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冒頭句 クリックひとつ

ー/ー




魂とは何か。
わたしがあの時見た、まだ幼い少女の瞳の奥にその答えがある。

探さねばならぬ。
我が最愛の妹の、最期(さいご)の輝きを。

わたしが証明せねばならぬ。
皆が否定した、彼女の生命(いのち)の輝きを。



光は痛く、闇は苦い。
音は(うるさ)すぎて、静寂は叫びのようだった。
身につける衣服は肌を削り、香りは鋭利な刃となって鼻腔(びこう)を刺す。
世界は、不快の集合体だった。
そして彼女は、その不快をすべて抱えて生きている。
冷蔵庫の(うな)りは獣の咆哮(ほうこう)に変わり、パソコンの静かな呼吸は耳奥を舐め回す。
壁の向こうの水道のきしみは、脳の表面を焦がす悲鳴となった。
生活という名の群像劇が、規則正しく世界を(むし)む。
魂縫(たまぬい)ほつれはその劇の最前席にいた。
防音マットを敷き詰めた無駄のない機能的な部屋。
その片隅の作業スペース。
モニターに映し出された、散らばった素材やフォントデータが、そのまま彼女の心象を表している。
情報に圧殺された、現代人の死病。
彼女にとってデザインとは、情報を拾って、感情を捨てる作業である。
捨てた感情は、心の肥溜(こえだめ)に沈む。
発酵(はっこう)、腐臭(ふしゅう)となって、彼女を蝕む。
かつて絵を描いていた彼女はいつしか描けなくなった。
描かなくなったのではない。
筆を動かしても線は生まれず、色を塗っても光が宿らない。
重ねても、意味は増えなかった。
深夜二時に飛び出す激情を、キャンバスに叩きつける日もあった。
それももう、何ヶ月もない。
今は仕事で描くデザインの線だけが、感情の死骸のように積み重なる。
魂縫(たまぬい)ほつれの心は、綻(ほころ)びていた。
針がないのか。糸が見つからないのか。
ただ逃げたかった。
逃げる場所なんてないのに。
現実は、逃げ出した者にも律儀に迫ってくる。
逃げ足を(くじ)き、逃げ先を()らし、逃げ道を潰す。
死ねなかったのは、生きたいからじゃない。
ただ、生き続けることが、自分を裏切らない唯一の手段だった。
「我々はどこから来て、どこへ行くのか。我々は……」
何者か。
独白とも独白未満ともつかぬ声が、防音マットへと静かに吸収された。
本棚に詰まった多くの哲学や啓発本が、彼女を救うことはない。
モニターには散らかったままのデザインがそのまま残されている。
机には飲みかけの感情。
感情はぬるになると、酸っぱくなる。
薄暗い部屋の中でモニターだけが彼女の顔を照らす。
その顔は、美しいわけでも、醜いわけでもなかった。
ただ、疲れていた。
「新型ゲームの選出通過メール……?」
画面を切り替え、メールを確認していると一件のメールが目に留まる。
この度、貴殿は弊社・新規事業開発部門より開発された次世代型仮想ゲームプロジェクト《Ⅽoⅾe of ALMA》の選出対象となりました。
選出は内部判定により自動的に行われており、選出基準およびゲーム内の一部詳細なルールは公開されておりません。
本環境では、プレイヤーの行動・選択・感情傾向が物語へ直接影響を及ぼします。
物語上のゴールは存在せず、プレイの在り方は参加者に委ねられます。
この世界では、あなたの選択がすべてを決定します。
ただし、その選択が“あなたのもの”である保証は、どこにもありません。
現実に対し過剰なノイズを感じている場合、本プロジェクトは、一定の効果がある可能性がございます。
お立ち上がりください。
まだ、突き立てる刃をお持ちであるのなら。
──通行 / 退場
ほつれは当然、こんなゲームへの応募などしていない。
VRゲームも学生時代に手をつけてみたが、望んだ結果は得られずすぐにやめた。
メール。詐欺。誘い。罠。招待状。
すべてのラベルを持ちながら、そのどれにも属さない。
彼女の理性は確かに警鐘を鳴らしていた。
どう考えても怪しい。
ただ本能が──そうとしか言えない何かが確かに、可能性を感じていた。
選ばれし者たちだけに許された、逃亡許可証。
そのクリックひとつが、祈りに似ていた。
意志ではなく、衝動。
衝動ではなく、事故。
事故ではなく、必然。
《通行》
彼女──魂縫(たまぬい)ほつれのマウスが、静かに選択肢を押し込んだ。
祈るように、ただ押してしまった。
それは現実からの撤退(てったい)に対する、最初で最後の通行証だった。
《デバイス発送完了》
そんな表示が浮かんだ、次の瞬間だった。
部屋中の音が、止まった。
まるで世界が、息を潜めたように。
──ピッ、と小さなインターフォンの音が鳴る。
その音すら彼女にとっては棘となり、鼓膜に突き刺さる。
遮音効果の高い耳栓なしではいられない。
肩をピクリと震わせ、モニターを確認するが、そこにはただ見慣れた景色が映るだけだった。
ドアチェーンを掛けたまま、玄関を開ける。
無人。
箱だけが残されていた。
身体の小さなほつれにとって、決して小さくはないその箱を抱えて部屋へと戻る。
デスクの引き出しから使い込まれたカッターを取り出し、その刃を走らせた。
 ギイイイイイイイイ────
走らせた刃は雷鳴となって彼女の身体を震わせ、顔を歪ませる。
彼女にとっては、苦虫の味の方がまだ優しかったかもしれない。
だが箱の中身を見た瞬間、その震えは別のものに変わる。
──《ALMA》専用接続デバイス。
ヘッドギア型で、決して小さくはない。
けれど、それはひとつの芸術品だった。
無駄のない曲線。鈍く光を返すカーボン素材。
冷たく、そして優しい重量。
そのすべてが、ただ一つの目的のために作られていた。
「……綺麗」
その言葉は、単なる評価ではなかった。
彼女の心から溢れた生きた感情だった。
用途は《ALMA》のプレイのみ。
説明書にも他の機能の記載は一切ない。
従来のVRデバイスが多機能な方向性へ進むなか、ただ一つの機能だけを追求していた。
だからこその、圧倒的なまでの美。
一人のクリエイターだからこそ理解できた。
これは思想の塊だ。
彼女はそっとヘッドギアを手に取る。
そのままベッドへと寝転び──装着した。
額に触れる部分に刻まれている、銀の文字。
《Ⅽoⅾe of ALMA》
起動した瞬間、世界が塗りつぶされていく。
視界が、ゆっくりと、沈んでいった。
皮膚も、耳も、心も、痛くなかった。
苦しくもなかった。
彼女を刺すものは、何もなかった。
それだけで、十分だった。
肉体が剥がれ落ちていく。
音も色も気配も存在しない、虚無空間。
彼女は、魂のような形でそこに漂っていた。
それは微かに白く、淡く、少しだけ濁っていた。
まるで、削れた感情の残骸。
魂のようなものが、そこでの魂縫(たまぬい)ほつれの姿。
やがて、その虚無の中心に、糸が生まれた。
視えないはずの空間に、一本、また一本と光のような糸が生まれ、絡まり、揺れて、ひとつの人影を織り上げていく。
──それは女だった。
赤銅色の髪が、糸の流れのように広がっている。
肌は(ほの)かに透き通り、瞳には過去を縫い直すような静かな光が宿っていた。
糸の女は、まるで世界そのものが作り出した裁縫道具のよう。
無から生まれ、綻びの前に佇む。
『──ようこそ、漂流者』
その声は、音ではなかった。
皮膚に触れる風のような、体内の水が微かに震えるような、
感覚に近いものが言葉になって流れ込んできた。
『私は《ノーナ》。この世界に降り立つ魂に、仮初(かりそめ)の肉体を縫い与える者です』
ノーナの指先から伸びた糸が、ゆっくりとほつれの魂に触れた瞬間──
痛みも音も、ひととき完全に、消えた。
静けさが、温もりに変わった。
その時、彼女は初めて知ったのかもしれない。
静寂とは恐怖ではなく、守られる感覚のことなのだと。
優しさと、どこか冷たさの残る声だった。
『今からこの世界、(ALMA)における肉体の選択、生成を行います』
ノーナの周囲を漂う糸が、ほつれの魂へと伸びてくる。
視覚のような感覚に、いくつかの種族の名が浮かぶ。
その感覚の中に一つの種族名が提示される。
──《天狐族(てんこぞく)
それは感覚の極致。聴覚、視覚、嗅覚、触覚、味覚──あらゆる感覚が研ぎ澄まされた獣人系唯一(ユニーク)種族。
かつて神の使いとして魔の系譜と激しい戦いを繰り広げた。
本来獣人が持たない魔法への適性と高い俊敏性を持つ代わりに、耐久性は全種族の中で最も低い。
それはまるで、自分自身の診断結果のようだった。
『選ぶかどうかはあなたの自由です』
ノーナは言う。
『それは特殊な種族ですが、他の種族を選択することも勿論可能です。しかし適性から離れすぎた選択は今後の成長に影響を及ぼすことがございます。後から変えることは出来ない要素となっておりますので慎重にお決めください』
答えるまでもなかった。
「……天狐族(てんこぞく)、でいい」
これほどまでに、彼女を表した種族も他にあるまい。そもそも此処には強さを求めて来たわけではない。
この種族が特別で、これが自分に合っていると言うのならばそれでよかった。
求めているものは、もっと別の──
糸が脈打つように揺れ、空間が呼吸した。
世界が納得したかのように、輪郭が変化を始める。
糸がほつれの魂へと絡み、輪郭を与えていく。
白銀色の長い髪、柔らかな狐耳(きつねみみ)とふさふさの尻尾。
細く、か細い線の四肢。
『ここではある程度肉体の外見を変更できます。しかし極端な肉体情報の書き換えは現実やこの世界での行動に支障を与える恐れがあるため、基本的には向こう側での肉体情報を基にしていただきます』
自身の視界にはアバターの細かな設定バーが表示され、スライドさせることで確かに多少の変化は起こるが、言ってしまえばナチュラルメイクのようなものだった。
密かに気にしていた身長も、ほんの数センチしか伸ばせなかった。
ほつれは小さな笑みを零す。
「……どこまでいっても、わたしはわたし、ってことね」
ほつれは身バレ防止のため多少の変更をしつつ、身長のパラメータだけは目一杯伸ばした。
ほんのささやかな、抵抗。
『ここは、綻(ほころ)びを(ほど)く世界ではありません。あなたが“どう縫い直すか”を、あなたに問うための世界です』
最後の糸が、胸に触れる。
名を与えて、と告げるように。
彼女は囁いた。
「……ルナシア」
光が脈打ち、糸が弾ける。
魂縫(たまぬい)ほつれの刃のかたちが、いま、この世界に生まれ落ちた。


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次のエピソードへ進む 第一節 赦しと選択の讃美歌


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魂とは何か。
わたしがあの時見た、まだ幼い少女の瞳の奥にその答えがある。
探さねばならぬ。
我が最愛の妹の、最期《さいご》の輝きを。
わたしが証明せねばならぬ。
皆が否定した、彼女の生命《いのち》の輝きを。
光は痛く、闇は苦い。
音は煩《うるさ》すぎて、静寂は叫びのようだった。
身につける衣服は肌を削り、香りは鋭利な刃となって鼻腔《びこう》を刺す。
世界は、不快の集合体だった。
そして彼女は、その不快をすべて抱えて生きている。
冷蔵庫の唸《うな》りは獣の咆哮《ほうこう》に変わり、パソコンの静かな呼吸は耳奥を舐め回す。
壁の向こうの水道のきしみは、脳の表面を焦がす悲鳴となった。
生活という名の群像劇が、規則正しく世界を蝕《むし》む。
魂縫《たまぬい》ほつれはその劇の最前席にいた。
防音マットを敷き詰めた無駄のない機能的な部屋。
その片隅の作業スペース。
モニターに映し出された、散らばった素材やフォントデータが、そのまま彼女の心象を表している。
情報に圧殺された、現代人の死病。
彼女にとってデザインとは、情報を拾って、感情を捨てる作業である。
捨てた感情は、心の肥溜《こえだめ》に沈む。
発酵《はっこう》し、腐臭《ふしゅう》となって、彼女を蝕む。
かつて絵を描いていた彼女はいつしか描けなくなった。
描かなくなったのではない。
筆を動かしても線は生まれず、色を塗っても光が宿らない。
重ねても、意味は増えなかった。
深夜二時に飛び出す激情を、キャンバスに叩きつける日もあった。
それももう、何ヶ月もない。
今は仕事で描くデザインの線だけが、感情の死骸のように積み重なる。
魂縫《たまぬい》ほつれの心は、綻《ほころ》びていた。
針がないのか。糸が見つからないのか。
ただ逃げたかった。
逃げる場所なんてないのに。
現実は、逃げ出した者にも律儀に迫ってくる。
逃げ足を挫《くじ》き、逃げ先を涸《か》らし、逃げ道を潰す。
死ねなかったのは、生きたいからじゃない。
ただ、生き続けることが、自分を裏切らない唯一の手段だった。
「我々はどこから来て、どこへ行くのか。我々は……」
何者か。
独白とも独白未満ともつかぬ声が、防音マットへと静かに吸収された。
本棚に詰まった多くの哲学や啓発本が、彼女を救うことはない。
モニターには散らかったままのデザインがそのまま残されている。
机には飲みかけの感情。
感情はぬるになると、酸っぱくなる。
薄暗い部屋の中でモニターだけが彼女の顔を照らす。
その顔は、美しいわけでも、醜いわけでもなかった。
ただ、疲れていた。
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この度、貴殿は弊社・新規事業開発部門より開発された次世代型仮想ゲームプロジェクト《Ⅽoⅾe of ALMA》の選出対象となりました。
選出は内部判定により自動的に行われており、選出基準およびゲーム内の一部詳細なルールは公開されておりません。
本環境では、プレイヤーの行動・選択・感情傾向が物語へ直接影響を及ぼします。
物語上のゴールは存在せず、プレイの在り方は参加者に委ねられます。
この世界では、あなたの選択がすべてを決定します。
ただし、その選択が“あなたのもの”である保証は、どこにもありません。
現実に対し過剰なノイズを感じている場合、本プロジェクトは、一定の効果がある可能性がございます。
お立ち上がりください。
まだ、突き立てる刃をお持ちであるのなら。
──通行 / 退場
ほつれは当然、こんなゲームへの応募などしていない。
VRゲームも学生時代に手をつけてみたが、望んだ結果は得られずすぐにやめた。
メール。詐欺。誘い。罠。招待状。
すべてのラベルを持ちながら、そのどれにも属さない。
彼女の理性は確かに警鐘を鳴らしていた。
どう考えても怪しい。
ただ本能が──そうとしか言えない何かが確かに、可能性を感じていた。
選ばれし者たちだけに許された、逃亡許可証。
そのクリックひとつが、祈りに似ていた。
意志ではなく、衝動。
衝動ではなく、事故。
事故ではなく、必然。
《通行》
彼女──魂縫《たまぬい》ほつれのマウスが、静かに選択肢を押し込んだ。
祈るように、ただ押してしまった。
それは現実からの撤退《てったい》に対する、最初で最後の通行証だった。
《デバイス発送完了》
そんな表示が浮かんだ、次の瞬間だった。
部屋中の音が、止まった。
まるで世界が、息を潜めたように。
──ピッ、と小さなインターフォンの音が鳴る。
その音すら彼女にとっては棘となり、鼓膜に突き刺さる。
遮音効果の高い耳栓なしではいられない。
肩をピクリと震わせ、モニターを確認するが、そこにはただ見慣れた景色が映るだけだった。
ドアチェーンを掛けたまま、玄関を開ける。
無人。
箱だけが残されていた。
身体の小さなほつれにとって、決して小さくはないその箱を抱えて部屋へと戻る。
デスクの引き出しから使い込まれたカッターを取り出し、その刃を走らせた。
 ギイイイイイイイイ────
走らせた刃は雷鳴となって彼女の身体を震わせ、顔を歪ませる。
彼女にとっては、苦虫の味の方がまだ優しかったかもしれない。
だが箱の中身を見た瞬間、その震えは別のものに変わる。
──《ALMA》専用接続デバイス。
ヘッドギア型で、決して小さくはない。
けれど、それはひとつの芸術品だった。
無駄のない曲線。鈍く光を返すカーボン素材。
冷たく、そして優しい重量。
そのすべてが、ただ一つの目的のために作られていた。
「……綺麗」
その言葉は、単なる評価ではなかった。
彼女の心から溢れた生きた感情だった。
用途は《ALMA》のプレイのみ。
説明書にも他の機能の記載は一切ない。
従来のVRデバイスが多機能な方向性へ進むなか、ただ一つの機能だけを追求していた。
だからこその、圧倒的なまでの美。
一人のクリエイターだからこそ理解できた。
これは思想の塊だ。
彼女はそっとヘッドギアを手に取る。
そのままベッドへと寝転び──装着した。
額に触れる部分に刻まれている、銀の文字。
《Ⅽoⅾe of ALMA》
起動した瞬間、世界が塗りつぶされていく。
視界が、ゆっくりと、沈んでいった。
皮膚も、耳も、心も、痛くなかった。
苦しくもなかった。
彼女を刺すものは、何もなかった。
それだけで、十分だった。
肉体が剥がれ落ちていく。
音も色も気配も存在しない、虚無空間。
彼女は、魂のような形でそこに漂っていた。
それは微かに白く、淡く、少しだけ濁っていた。
まるで、削れた感情の残骸。
魂のようなものが、そこでの魂縫《たまぬい》ほつれの姿。
やがて、その虚無の中心に、糸が生まれた。
視えないはずの空間に、一本、また一本と光のような糸が生まれ、絡まり、揺れて、ひとつの人影を織り上げていく。
──それは女だった。
赤銅色の髪が、糸の流れのように広がっている。
肌は仄《ほの》かに透き通り、瞳には過去を縫い直すような静かな光が宿っていた。
糸の女は、まるで世界そのものが作り出した裁縫道具のよう。
無から生まれ、綻びの前に佇む。
『──ようこそ、漂流者』
その声は、音ではなかった。
皮膚に触れる風のような、体内の水が微かに震えるような、
感覚に近いものが言葉になって流れ込んできた。
『私は《ノーナ》。この世界に降り立つ魂に、仮初《かりそめ》の肉体を縫い与える者です』
ノーナの指先から伸びた糸が、ゆっくりとほつれの魂に触れた瞬間──
痛みも音も、ひととき完全に、消えた。
静けさが、温もりに変わった。
その時、彼女は初めて知ったのかもしれない。
静寂とは恐怖ではなく、守られる感覚のことなのだと。
優しさと、どこか冷たさの残る声だった。
『今からこの世界、《ALMA》における肉体の選択、生成を行います』
ノーナの周囲を漂う糸が、ほつれの魂へと伸びてくる。
視覚のような感覚に、いくつかの種族の名が浮かぶ。
その感覚の中に一つの種族名が提示される。
──《天狐族《てんこぞく》》
それは感覚の極致。聴覚、視覚、嗅覚、触覚、味覚──あらゆる感覚が研ぎ澄まされた獣人系唯一《ユニーク》種族。
かつて神の使いとして魔の系譜と激しい戦いを繰り広げた。
本来獣人が持たない魔法への適性と高い俊敏性を持つ代わりに、耐久性は全種族の中で最も低い。
それはまるで、自分自身の診断結果のようだった。
『選ぶかどうかはあなたの自由です』
ノーナは言う。
『それは特殊な種族ですが、他の種族を選択することも勿論可能です。しかし適性から離れすぎた選択は今後の成長に影響を及ぼすことがございます。後から変えることは出来ない要素となっておりますので慎重にお決めください』
答えるまでもなかった。
「……天狐族《てんこぞく》、でいい」
これほどまでに、彼女を表した種族も他にあるまい。そもそも此処には強さを求めて来たわけではない。
この種族が特別で、これが自分に合っていると言うのならばそれでよかった。
求めているものは、もっと別の──
糸が脈打つように揺れ、空間が呼吸した。
世界が納得したかのように、輪郭が変化を始める。
糸がほつれの魂へと絡み、輪郭を与えていく。
白銀色の長い髪、柔らかな狐耳《きつねみみ》とふさふさの尻尾。
細く、か細い線の四肢。
『ここではある程度肉体の外見を変更できます。しかし極端な肉体情報の書き換えは現実やこの世界での行動に支障を与える恐れがあるため、基本的には向こう側での肉体情報を基にしていただきます』
自身の視界にはアバターの細かな設定バーが表示され、スライドさせることで確かに多少の変化は起こるが、言ってしまえばナチュラルメイクのようなものだった。
密かに気にしていた身長も、ほんの数センチしか伸ばせなかった。
ほつれは小さな笑みを零す。
「……どこまでいっても、わたしはわたし、ってことね」
ほつれは身バレ防止のため多少の変更をしつつ、身長のパラメータだけは目一杯伸ばした。
ほんのささやかな、抵抗。
『ここは、綻《ほころ》びを解《ほど》く世界ではありません。あなたが“どう縫い直すか”を、あなたに問うための世界です』
最後の糸が、胸に触れる。
名を与えて、と告げるように。
彼女は囁いた。
「……ルナシア」
光が脈打ち、糸が弾ける。
魂縫《たまぬい》ほつれの刃のかたちが、いま、この世界に生まれ落ちた。