第7話 この距離は、近すぎる
ー/ー店を出ると、夜の空気は少しだけ冷たかった。
恵比寿の通りは、まだ人が多い。
駅へ向かう人、二軒目を探して歩く人、タクシーを待つ人。
その流れの中に、私たちも自然に混ざっていく。
園田が、扉を押さえたまま私を先に通した。
「ありがとうございます」
「いえ」
たったそれだけのやり取りなのに、さっきまでの店の空気がまだ体の中に残っている。
隣を歩く。
でも、ほんの少し距離がある。
腕一本分くらい。
触れようと思えば触れられる。
でも、触れない距離。
それが妙に意識される。
夜の風が、さっきより冷たく感じる。
コートの襟を軽く押さえると、園田が気づいた。
「寒いですか」
「少しだけ」
「この時間、急に冷えますよね」
「そうですね」
会話は、ゆっくり進む。
急がない。
沈黙があっても、不自然にならない。
むしろ、その沈黙があることで、歩くリズムが揃っていく。
恵比寿駅の明かりが遠くに見える。
まだ少し距離がある。
この距離を、私は少しだけ長く感じていた。
「ななし、よく来るんですか」
園田が聞いた。
「たまに」
「橘さんと?」
「はい」
嘘ではない。
でも、それだけではない。
仕事帰りに一人で寄ることもある。
ただ飲みたい夜もあるし、何も考えたくない夜もある。
でも、それを全部説明する必要はない気がした。
「園田さんは?」
「僕は、わりと来てます」
「そうなんですね」
「落ち着くので」
園田は少しだけ笑った。
「人が多すぎない店って、いいですよね」
「わかります」
「話さなくてもいい時間があるというか」
その言葉に、私は思わず頷いた。
「沈黙が怖くない店って、あんまり多くないですよね」
「確かに」
園田は少し考えてから言った。
「沈黙って、相手によって重さ変わりますよね」
私は歩きながら、その言葉を頭の中で転がす。
沈黙の重さ。
たしかにそうだ。
誰かといると、沈黙が苦しくなることがある。
何か言わなきゃいけない気がして、焦る時間。
でも、園田といると、それがない。
今もそうだ。
少し会話が途切れても、ただ歩く音だけが続く。
それでも、不思議と居心地が悪くならない。
「今もそうですか」
気づけば、私は聞いていた。
園田が少し驚いた顔をする。
「今?」
「沈黙」
園田は一瞬だけ黙って、それから少し笑った。
「今は軽いですね」
胸の奥が、少しだけ揺れた。
軽い沈黙。
それはつまり、
一緒にいて楽だということだ。
でも、それを直接言われたわけじゃない。
だからこそ、余計に残る。
信号が赤に変わる。
横断歩道の前で、私たちは止まった。
人の流れが一瞬途切れる。
周りの音が、少しだけ遠くなる。
園田が、ゆっくり言った。
「さっき、少し驚きました」
「何にですか」
「美奈子さんが来たこと」
私は思わず笑う。
「私も驚きました」
「僕が?」
「いたから」
園田は、ほんの少しだけ目を細めた。
「じゃあ、お互い様ですね」
信号が青に変わる。
人の流れが動き出す。
また歩き始める。
でも、さっきより少しだけ距離が近い。
意識して近づいたわけじゃない。
ただ、自然に歩幅が揃っただけ。
駅前の広場に出る。
ネオンが明るい。
人の声が増える。
電車の音が遠くから聞こえる。
駅はもうすぐだ。
そのことに、私は少しだけ残念な気持ちを感じていた。
歩く時間が、思っていたより短かった。
「今日は」
園田が言う。
私は顔を上げる。
「来てよかったです」
たったそれだけの言葉。
でも、それは店の話でも、酒の話でもない。
この夜のことを言っているのだと、すぐにわかった。
私は少しだけ息を吐いた。
「私も」
それ以上の言葉は出なかった。
でも、たぶんそれで十分だった。
改札が見えてくる。
ここで別れる。
それは最初からわかっていた。
でも、ここまで歩いてきた距離が、もう終わることを少し惜しいと思ってしまう。
園田が立ち止まる。
私も止まる。
周りの人は、どんどん改札へ吸い込まれていく。
「今日はありがとうございました」
園田が言った。
「こちらこそ」
「また」
その言葉の続きは、言わなかった。
でも、私はその意味を知っている。
また、ななしで。
園田が軽く手を振る。
私は頷く。
そして改札へ向かった。
ICカードをタッチする。
機械の音が鳴る。
改札を通る。
その瞬間、なぜか私は振り返っていた。
園田は、まだそこにいた。
私を見ていた。
目が合う。
ほんの一瞬。
園田は、少しだけ笑った。
その笑顔は、大きくない。
でも、さっきまで一緒に歩いていた時間が、全部そこに残っている気がした。
私は軽く手を上げる。
それだけ。
それだけなのに。
改札の向こう側へ歩きながら、胸の奥が静かに温かくなる。
恋というものは、
劇的な瞬間から始まるわけじゃないのかもしれない。
手を繋ぐこともなく、
抱きしめられることもなく、
ただ、
駅まで歩いた距離が、
あとからゆっくり効いてくる。
そんな夜から始まることもある。
そのときの私は、まだ知らなかった。
この「駅までの距離」が、
これから何度も思い出すことになる夜になることを。
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