第11話:首都の逆風
ー/ー自己破産から三年の月日が流れた。恒一は名前も実績も失ったが、一本のペンチだけは手放さなかった。相模原の片隅で、日銭を稼ぐような小さな修理を数千件と積み重ねる中で、かつての仲間たちが一人、また一人と恒一のもとに戻ってきた。それが『トラスト・アイ』という巨大な回路の、最初の結線だった。地道な信頼の積み重ねが、やがて相模原駅前再開発という大きな実績を呼び込み、ついに彼らは「東京」という巨大な戦場へ挑む切符を手にしたのだ。
国道16号線を抜け、多摩川を渡る。軽トラのフロントガラス越しに見える景色が、見慣れた相模原の平屋建ての街並みから、空を突き刺すような高層ビル群へと変わっていく。
「……空が狭いな、東京は」
助手席に座る真治が、緊張した面持ちで窓の外を眺めていた。トラスト・アイが元請けとして請け負った、千代田区内神田の再開発ビル建設現場。相模原駅前での実績が認められ、都心進出の足掛かりとなる記念すべき第一歩のはずだった。
だが、現場事務所に一歩足を踏み入れた瞬間、恒一はその空気が地元とは決定的に違うことを肌で感じた。
「……株式会社トラスト・アイさんですね。あちらの隅のデスクを使ってください。資料はクラウドに上げてありますから、勝手に見ておいて」
都心の大手設計事務所から派遣されてきた若手の監理技術者が、画面から目を離さずに冷たく言い放った。そこには、源さんや柴崎との間にあったような、現場特有の湿り気のある人間味など微塵もなかった。
恒一は無言でデスクに座り、犬飼がタブレットに表示させた工程表を睨んだ。 「……犬飼さん。この資材搬入計画、どうなってる。許可が下りてねぇぞ」
「……それが、おかしいんです。所轄の警察も役所も、形式上の不備はないと言いながら、判を押してくれない。昨日、金子(元大和建設支店長)が都議会議員と会食していたという情報を掴みました。……おそらく、見えない網が張られています」
犬飼の声には、いつになく焦りが混じっていた。都心の大規模工事は、技術以前に「許認可」という名の政治力が支配する世界だ。現場でどれだけ完璧な配線をしても、電線そのものが現場に届かなければ、職人はただ立ち尽くすしかない。
「……技術で勝てないから、今度は紙切れで首を絞めにきたか」
恒一がペンを回したその時、事務所の外から荒っぽい怒鳴り声が聞こえてきた。
「……ふざけんな! なんだこの図面は! こんな狭い隙間に、どうやって太い幹線を通せってんだ!」
声の主は、都心の現場で新たに雇い入れたベテラン職人の野村だった。彼は真治が作成した施工図を机に叩きつけ、周囲の若い社員たちを威嚇していた。
「野村さん、落ち着いてください。そこは省スペース設計で、クレドにもある通り『一本の線に魂を込めて』工夫して通すことになってるんです」
真治が必死に説得を試みるが、野村は鼻で笑った。
「……魂だあ? そんな精神論、相模原の田舎だけでやってろよ。俺たちはこっちのやり方があるんだ。納期に間に合わせるなら、横の壁をブチ抜いて通す。それが一番早いんだよ」
「壁を抜いたら、後の防火処理が大変なことになります! 信頼(トラスト)の問題なんです!」
真治の叫びは、効率を最優先する都心の空気に虚しく響いた。新しく入ってきた社員たちの多くは、恒一が語った「信条」を、まだ耳触りの良いお題目程度にしか捉えていない。
恒一はゆっくりと立ち上がり、野村の前に歩み寄った。 事務所内の視線が、一斉に代表である恒一に集まる。
「……野村。壁を抜けば、確かにお前の仕事は三時間早く終わるだろうな」
「……そうだろ、社長。あんたも元職人なら分かるはずだ。効率がすべてだろ」
「ああ、分かるぜ。だがな、その三時間の短縮のせいで、三十年後にこのビルで火災が起きた時、防火区画が機能せずに誰かが死ぬとしたら、お前はその三時間を誇れるか?」
恒一の眼光が、野村の言葉を封じた。 「……俺たちが都心(ここ)に来たのは、大手のやり方を真似するためじゃねぇ。大手が忘れた『現場の誠実さ』を、このアスファルトのジャングルに叩き込むためだ。……真治、図面通りにやれ。資材の搬入は、俺がなんとかする」
恒一は、スーツのジャケットを羽織り、プレハブを飛び出した。 向かう先は、現場ではない。かつて自分を奈落に突き落とした「大和建設」の影が蠢く、東京都庁の建設局。
ペンチを握る代わりに、今度は言葉と、これまで積み上げてきた「信頼」という見えない実績を武器に、恒一は巨大な官僚機構の心臓部へと乗り込んでいく。
「……犬飼さん。……俺、やっぱりスーツは肩が凝るわ」
駐車場で待っていた犬飼に、恒一は自嘲気味に笑った。 だが、その瞳は、相模原の荒ぶるモヒカンだった頃よりも、遥かに深く、昏い炎を宿していた。
一方、現場に残された真治は、野村たちの冷ややかな視線を浴びながら、一人で極狭のシャフトへと潜り込んでいく。
「……見ててください、恒一さん。俺がこの現場に、トラスト・アイの魂を刻んでみせますから」
暗い竪穴の中で、真治のライトだけが、孤独に光り輝いていた。
東京都庁、西新宿の空を切り裂くようなツインタワーを見上げ、相沢恒一はネクタイを緩めた。手に持っているのは、犬飼が纏めた「資材搬入計画の正当性」を証明する厚いファイルと、そして現場から上がってきた「ある一枚の不自然な写真」だった。
建設局の応接室。冷房が効きすぎたその部屋で、恒一を待っていたのは、大和建設の息がかかったとされる担当課長の広瀬だった。
「相沢社長。何度来られても同じですよ。内神田の再開発現場は周辺道路が狭隘(きょうあい)です。大型車両の通行許可は、地元の同意と警察の指導が揃わなければ下せません」
広瀬は書類に目を落としたまま、恒一と視線を合わせようともしなかった。その態度は、かつての金子支店長と同じ、「持てる者の傲慢」に満ちている。
「……広瀬課長。地元の同意なら、昨夜のうちにすべて取り付けてきました」
恒一は、重厚なファイルを机に叩きつけた。そこには、現場周辺の商店主や住民一人一人の署名が並んでいた。源さんと共に一軒一軒、頭を下げて回った成果だ。 「なっ……」
「それから、これを見てください」
恒一が差し出したのは、現場の搬入口付近を深夜に撮影した写真だった。そこには、大和建設のロゴが入った車両が、わざとらしくトラスト・アイの搬入予定地を塞ぐように駐車されている姿が写っていた。
「……警察に届け出れば、これは『威力業務妨害』になる。大和建設が裏で糸を引いているという証拠を、今ここで突きつけてもいいんですよ」 「……脅しかね」
「いいえ。俺たちはただ、正当に仕事をしたいだけだ」
恒一は椅子から立ち上がり、窓の外のビル群を指差した。 「あんたたちは、上から数字だけを見て街を造ってる。だが、その足元で泥を啜って線を繋いでるのは、俺たち職人だ。……あんたが守るべきは、ゼネコンのメンツか? それとも、この街の未来か?」
恒一の放つ圧倒的な「現場の熱」に、広瀬の喉が微かに鳴った。 「……明日までに、許可証を発行させます。ただし、一度でも事故を起こせば、即座に取り消しますよ」
「……事故なんて、起こさねぇよ。うちには、命を懸けて線を繋いでる男たちがいる」
恒一はそう言い残し、都庁を後にした。 だが、外へ出ると同時に、胸を突くような嫌な予感がした。急いで携帯を取り出す。犬飼からの着信が十数件入っていた。
「……犬飼さん、どうした!」
『社長! 現場でトラブルです! 真治くんが……野村たちと衝突して、作業が止まっています!』
恒一は、駐車場に止めてあった軽トラに飛び乗り、内神田の現場へと急行した。
現場に着くと、工事の騒音を切り裂くような怒号が飛び交っていた。 「……どけって言ってんだよ、若造が!」
野村が真治の胸ぐらを掴み、壁際まで追い詰めていた。足元には、真治が丁寧に仕上げようとしていた配線器具が無残に転がっている。
「……ダメです、野村さん! その結線じゃ、将来のメンテナンスができない!
手間はかかっても、クレドにある通り『一本の線に魂を込めて』、未来に繋がる仕事を……」
「うるせぇんだよ! その『魂』って言葉を聞くたびにヘドが出る! 俺たちは今日中にここを終わらせて、次の現場に行かなきゃならねぇんだ。お前の自己満足に付き合ってる暇はねぇ!」
周囲の新入社員たちは、どちらに付くべきか迷い、ただ遠巻きに見守っていた。都心のドライな空気に毒され、「早く終わらせて帰りたい」という誘惑が、恒一の掲げた不器用な信条(クレド)を侵食し始めていた。
「……そこまでだ」
恒一の声が、地下の竪穴(シャフト)に響き渡った。 泥だらけのスーツ姿で現れた恒一の姿に、野村が舌打ちをして真治を放した。
「……社長。いいところに来た。このガキに言ってやってくれよ。効率の悪いやり方を押し付けるのは、経営者として失格だってな」
恒一は、無言で床に転がった器具を拾い上げた。 傷がついている。だが、真治が格闘した形跡――わずかな指先の血痕が、絶縁テープの端に残っていた。
「……野村。お前、さっきから『効率』って言葉を連呼してるが、その効率ってのは誰のためのもんだ?」
「決まってるだろ。会社の利益と、俺たちの手離れの良さだ」
「……違うな」
恒一は、野村の目の前で、真治が苦労して通そうとしていた複雑な配線を指差した。 「……これは、このビルの『血管』だ。もしここを手抜いて、将来ショートして停電が起きた時、困るのは誰だ?
ビルの中で働く数千人の人間だ。……俺たちの『効率』のために、そいつらの『日常』を危険に晒す。……それがお前の言う『プロ』の仕事か?」
「……綺麗事だ。そんなの、誰も見ちゃいねぇよ」
「俺が見てる」
恒一の言葉に、野村が息を呑んだ。 「……そして、真治も見てる。……そして、何よりお前自身の『指先』が、嘘をついてることを知ってるはずだ」
恒一は野村の、タコだらけの右手を掴んだ。 「……野村、お前のその手は、昔はもっといい仕事を誇りにしてたんじゃないのか?
大手に使い捨てにされて、いつの間にか『終わらせること』だけが目的になっちまった。……そんな虚しい仕事をするために、トラスト・アイに来たのか?」
野村の拳が、微かに震えた。 長年、使い捨ての駒として扱われてきたベテラン職人の、乾いた心の奥底にある「職人のプライド」を、恒一の言葉が情け容赦なく抉り出していた。
「……トラスト・アイの信条(クレド)は、俺が作った説教じゃねぇ。お前らみたいな、行き場を失った腕利きたちが、もう一度自分の仕事を愛するための『鎧』なんだよ」
恒一は周囲を見渡した。立ち尽くしていた若手社員たちが、気圧されるように背筋を伸ばした。
「……真治。やり直せ。……野村。お前のその熟練の技で、真治に『本当の神業』ってやつを見せてやれ。……壁をブチ抜かずに、最高精度の配線を通す。……それができるのは、この現場でお前しかいないはずだ」
静寂が現場を支配した。 数十秒の後、野村は小さく吐き捨て、地面に落ちていたペンチを拾い上げた。
「……ちっ。……おい、若造。貸せ。……俺が手本を見せてやる。……二度と『精神論』なんて言わせねぇような、完璧なやつをな」
「……はい! よろしくお願いします!」
真治が、涙を拭いながら声を上げた。 野村と真治。世代も考え方も違う二人が、一本の幹線を囲んで向かい合った。 その光景を見ていた新入社員たちの瞳に、ようやく「信条」という言葉が、文字ではなく、体温を持った重みとして宿り始めた。
「……社長。……組織が、また一歩、大きくなりましたね」背後で見ていた犬飼が、静かに言った。
「……ああ。……だが、これからだ。都庁から許可は取った。明日から資材が怒涛のように入ってくる。……一丸となって、この首都の空を照らしてやるぞ」
その夜。 工事現場の仮設電灯が、夜の新宿の闇の中に、ポツリと、しかし確かな光の帯を作っていた。 それは、かつて相模原の小さなクリニックで灯した光と同じ、誰かの明日を守るための「信頼(トラスト)」の輝きだった。
だが、恒一はまだ知らなかった。 この現場での勝利が、さらなる巨大な「経済の怪物」を目覚めさせてしまったことを。 大和建設の本社が、トラスト・アイを「単なる邪魔者」から「排除すべき脅威」へと認識を変えた瞬間だった。
恒一は、理恵から届いた「お弁当、多めに作っておいたよ」という短いメールを見つめ、都心の冷たい夜風の中で、静かに微笑んだ。
信条を分かち合う仲間がいる。待ってくれる人がいる。 それだけで、どんな逆風も、追い風に変えられる気がしていた。
国道16号線を抜け、多摩川を渡る。軽トラのフロントガラス越しに見える景色が、見慣れた相模原の平屋建ての街並みから、空を突き刺すような高層ビル群へと変わっていく。
「……空が狭いな、東京は」
助手席に座る真治が、緊張した面持ちで窓の外を眺めていた。トラスト・アイが元請けとして請け負った、千代田区内神田の再開発ビル建設現場。相模原駅前での実績が認められ、都心進出の足掛かりとなる記念すべき第一歩のはずだった。
だが、現場事務所に一歩足を踏み入れた瞬間、恒一はその空気が地元とは決定的に違うことを肌で感じた。
「……株式会社トラスト・アイさんですね。あちらの隅のデスクを使ってください。資料はクラウドに上げてありますから、勝手に見ておいて」
都心の大手設計事務所から派遣されてきた若手の監理技術者が、画面から目を離さずに冷たく言い放った。そこには、源さんや柴崎との間にあったような、現場特有の湿り気のある人間味など微塵もなかった。
恒一は無言でデスクに座り、犬飼がタブレットに表示させた工程表を睨んだ。 「……犬飼さん。この資材搬入計画、どうなってる。許可が下りてねぇぞ」
「……それが、おかしいんです。所轄の警察も役所も、形式上の不備はないと言いながら、判を押してくれない。昨日、金子(元大和建設支店長)が都議会議員と会食していたという情報を掴みました。……おそらく、見えない網が張られています」
犬飼の声には、いつになく焦りが混じっていた。都心の大規模工事は、技術以前に「許認可」という名の政治力が支配する世界だ。現場でどれだけ完璧な配線をしても、電線そのものが現場に届かなければ、職人はただ立ち尽くすしかない。
「……技術で勝てないから、今度は紙切れで首を絞めにきたか」
恒一がペンを回したその時、事務所の外から荒っぽい怒鳴り声が聞こえてきた。
「……ふざけんな! なんだこの図面は! こんな狭い隙間に、どうやって太い幹線を通せってんだ!」
声の主は、都心の現場で新たに雇い入れたベテラン職人の野村だった。彼は真治が作成した施工図を机に叩きつけ、周囲の若い社員たちを威嚇していた。
「野村さん、落ち着いてください。そこは省スペース設計で、クレドにもある通り『一本の線に魂を込めて』工夫して通すことになってるんです」
真治が必死に説得を試みるが、野村は鼻で笑った。
「……魂だあ? そんな精神論、相模原の田舎だけでやってろよ。俺たちはこっちのやり方があるんだ。納期に間に合わせるなら、横の壁をブチ抜いて通す。それが一番早いんだよ」
「壁を抜いたら、後の防火処理が大変なことになります! 信頼(トラスト)の問題なんです!」
真治の叫びは、効率を最優先する都心の空気に虚しく響いた。新しく入ってきた社員たちの多くは、恒一が語った「信条」を、まだ耳触りの良いお題目程度にしか捉えていない。
恒一はゆっくりと立ち上がり、野村の前に歩み寄った。 事務所内の視線が、一斉に代表である恒一に集まる。
「……野村。壁を抜けば、確かにお前の仕事は三時間早く終わるだろうな」
「……そうだろ、社長。あんたも元職人なら分かるはずだ。効率がすべてだろ」
「ああ、分かるぜ。だがな、その三時間の短縮のせいで、三十年後にこのビルで火災が起きた時、防火区画が機能せずに誰かが死ぬとしたら、お前はその三時間を誇れるか?」
恒一の眼光が、野村の言葉を封じた。 「……俺たちが都心(ここ)に来たのは、大手のやり方を真似するためじゃねぇ。大手が忘れた『現場の誠実さ』を、このアスファルトのジャングルに叩き込むためだ。……真治、図面通りにやれ。資材の搬入は、俺がなんとかする」
恒一は、スーツのジャケットを羽織り、プレハブを飛び出した。 向かう先は、現場ではない。かつて自分を奈落に突き落とした「大和建設」の影が蠢く、東京都庁の建設局。
ペンチを握る代わりに、今度は言葉と、これまで積み上げてきた「信頼」という見えない実績を武器に、恒一は巨大な官僚機構の心臓部へと乗り込んでいく。
「……犬飼さん。……俺、やっぱりスーツは肩が凝るわ」
駐車場で待っていた犬飼に、恒一は自嘲気味に笑った。 だが、その瞳は、相模原の荒ぶるモヒカンだった頃よりも、遥かに深く、昏い炎を宿していた。
一方、現場に残された真治は、野村たちの冷ややかな視線を浴びながら、一人で極狭のシャフトへと潜り込んでいく。
「……見ててください、恒一さん。俺がこの現場に、トラスト・アイの魂を刻んでみせますから」
暗い竪穴の中で、真治のライトだけが、孤独に光り輝いていた。
東京都庁、西新宿の空を切り裂くようなツインタワーを見上げ、相沢恒一はネクタイを緩めた。手に持っているのは、犬飼が纏めた「資材搬入計画の正当性」を証明する厚いファイルと、そして現場から上がってきた「ある一枚の不自然な写真」だった。
建設局の応接室。冷房が効きすぎたその部屋で、恒一を待っていたのは、大和建設の息がかかったとされる担当課長の広瀬だった。
「相沢社長。何度来られても同じですよ。内神田の再開発現場は周辺道路が狭隘(きょうあい)です。大型車両の通行許可は、地元の同意と警察の指導が揃わなければ下せません」
広瀬は書類に目を落としたまま、恒一と視線を合わせようともしなかった。その態度は、かつての金子支店長と同じ、「持てる者の傲慢」に満ちている。
「……広瀬課長。地元の同意なら、昨夜のうちにすべて取り付けてきました」
恒一は、重厚なファイルを机に叩きつけた。そこには、現場周辺の商店主や住民一人一人の署名が並んでいた。源さんと共に一軒一軒、頭を下げて回った成果だ。 「なっ……」
「それから、これを見てください」
恒一が差し出したのは、現場の搬入口付近を深夜に撮影した写真だった。そこには、大和建設のロゴが入った車両が、わざとらしくトラスト・アイの搬入予定地を塞ぐように駐車されている姿が写っていた。
「……警察に届け出れば、これは『威力業務妨害』になる。大和建設が裏で糸を引いているという証拠を、今ここで突きつけてもいいんですよ」 「……脅しかね」
「いいえ。俺たちはただ、正当に仕事をしたいだけだ」
恒一は椅子から立ち上がり、窓の外のビル群を指差した。 「あんたたちは、上から数字だけを見て街を造ってる。だが、その足元で泥を啜って線を繋いでるのは、俺たち職人だ。……あんたが守るべきは、ゼネコンのメンツか? それとも、この街の未来か?」
恒一の放つ圧倒的な「現場の熱」に、広瀬の喉が微かに鳴った。 「……明日までに、許可証を発行させます。ただし、一度でも事故を起こせば、即座に取り消しますよ」
「……事故なんて、起こさねぇよ。うちには、命を懸けて線を繋いでる男たちがいる」
恒一はそう言い残し、都庁を後にした。 だが、外へ出ると同時に、胸を突くような嫌な予感がした。急いで携帯を取り出す。犬飼からの着信が十数件入っていた。
「……犬飼さん、どうした!」
『社長! 現場でトラブルです! 真治くんが……野村たちと衝突して、作業が止まっています!』
恒一は、駐車場に止めてあった軽トラに飛び乗り、内神田の現場へと急行した。
現場に着くと、工事の騒音を切り裂くような怒号が飛び交っていた。 「……どけって言ってんだよ、若造が!」
野村が真治の胸ぐらを掴み、壁際まで追い詰めていた。足元には、真治が丁寧に仕上げようとしていた配線器具が無残に転がっている。
「……ダメです、野村さん! その結線じゃ、将来のメンテナンスができない!
手間はかかっても、クレドにある通り『一本の線に魂を込めて』、未来に繋がる仕事を……」
「うるせぇんだよ! その『魂』って言葉を聞くたびにヘドが出る! 俺たちは今日中にここを終わらせて、次の現場に行かなきゃならねぇんだ。お前の自己満足に付き合ってる暇はねぇ!」
周囲の新入社員たちは、どちらに付くべきか迷い、ただ遠巻きに見守っていた。都心のドライな空気に毒され、「早く終わらせて帰りたい」という誘惑が、恒一の掲げた不器用な信条(クレド)を侵食し始めていた。
「……そこまでだ」
恒一の声が、地下の竪穴(シャフト)に響き渡った。 泥だらけのスーツ姿で現れた恒一の姿に、野村が舌打ちをして真治を放した。
「……社長。いいところに来た。このガキに言ってやってくれよ。効率の悪いやり方を押し付けるのは、経営者として失格だってな」
恒一は、無言で床に転がった器具を拾い上げた。 傷がついている。だが、真治が格闘した形跡――わずかな指先の血痕が、絶縁テープの端に残っていた。
「……野村。お前、さっきから『効率』って言葉を連呼してるが、その効率ってのは誰のためのもんだ?」
「決まってるだろ。会社の利益と、俺たちの手離れの良さだ」
「……違うな」
恒一は、野村の目の前で、真治が苦労して通そうとしていた複雑な配線を指差した。 「……これは、このビルの『血管』だ。もしここを手抜いて、将来ショートして停電が起きた時、困るのは誰だ?
ビルの中で働く数千人の人間だ。……俺たちの『効率』のために、そいつらの『日常』を危険に晒す。……それがお前の言う『プロ』の仕事か?」
「……綺麗事だ。そんなの、誰も見ちゃいねぇよ」
「俺が見てる」
恒一の言葉に、野村が息を呑んだ。 「……そして、真治も見てる。……そして、何よりお前自身の『指先』が、嘘をついてることを知ってるはずだ」
恒一は野村の、タコだらけの右手を掴んだ。 「……野村、お前のその手は、昔はもっといい仕事を誇りにしてたんじゃないのか?
大手に使い捨てにされて、いつの間にか『終わらせること』だけが目的になっちまった。……そんな虚しい仕事をするために、トラスト・アイに来たのか?」
野村の拳が、微かに震えた。 長年、使い捨ての駒として扱われてきたベテラン職人の、乾いた心の奥底にある「職人のプライド」を、恒一の言葉が情け容赦なく抉り出していた。
「……トラスト・アイの信条(クレド)は、俺が作った説教じゃねぇ。お前らみたいな、行き場を失った腕利きたちが、もう一度自分の仕事を愛するための『鎧』なんだよ」
恒一は周囲を見渡した。立ち尽くしていた若手社員たちが、気圧されるように背筋を伸ばした。
「……真治。やり直せ。……野村。お前のその熟練の技で、真治に『本当の神業』ってやつを見せてやれ。……壁をブチ抜かずに、最高精度の配線を通す。……それができるのは、この現場でお前しかいないはずだ」
静寂が現場を支配した。 数十秒の後、野村は小さく吐き捨て、地面に落ちていたペンチを拾い上げた。
「……ちっ。……おい、若造。貸せ。……俺が手本を見せてやる。……二度と『精神論』なんて言わせねぇような、完璧なやつをな」
「……はい! よろしくお願いします!」
真治が、涙を拭いながら声を上げた。 野村と真治。世代も考え方も違う二人が、一本の幹線を囲んで向かい合った。 その光景を見ていた新入社員たちの瞳に、ようやく「信条」という言葉が、文字ではなく、体温を持った重みとして宿り始めた。
「……社長。……組織が、また一歩、大きくなりましたね」背後で見ていた犬飼が、静かに言った。
「……ああ。……だが、これからだ。都庁から許可は取った。明日から資材が怒涛のように入ってくる。……一丸となって、この首都の空を照らしてやるぞ」
その夜。 工事現場の仮設電灯が、夜の新宿の闇の中に、ポツリと、しかし確かな光の帯を作っていた。 それは、かつて相模原の小さなクリニックで灯した光と同じ、誰かの明日を守るための「信頼(トラスト)」の輝きだった。
だが、恒一はまだ知らなかった。 この現場での勝利が、さらなる巨大な「経済の怪物」を目覚めさせてしまったことを。 大和建設の本社が、トラスト・アイを「単なる邪魔者」から「排除すべき脅威」へと認識を変えた瞬間だった。
恒一は、理恵から届いた「お弁当、多めに作っておいたよ」という短いメールを見つめ、都心の冷たい夜風の中で、静かに微笑んだ。
信条を分かち合う仲間がいる。待ってくれる人がいる。 それだけで、どんな逆風も、追い風に変えられる気がしていた。
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