、野村や真治たちが、再び生き生きと図面を広げていた。
「……社長。……また、求人の問い合わせが殺到してますよ。……今度は、大和建設の下請けから抜けたいっていう腕利きばかりだ」 真治が、嬉しそうに履歴書の束を抱えてきた。
恒一は、デスクに座り、窓の外を見つめていた。 そこには、理恵が淹れてくれた熱い茶があった。 理恵は、何も言わずに恒一の肩に手を置いた。その手の温もりが、張り詰めていた恒一の心を優しく解きほぐしていく。
「……真治。……数は、どうでもいい。……ただ、これだけは守れ」
恒一は立ち上がり、壁に貼られた、ボロボロになり、煤けてしまった『信条(クレド)』を指差した。
「……一本の線に魂を込める。……これに共感できねぇ奴は、どんなに腕が良くても入れるな。……俺たちは、もう二度と、あんな暗闇の中で火を灯すような思いを、仲間にさせたくねぇんだ」
「……はい! 社長!」
真治の声が、プレハブの事務所に力強く響いた。 犬飼は、新しい経営計画書を纏めながら、小さく微笑んだ。 「……さて。……相模原のモヒカン社長。……次は、どこの闇を照らしに行きますか?」
「……決まってるだろ。……日本中の現場を、俺たちの『信頼』で塗り替えてやるんだ」
恒一はペンチを手に取り、慣れた手つきでベルトのサックに差し込んだ。 その顔には、かつての荒々しさは消え、数多の苦難を乗り越えてきた者だけが持つ、深く、揺るぎない覚悟が刻まれていた。
「……社長、本日も検査合格です。施主側の設計監理からも、『トラスト・アイの配線は芸術品だ』とお褒めの言葉をいただきました」
真治が、汗を拭いながら誇らしげに報告にくる。その手元にある図面には、一ミリの妥協も許さない緻密なチェックマークがびっしりと書き込まれていた。資金危機を乗り越えた組織は、今や「鋼の絆」で結ばれ、現場の熱量は最高潮に達していた。
恒一は、パイプ椅子の背もたれに体を預け、窓の外に広がる東京のスカイラインを眺めた。 「……ああ、真治。だがな、完成間近が一番危ねぇんだ。浮き足立つなよ。最後まで『一本の線に魂を込める』。それを忘れた瞬間に、建物はただの箱に成り下がる」
「わかってます! 野村さんも今、若手をつかまえて『トラスト・アイの看板に泥を塗るな』って、耳にタコができるくらい説教してますから」
真治が笑いながら現場に戻っていく。その背中を見送りながら、恒一はふと、右手の指先に残る古い火傷の痕を撫でた。かつての自分なら、この成功に酔いしれ、派手な祝杯を上げていただろう。だが今の恒一には、静かな予感があった。凪(なぎ)が長すぎる。大和建設の金子が、三億の融資妨害を跳ね返されただけで引き下がるとは到底思えなかった。
その予感は、最悪の形で的中した。
翌朝。事務所のドアを、激しく叩く音が響いた。 「……警察だ。相沢恒一社長はいるか」
入ってきたのは、作業服姿の男たちではなく、重苦しいグレーのスーツを着た数人の男たちだった。捜査二課――知能犯を追う刑事たちだ。事務所内の空気が一瞬で氷結する。
「……俺が相沢だ。何の用だ」
恒一は立ち上がり、刑事の眼を真っ向から見据えた。 「株式会社トラスト・アイに対し、内神田再開発事業における『公契約関係競売入札妨害』、および『贈賄』の疑いで捜査令状が出ている。任意同行を願いたい」
「……何だと!? 贈賄……?
ふざけるな、誰にそんな真似をするってんだ!」 犬飼が叫び、デスクを叩いた。だが刑事は表情一つ変えず、一通の書類を恒一の前に突きつけた。
「相模原市役所、および東京都建設局の複数の職員に対し、貴社から多額の現金が振り込まれた形跡がある。……それも、例の『三億二千万』の融資が行われた直後にな」
恒一の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。 あの三億二千万。相模原の職人たちが、地元の有志たちが、恒一という男を信じて一円ずつ積み上げてくれた「信頼の塊」だ。それが、あろうことか汚職の原資に仕立て上げられているというのか。
「……待て。あの金は、地元の有志からの借入金だ。すべて契約書もあれば、出所もはっきりしている!」
「その『有志』の中に、大和建設の関係会社が含まれていることも、我々は掴んでいるんだよ、相沢さん」
刑事の言葉に、恒一は言葉を失った。 (……罠だ。最初から、あの三億さえも、奴らの計算の内だったのか……?)
大和建設が融資を止め、恒一を追い詰め、地元の善意に頼らざるを得ない状況を作り出す。そして、その善意の輪の中に「偽の協力者」を紛れ込ませ、後から汚い金だとレッテルを貼る。
恒一が地元の絆を信じれば信じるほど、その絆が彼自身の首を絞める縄になるように、巧妙に仕組まれていたのだ。
「……同行してもらおうか」
恒一が連行される姿を、現場の職人たちが騒然と見守っていた。 「社長!」「嘘だろ、あんなに信条(クレド)って言ってたのに……!」 不安と疑念の声が、波紋のように広がっていく。
取調室の冷たい空気の中で、恒一は数時間に及ぶ追及を受けた。 「認めろ。あの三億の一部は、大和建設から流れた工作資金だろう?」
「違う。俺は誰も買収なんてしていない!」 「じゃあ、この都庁の課長の口座に振り込まれた五百万はどう説明する? 振込人は『トラスト・アイ・代表 相沢恒一』となっている」
恒一は、机の下で拳を血が滲むほど握りしめた。 濡れ衣だ。だが、巧妙に偽造された証拠が、次々と彼を追い詰めていく。
二日後、証拠不十分で釈放されたものの、外に出た恒一を待っていたのは、さらに凄惨な光景だった。 事務所に戻ると、そこには立ち尽くす犬飼と、涙を流す理恵がいた。
「……社長。……現場で、火が出ました」
犬飼の声は、枯れ果てていた。
「何……?」
「三街区の地下ピット。……昨日、野村さんたちが完璧に仕上げたはずのメイン配線盤から、出火しました。ボヤで済みましたが……原因は、配線の施工不良によるショートだと断定されました」
恒一の視界が、真っ暗に染まった。 汚職疑惑、そして施工不良による火災。 「信頼」を掲げて登り詰めてきたトラスト・アイにとって、これ以上の致命傷はなかった。
「……野村さんたちは、そんなヘマはしない! 俺だって、一緒に確認したんだ!」
真治が叫ぶが、その声も虚しく、事務所の電話は鳴り止まない。施主からの契約解除の通告、協力会社からの工事中断、そして、あんなに熱く語り合った新入社員たちの「離職願」の山。
恒一は、壁に貼られた『信条(クレド)』を見上げた。 『一本の線に魂を込める』 その言葉が、今は皮肉な凶器となって自分を突き刺していた。
「……相沢さん。……大丈夫よ、きっと。真実は一つだもの」
理恵が震える手で、恒一の肩を抱いた。 だが、恒一は理恵の目を見ることができなかった。 自分が守ろうとした絆が、仲間たちの善意が、すべて悪意によって塗り替えられようとしている。
「……犬飼さん。……今の、うちの残高は」
「……警察の口座凍結こそ免れましたが、取引先が引き揚げを始めています。実質、あと三日で底を突きます。……現場の火災の賠償金を含めれば、もう、持ち堪える術はありません」
絶望。 かつて自己破産した時以上の、暗く、底の見えない深淵が足元に広がっていた。
その時、恒一の携帯が鳴った。非通知の着信。 恐る恐る耳に当てると、そこには、忘れもしないあの男の、低く、湿った声があった。
『……相沢くん。……言っただろう。経済という名の怪物は、情熱だけではねじ伏せられないと。……君の信条とやらは、炎に巻かれて消えてしまったようだな』
金子だった。 『……助けてやってもいい。今度こそ、君のすべてを私に差し出すならね。……明日の朝、大和建設本社の屋上で待っている。……これが最後の慈悲だ』
電話は切れた。 恒一は、暗闇の中で一人、ペンチを握りしめた。 右手の傷跡が、激しく疼いていた。
仲間への疑念、組織の崩壊、そして迫り来る完全な破滅。 恒一は、ある決意を固める。 それは、これまで築き上げてきたすべてを捨ててでも、守らなければならない「一本の線」のためだった。
「……真治。……野村。……犬飼さん。……理恵」 恒一は一人一人の名前を、噛み締めるように呟いた。
「……俺は、まだ諦めてねぇ。……この残火の中に、まだ『真実』が生きているはずだ」
恒一は雨の新宿へと、再び飛び出していった。 信条が死んだのではない。今こそ、その信条が本物かどうかを、神にではなく、自分自身に問うための、最も孤独な戦いが始まろうとしていた。
新宿の街を叩く雨は、夜が更けるにつれて激しさを増していた。ネオンの光が濡れたアスファルトに反射し、まるで色とりどりの毒液が街を流れているかのように見える。相沢恒一は、都心の喧騒を縫うようにして軽トラを走らせていた。隣には、沈黙を守る犬飼幸太郎がいる。
「……社長。どこへ向かっているんです。明朝には大和建設の本社へ行かなければ、事態は収拾しませんよ。汚職疑惑の釈明、現場火災の損害賠償……今の我々に、それらを撥ね退ける力はありません」
犬飼の声には、いつになく諦念が混じっていた。論理と数字を武器に戦ってきた男にとって、国家権力と巨大資本が結託した今回の包囲網は、もはや「詰み」の状態にしか見えなかった。
「……犬飼さん。あんたは数字を信じてる。だが、俺は『指先』を信じてるんだ」
恒一はハンドルを握りしめ、ワイパーが必死に拭うフロントガラスの先を見つめた。 「野村さんや真治が仕上げた配線が、施工不良で火を吹くなんて、天地がひっくり返ってもあり得ねぇ。……あいつらの指先は、俺の指先と同じだ。……一本の線に魂を込めた奴が、ショートするような緩い締め方をするはずがないんだよ」
恒一が向かったのは、警察によって立ち入り禁止措置が取られているはずの、内神田の現場だった。黄色い規制テープが雨に濡れて力なく垂れ下がっている。
「……不法侵入ですよ、社長」 「……構わねぇ。真実ってやつは、いつも現場に落ちてるもんだ」
二人は闇に乗じて、工事用エレベーターの脇から地下ピットへと滑り込んだ。懐中電灯の細い光が、煤け、焼け焦げた配線盤を照らし出す。鼻を突くのは、焦げたゴムと金属の混じった不快な臭いだ。
恒一は、焼け落ちたケーブルの束を、素手で一つずつ確認し始めた。煤で手が真っ黒に染まるが、構わなかった。 「……見ろ。ここだ」
懐中電灯の光の下、恒一が指し示したのは、メインブレーカーの端子台だった。激しく炭化しているが、その締め付けナットの形状がわずかに歪んでいる。
「……締めすぎだ。いや、強引にこじ開けたような跡がある。……犬飼さん。これは施工不良による過熱じゃない。……『熱風機』か何かで外側から焼かれ、その後で意図的にショートさせられた形跡だ。……つまり、放火だ」
「……何ですって? ですが、現場は厳重に戸締まりされていました。監視カメラにも不審な人影は……」
「……身内なら、カメラの死角も、鍵の場所も知ってる。……そして、このナットの回し方……。……うちの職人の道具じゃねぇ。もっと安物の、使い捨ての工具を使った跡だ」
恒一の脳裏に、ある男の顔が浮かんだ。大和建設の現場監督・佐々木の下で動いていた、柄の悪い作業員たち。彼らが、清掃業者や警備員を装って潜入していたとしたら。
「……犬飼さん。あんたの言ってた『大和建設の関係会社から流れた工作資金』ってやつ、その振込記録のIPアドレス、もう一度洗えるか? ……俺をハメた奴は、必ずどこかで『現場の感覚』を見落としてる」
犬飼は目を見開いた。 「……やってみましょう。……私はデジタル、社長はアナログ。……これで真実を掴めなければ、トラスト・アイは看板を下ろすべきですね」
二人は夜通し、現場の痕跡と犬飼が持ち出したデータの照合を続けた。 夜明けが近づく頃、犬飼のノートパソコンが、ある一つの事実を弾き出した。
「……社長、出ました。汚職の振込に使われた口座の開設住所……。……かつて大和建設の金子支店長が私設秘書に管理させていた、ペーパーカンパニーの所在地と一致します。……そして、現場火災の直前に、その会社の車両が内神田のゲートを通過した記録も……警備会社の中央サーバーに残っていました」
「……繋がったな。……一本の線が」
恒一は立ち上がり、泥と煤にまみれた作業着の襟を正した。 「……行くぞ。……金子の待つ、本社の屋上だ」
午前八時。 大和建設本社の屋上ヘリポート。 新宿のビル群を一望できるその場所で、金子は高級なコートを羽織り、悠然と葉巻を燻らせていた。
「……来たか。相沢くん。……いい顔をしているな。すべてを失い、泥を啜り尽くした男の顔だ」
「……金子。……あんたの『慈悲』ってやつを、聞きに来た」
恒一の声は低く、抑えられていた。 金子は勝ち誇ったように笑い、一枚の契約書を差し出した。 「トラスト・アイの全株式を、一円で大和建設に譲渡する。……その代わり、汚職の証拠は隠滅し、火災の損害賠償も我が社が被ってやろう。……君は、一職人に戻るんだ。相模原の小さな現場で、一生、泥にまみれて線を繋いでいればいい」
「……職人を、馬鹿にするなよ」
恒一は契約書を手に取らず、代わりに自分のスマホを金子の前にかざした。 そこには、犬飼が暴き出した「偽装工作の証拠」と、現場で撮影した「放火の物証」が映し出されていた。
「……あんたは、現場をナメすぎた。……あんたの部下は、ナット一つまともに締められない素人だ。……本物の職人なら、嘘の焼け跡なんて作らねぇ。……この証拠、今、警視庁の知能犯係に送ったところだ。……もちろん、あんたの裏口座のデータもセットでな」
金子の顔から、血の気が引いていくのがわかった。 「……なっ、何を……。そんなブラフが通用すると……」
「ブラフじゃねぇ。……これは、俺たちの『信条(クレド)』の、本当の力だ。……『現場の真実は、常に指先に宿る』。……あんたが殺そうとしたあの火災現場に、真実はしっかり残ってたんだよ」
その時、ヘリポートのドアが開き、数人の刑事が姿を現した。 昨日、恒一を取り調べた刑事たちだ。だが、その視線の先は恒一ではなく、金子に向けられていた。
「金子支店長。……警視庁です。……偽装工作、および業務妨害、放火教唆の疑いで署まで来てもらいたい」
「……馬鹿な。……私が、こんな小僧に……」
金子は力なく崩れ落ちた。 巨大な城が、一本の配線の不備から崩壊するように。 権力の怪物もまた、たった一人の職人が見抜いた「現場の真実」の前に、脆くも砕け散った。
一週間後。 内神田の現場事務所。 汚職疑惑は晴れ、トラスト・アイの名誉は完全に回復した。 それどころか、「巨大組織の陰謀に立ち向かった、日本一誠実な電気屋」として、その名は相模原を越え、全国的に知れ渡ることとなった。
事務所の中では、野村や真治たちが、再び生き生きと図面を広げていた。
「……社長。……また、求人の問い合わせが殺到してますよ。……今度は、大和建設の下請けから抜けたいっていう腕利きばかりだ」 真治が、嬉しそうに履歴書の束を抱えてきた。
恒一は、デスクに座り、窓の外を見つめていた。 そこには、理恵が淹れてくれた熱い茶があった。 理恵は、何も言わずに恒一の肩に手を置いた。その手の温もりが、張り詰めていた恒一の心を優しく解きほぐしていく。
「……真治。……数は、どうでもいい。……ただ、これだけは守れ」
恒一は立ち上がり、壁に貼られた、ボロボロになり、煤けてしまった『信条(クレド)』を指差した。
「……一本の線に魂を込める。……これに共感できねぇ奴は、どんなに腕が良くても入れるな。……俺たちは、もう二度と、あんな暗闇の中で火を灯すような思いを、仲間にさせたくねぇんだ」
「……はい! 社長!」
真治の声が、プレハブの事務所に力強く響いた。 犬飼は、新しい経営計画書を纏めながら、小さく微笑んだ。 「……さて。……相模原のモヒカン社長。……次は、どこの闇を照らしに行きますか?」
「……決まってるだろ。……日本中の現場を、俺たちの『信頼』で塗り替えてやるんだ」
恒一はペンチを手に取り、慣れた手つきでベルトのサックに差し込んだ。 その顔には、かつての荒々しさは消え、数多の苦難を乗り越えてきた者だけが持つ、深く、揺るぎない覚悟が刻まれていた。
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