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第三節 風の戻る場所

ー/ー




《綴枝(つづれえだ)(いおり)》へ向かう小道は、緩やかな傾斜と木漏れ日で満ちていた。
古い石畳の隙間から顔を出した(こけ)が、足音を優しく吸い込んでくれる。頭上では、まだ若い葉が風に揺れて、光と影の模様を地面に落としていた。
道の端には、小さな花──人工なのに、どこか野に咲くものよりも瑞々しく揺れている。
プログラムされた美しさなのだろうが、それでも心を和ませてくれる存在だった。
ルナシアは、静かに歩いていた。
大きな獣の耳がぴんと立ち、周囲の音を拾い上げている。
毛先まで神経が行き届いているかのように、微細な音の変化も逃さない。尻尾も同じように、感情の変化に合わせて揺れたり止まったりしている。
現実では持ち得ない、この敏感すぎる感覚器官。
それは美しいものを美しく感じさせてくれる一方で、不快なものを何倍にも増幅させてしまう両刃の剣でもあった。
木々の囁きが耳に心地よい。
遠くで鳥が鳴き、小さな虫たちが草むらで羽音を立てている。
この世界の自然は、すべてがルナシアの心を穏やかにしてくれるように設計されているかのようだった。
──このままずっと、れにも見つからなければいい。
そんな願いが、心の奥で小さくつぶやかれる。
ここは安全な場所であってほしい。
誰にも傷つけられない、静かな聖域であってほしい。
しかし、当然ながらここはゲームの世界。
この世界にいるのが彼女だけ、ということはあり得ない。
他のプレイヤーたちもまた、それぞれの目的を持ってこの世界に足を踏み入れている。
ルナシアの耳が震える。
森の囁きに混ざらない、不純物のような気配。
まるで、静かな水面に落ちた石の波紋を感知するように。
その感覚は、現実世界で身につけた防衛本能そのものだった。
ルナシアにとっての、人の気配(ノイズ)
それも単体ではなく、複数の音と気配。
足音、話し声、笑い声。
「誰か、いる……」
ルナシアは咄嗟に足を止める。
心臓が急に早鐘を打ち始め、呼吸が浅くなる。
怯えた子供のように足が(すく)み、深く根を張る。
「心拍数の上昇を確認。君は現在緊張状態にある。落ち着いて、それはおそらく他のプレイヤーたちだ」
オルドの瞳の奥にある幾何学模様が、ルナシアを深く見つめる。
彼の声は常に一定の音量と抑揚で、感情の起伏というものが存在しない。
それは安定していると言えば安定しているが、時として冷たく感じられる。
「落ち着いて」とは言うが、やはりその言葉は機械的でどこか冷たく冷め切っていた。
オルド自身、自分の言葉では響かないと知識として理解してはいるが、本当に必要なものをルナシアに与えられる段階に、オルドはまだいない。
「提案。少し時間を置こう。これから行く先に他のプレイヤーが一時的に集まるのは道理だ。おそらく長居はしない。君のその感覚であればプレイヤーがいなくなったタイミングがわかるはずだ」
「違う、違うの……向こうじゃ、ない……!」
ルナシアの声は震えていた。
彼女が感じているのは、目的地方向からではなく、全く別の方向からの気配。
遂には肩を抱きしめ(うずくま)ってしまったルナシアを、オルドは見下ろす形で見つめる。
その目は心配というよりも観察しているようで、適切な言葉を選んでいるようでもあった。
「あれー? どうしたのー? って耳生えてんじゃん! やばー! 獣人系ってやつっしょ? 可愛いじゃーん!」
ルナシアとオルドの間にしばらくの沈黙があった後、背後から無遠慮な声が突き刺さってきた。
その声は森の静寂を破り、ルナシアの耳の奥に直接突き刺さる。
音の形をした棘。痛みを伴う振動。
世界の輪郭が──乱される。
茂みの向こう側から、眼球を突き抜けるような派手な赤色をした毒々しいキノコのような髪型の男が出てくる。
背中には自分の体格に不相応な大剣を担ぎ、肩にはエリマキトカゲのような小動物を乗せている。
「うわー、マジでリアルじゃん! ねえねえ、その耳動くの? 尻尾も?」
男は一見するとルナシアを心配しているような口振りをしつつ、その視線は好奇心に満ちていた。
しかしそれは、博物館の珍しい展示品を見るような、相手を人間として見ていない視線。
「そっちの小さい子はお友達かなぁ? ねねね、俺さ今一緒にプレイ出来る友達探してんだよね! ほらこのゲーム、招待? だかなんだかされないと出来ないじゃん? リア友誘えなくてさー。あ! 見てよこの大剣! 試し斬りしたかったのにあっち敵いないんだよなぁ。つまんねー」
(うずくま)ったルナシアを覗き込む視線は、もはや視線ではなかった。
それは剥き出しの触手のように、彼女の輪郭を無遠慮に撫で回す。
耳の形、尻尾の動き、表情の変化。すべてが好奇心という名の暴力で品定めされている。
尻尾は止まり、耳は縮こまり──彼女は、視線という暴力に凍りつく。
先程までピンと張った大きな耳と風に任せて揺れていた尻尾はピタリと閉じている。
まるで、世界から自分を隠そうとするかのように。
「僕は《ペナテス》だよ。君が来た方向にモンスターは出ない。試し斬りがしたいなら向こうへ行くといい」
オルドの声は相変わらず機械的だったが、それでも主人を守ろうとする意志は感じられた。
「あ、なんだAIかよ。じゃ、コレに用ないや。てか俺騎士目指しててさ! 守ってあげちゃうから! な? 俺について来いよ!」
形式上、男とルナシアの間に入ることになったオルドだが、男はオルドを邪魔な障害物でもあるかのように跳ね除け、小さく(うずくま)ったその主人に詰め寄る。
オルドは軽々と倒され、地面に手を付いた。
「おいおい縮こまっちゃってるじゃねぇの! モテて困っちゃうってか!? ケッ、気取りやがるぜ!」
肩に乗ったエリマキトカゲが、ばっとその襟を広げながらルナシアに汚い音を振り掛けた。
甲高い鳴き声が、ルナシアの鼓膜を引き裂く。
ルナシアはびくりと肩を震わせるだけで言葉を発しない。
声を出すことすら、この状況では恐怖だった。
「こっちだ先生! 急げ!」
男が現れた茂みとは反対側の茂みから、小さな狼が飛び出してきた。
遅れて質素な黒い外套に身を包んだ別の男が現れる。
年齢は三十代前半ほどに見える。
落ち着いた雰囲気を纏い、その存在感は赤髪の男とは正反対だった。
「一体なんだと言うんだ……ふむ」
黒い外套の男は、蹲(うずくま)ったルナシアと、それに詰め寄る赤いキノコを交互に一瞥する。
「一応、確認する。そこの《ペナテス》。私の《ペナテス》にメッセージを送ったのはお前で合っているな?」
オルドと同じく抑揚に欠ける声。
しかし男の声は静かな湖のようだった。
直接には触れずとも、鼓膜の奥でじわじわと満ちていく。
同じ言葉でも、その通る声に宿るものが、まるで違った。
「是()。間に合ったみたいだね」
跳ね除けられた時に転んだオルドは、軽く自分の膝を叩きながら立ち上がる。
実に人間らしく、機械的に。
「これを見て間に合ったとは思わん」
黒い外套の男は一瞬だけオルドに目を向けたが、すぐに視線をルナシアに戻す。
その視線は温かく、決して侵入的ではない。
むしろ、そっと見守るような、保護的な眼差しだった。
大きな耳と尻尾を丸め込み、小さく(うずくま)りながら震える小さな体。
彼女の状態を見れば、何が起きているかは一目瞭然だった。
「あ? 誰お前、俺抜きで話を進めるなよ。てかAIってメッセとか送れんの? じゃあさじゃあさ、俺のAIともやり取り出来るようぬあ!?」
今度は赤いキノコが、外套の男に跳ね除けられる。
不相応な大剣のせいか、腕力の問題か。
随分と派手な音を立てて地面に転がったが、誰もその様を見ない。
「落ち着いて呼吸をしなさい。ゆっくり息を吐いて、吸うことに意識を向けなくていい。息をゆっくり、吐くんだ」
限界まで丸め込まれたルナシアの背を、成人男性としてはやや細く小さな手がさすろうとして、直前で手を引っ込める。
触れることが、かえって恐怖を与えてしまう可能性を、彼は理解している。
「おい《ペナテス》。お前の主人だろう。こっちに来て手伝え。声はかけなくていい。力を入れず、背を優しくさすってやれ。私はそこの男の相手をしておく」
「了」
短く返事をしたオルドが指示通り動いたのを確認して、男は後ろを振り返る。
後ろでは立ち上がった赤いキノコが、顔まで真っ赤にして外套の男を睨みつけていた。
転倒した屈辱と、自分が軽視されたことへの怒りを孕んだ眼差し。
「なんだよ急に、後から来た癖に……その女は俺が先に見つけたんだぞ!」
「見つけたからなんだ。どうせ相手の状態も確かめずに、自分のことだけペラペラと喋っていたんだろう」
それを聞いて、さらにカッと赤くなる男の顔。
もはや髪色と顔色の区別がつかない。
図星を指されたことへの、羞恥。
「うるせぇ! 黙って聞いてりゃいい気になりやがって! いいぜ、テメェで試し斬りしてやる。クソが、馬鹿にしやがって……!」
「ちょっと! それはダメだって! 制限があるんだから!」
トカゲの静止の声を、男が聞くことはない。
興奮状態にある彼には、もはや理性的な判断は期待できなかった。
男が背中の大剣に手を掛ける。
「黙って聞いていればと言う奴が、黙って聞いていた瞬間に立ち会ったことがないんだがな」
目が痛むような真っ赤に対し、黒い外套はどこまでも静か。
まるで嵐の中の灯台のような、揺るぎない存在感を放っていた。
それが、逆に気に食わない。
「ハッ! よく見たら武器まだ持ってないのかよ! 残念だったなぁ!? 武器が拾えるのはすぐそこだったのに、これじゃ一方的だぜ!」
ついに抜かれた大剣の重さに引っ張られて、男はバランスを崩し、肩からトカゲが落ちそうになっていた。
やはり不相応なのか、大剣に振り回されている。
「人は石を持った瞬間から、その石を投げる相手を探してしまう。武器とはその代表だな」
相手が武器を構えて尚、余裕を崩さない。
その態度は、何か確信があってのことのようだった。
「へっ、いいぜ。お前を経験値に変えて、このサーバー、いや全サーバーで俺が一番強くなってやる! お前はランキングに乗った俺の名前を見て光栄に思える日がくるだろうさ!」
男に向かって走り抜ける害意。
然程離れていなかった距離が一瞬で詰まり、男にその害意が振り下ろされる。
大剣が風を切り、確実に外套の男を捉えるはずだった。
しかし、男は一歩も引かず、行動を起こそうともしない。
まるで、結果を既に知っているかのような余裕さえ見せていた。
そしていつまで経っても、大剣は男に届かない。
「あ? な!? なんだよこれ!」
男と大剣の間に、見えない何かが挟まり侵入を拒んでいた。
まるで透明な壁が存在するかのように、剣は空中で停止している。
「一度も武器を持った事がないプレイヤーは、同じプレイヤーからの攻撃を一切受け付けないんだそうだ。武器を持たないことが自衛につながることもある。覚えておくといい」
それは、先に武器を手にしたプレイヤーが、待ち伏せして初心者を一方的にPK《プレイヤーキル》出来ないようにするための最低限で絶対のルール。
この仕様を知っていたからこそ、彼は何もしなかった。
その必要がないから。
知識は時として、最強の武器となる。
「ああ、それから知らないなら教えておく。このゲームに経験値やレベルといった概念はない。私を倒しても経験値は入らないし、たった1000人のプレイヤーのために複数のサーバーを用意する必要もない。サーバーはここ一つだ。最強のプレイヤーへの第一歩、挫いてしまったな」
これらの仕様は、武器未獲得のプレイヤーへの攻撃不可以外は、ここまでの道中で《ペナテス》から提示されるようになっている。
話をきちんと聞いていれば、そもそも敵を探して近くを彷徨う必要すらなかったのだ。
「クソが! クソッ! クソッ!」
何度も何度も。
大剣は叩き付けられるが、システムに阻まれ刃が届くことはない。
「ストップ! ストップ! それ以上は装備の耐久値がなくなっちまうよマスター! 装備未獲得時の守護はモンスターには通用しないし壊れても一度手にしたら獲得判定なんだ! それ無しじゃこの先進めない!」
ピタリ、と攻撃が止んだ。
トカゲの言葉が、ようやく彼の理性に届いたらしい。
「クソ!」
最後まで悪態をついてはいたが、「覚えてやがれ!」とは言わなかった。
ノイズは森の中へ消えていく。「そっちは逆走だよ!」とトカゲが騒ぎながら。
森に静寂が戻る。
鳥たちが再び鳴き始め、風が葉を揺らす音が響く。
まるで、先程の騒動が嘘だったかのように。
「終わったぞ。そっちはどうだ」
赤い害意が完全に見えなくなったのを確認して、残っていた男がオルドへ歩み寄っていく。
震えるルナシアを決して怖がらせないよう、彼女からは適切な距離を保ちながら。
「心拍数は依然安定しない。呼吸は少しずつだが正常に近づいていっているよ、本当に少しずつだけどね」
オルドの報告は正確だった。
「そうか」とだけ返事が返ってくる。
その短い言葉に、安堵と安心が込められていた。
「おい、お前。分かってんのか? 未登録の《ペナテス》へのメッセージ送信は本来許されていねえ。状況が状況だが、これは限りなくクロに近いグレーだぜ」
沈黙を破ったのは、男をここへ導いてきた小さな狼だった。
灰白色の狼の目は左右で色が違う。
黄金色の右目と、水晶の左目。
その異色の瞳は、まるで全てを見通しているかのようだった。
「すまないね。緊急につき観測データを参照させてもらったよ。近くのプレイヤーで、君のところが一番信頼性が高かったんだ」
「完全な越権行為じゃねぇか。フン、まあいい。先生が信頼されるのは、オレとしちゃあ悪い気もしないからな」
狼はにやりとニヒルに笑ってみせた。
オルドと違い、とても自然に。
その表情には、主人への愛情と誇りが込められていた。
「すまない、どうも口が悪くてな(ペナテス)はみんなこうだと思っていたが、どうやら違うらしい。驚かせてしまっただろうか?」
男は心配そうにルナシアに視線を送る。
その視線は柔らかく、温かい。
ルナシアはまだ答えられない。
「怖かっただろう。特に、君のような子は」
ピクリと、一瞬反応を見せたルナシアが、恐る恐る顔を上げた。
初めて男に見せたその顔は、目を背けたくなるほどに悲痛な色をしている。
現実のあの部屋で、モニターにただ向かっていた時の顔色。
「随分、敏感な感性を持っている。職業柄、君のような子も見得てきたが、ここまで過敏なのは初めてだ。獣人系の種族も関係しているだろうが、苦労してきただろう。少し、ここにいる。まずは呼吸を整えるといい。ゆっくり、一つずつだ」
そう言って男はルナシアに背を向け、少し離れた位置に座り込んだ。
何やら手元を動かしながら、自身の《ペナテス》と話し始める。
近くにいることは分かりつつも、過度に干渉してこない、絶妙な位置。
背中だけが見えているのに、どこか、守られている気がした。
名前も知らない誰かの存在が、風よりも静かに安心を運んでくる。
耳に突き刺さるような、大きな声を一方的に投げてきた先程の男とは違う、思いやりの空間。
ふたたび風が歌い始めた。
冷たかった体を血が巡る感覚がする。
緊張で強張っていた筋肉が、徐々に緩んでいく。
太陽が暖かかった。
土草が柔らかく、空気は澄んで、風は歌う。
この世界の美しさが、再び心に染み渡っていく。
優しさが、息を吹き返す。
葉擦れの音に混ざる自分を守った声が、ひどく心地よい。
「ありがとう……」
小さな声だったが、確かに言葉が紡がれた。


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《綴枝《つづれえだ》の庵《いおり》》へ向かう小道は、緩やかな傾斜と木漏れ日で満ちていた。
古い石畳の隙間から顔を出した苔《こけ》が、足音を優しく吸い込んでくれる。頭上では、まだ若い葉が風に揺れて、光と影の模様を地面に落としていた。
道の端には、小さな花──人工なのに、どこか野に咲くものよりも瑞々しく揺れている。
プログラムされた美しさなのだろうが、それでも心を和ませてくれる存在だった。
ルナシアは、静かに歩いていた。
大きな獣の耳がぴんと立ち、周囲の音を拾い上げている。
毛先まで神経が行き届いているかのように、微細な音の変化も逃さない。尻尾も同じように、感情の変化に合わせて揺れたり止まったりしている。
現実では持ち得ない、この敏感すぎる感覚器官。
それは美しいものを美しく感じさせてくれる一方で、不快なものを何倍にも増幅させてしまう両刃の剣でもあった。
木々の囁きが耳に心地よい。
遠くで鳥が鳴き、小さな虫たちが草むらで羽音を立てている。
この世界の自然は、すべてがルナシアの心を穏やかにしてくれるように設計されているかのようだった。
──このままずっと、れにも見つからなければいい。
そんな願いが、心の奥で小さくつぶやかれる。
ここは安全な場所であってほしい。
誰にも傷つけられない、静かな聖域であってほしい。
しかし、当然ながらここはゲームの世界。
この世界にいるのが彼女だけ、ということはあり得ない。
他のプレイヤーたちもまた、それぞれの目的を持ってこの世界に足を踏み入れている。
ルナシアの耳が震える。
森の囁きに混ざらない、不純物のような気配。
まるで、静かな水面に落ちた石の波紋を感知するように。
その感覚は、現実世界で身につけた防衛本能そのものだった。
ルナシアにとっての、人の気配《ノイズ》。
それも単体ではなく、複数の音と気配。
足音、話し声、笑い声。
「誰か、いる……」
ルナシアは咄嗟に足を止める。
心臓が急に早鐘を打ち始め、呼吸が浅くなる。
怯えた子供のように足が竦《すく》み、深く根を張る。
「心拍数の上昇を確認。君は現在緊張状態にある。落ち着いて、それはおそらく他のプレイヤーたちだ」
オルドの瞳の奥にある幾何学模様が、ルナシアを深く見つめる。
彼の声は常に一定の音量と抑揚で、感情の起伏というものが存在しない。
それは安定していると言えば安定しているが、時として冷たく感じられる。
「落ち着いて」とは言うが、やはりその言葉は機械的でどこか冷たく冷め切っていた。
オルド自身、自分の言葉では響かないと知識として理解してはいるが、本当に必要なものをルナシアに与えられる段階に、オルドはまだいない。
「提案。少し時間を置こう。これから行く先に他のプレイヤーが一時的に集まるのは道理だ。おそらく長居はしない。君のその感覚であればプレイヤーがいなくなったタイミングがわかるはずだ」
「違う、違うの……向こうじゃ、ない……!」
ルナシアの声は震えていた。
彼女が感じているのは、目的地方向からではなく、全く別の方向からの気配。
遂には肩を抱きしめ蹲《うずくま》ってしまったルナシアを、オルドは見下ろす形で見つめる。
その目は心配というよりも観察しているようで、適切な言葉を選んでいるようでもあった。
「あれー? どうしたのー? って耳生えてんじゃん! やばー! 獣人系ってやつっしょ? 可愛いじゃーん!」
ルナシアとオルドの間にしばらくの沈黙があった後、背後から無遠慮な声が突き刺さってきた。
その声は森の静寂を破り、ルナシアの耳の奥に直接突き刺さる。
音の形をした棘。痛みを伴う振動。
世界の輪郭が──乱される。
茂みの向こう側から、眼球を突き抜けるような派手な赤色をした毒々しいキノコのような髪型の男が出てくる。
背中には自分の体格に不相応な大剣を担ぎ、肩にはエリマキトカゲのような小動物を乗せている。
「うわー、マジでリアルじゃん! ねえねえ、その耳動くの? 尻尾も?」
男は一見するとルナシアを心配しているような口振りをしつつ、その視線は好奇心に満ちていた。
しかしそれは、博物館の珍しい展示品を見るような、相手を人間として見ていない視線。
「そっちの小さい子はお友達かなぁ? ねねね、俺さ今一緒にプレイ出来る友達探してんだよね! ほらこのゲーム、招待? だかなんだかされないと出来ないじゃん? リア友誘えなくてさー。あ! 見てよこの大剣! 試し斬りしたかったのにあっち敵いないんだよなぁ。つまんねー」
蹲《うずくま》ったルナシアを覗き込む視線は、もはや視線ではなかった。
それは剥き出しの触手のように、彼女の輪郭を無遠慮に撫で回す。
耳の形、尻尾の動き、表情の変化。すべてが好奇心という名の暴力で品定めされている。
尻尾は止まり、耳は縮こまり──彼女は、視線という暴力に凍りつく。
先程までピンと張った大きな耳と風に任せて揺れていた尻尾はピタリと閉じている。
まるで、世界から自分を隠そうとするかのように。
「僕は《ペナテス》だよ。君が来た方向にモンスターは出ない。試し斬りがしたいなら向こうへ行くといい」
オルドの声は相変わらず機械的だったが、それでも主人を守ろうとする意志は感じられた。
「あ、なんだAIかよ。じゃ、コレに用ないや。てか俺騎士目指しててさ! 守ってあげちゃうから! な? 俺について来いよ!」
形式上、男とルナシアの間に入ることになったオルドだが、男はオルドを邪魔な障害物でもあるかのように跳ね除け、小さく蹲《うずくま》ったその主人に詰め寄る。
オルドは軽々と倒され、地面に手を付いた。
「おいおい縮こまっちゃってるじゃねぇの! モテて困っちゃうってか!? ケッ、気取りやがるぜ!」
肩に乗ったエリマキトカゲが、ばっとその襟を広げながらルナシアに汚い音を振り掛けた。
甲高い鳴き声が、ルナシアの鼓膜を引き裂く。
ルナシアはびくりと肩を震わせるだけで言葉を発しない。
声を出すことすら、この状況では恐怖だった。
「こっちだ先生! 急げ!」
男が現れた茂みとは反対側の茂みから、小さな狼が飛び出してきた。
遅れて質素な黒い外套に身を包んだ別の男が現れる。
年齢は三十代前半ほどに見える。
落ち着いた雰囲気を纏い、その存在感は赤髪の男とは正反対だった。
「一体なんだと言うんだ……ふむ」
黒い外套の男は、蹲《うずくま》ったルナシアと、それに詰め寄る赤いキノコを交互に一瞥する。
「一応、確認する。そこの《ペナテス》。私の《ペナテス》にメッセージを送ったのはお前で合っているな?」
オルドと同じく抑揚に欠ける声。
しかし男の声は静かな湖のようだった。
直接には触れずとも、鼓膜の奥でじわじわと満ちていく。
同じ言葉でも、その通る声に宿るものが、まるで違った。
「是《ぜ》。間に合ったみたいだね」
跳ね除けられた時に転んだオルドは、軽く自分の膝を叩きながら立ち上がる。
実に人間らしく、機械的に。
「これを見て間に合ったとは思わん」
黒い外套の男は一瞬だけオルドに目を向けたが、すぐに視線をルナシアに戻す。
その視線は温かく、決して侵入的ではない。
むしろ、そっと見守るような、保護的な眼差しだった。
大きな耳と尻尾を丸め込み、小さく蹲《うずくま》りながら震える小さな体。
彼女の状態を見れば、何が起きているかは一目瞭然だった。
「あ? 誰お前、俺抜きで話を進めるなよ。てかAIってメッセとか送れんの? じゃあさじゃあさ、俺のAIともやり取り出来るようぬあ!?」
今度は赤いキノコが、外套の男に跳ね除けられる。
不相応な大剣のせいか、腕力の問題か。
随分と派手な音を立てて地面に転がったが、誰もその様を見ない。
「落ち着いて呼吸をしなさい。ゆっくり息を吐いて、吸うことに意識を向けなくていい。息をゆっくり、吐くんだ」
限界まで丸め込まれたルナシアの背を、成人男性としてはやや細く小さな手がさすろうとして、直前で手を引っ込める。
触れることが、かえって恐怖を与えてしまう可能性を、彼は理解している。
「おい《ペナテス》。お前の主人だろう。こっちに来て手伝え。声はかけなくていい。力を入れず、背を優しくさすってやれ。私はそこの男の相手をしておく」
「了」
短く返事をしたオルドが指示通り動いたのを確認して、男は後ろを振り返る。
後ろでは立ち上がった赤いキノコが、顔まで真っ赤にして外套の男を睨みつけていた。
転倒した屈辱と、自分が軽視されたことへの怒りを孕んだ眼差し。
「なんだよ急に、後から来た癖に……その女は俺が先に見つけたんだぞ!」
「見つけたからなんだ。どうせ相手の状態も確かめずに、自分のことだけペラペラと喋っていたんだろう」
それを聞いて、さらにカッと赤くなる男の顔。
もはや髪色と顔色の区別がつかない。
図星を指されたことへの、羞恥。
「うるせぇ! 黙って聞いてりゃいい気になりやがって! いいぜ、テメェで試し斬りしてやる。クソが、馬鹿にしやがって……!」
「ちょっと! それはダメだって! 制限があるんだから!」
トカゲの静止の声を、男が聞くことはない。
興奮状態にある彼には、もはや理性的な判断は期待できなかった。
男が背中の大剣に手を掛ける。
「黙って聞いていればと言う奴が、黙って聞いていた瞬間に立ち会ったことがないんだがな」
目が痛むような真っ赤に対し、黒い外套はどこまでも静か。
まるで嵐の中の灯台のような、揺るぎない存在感を放っていた。
それが、逆に気に食わない。
「ハッ! よく見たら武器まだ持ってないのかよ! 残念だったなぁ!? 武器が拾えるのはすぐそこだったのに、これじゃ一方的だぜ!」
ついに抜かれた大剣の重さに引っ張られて、男はバランスを崩し、肩からトカゲが落ちそうになっていた。
やはり不相応なのか、大剣に振り回されている。
「人は石を持った瞬間から、その石を投げる相手を探してしまう。武器とはその代表だな」
相手が武器を構えて尚、余裕を崩さない。
その態度は、何か確信があってのことのようだった。
「へっ、いいぜ。お前を経験値に変えて、このサーバー、いや全サーバーで俺が一番強くなってやる! お前はランキングに乗った俺の名前を見て光栄に思える日がくるだろうさ!」
男に向かって走り抜ける害意。
然程離れていなかった距離が一瞬で詰まり、男にその害意が振り下ろされる。
大剣が風を切り、確実に外套の男を捉えるはずだった。
しかし、男は一歩も引かず、行動を起こそうともしない。
まるで、結果を既に知っているかのような余裕さえ見せていた。
そしていつまで経っても、大剣は男に届かない。
「あ? な!? なんだよこれ!」
男と大剣の間に、見えない何かが挟まり侵入を拒んでいた。
まるで透明な壁が存在するかのように、剣は空中で停止している。
「一度も武器を持った事がないプレイヤーは、同じプレイヤーからの攻撃を一切受け付けないんだそうだ。武器を持たないことが自衛につながることもある。覚えておくといい」
それは、先に武器を手にしたプレイヤーが、待ち伏せして初心者を一方的にPK《プレイヤーキル》出来ないようにするための最低限で絶対のルール。
この仕様を知っていたからこそ、彼は何もしなかった。
その必要がないから。
知識は時として、最強の武器となる。
「ああ、それから知らないなら教えておく。このゲームに経験値やレベルといった概念はない。私を倒しても経験値は入らないし、たった1000人のプレイヤーのために複数のサーバーを用意する必要もない。サーバーはここ一つだ。最強のプレイヤーへの第一歩、挫いてしまったな」
これらの仕様は、武器未獲得のプレイヤーへの攻撃不可以外は、ここまでの道中で《ペナテス》から提示されるようになっている。
話をきちんと聞いていれば、そもそも敵を探して近くを彷徨う必要すらなかったのだ。
「クソが! クソッ! クソッ!」
何度も何度も。
大剣は叩き付けられるが、システムに阻まれ刃が届くことはない。
「ストップ! ストップ! それ以上は装備の耐久値がなくなっちまうよマスター! 装備未獲得時の守護はモンスターには通用しないし壊れても一度手にしたら獲得判定なんだ! それ無しじゃこの先進めない!」
ピタリ、と攻撃が止んだ。
トカゲの言葉が、ようやく彼の理性に届いたらしい。
「クソ!」
最後まで悪態をついてはいたが、「覚えてやがれ!」とは言わなかった。
ノイズは森の中へ消えていく。「そっちは逆走だよ!」とトカゲが騒ぎながら。
森に静寂が戻る。
鳥たちが再び鳴き始め、風が葉を揺らす音が響く。
まるで、先程の騒動が嘘だったかのように。
「終わったぞ。そっちはどうだ」
赤い害意が完全に見えなくなったのを確認して、残っていた男がオルドへ歩み寄っていく。
震えるルナシアを決して怖がらせないよう、彼女からは適切な距離を保ちながら。
「心拍数は依然安定しない。呼吸は少しずつだが正常に近づいていっているよ、本当に少しずつだけどね」
オルドの報告は正確だった。
「そうか」とだけ返事が返ってくる。
その短い言葉に、安堵と安心が込められていた。
「おい、お前。分かってんのか? 未登録の《ペナテス》へのメッセージ送信は本来許されていねえ。状況が状況だが、これは限りなくクロに近いグレーだぜ」
沈黙を破ったのは、男をここへ導いてきた小さな狼だった。
灰白色の狼の目は左右で色が違う。
黄金色の右目と、水晶の左目。
その異色の瞳は、まるで全てを見通しているかのようだった。
「すまないね。緊急につき観測データを参照させてもらったよ。近くのプレイヤーで、君のところが一番信頼性が高かったんだ」
「完全な越権行為じゃねぇか。フン、まあいい。先生が信頼されるのは、オレとしちゃあ悪い気もしないからな」
狼はにやりとニヒルに笑ってみせた。
オルドと違い、とても自然に。
その表情には、主人への愛情と誇りが込められていた。
「すまない、どうも口が悪くてな。《ペナテス》はみんなこうだと思っていたが、どうやら違うらしい。驚かせてしまっただろうか?」
男は心配そうにルナシアに視線を送る。
その視線は柔らかく、温かい。
ルナシアはまだ答えられない。
「怖かっただろう。特に、君のような子は」
ピクリと、一瞬反応を見せたルナシアが、恐る恐る顔を上げた。
初めて男に見せたその顔は、目を背けたくなるほどに悲痛な色をしている。
現実のあの部屋で、モニターにただ向かっていた時の顔色。
「随分、敏感な感性を持っている。職業柄、君のような子も見得てきたが、ここまで過敏なのは初めてだ。獣人系の種族も関係しているだろうが、苦労してきただろう。少し、ここにいる。まずは呼吸を整えるといい。ゆっくり、一つずつだ」
そう言って男はルナシアに背を向け、少し離れた位置に座り込んだ。
何やら手元を動かしながら、自身の《ペナテス》と話し始める。
近くにいることは分かりつつも、過度に干渉してこない、絶妙な位置。
背中だけが見えているのに、どこか、守られている気がした。
名前も知らない誰かの存在が、風よりも静かに安心を運んでくる。
耳に突き刺さるような、大きな声を一方的に投げてきた先程の男とは違う、思いやりの空間。
ふたたび風が歌い始めた。
冷たかった体を血が巡る感覚がする。
緊張で強張っていた筋肉が、徐々に緩んでいく。
太陽が暖かかった。
土草が柔らかく、空気は澄んで、風は歌う。
この世界の美しさが、再び心に染み渡っていく。
優しさが、息を吹き返す。
葉擦れの音に混ざる自分を守った声が、ひどく心地よい。
「ありがとう……」
小さな声だったが、確かに言葉が紡がれた。