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第8話 懐かしさを悼む少女

ー/ー



 箱庭のような空間に、籠のような温室。
 現代的な研究施設の中に、土や樹木の懐かしさ香るその世界は切り取られたように異質だった。
 何かを閉じ込めるために存在しているような「世界」。それが蕾生(らいお)の目の前にある。

 少女が一人、小さなテーブルと椅子に腰掛けていた。本を開きながら目を見開いてこちらを見ている。
 肩ほどまで伸びた黒い髪はつややかに光の輪を描き、とても簡素な白いワンピースを着ていた。
 その年頃は蕾生達よりも幾つか年下に見える。
 
「リン……か?」
 
 (はるか)の言葉に、蕾生の跳ね続ける心臓が今度は痛む。初めて会うのに、その「リン」という言葉が頭の中で響いて、目眩がした。


 
「ハル様、ですか?」
 
 少女はおずおずと口を開く。永のことを知っている様子だった。大きな黒い瞳が永を真っ直ぐに見つめていた。
 
「そうだよ」

「何故、ここが……?」

 少女は狼狽していた。小さな唇を震わせて、ようやく言葉を紡いでいるようだった。

「何故ってここは銀騎(しらき)の研究所だろう? お前まで居たのは知らなかったけど」

 永は蕾生の知らない事実を幾つも飛び越えて、少女に語りかけていた。永の言葉の意味は、蕾生には何一つ分からなかった。

「そうですね……さすが、ハル様です」

 少女の表情は険しい。褒め言葉を言うような調子ではなかった。
 皮肉のような、落胆するような、そんな感情を向けられて、永の方も訝しんでいた。



「……リン?」

 永がその少女を呼ぶ度に、蕾生の胸がざわつく。
 
 懐かしい。
 憎い。
 愛おしい。

 訳の分からない感情が、代わる代わる湧き上がる。
 しかも、それはおそらく蕾生の感情ではない。

 蕾生が己の感情を、少女に向けるべき感情を探していると、その視線が飛んできた。

「そこにいるのは、ライですね」

 鋭い視線を受けて、蕾生はヘビに睨まれたように体が固まってしまう。
 初対面の少女に馴れ馴れしくそう言われて、答える言葉が浮かばなかった。
 
「……ああ」
 
 代わりに永が頷くと、少女は目を伏せて安堵の溜息をついた。だが、すぐに冷ややかな瞳に戻って言う。
 
「何をしに来たのですか?」

「それは……お前ならわかるよな?」

 少女の言葉に、永は動揺していた。
 頭の回転が誰よりも速い永が、相手の言わんとすることを理解できない事があるなんて。
 蕾生はそんな永の様子から不安が募る。同時に、少女の増していく迫力に呑まれそうになっていた。

 

「いいえ、私にはわかりません」

 少女は目を伏せて首を振る。永を拒絶しているような仕草だった。
 
「お前がいないと始まらないじゃないか。いつもより若いみたいだけどどうしたんだ?」

 永の質問は脈絡がないように思えた。少なくとも蕾生には。
 
 何が始まらないって?
 いつもより若いって、何?
 
 二人の会話の筋が見えなくて、蕾生はただその場で棒立ちになっていた。



 少しの間を置いて、少女は突き放すような口調ではっきりと言う。
 
「ハル様、私はもう協力できません」
 
「──え?」
 
「お帰りください。そしてここには二度と来ないように。私のことは忘れてください」
 
「な、に、言ってんの、お前?」
 
 永の動揺は更に酷くなり、その少女に一歩近づいた。
 
「近寄らないでください。人を呼びます」
 
「お前、どうしたんだよ! 何があった? お前こそどうしてここにいる?」
 
 詰め寄ろうとする永を制するように、少女は唇を噛み締めながらワンピースのポケットを探る。防犯ブザーのようなものを取り出して、そのスイッチを押した。
 
 途端に温室の中が赤い照明に変わり点滅を始めた。それからけたたましいサイレンが鳴り響く。
 頭に直接響くような不思議な音だったが、蕾生はそれに恐怖を感じた。


 
「リン!」
 
 戸惑う永から少女は目線を蕾生に移して、冷たく言った。
 
「ライ、彼を抱えて逃げなさい。捕まったら死にます。振り返らないで走りなさい」
 
 とんでもないことを言われたが、何故かそれが嘘だとは思えなかった。
 また、少女の決死の表情には従わざるを得ない迫力があった。
 
「永、一旦帰ろう」

 蕾生は震えそうな声でそう言うのが精一杯で、少女に対して「お前は誰だ」と問う余裕は既に無かった。
 
「馬鹿言うな! せっかく会えたのに!」

 永は駄々をこねる子どもようにそこに留まり続ける。
 こんなに狼狽している永は初めて見た。蕾生がその様子に戸惑っていると、少女が叫んだ。
 
「早く! 走って!」

 悲痛とも思える叫び。
 少女の声と、響くサイレンの音が、不協和音のように奇妙に混ざる。
 
「──クソっ」
 
 頭の中でどんどん大きくなるサイレンの音に焦りを感じて、蕾生は永をむりやり肩に担いだ。
 
「離せ、ライ! リンが、リンが──ッ!」
 
 とにかくここを離れないと危険だ。蕾生は喚く永を無視して温室の入口へと駆け出した。

 

「これで、さよなら……」


 
 少女の少し穏やかな声が胸に響く。その台詞は、以前にも聞いたような気がした。
 思い出せないまま、その顔をもう一度振り返る。
 そこには少し笑った、懐かしい表情が浮かべられていた。

 
  
「二人は、少しでも平穏な人生を生きてください」

 
 
 その言葉に胸がひどく痛くなる。
 けれどサイレンの轟音に追い立てられて、蕾生は永を担いだまま脇目も振らずに走った。
 
 白い道路が見えるまで、振り返らずに。
 
 その少女の黒い瞳に浮かんでいたきらめく涙を、見なかったことにして。
 
 蕾生は、そこから逃げ出した。


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 箱庭のような空間に、籠のような温室。
 現代的な研究施設の中に、土や樹木の懐かしさ香るその世界は切り取られたように異質だった。
 何かを閉じ込めるために存在しているような「世界」。それが|蕾生《らいお》の目の前にある。
 少女が一人、小さなテーブルと椅子に腰掛けていた。本を開きながら目を見開いてこちらを見ている。
 肩ほどまで伸びた黒い髪はつややかに光の輪を描き、とても簡素な白いワンピースを着ていた。
 その年頃は蕾生達よりも幾つか年下に見える。
「リン……か?」
 |永《はるか》の言葉に、蕾生の跳ね続ける心臓が今度は痛む。初めて会うのに、その「リン」という言葉が頭の中で響いて、目眩がした。
「ハル様、ですか?」
 少女はおずおずと口を開く。永のことを知っている様子だった。大きな黒い瞳が永を真っ直ぐに見つめていた。
「そうだよ」
「何故、ここが……?」
 少女は狼狽していた。小さな唇を震わせて、ようやく言葉を紡いでいるようだった。
「何故ってここは|銀騎《しらき》の研究所だろう? お前まで居たのは知らなかったけど」
 永は蕾生の知らない事実を幾つも飛び越えて、少女に語りかけていた。永の言葉の意味は、蕾生には何一つ分からなかった。
「そうですね……さすが、ハル様です」
 少女の表情は険しい。褒め言葉を言うような調子ではなかった。
 皮肉のような、落胆するような、そんな感情を向けられて、永の方も訝しんでいた。
「……リン?」
 永がその少女を呼ぶ度に、蕾生の胸がざわつく。
 懐かしい。
 憎い。
 愛おしい。
 訳の分からない感情が、代わる代わる湧き上がる。
 しかも、それはおそらく蕾生の感情ではない。
 蕾生が己の感情を、少女に向けるべき感情を探していると、その視線が飛んできた。
「そこにいるのは、ライですね」
 鋭い視線を受けて、蕾生はヘビに睨まれたように体が固まってしまう。
 初対面の少女に馴れ馴れしくそう言われて、答える言葉が浮かばなかった。
「……ああ」
 代わりに永が頷くと、少女は目を伏せて安堵の溜息をついた。だが、すぐに冷ややかな瞳に戻って言う。
「何をしに来たのですか?」
「それは……お前ならわかるよな?」
 少女の言葉に、永は動揺していた。
 頭の回転が誰よりも速い永が、相手の言わんとすることを理解できない事があるなんて。
 蕾生はそんな永の様子から不安が募る。同時に、少女の増していく迫力に呑まれそうになっていた。
「いいえ、私にはわかりません」
 少女は目を伏せて首を振る。永を拒絶しているような仕草だった。
「お前がいないと始まらないじゃないか。いつもより若いみたいだけどどうしたんだ?」
 永の質問は脈絡がないように思えた。少なくとも蕾生には。
 何が始まらないって?
 いつもより若いって、何?
 二人の会話の筋が見えなくて、蕾生はただその場で棒立ちになっていた。
 少しの間を置いて、少女は突き放すような口調ではっきりと言う。
「ハル様、私はもう協力できません」
「──え?」
「お帰りください。そしてここには二度と来ないように。私のことは忘れてください」
「な、に、言ってんの、お前?」
 永の動揺は更に酷くなり、その少女に一歩近づいた。
「近寄らないでください。人を呼びます」
「お前、どうしたんだよ! 何があった? お前こそどうしてここにいる?」
 詰め寄ろうとする永を制するように、少女は唇を噛み締めながらワンピースのポケットを探る。防犯ブザーのようなものを取り出して、そのスイッチを押した。
 途端に温室の中が赤い照明に変わり点滅を始めた。それからけたたましいサイレンが鳴り響く。
 頭に直接響くような不思議な音だったが、蕾生はそれに恐怖を感じた。
「リン!」
 戸惑う永から少女は目線を蕾生に移して、冷たく言った。
「ライ、彼を抱えて逃げなさい。捕まったら死にます。振り返らないで走りなさい」
 とんでもないことを言われたが、何故かそれが嘘だとは思えなかった。
 また、少女の決死の表情には従わざるを得ない迫力があった。
「永、一旦帰ろう」
 蕾生は震えそうな声でそう言うのが精一杯で、少女に対して「お前は誰だ」と問う余裕は既に無かった。
「馬鹿言うな! せっかく会えたのに!」
 永は駄々をこねる子どもようにそこに留まり続ける。
 こんなに狼狽している永は初めて見た。蕾生がその様子に戸惑っていると、少女が叫んだ。
「早く! 走って!」
 悲痛とも思える叫び。
 少女の声と、響くサイレンの音が、不協和音のように奇妙に混ざる。
「──クソっ」
 頭の中でどんどん大きくなるサイレンの音に焦りを感じて、蕾生は永をむりやり肩に担いだ。
「離せ、ライ! リンが、リンが──ッ!」
 とにかくここを離れないと危険だ。蕾生は喚く永を無視して温室の入口へと駆け出した。
「これで、さよなら……」
 少女の少し穏やかな声が胸に響く。その台詞は、以前にも聞いたような気がした。
 思い出せないまま、その顔をもう一度振り返る。
 そこには少し笑った、懐かしい表情が浮かべられていた。
「二人は、少しでも平穏な人生を生きてください」
 その言葉に胸がひどく痛くなる。
 けれどサイレンの轟音に追い立てられて、蕾生は永を担いだまま脇目も振らずに走った。
 白い道路が見えるまで、振り返らずに。
 その少女の黒い瞳に浮かんでいたきらめく涙を、見なかったことにして。
 蕾生は、そこから逃げ出した。