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第1話:行き場のない卒業

ー/ー



三月の相模原。湿った風が巻き上げる砂埃が、校門に掲げられた「卒業式」の立て看板を白く汚していた。 式典を終えた体育館から漏れ聞こえる合唱の声も、今の相沢恒一には、自分を置いていく世界の遠吠えにしか聞こえなかった。


「……チッ、終わっちまったな。クソ面白くもねぇ」


恒一は、金髪のモヒカンを苛立ちまぎれにかき上げ、卒業証書の入った丸い筒を愛車のシートに放り投げた。 周囲では、三年間を共にした同級生たちが涙を流し、制服に寄せ書きをし、互いの門出を祝っている。だが、その輪の中に恒一の居場所はなかった。


派手な改造バイク、喧嘩に明け暮れた毎日、教師を睨みつけた眼光。それが恒一の「青春」のすべてだった。 首に巻いた、身の丈に合わないほど太い十八金のネックレスが、鈍い陽光を跳ね返す。特攻服をなびかせ、夜の国道16号を仲間と走っている時だけは、自分がこの街の王様になったような気がしていた。


だが、エンジンを切れば、そこにあるのは冷酷な現実だ。 就職先はない。進学など端から考えていない。 大人たちは皆、恒一を見るなり「関わるな」と言わんばかりに目を逸らす。自分は自由だと思っていた。だが実際は、社会という巨大な壁の外側に放り出された、ただの「何者でもないガキ」に過ぎないことを、恒一の薄いプライドは痛いほど自覚していた。


そんな時、ふと路地裏の湿った匂いに、四年前の「あの夜」の記憶が混じり合う。


中学二年生の冬だった。 恒一は、隣町の質の悪いチンピラ数人に囲まれていた。鼻血で顔をぐちゃぐちゃにし、逃げ場のないゴミ捨て場に追い詰められ、鉄パイプを振り上げられた。死の恐怖に奥歯が鳴ったその時、闇を裂いて一台の単車が現れた。


「……おい。いい大人が、ガキ相手に何マジになってんだよ」


重低音を響かせて現れたのは、柴崎龍司だった。 当時から地元でその名を知らぬ者はいない、若きカリスマ。恒一より四歳年上の柴崎は、圧倒的な体格と、獲物を射抜くような鋭い眼光を放っていた。
柴崎がバイクを降り、一歩前に出る。それだけで空気が凍りついた。チンピラたちが怯む隙も与えず、柴崎はたった一人で、文字通り「掃除」をするように場を制圧した。


「立て。……名前は?」 「……相沢、恒一……」 「恒一か。いいか、拳ってのはな、弱ぇ奴を殴るためにあるんじゃねぇ。自分を守り、大事なもんを掴むために磨くもんだ。……覚えとけ」


無骨だが、芯の通った声だった。それ以来、柴崎は恒一にとって、追い越すべき背中であり、唯一無二の「兄貴」となった。


回想を断ち切るように、太いエキゾーストノートが再び現実の校門前に響いた。 見上げると、当時の単車ではなく、よく手入れされた銀色のハイエースが止まっている。運転席の窓から、作業着の襟を立てた柴崎が顔を出した。


「恒一! いつまで黄昏(たそが)れてんだ。乗れ」 「……龍司さん。どうして、今日だってことを……」 「お前のことだ、どうせ行く場所もなくてボサッとしてんだろ。……明日からうちに来い。仕事(メシ)の種をやる」


翌朝。指定された住所は、相模原の住宅街の外れにある小さな作業場だった。 「有限会社 柴崎電設」 錆びついた鉄扉を押し開けた瞬間、恒一の足が止まった。全身の毛穴が収縮するような感覚。


(……なんだ、ここは。昨日までの世界と全然違う)


そこには、地元では名前を聞くだけで震え上がるような、有名な元ヤンキーたちが顔を揃えていた。かつて少年院帰りだ、武勇伝だと騒がれていた面々だ。
だが、彼らが放つオーラは、かつての「粗暴な暴力」とは全く異質のものだった。


腰には重々しい工具差しを下げ、鋭い目つきで図面を睨みつけ、指先一つで複雑な結線をこなしていく。一歩間違えればショートし、爆発し、命を落とす「電気」という目に見えない怪物を相手にする者だけが纏う、プロとしての誇りと、冷徹なまでの殺気。


「おら、新入り! ボサッとしてんじゃねぇぞ! 挨拶もできねぇのか!」


一人の先輩が放った地を這うような怒声。 天下の「相模原のモヒカン」と呼ばれ、大人を舐め腐っていたはずの恒一の肩が、生まれて初めて、恐怖と畏怖で激しく震えた。


「……おはよう、ございます」


絞り出した恒一の声は、自分でも驚くほど細く震えていた。 事務所の壁に掛けられた黒板には、びっしりと現場名と担当者の名前が書き込まれている。充満するのは、重油と焦げた電線の被覆、そして男たちの濃い汗の匂い。


「声が小さぇ! 喧嘩の時はもっと威勢が良かったんじゃねぇのか、あぁ?」


声を荒らげたのは、角刈りに鋭い剃り込みを入れた先輩、佐藤だった。かつて地元で「狂犬」と恐れられた男だ。その腰には、重厚な革製の腰袋が鈍い光を放ち、使い込まれたペンチやニッパーが、まるで獲物を待つ牙のように整然と並んでいる。


「佐藤、それぐらいにしてやれ。……恒一、こっちだ」


奥のデスクから立ち上がった柴崎が、一足の真新しい安全靴と、色褪せた作業着を放り投げた。


「着替えろ。今日は相模原市内のマンション改修現場だ。お前は佐藤の横について、手元(補助)をやれ」 「……はい」


着替えた作業着は、どこか自分にはぶかぶかで、鏡に映る金髪のモヒカンとの相性は最悪だった。昨日まで着ていた白い特攻服の方が、よほど自分を強く見せてくれた気がして、恒一は唇を噛んだ。


現場へ向かうハイエースの車内。沈黙が重くのしかかる。 佐藤をはじめとする先輩たちは、車内でも図面を広げ、何事か専門用語で打ち合わせを続けている。
「盤の結線、圧着端子はR5.5-5でいいな?」「ああ、渡りの線が足りねぇから、倉庫からIVの2.0をひと巻下ろしてある」


……何を話しているのか、さっぱり分からない。 「絶縁」「短絡」「負荷」「アース」。
昨日まで自分が使っていた語彙――「タイマン」「ヤキ入れ」「根性」――そんな言葉が、この車内では一円の価値もないゴミのように思えた。


現場に到着した瞬間、恒一はさらに圧倒された。 コンクリートの粉塵が舞い、ドリルが壁を穿つ爆音が鼓膜を震わせる。迷路のように入り組んだ配管と、天井から無数に垂れ下がる色とりどりの電線。


「おい、恒一! ぼさっとしてんな。17(じゅうなな)のラチェット持ってこい!」


佐藤の怒声が飛ぶ。 「……え、17?
ラチェット……?」 恒一は、散乱する工具箱の前で立ち尽くした。どれがラチェットで、どれが17なのか。 「これ、ですか?」 恐る恐る手に取ったのは、モンキーレンチだった。


「テメェ、ナメてんのか! 道具の名前も知らねぇで現場立ってんじゃねぇよ!」


佐藤の怒鳴り声は、工事の騒音を突き抜けて恒一の心臓を直撃した。周りの職人たちの冷ややかな視線が刺さる。 「金髪でイキがってる割に、何もできねぇな」
「龍司さんの温情で拾ってもらっただけのガキか」 声には出さないが、その眼差しがそう語っていた。


屈辱だった。 これまで、力で負けることはあっても、これほど惨めに「無能」だと突きつけられたことはなかった。 結局、その日の恒一に与えられた仕事は、先輩たちが切り落とした電線の屑を拾い集め、重い電線ドラムを運ぶだけの「雑用」だった。


夕刻。現場が終わり、事務所に戻った恒一の体は泥と埃で真っ黒になっていた。 十八金のネックレスは服の下で重く冷え、自慢のモヒカンは汗と粉塵で無惨にヘタっている。
他の職人たちが次々と帰路に就く中、恒一は事務所の裏で、重い足取りで道具の整理をしていた。情けなくて、涙が出そうだった。


「……何、腐ってんだ」 背後から声をかけたのは、柴崎だった。彼は缶コーヒーを二つ持ち、一つを恒一に放り投げた。


「道具の名前も分からねぇ。怒鳴られて当たり前だ。ここはな、学校じゃねぇんだよ」 「……分かってます。でも、あんな言い方しなくたって……」 「佐藤たちの言い方がきついのは、お前を嫌ってるからじゃねぇ。死なせたくねぇからだ」


柴崎は、自分の腰袋から一本のペンチを取り出した。


「いいか、恒一。俺たちが扱ってるのは『電気』だ。目に見えねぇ、匂いもしねぇ、音もしねぇ。だが、一箇所ミスれば、この建物が燃え、触れた人間は一瞬で消し炭になる。……俺たちは、常に死神の指先を握りながら仕事をしてるんだ」


柴崎の瞳に、かつて喧嘩の仲裁に入った時とは違う、静かな、しかし凄まじい熱量が宿った。


「お前のその金髪も、ネックレスも、ここでは何の盾にもならねぇ。電気ってやつは、ヤンキーだろうがエリートだろうが、間違えた奴を平等に殺す。……お前を叱る佐藤の手を見てみろ。火傷の跡だらけだ。あいつは、その痛みを知ってるから、お前に厳しく当たるんだよ」


恒一は、自分の汚れた手を見つめた。 ただの道具だと思っていたペンチが、柴崎の手にあると、命を守る聖剣のように見えた。


「今のまま、逃げ出すか。それとも、その泥だらけの手で、いつか街に光を灯す側になるか。……決めるのはお前だ、恒一」


柴崎はそれだけ言うと、ハイエースのキーを回した。 夜の帳が下りた相模原の街。遠くで、住宅街の窓にポツポツと明かりが灯り始める。
さっきまで自分が格闘していた電線の先には、誰かの生活があり、団欒があり、光がある。


恒一は、ヘタった金髪を力いっぱいかき上げた。 「……まだ、終わらせねぇ」


誰にともなく呟いたその声は、昼間の震える声ではなかった。 翌朝。 事務所の扉を、誰よりも早く開ける恒一の姿があった。その手には、昨日借りたボロボロの工具カタログが握りしめられていた。


荒波の初日。 相沢恒一という男の、長く険しい、しかし輝かしい「轍」の第一歩が、ようやく地面に刻まれた。



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三月の相模原。湿った風が巻き上げる砂埃が、校門に掲げられた「卒業式」の立て看板を白く汚していた。 式典を終えた体育館から漏れ聞こえる合唱の声も、今の相沢恒一には、自分を置いていく世界の遠吠えにしか聞こえなかった。
「……チッ、終わっちまったな。クソ面白くもねぇ」
恒一は、金髪のモヒカンを苛立ちまぎれにかき上げ、卒業証書の入った丸い筒を愛車のシートに放り投げた。 周囲では、三年間を共にした同級生たちが涙を流し、制服に寄せ書きをし、互いの門出を祝っている。だが、その輪の中に恒一の居場所はなかった。
派手な改造バイク、喧嘩に明け暮れた毎日、教師を睨みつけた眼光。それが恒一の「青春」のすべてだった。 首に巻いた、身の丈に合わないほど太い十八金のネックレスが、鈍い陽光を跳ね返す。特攻服をなびかせ、夜の国道16号を仲間と走っている時だけは、自分がこの街の王様になったような気がしていた。
だが、エンジンを切れば、そこにあるのは冷酷な現実だ。 就職先はない。進学など端から考えていない。 大人たちは皆、恒一を見るなり「関わるな」と言わんばかりに目を逸らす。自分は自由だと思っていた。だが実際は、社会という巨大な壁の外側に放り出された、ただの「何者でもないガキ」に過ぎないことを、恒一の薄いプライドは痛いほど自覚していた。
そんな時、ふと路地裏の湿った匂いに、四年前の「あの夜」の記憶が混じり合う。
中学二年生の冬だった。 恒一は、隣町の質の悪いチンピラ数人に囲まれていた。鼻血で顔をぐちゃぐちゃにし、逃げ場のないゴミ捨て場に追い詰められ、鉄パイプを振り上げられた。死の恐怖に奥歯が鳴ったその時、闇を裂いて一台の単車が現れた。
「……おい。いい大人が、ガキ相手に何マジになってんだよ」
重低音を響かせて現れたのは、柴崎龍司だった。 当時から地元でその名を知らぬ者はいない、若きカリスマ。恒一より四歳年上の柴崎は、圧倒的な体格と、獲物を射抜くような鋭い眼光を放っていた。
柴崎がバイクを降り、一歩前に出る。それだけで空気が凍りついた。チンピラたちが怯む隙も与えず、柴崎はたった一人で、文字通り「掃除」をするように場を制圧した。
「立て。……名前は?」 「……相沢、恒一……」 「恒一か。いいか、拳ってのはな、弱ぇ奴を殴るためにあるんじゃねぇ。自分を守り、大事なもんを掴むために磨くもんだ。……覚えとけ」
無骨だが、芯の通った声だった。それ以来、柴崎は恒一にとって、追い越すべき背中であり、唯一無二の「兄貴」となった。
回想を断ち切るように、太いエキゾーストノートが再び現実の校門前に響いた。 見上げると、当時の単車ではなく、よく手入れされた銀色のハイエースが止まっている。運転席の窓から、作業着の襟を立てた柴崎が顔を出した。
「恒一! いつまで黄昏(たそが)れてんだ。乗れ」 「……龍司さん。どうして、今日だってことを……」 「お前のことだ、どうせ行く場所もなくてボサッとしてんだろ。……明日からうちに来い。仕事(メシ)の種をやる」
翌朝。指定された住所は、相模原の住宅街の外れにある小さな作業場だった。 「有限会社 柴崎電設」 錆びついた鉄扉を押し開けた瞬間、恒一の足が止まった。全身の毛穴が収縮するような感覚。
(……なんだ、ここは。昨日までの世界と全然違う)
そこには、地元では名前を聞くだけで震え上がるような、有名な元ヤンキーたちが顔を揃えていた。かつて少年院帰りだ、武勇伝だと騒がれていた面々だ。
だが、彼らが放つオーラは、かつての「粗暴な暴力」とは全く異質のものだった。
腰には重々しい工具差しを下げ、鋭い目つきで図面を睨みつけ、指先一つで複雑な結線をこなしていく。一歩間違えればショートし、爆発し、命を落とす「電気」という目に見えない怪物を相手にする者だけが纏う、プロとしての誇りと、冷徹なまでの殺気。
「おら、新入り! ボサッとしてんじゃねぇぞ! 挨拶もできねぇのか!」
一人の先輩が放った地を這うような怒声。 天下の「相模原のモヒカン」と呼ばれ、大人を舐め腐っていたはずの恒一の肩が、生まれて初めて、恐怖と畏怖で激しく震えた。
「……おはよう、ございます」
絞り出した恒一の声は、自分でも驚くほど細く震えていた。 事務所の壁に掛けられた黒板には、びっしりと現場名と担当者の名前が書き込まれている。充満するのは、重油と焦げた電線の被覆、そして男たちの濃い汗の匂い。
「声が小さぇ! 喧嘩の時はもっと威勢が良かったんじゃねぇのか、あぁ?」
声を荒らげたのは、角刈りに鋭い剃り込みを入れた先輩、佐藤だった。かつて地元で「狂犬」と恐れられた男だ。その腰には、重厚な革製の腰袋が鈍い光を放ち、使い込まれたペンチやニッパーが、まるで獲物を待つ牙のように整然と並んでいる。
「佐藤、それぐらいにしてやれ。……恒一、こっちだ」
奥のデスクから立ち上がった柴崎が、一足の真新しい安全靴と、色褪せた作業着を放り投げた。
「着替えろ。今日は相模原市内のマンション改修現場だ。お前は佐藤の横について、手元(補助)をやれ」 「……はい」
着替えた作業着は、どこか自分にはぶかぶかで、鏡に映る金髪のモヒカンとの相性は最悪だった。昨日まで着ていた白い特攻服の方が、よほど自分を強く見せてくれた気がして、恒一は唇を噛んだ。
現場へ向かうハイエースの車内。沈黙が重くのしかかる。 佐藤をはじめとする先輩たちは、車内でも図面を広げ、何事か専門用語で打ち合わせを続けている。
「盤の結線、圧着端子はR5.5-5でいいな?」「ああ、渡りの線が足りねぇから、倉庫からIVの2.0をひと巻下ろしてある」
……何を話しているのか、さっぱり分からない。 「絶縁」「短絡」「負荷」「アース」。
昨日まで自分が使っていた語彙――「タイマン」「ヤキ入れ」「根性」――そんな言葉が、この車内では一円の価値もないゴミのように思えた。
現場に到着した瞬間、恒一はさらに圧倒された。 コンクリートの粉塵が舞い、ドリルが壁を穿つ爆音が鼓膜を震わせる。迷路のように入り組んだ配管と、天井から無数に垂れ下がる色とりどりの電線。
「おい、恒一! ぼさっとしてんな。17(じゅうなな)のラチェット持ってこい!」
佐藤の怒声が飛ぶ。 「……え、17?
ラチェット……?」 恒一は、散乱する工具箱の前で立ち尽くした。どれがラチェットで、どれが17なのか。 「これ、ですか?」 恐る恐る手に取ったのは、モンキーレンチだった。
「テメェ、ナメてんのか! 道具の名前も知らねぇで現場立ってんじゃねぇよ!」
佐藤の怒鳴り声は、工事の騒音を突き抜けて恒一の心臓を直撃した。周りの職人たちの冷ややかな視線が刺さる。 「金髪でイキがってる割に、何もできねぇな」
「龍司さんの温情で拾ってもらっただけのガキか」 声には出さないが、その眼差しがそう語っていた。
屈辱だった。 これまで、力で負けることはあっても、これほど惨めに「無能」だと突きつけられたことはなかった。 結局、その日の恒一に与えられた仕事は、先輩たちが切り落とした電線の屑を拾い集め、重い電線ドラムを運ぶだけの「雑用」だった。
夕刻。現場が終わり、事務所に戻った恒一の体は泥と埃で真っ黒になっていた。 十八金のネックレスは服の下で重く冷え、自慢のモヒカンは汗と粉塵で無惨にヘタっている。
他の職人たちが次々と帰路に就く中、恒一は事務所の裏で、重い足取りで道具の整理をしていた。情けなくて、涙が出そうだった。
「……何、腐ってんだ」 背後から声をかけたのは、柴崎だった。彼は缶コーヒーを二つ持ち、一つを恒一に放り投げた。
「道具の名前も分からねぇ。怒鳴られて当たり前だ。ここはな、学校じゃねぇんだよ」 「……分かってます。でも、あんな言い方しなくたって……」 「佐藤たちの言い方がきついのは、お前を嫌ってるからじゃねぇ。死なせたくねぇからだ」
柴崎は、自分の腰袋から一本のペンチを取り出した。
「いいか、恒一。俺たちが扱ってるのは『電気』だ。目に見えねぇ、匂いもしねぇ、音もしねぇ。だが、一箇所ミスれば、この建物が燃え、触れた人間は一瞬で消し炭になる。……俺たちは、常に死神の指先を握りながら仕事をしてるんだ」
柴崎の瞳に、かつて喧嘩の仲裁に入った時とは違う、静かな、しかし凄まじい熱量が宿った。
「お前のその金髪も、ネックレスも、ここでは何の盾にもならねぇ。電気ってやつは、ヤンキーだろうがエリートだろうが、間違えた奴を平等に殺す。……お前を叱る佐藤の手を見てみろ。火傷の跡だらけだ。あいつは、その痛みを知ってるから、お前に厳しく当たるんだよ」
恒一は、自分の汚れた手を見つめた。 ただの道具だと思っていたペンチが、柴崎の手にあると、命を守る聖剣のように見えた。
「今のまま、逃げ出すか。それとも、その泥だらけの手で、いつか街に光を灯す側になるか。……決めるのはお前だ、恒一」
柴崎はそれだけ言うと、ハイエースのキーを回した。 夜の帳が下りた相模原の街。遠くで、住宅街の窓にポツポツと明かりが灯り始める。
さっきまで自分が格闘していた電線の先には、誰かの生活があり、団欒があり、光がある。
恒一は、ヘタった金髪を力いっぱいかき上げた。 「……まだ、終わらせねぇ」
誰にともなく呟いたその声は、昼間の震える声ではなかった。 翌朝。 事務所の扉を、誰よりも早く開ける恒一の姿があった。その手には、昨日借りたボロボロの工具カタログが握りしめられていた。
荒波の初日。 相沢恒一という男の、長く険しい、しかし輝かしい「轍」の第一歩が、ようやく地面に刻まれた。