第16話 敏腕エージェント
ー/ー パン──っ!
「……排除、完了……」
そんな抑揚のない言葉は、そよ風の気まぐれによって静かにかき消された。
黒ずくめの人物が撃ったのは幼女の背後にいる、バイクの下敷きとなった満身創痍のS.W.A.T.だった。
「……ミッション、コンプリート……」
任務を完遂し終えたことで緊張の糸が切れたのか、顔を覆っていたヘルメットを外す黒ずくめの人物。
ヘルメットを脱いだ瞬間、ライトブラウンで長髪の右サイドポニーが、ふわりと弾むように解放される。
物静かな雰囲気を纏い、その存在感を示しながら、豊かな髪は両肩を滑り落ちた。
「……わずかの足止めが……功を奏したわ。……パペットCW−1991を先行させて、正解だったわね」
アスファルト上に転がる、切れかけたスモークグレネード。その横には、あの小さな人形が倒れていた。
「それで……どうしてこんなに暴れてるの……?」
胸元で小さく十字の印を刻み、始末した者への祈りを済ませると、左腕で脱いだヘルメットを抱え輝きのない瞳で親しげに、彼女へそう問い掛けた。
年齢以上の落ち着きに、周囲を支配するような静かな威圧感。
相手の内側を見透かすような瞳は、一切の感情を読み取らせない。
「どうしてって……クーちゃんがーー、好きに遊んでいいって、ニナニナに言ったからっ……! ニナニナ、とーーーっても、楽しかったっ!」
“クーちゃん”とはエージェント──コード・ネーム【クルクス】の愛称である。
これは組織公認では当然ない。組織非公認である。
ニナニナがクルクスのことを勝手にそう呼んでいるだけであり、クルクス自身は愛称などは不要だと賛同していない。むしろあだ名をノイズだと認識しているほどだった。
任務時における一時的な場合を除き、必要条件のコード・ネームだけで事は足りる。
『記憶』という名の書庫の棚に『ゴシップ』を並べる──それだけのために限界ある貴重な脳内リソースを割く必要はない。
誘導された意識下にない無駄な行動による不必要な出費、時間の浪費、機会の損失を防ぐのと同様。
一寸の隙間もない物置が、無益な雑多な品の侵入を拒むように。
多忙な任務の果てに集積された情報に対し、価値を凌駕しない冗長な要素を許容する余裕は皆無である。
一つ、不必要な物を溜め込んで一体何になると言うのか……。
二つ、その無用な長物にどれだけの結果を生み出せると言うのか……。
三つ、見通しが不明で大した結果は望めない。それなのに容量を圧迫させる。
それは現時点で必要なものか、きちんと判断しているのか……。
つまるところ、価値なき情報に割く余地はない。
「……はぁ。あのね、ニナ。あたしが傍にいるうちは、好きに暴れていい……とは言った。でもね……あたしが不在で、暴れていいとは……一言も言ってない……」
無機質で灰色の冷たい瞳がニナニナを諭すように見据える。
当初は“クーちゃん”という、その馴れ馴れしく非効率的かつ軽率な呼び方を控えるよう、ニナニナに注意した。
……しかし、残念なことにニナニナは──まったくと言っていいほど聞く耳を持っていなかった。
クルクスが繰り返し注意しても、ニナニナから返ってくるのは純粋無垢な生返事。
最終的にクルクスが折れることになり、その後彼女はニナニナのことを、“ニナ”と呼び始めた。
初めは多少なりとも仕返しになればと思ってやった、というなんとも子供じみた単純な理由からの行いだった──だが、嫌がる素振りをニナは見せるどころか……彼女の予想と反して喜ばれ、気に入れられてしまった。
クーちゃんから親しみを込めて呼ばれる愛称──その事実がニナニナにとって、相当価値があるものであったのだ。
にわかには信じられない事実を前に、その場にいたクルクスは戸惑いを覚えた。
……それ以後、ニナニナは“クーちゃん”と、クルクスは“ニナ”と、各々が呼び合うようになった。
またニナニナの愛称と言う名の、煩わしく鬱陶しい認識的ノイズは、意外にも時間であっさりと解決した。
それと引き換えに、護衛兼監視対象の元からあった問題行動が顕著に増え始めたことで、エージェントの気苦労が絶えずにいる。
これほど翻弄されるのはクルクスの経験上初めてのことだった。
結果はどうあれ。エージェントのクルクスらしからぬ、あまりにも軽率な行動。
そして明らかに思考よりも先に身体が動いていたという現実。
いくら当時の行動を頭でぐるぐる振り返っても、クスクスが今日に至るまで結論を出すことは出来ていない。
「……言ったもん」
「ん……?」
「──クーちゃん言ってたもんっ! ニナニナ、聞いてたもん──っ! ちゃんと……クーちゃんの言ったこと、聞いてた……もん……」
容器からこぼれ落ちる胸の内の興奮は一時、弾むように張りを帯びた声色として映し出される。
されど、たちまち弱々しく萎んでしまい、均衡を崩す感情の波に飲まれ、制御不能な欲求不満に陥ってしまう。
手が付けられない恐ろしさ……それを身を持って体験した者ほどよく心得ている。
だからこそ……手綱を強く握り、引っ張って制御しなければいけない。
『──対象のストレス指数上昇を確認。精神状態が非常に不安定です。今すぐ対処して下さい』
ニナニナの声色を読み取り情緒の危険を感知した、バイクのシステム音声から警告が漏れ出る。
手のひらで踊る大きな爆弾を抱えた操り人形の糸が切れた時、人形は自我を取り戻す。
野に解き放たれた人形は抑え込まれた反動が大きく、再び手中に収めることはベテランの傀儡師であっても困難を極める。
だからこそ、最後の砦を全力で死守しうる安全装置の存在が必要不可欠である。
「──まったく、手のかかる護衛対象ね……」
喜びも、悲しみも、怒りも──何の熱も感じさせない、無窮の暗闇が広がる深海。
外界から隔絶される世界に、希望の光はおろか、呼吸を許す酸素の泡一つすら届かない。
「クー、ちゃん……?」
予期せぬ熱が幼い少女の小さな体を優しく、しかし確かな力で包み込んだ。
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