第18話 二人きりの夜
ー/ー木曜日の夜。
美奈子は駅のホームに立ちながら、スマートフォンの画面を見ていた。
時刻は、約束の十五分前。
少し早く着いてしまった。
別に急いだわけではない。
でも、気づいたらいつもより少し早く家を出ていた。
電車がホームに滑り込んでくる。
扉が開く。
人の流れに合わせて乗り込む。
窓の外の街がゆっくり流れていく。
恵比寿を過ぎる。
そのとき、胸の奥が少しだけ速くなった。
今日会うのは、橘ではない。
仕事でもない。
園田。
ただそれだけなのに、いつもの夜とは少し違う。
恋というものは、不思議だ。
まだ何も起きていないのに、
夜の温度だけが変わる。
代官山駅で電車を降りる。
改札を抜ける。
外に出ると、街の空気が少し静かだった。
恵比寿より、人が少ない。
カフェの灯り。
静かな通り。
夜風。
約束の店は駅から少し歩いた場所にある。
美奈子が角を曲がると、店の前に人影が見えた。
園田だった。
ダークグレーのコート。
黒縁の眼鏡。
街灯の下で、静かに立っている。
美奈子に気づくと、園田は少し笑った。
「こんばんは」
その声を聞いた瞬間、美奈子の胸の奥が静かに温かくなる。
「こんばんは」
園田は腕時計を見て言った。
「ちょうどですね」
「本当ですね」
二人は少し笑う。
その笑い方が、ななしの夜と似ていた。
店の扉を開ける。
中は落ち着いたバーだった。
照明は低く、木のカウンターが長い。
ななしと少し似ている。
でも、少しだけ都会的だ。
マスターが軽く頭を下げる。
「いらっしゃいませ」
カウンターに座る。
今日は、隣。
ななしより、少し距離が近い。
園田が言う。
「ここ、たまに来るんです」
「いい店ですね」
美奈子は周りを見渡す。
静かな音楽。
グラスの音。
ゆっくりした空気。
園田がメニューを差し出す。
「何飲みます?」
「今日は園田さんと同じで」
園田は少し驚いた顔をして、それから笑った。
「責任重大ですね」
「大丈夫です」
グラスに氷が落ちる。
カラン。
その音が、夜の空気に溶ける。
しばらく二人は何も言わなかった。
でも、不思議と気まずくない。
この沈黙は、ななしと同じだ。
園田が言う。
「今日は来てくれてありがとうございます」
美奈子は少し笑う。
「誘ったのは園田さんですよ」
「そうですね」
園田も笑う。
その笑い方が、少しだけ柔らかい。
グラスが置かれる。
二人は同時にグラスを持つ。
軽く触れる。
小さな音。
「乾杯」
その言葉が、静かな夜に落ちる。
酒を一口飲む。
冷たい。
でも、胸の奥は温かい。
園田が言う。
「美奈子さん」
「はい?」
「ななし以外で会うと、少し不思議ですね」
美奈子は頷く。
「少しだけ」
「でも」
園田は続けた。
「嬉しいです」
その言葉は、静かだった。
でも、まっすぐだった。
美奈子はグラスを見つめる。
その言葉が、胸の奥にゆっくり落ちていく。
「私も」
その言葉は自然に出た。
無理に言ったわけではない。
本当に、そう思ったから。
園田は少しだけ息を吐く。
安心したような顔。
その顔を見たとき、美奈子は思った。
この夜は、
ななしの帰り道より、
少しだけ、
前に進んでいる。
でも、まだ越えていない。
その距離が、今は心地よかった。
恋というものは、
劇的に始まるものではない。
ただ、
同じ夜を過ごして、
同じグラスを持って、
同じ空気を吸う。
それだけで、
少しずつ、
距離が変わることがある。
その夜、二人の距離は、
確かに少しだけ、
近づいていた。
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