第10話 隣にいる人
ー/ー店を出たとき、橘は少しだけ酔っていた。
強く酔っているわけではない。
足元はしっかりしているし、頭も回っている。
ただ、体の奥に少しだけアルコールが残っていて、世界がほんの少しだけゆるんで見える。
「お疲れさまでした」
店の前で取引先の男が頭を下げた。
「こちらこそ」
橘も軽く頭を下げる。
仕事の会食は嫌いじゃない。
むしろ得意なほうだ。
人と話すのは苦じゃない。
場の空気を読むのも、昔から得意だった。
若い頃は、それが自分の武器だと思っていた。
「橘さんって、昔広告やってたんですよね?」
取引先の若い男が言った。
「そうそう、もうだいぶ前だけどね」
「やっぱり面白かったですか?」
橘は少し笑った。
「面白かったよ。忙しかったけど」
忙しい。
その言葉だけでは足りないくらい忙しかった。
毎日終電。
週末も仕事。
でも、それが当たり前だった。
むしろ、その忙しさの中にいる自分が好きだった。
人が多い場所。
大きなプロジェクト。
名前の出る仕事。
あの頃は、世界が広かった。
今は違う。
それが悪いわけじゃない。
ただ、少し静かになっただけだ。
取引先と別れて、橘は一人で駅へ向かう。
夜風が少し冷たい。
ポケットからスマートフォンを取り出す。
美奈子から返信が来ていた。
はい
短いメッセージ。
橘は少し笑う。
「相変わらずだな」
美奈子は昔からそうだ。
必要以上に言葉を増やさない。
感情を派手に出すタイプでもない。
でも、それが楽だった。
落ち着く関係。
それが二人の形だと思っていた。
電車に乗る。
座席は空いていたが、橘は立ったままだった。
車内の窓に、自分の顔が映る。
少し疲れている。
年齢のせいかもしれない。
仕事のせいかもしれない。
あるいは、ただの夜の顔かもしれない。
ふと、思い出す。
ななしのカウンター。
美奈子。
そして――
園田。
「あいつ、まだ来てるのかな」
小さく呟く。
園田は静かな男だった。
何度か店で会ったことがある。
多くは話さない。
でも、変に目立つタイプでもない。
最初に見たとき、橘は思った。
ああいう男が一番モテる。
派手じゃない。
自慢もしない。
でも、落ち着いている。
女性は、ああいう男を安心するという。
橘はそのタイプじゃない。
若い頃から、どちらかと言えば逆だった。
目立つ場所。
人の中心。
そういうところにいる男。
昔は、それが正解だと思っていた。
今も間違ってはいないと思う。
でも、時々思う。
もし自分が、もっと静かな人間だったら。
人生は違っていただろうか。
電車が駅に着く。
橘は降りる。
夜の空気が少し冷たい。
マンションまで歩く。
この時間は、街が少しだけ静かになる。
玄関のドアを開ける。
「ただいま」
「おかえり」
美奈子の声がする。
キッチンから顔を出す。
いつもの光景。
それなのに、橘は一瞬だけ違和感を感じた。
「今日はどうしてた?」
橘が聞く。
「普通」
美奈子はそう言った。
橘は冷蔵庫からビールを取り出す。
「ななし行った?」
「うん」
それだけの会話。
いつもと同じ。
それなのに。
橘はふと思う。
美奈子、少し変わった?
理由はわからない。
怒っているわけでもない。
冷たいわけでもない。
むしろ普通だ。
でも、何かが少し違う。
橘はテレビを見ながら言う。
「園田って人、まだ来てる?」
美奈子が少しだけ間を置いた。
「来てた」
その答えを聞いて、橘は頷く。
「そっか」
それ以上は聞かない。
聞く必要もない。
でも、胸の奥に小さな引っかかりが残る。
嫉妬ではない。
疑いでもない。
ただ――
少しだけ気になる。
橘はビールを飲む。
テレビのニュースが流れている。
その音を聞きながら、橘はぼんやり考える。
人の関係は、突然変わるわけじゃない。
気づかないうちに、少しずつ形が変わる。
今日の夜は、たぶんその途中だ。
まだ何も起きていない。
でも、何かが少しだけ動いた気がする。
橘はそのことを、まだ言葉にはできなかった。
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