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猫に鰹節

ー/ー



 所長に言われた通り、間違いなく戸締りをしてから事務所を出た。
 自宅までは歩いて十五分ほど。途中、コンビニで晩御飯を買ったぐらいで、特に何事もなく自宅に着いた。
 鍵を開けて、ドアを引く。
「ただい――」
 その開けたすぐ先に、爛々(らんらん)としたふたつの目があった。
「ま……」
「おかえりにゃさい、ニンゲン! その手に持っているのはご飯かにゃ? 玩具(おもちゃ)かにゃ? それとも……マ・タ・タ・ビにゃ?」
 わかりやすい台詞(せりふ)と共に私を出迎えてくれたのは――ぎょろぎょろとした怪しい瞳に、長い犬歯を覗かせる(いや)しい口、すらりとした細長い体躯と二本の黒い尻尾――同居人の化け猫だった。
 数日前、ひょんなことからベランダでぼろぼろの子猫を拾って、家で介抱することになった。
 その猫は体中に縄で縛られたような傷があり、前足の骨も二本とも折れているという実にひどい状態だったのだが、簡単な治療を施すとみるみるうちに怪我が治っていき、三日後には全快に至っていた。
 普通に普通じゃない。
 明らかに生物として度を越した異様な回復力だったが、普通じゃないのはそれだけではなかった。
 初めは子猫ほどの大きさだった身体が、傷が治る頃には成猫の大きさにまで成長していて、さらにその三日後には中型犬ほどの大きさになっていたのだ。
 本当に信じられない。
 まさか、さらにその三日後、つまりは一昨日の朝、その猫が人間の女性の姿になっていたなんて――
「マタタビなんてコンビニで買えるわけないでしょ。ていうか、その問いかけの仕方は、ご飯を作って風呂も沸かして待ってる人の問いかけだ」
 と、私が突っ込んでいる間にも、そいつは私が持っているレジ袋に夢中で少しも聞いちゃいない。
 まあ、どうでもいいけど。
 私はレジ袋とそいつを置いて、ひとりリビングへと向かった。
 バッグと上着をベッドの上に放り投げて、自分も仰向けに倒れ込む。
 頭の上で起動したスマホの待ち受け画面には、所長――芒野ヨウ子の写真が映されている。
 それをうっとりと見つめて、彼女の言葉を反芻(はんすう)する。
「恋人はつくらない主義なんだ…………うわぁああああああああーっ、好きぃいいいいーっ!」
 もうスマホに口づけせんとする勢いだった。
 そこへ――
「にゃにを叫んでいるのにゃ?」
 ぬっ、と。
 音も気配もなく、気が付いたらそいつが隣にいた。
「うわっ!」
 驚きのあまり私はスマホを取り落としてしまう。
「びっくりした。足音もなく近づかないでよ……」
「忍び足は猫の十八番(おはこ)にゃ」
 と、そいつは悪びれる様子もなくそう言って、床に落ちたスマホを覗き込んだ。
「ん? こいつのことが好きにゃのか?」
「え! あ、その……す、好きっていうか……、その……まあ、うん……」
「ふーん」
 かなり興味なさげだ。
「聞いといて何よその反応は」
「いや、まあ、ニンゲンが誰を好きににゃろうと俺には関係にゃいが、この(おんにゃ)はやめといた方がいいと思うにゃ」
「え、どうして?」
「にゃんでもにゃ」
「なんでもって、全然理由になってないけど……」
 と、追及してみるが、そいつはあくまで譲らなかった。
「にゃんでもはにゃんでもにゃ。そんにゃことより、この写真はにゃんだか怪しいにゃ。もしかして盗撮っていうやつにゃ?」
「人聞きの悪いことを言わないでよ! これは宣伝用に頼んで撮らせてもらった写真だよ!」
「にゃるほどにゃるほど、よくわかったにゃ。つまり、お前は自分のスマホを見せて宣伝してるってことにゃ」
「ぐっ……」
 痛いところを突かれて、私は何も言い返すことができない。
「ひひ、怖いにゃ〜、怖いにゃ〜。人間とは恐ろしい生き物だにゃ〜」
 けけっ、と。
 そいつは卑しく笑う。
「わかったわかった、わかりました。認めます。私は宣伝用に撮った写真を無許可で待ち受けに設定しています。でもね、いい? 人間の怖さはね、こんなもんじゃないんだよ」
「じゃあ、どんにゃもんにゃのにゃ?」
「いいよ、お手本を見せてあげる」
「よろしくにゃ」
 私はあえて長めに間を置いて、(つと)めておどろおどろしく言った。
「所長の吸ったたばこの吸殻なら食べれる」
「怖さより心配が勝つにゃ」
 そうか、ならば。
「所長の一日履いた靴下で人形が作れる」
「手先が器用にゃ。すごいにゃ」
 褒められてしまった!
「いやだ! こんなことで褒められたくない!」
「さっきからうるさいやつにゃ。そんにゃに騒いで、部屋を追い出されても知らにゃいぞ」
「そうだよ! 誰のせいで追い出されそうになってると思っているんだ!」
「お前にゃ」
「お前だよっ!」
「にゃにゃっ!? 今、俺のことを『お前』って言ったにゃ!?」
「そうだよ! お前のことだ! お前以外に誰がいるんだ!」
「に゛ゃーっ! 二回も『お前』って言ったにゃ! 許せにゃいにゃ! 俺はすっごく偉いんだぞ!」
「知るか! お前だって、私のことを『お前』って言っただろ!」
「あーっ! また『お前』って言ったにゃ!」
 ふしゃーっ!
 と、そいつは牙をむき出しにして、本気で威嚇(いかく)の体勢を取る。
 怖い。本気で怖い。
「わかったわかった! ごめん、ごめんって! じゃあ、なんて呼べばいいのよ!」
 と、半ばやけになって問うと、そいつは急に大人しくなって呟くように言う。
「…………にび」
「えっ?」
「にび! 俺の名前(にゃまえ)は『にび』にゃ!」
「そ、そうなんだ……」
「うん……」
「…………」
「…………」
 えっ、なにこの空気。
 なんか、気まずい……。
 どうしよう。
 社交的なタイプじゃないから、こんなときどうすればいいのかわからない……。
 ご趣味とか訊いた方がいいのかしら……。
 なんて、初対面のときのような緊張感を味わっていると、にびの方から切り出してくれる。
「俺は言ったにゃ。ニンゲンの名前(にゃまえ)を教えろにゃ」
「え、あ、うん……。私は『花那(かな)』……、『小毬(こまり)花那(かな)』って言います……よろしく……」
「かにゃ」
「う、うん……?」
「言いづらいにゃ……」
「ごめん……」
 こればっかりはしょうがない。
 誰も悪くないからな。
 とりあえず、(今更すぎるが)自己紹介も済んだことだし、さっさと仲直りして一緒に晩御飯を食べることにした。
「ていうか、あなたは黒猫なのに『にび』って名前なのね」
 コンビニで買ってきた弁当を電子レンジで温めながら、隣にいるにびに問いかける。
「にゃ? 『にび』ってどういう意味にゃ?」
 と、純粋な疑問を表現した顔で、にびが私の顔を覗きこむ。
 自然、私の視線は、目の前の大きな二つの瞳に吸い込まれた。
 それはまるで薄雲がかった満月のように、透明感のある灰色に澄んでいた。
 私はその美しさに思わず目を奪われ、合点がいく。
(なるほど。そういうことか……)
 たしかに、お似合いの名前だった。
 うんうんと、ひとり首を縦に振って納得する私に、にびが(じれ)ったそうにする。
「にゃににやにやしてるのにゃ。きもいにゃ。早く意味を教えろにゃ」
「えっ、な、なに? なんて言った?」
「早く意味を教えろって言ったんだにゃ!」
「違う違う、その前だよその前!」
「その前? えっと……、きもいにゃ」
「う゛っ……!」
 思わぬ傷を負った。
「違う! もっと前だよ!」
「もっと前……、にゃににやにやしてるのにゃ?」
「もう一回言って」
「にゃににやにやしてるのにゃ!」
「やーだーっ! かーわーいーいぃーっ!」
 あまりのにゃんにゃん具合に、思わず叫んでしまう私だった。
「えっ、にゃに? にゃんにゃの?」
 にびは、困惑していた。
 ていうか、引いていた。
「リピートアフターミー」
「英語はわからにゃいにゃ」
「ご唱和ください」
「歌うのにゃ?」
 違う、間違えた。
「今から言う私の言葉を繰り返して」
「う、うん?」
「斜め左隣りの七草粥ことナナセ君は軟弱ななりをしているがなかなかどうしてナンパが上手い」
「にゃに言ってんだ?」
「う゛っ……!」
 諸君は知っているだろうか。
 純粋な疑問は、時として罵倒よりも心をえぐるということを。
「さっきから誰に言ってるのにゃ?」
「モノローグを読むな! え、てか、これ見えてるの!?」
「いや、ぶつぶつと口に出してたにゃ」
「なんだ、よかった~」
 心が読まれているのかと思って、不安になっちゃったよ。
 心配して損したわ。
「ちにゃみに、俺の趣味は将棋にゃ」
「うそ!? 私そんなに口に出てるの!?」
 全然よくなかった!
 むしろ心を読まれるより心配になる!
「私、無意識にひとりでぶつぶつ喋ってるんだ……」
「妖怪の俺よりよっぽど怪しいにゃ」
「うわぁー! 妖怪のお墨付きだー!」
 と。
 変な部分を認められたところで、電子レンジが小気味よい音を鳴らした。
 扉を開けると、弁当からもくもくと湯気が上がっている。
 悩み事も食欲の前では些細(ささい)なもので、温められた弁当を見たら、全てがどうでもよくなった。
 我ながら単純すぎて、これはこれで心配になるが、しかしまあ、とりあえず考えるのは食べてからでも遅くないだろう。
 私はあつあつの弁当を持って、リビングのローテーブルに着く。
 にびの前にはツナ缶を用意した。
 手を合わせて。
 いただきます。
「ていうかさ、趣味が将棋って渋すぎない? 化け猫らしさゼロなんだけど」
「にゃにおう。俺は立派に立派にゃ化け猫にゃ」
 にびは、えへんと胸を張る。
「じゃあさ、試しに化け猫らしいこと言ってみてよ」
ツナ(つにゃ)缶の油がいちばん旨い」
「たしかに言いそうで突っ込みづらい」
 化け猫を対象にアンケートをとったら、半数以上がそう答えそうだ。
 統計がとれるほど化け猫がいたら嫌だけども。
 しかしまあ――
「なんかさ、にびって本当に怖くないよね」
「そうにゃのか?」
「うん。もう少し妖怪としての自覚を持った方がいいんじゃない?」
「ちくちく言葉だにゃ……」
 妖怪だって(にゃみだ)は出るにゃ……。
 と、部屋の隅でしゅんと小さくなる化け猫。
 妖怪も落ち込むことあるんだ……。
 ごめんごめん。
 しかし、私は思ったままの疑問を口にした。
「でもさ、そうじゃない? 妖怪って人を怖がらせるのが本分な訳でしょ? 怖がらせられなかったら、存在意義が薄れない?」
「はい、そうです……私は存在する意味のにゃい、路傍のごみのようにゃ妖怪でございます……すみません……」
「思ったより傷が深い……」
 自分で落ち込ませといてなんだが、正直面倒臭かった。
 面倒臭いが、このまま放っておくとより面倒臭いことになりそうだ。
 さっさと励まして、仕切りなおそう。
「怖がらせることだけが妖怪の役目ってわけではにゃいんだが、まあ、難しい(はにゃし)は別の機会にするにゃ。今の俺には、難しいことはわかんにゃいからにゃ」
 と、案外すぐに立ち直ったにびは、よくわからないことを言って、こう続けた。
「結論から言うと、存在意義はあるにゃ」
「それはどうして?」
花那(かにゃ)が俺の存在に意義を見出しているからにゃ」
「私が?」
「そうにゃ。花那(かにゃ)が俺という存在を認識して、解釈して、意味付けしているのにゃ。つまり、花那(かにゃ)が怖くにゃい俺を望んでいる。だからそういう風になるにゃ。妖怪は人間の期待に応えるものだからにゃ」
「はあ……」
 よくわからないが、つまりは私の望んだものが今、私の目の前にあるということだろうか。
「じゃあ、あなたが妙にふりふりなエプロンを着けているのも、そういう事なの?」
「そういうことにゃ」
 なるほど。
 家事ができないのになぜエプロンを着けているのかと疑問に思っていたのだが、やっと納得がいった。
 私がそういう風に待っていて欲しいと思ったから、そうなった。
 ということだろう。
 しかし、納得がいかないこともあった。
「は? 待って。じゃあなんで猫耳が生えてないの?」
「え、にゃんでキレてるにゃ?」
「だっておかしいよ! これまでさんざん猫娘のように振る舞っておいて、実は猫耳ついてませんでしたーなんて、そんなの納得できるか! 猫耳のついてない猫娘なんて、イチゴの乗ってないショートケーキみたいなもんだ! 馬鹿にするもの大概にしろ!」
「意味わかんにゃい怒られ方したにゃ! こいつ怖いにゃ! えーん!」
「あまり人間を舐めるなよ!」
 妖怪相手に理不尽な怒りをぶつけて泣かせた挙句、馬鹿みたいな台詞で追い打ちをかける大人の姿が、そこにはあった。
 ていうか私だった。
 普通に悪い人だ。
「ごめん、ついかっとなってしまって……」
「ぐすっ、うん……大丈夫……」
 明らかに大丈夫じゃなさそうだった。
 マンションの一室で、人間が妖怪に怯えられている奇怪(きっかい)な図が繰り広げられていた。
 この流れはよくない。
 そうだ。話題を変えよう。
「ほーら、にびちゃん。にびちゃんの大好きなかつおぶしだよー」
 私は削りぶしの入ったパックをキッチンから取ってきて、にびに見せる。
「かつぶし?!」
 それを目にした途端、にびは打って変わって元気になり「くれにゃ~」と言いながら、細い身体を私の足にすり寄せてくる。
 うわぁ……。
 なんだろう、この罪悪感。
 結局、悪いことをしている気がする。
 妖怪相手に悪いことをしている気がする。
「ほら、ちょっと待って」
 背を刺すような罪の意識を強烈に感じながら、興奮しているにびを座らせて、小皿にかつおぶしを盛る。
 にびの顔は「もう待てない」と言っていた。
「どうぞ」
 と、私が言い切る前に、にびは皿に顔を突っ込んでいた。
 ぼふっと、かつおぶしが舞う。
 しかし、にびはそんなのお構いなしで、ちゃつちゃつと音を立てながら美味しそうに食べ始めた。
「で、結局、なんで猫耳が付いてないの? 私の望み通りっていうなら、生えてないとおかしいと思うんだけど」
 周りに飛び散ったかつおぶしを拾い集めながら、改めて訊いてみると、にびはかつおぶしまみれの顔で答えてくれる。
「期待を裏切ることもまた妖怪だからにゃ。それに、ちと難しいかもしれにゃいが、決して俺は花那(かにゃ)の望みを(かにゃ)えているわけじゃにゃいんだにゃ」
「そうなの?」
「うん」
 なるほど。
 思ったよりも複雑だ。
 うーん……。
「じゃあつまり、にびは私の期待する心に反応するってこと?」
「そうかもしれにゃいし、そうじゃにゃいかもしれにゃい」
「はっきりしないわね」
「はっきりしにゃいのが妖怪にゃ」
「そっか。まあ、それもそうね」
 納得した、というよりかは諦めに近かった。
 あまり深く考えてもしょうがないことのような気がしたのだ。
 なにせ、にびはこの世の(ことわり)から外れた存在なのだ。常識で考えていたって、全てを理解できるはずはないだろう。
 とりあえず今は、私の思いが形になる場合もある。そんな程度の認識でいよう。
 しかしまあ、こうして一心不乱にかつおぶしを食べるにびを見て、改めて思うのは――
「本当に化け猫なの?」
 ということだけだ。
「そんにゃに信じられにゃいのにゃ?」
「まあ、そういうことになるね」
 私は素直に答える。
「そうかそうか、そんにゃに信じられにゃいと言うのにゃら、特別に俺の秘密を教えてやるにゃ」
「秘密?」
「そう、秘密にゃ。あえて言うなら――俺のアイデンティティにゃ」
 と、どこかで聞いたことあるような前置きをして、にびが口にしたのは、にびを化け猫たらしめる、ある秘密――。
「俺は忘れられにゃいのにゃ」
 ぺろりと、口に付いたかつおぶしを舐めとって、にびは言った。

「人間の血の味が忘れられにゃいのにゃ」

 けけっ、と。猫が卑しく笑った。



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 所長に言われた通り、間違いなく戸締りをしてから事務所を出た。
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「ま……」
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 数日前、ひょんなことからベランダでぼろぼろの子猫を拾って、家で介抱することになった。
 その猫は体中に縄で縛られたような傷があり、前足の骨も二本とも折れているという実にひどい状態だったのだが、簡単な治療を施すとみるみるうちに怪我が治っていき、三日後には全快に至っていた。
 普通に普通じゃない。
 明らかに生物として度を越した異様な回復力だったが、普通じゃないのはそれだけではなかった。
 初めは子猫ほどの大きさだった身体が、傷が治る頃には成猫の大きさにまで成長していて、さらにその三日後には中型犬ほどの大きさになっていたのだ。
 本当に信じられない。
 まさか、さらにその三日後、つまりは一昨日の朝、その猫が人間の女性の姿になっていたなんて――
「マタタビなんてコンビニで買えるわけないでしょ。ていうか、その問いかけの仕方は、ご飯を作って風呂も沸かして待ってる人の問いかけだ」
 と、私が突っ込んでいる間にも、そいつは私が持っているレジ袋に夢中で少しも聞いちゃいない。
 まあ、どうでもいいけど。
 私はレジ袋とそいつを置いて、ひとりリビングへと向かった。
 バッグと上着をベッドの上に放り投げて、自分も仰向けに倒れ込む。
 頭の上で起動したスマホの待ち受け画面には、所長――芒野ヨウ子の写真が映されている。
 それをうっとりと見つめて、彼女の言葉を|反芻《はんすう》する。
「恋人はつくらない主義なんだ…………うわぁああああああああーっ、好きぃいいいいーっ!」
 もうスマホに口づけせんとする勢いだった。
 そこへ――
「にゃにを叫んでいるのにゃ?」
 ぬっ、と。
 音も気配もなく、気が付いたらそいつが隣にいた。
「うわっ!」
 驚きのあまり私はスマホを取り落としてしまう。
「びっくりした。足音もなく近づかないでよ……」
「忍び足は猫の|十八番《おはこ》にゃ」
 と、そいつは悪びれる様子もなくそう言って、床に落ちたスマホを覗き込んだ。
「ん? こいつのことが好きにゃのか?」
「え! あ、その……す、好きっていうか……、その……まあ、うん……」
「ふーん」
 かなり興味なさげだ。
「聞いといて何よその反応は」
「いや、まあ、ニンゲンが誰を好きににゃろうと俺には関係にゃいが、この|女《おんにゃ》はやめといた方がいいと思うにゃ」
「え、どうして?」
「にゃんでもにゃ」
「なんでもって、全然理由になってないけど……」
 と、追及してみるが、そいつはあくまで譲らなかった。
「にゃんでもはにゃんでもにゃ。そんにゃことより、この写真はにゃんだか怪しいにゃ。もしかして盗撮っていうやつにゃ?」
「人聞きの悪いことを言わないでよ! これは宣伝用に頼んで撮らせてもらった写真だよ!」
「にゃるほどにゃるほど、よくわかったにゃ。つまり、お前は自分のスマホを見せて宣伝してるってことにゃ」
「ぐっ……」
 痛いところを突かれて、私は何も言い返すことができない。
「ひひ、怖いにゃ〜、怖いにゃ〜。人間とは恐ろしい生き物だにゃ〜」
 けけっ、と。
 そいつは卑しく笑う。
「わかったわかった、わかりました。認めます。私は宣伝用に撮った写真を無許可で待ち受けに設定しています。でもね、いい? 人間の怖さはね、こんなもんじゃないんだよ」
「じゃあ、どんにゃもんにゃのにゃ?」
「いいよ、お手本を見せてあげる」
「よろしくにゃ」
 私はあえて長めに間を置いて、|努《つと》めておどろおどろしく言った。
「所長の吸ったたばこの吸殻なら食べれる」
「怖さより心配が勝つにゃ」
 そうか、ならば。
「所長の一日履いた靴下で人形が作れる」
「手先が器用にゃ。すごいにゃ」
 褒められてしまった!
「いやだ! こんなことで褒められたくない!」
「さっきからうるさいやつにゃ。そんにゃに騒いで、部屋を追い出されても知らにゃいぞ」
「そうだよ! 誰のせいで追い出されそうになってると思っているんだ!」
「お前にゃ」
「お前だよっ!」
「にゃにゃっ!? 今、俺のことを『お前』って言ったにゃ!?」
「そうだよ! お前のことだ! お前以外に誰がいるんだ!」
「に゛ゃーっ! 二回も『お前』って言ったにゃ! 許せにゃいにゃ! 俺はすっごく偉いんだぞ!」
「知るか! お前だって、私のことを『お前』って言っただろ!」
「あーっ! また『お前』って言ったにゃ!」
 ふしゃーっ!
 と、そいつは牙をむき出しにして、本気で|威嚇《いかく》の体勢を取る。
 怖い。本気で怖い。
「わかったわかった! ごめん、ごめんって! じゃあ、なんて呼べばいいのよ!」
 と、半ばやけになって問うと、そいつは急に大人しくなって呟くように言う。
「…………にび」
「えっ?」
「にび! 俺の|名前《にゃまえ》は『にび』にゃ!」
「そ、そうなんだ……」
「うん……」
「…………」
「…………」
 えっ、なにこの空気。
 なんか、気まずい……。
 どうしよう。
 社交的なタイプじゃないから、こんなときどうすればいいのかわからない……。
 ご趣味とか訊いた方がいいのかしら……。
 なんて、初対面のときのような緊張感を味わっていると、にびの方から切り出してくれる。
「俺は言ったにゃ。ニンゲンの|名前《にゃまえ》を教えろにゃ」
「え、あ、うん……。私は『|花那《かな》』……、『|小毬《こまり》|花那《かな》』って言います……よろしく……」
「かにゃ」
「う、うん……?」
「言いづらいにゃ……」
「ごめん……」
 こればっかりはしょうがない。
 誰も悪くないからな。
 とりあえず、(今更すぎるが)自己紹介も済んだことだし、さっさと仲直りして一緒に晩御飯を食べることにした。
「ていうか、あなたは黒猫なのに『にび』って名前なのね」
 コンビニで買ってきた弁当を電子レンジで温めながら、隣にいるにびに問いかける。
「にゃ? 『にび』ってどういう意味にゃ?」
 と、純粋な疑問を表現した顔で、にびが私の顔を覗きこむ。
 自然、私の視線は、目の前の大きな二つの瞳に吸い込まれた。
 それはまるで薄雲がかった満月のように、透明感のある灰色に澄んでいた。
 私はその美しさに思わず目を奪われ、合点がいく。
(なるほど。そういうことか……)
 たしかに、お似合いの名前だった。
 うんうんと、ひとり首を縦に振って納得する私に、にびが|焦《じれ》ったそうにする。
「にゃににやにやしてるのにゃ。きもいにゃ。早く意味を教えろにゃ」
「えっ、な、なに? なんて言った?」
「早く意味を教えろって言ったんだにゃ!」
「違う違う、その前だよその前!」
「その前? えっと……、きもいにゃ」
「う゛っ……!」
 思わぬ傷を負った。
「違う! もっと前だよ!」
「もっと前……、にゃににやにやしてるのにゃ?」
「もう一回言って」
「にゃににやにやしてるのにゃ!」
「やーだーっ! かーわーいーいぃーっ!」
 あまりのにゃんにゃん具合に、思わず叫んでしまう私だった。
「えっ、にゃに? にゃんにゃの?」
 にびは、困惑していた。
 ていうか、引いていた。
「リピートアフターミー」
「英語はわからにゃいにゃ」
「ご唱和ください」
「歌うのにゃ?」
 違う、間違えた。
「今から言う私の言葉を繰り返して」
「う、うん?」
「斜め左隣りの七草粥ことナナセ君は軟弱ななりをしているがなかなかどうしてナンパが上手い」
「にゃに言ってんだ?」
「う゛っ……!」
 諸君は知っているだろうか。
 純粋な疑問は、時として罵倒よりも心をえぐるということを。
「さっきから誰に言ってるのにゃ?」
「モノローグを読むな! え、てか、これ見えてるの!?」
「いや、ぶつぶつと口に出してたにゃ」
「なんだ、よかった~」
 心が読まれているのかと思って、不安になっちゃったよ。
 心配して損したわ。
「ちにゃみに、俺の趣味は将棋にゃ」
「うそ!? 私そんなに口に出てるの!?」
 全然よくなかった!
 むしろ心を読まれるより心配になる!
「私、無意識にひとりでぶつぶつ喋ってるんだ……」
「妖怪の俺よりよっぽど怪しいにゃ」
「うわぁー! 妖怪のお墨付きだー!」
 と。
 変な部分を認められたところで、電子レンジが小気味よい音を鳴らした。
 扉を開けると、弁当からもくもくと湯気が上がっている。
 悩み事も食欲の前では|些細《ささい》なもので、温められた弁当を見たら、全てがどうでもよくなった。
 我ながら単純すぎて、これはこれで心配になるが、しかしまあ、とりあえず考えるのは食べてからでも遅くないだろう。
 私はあつあつの弁当を持って、リビングのローテーブルに着く。
 にびの前にはツナ缶を用意した。
 手を合わせて。
 いただきます。
「ていうかさ、趣味が将棋って渋すぎない? 化け猫らしさゼロなんだけど」
「にゃにおう。俺は立派に立派にゃ化け猫にゃ」
 にびは、えへんと胸を張る。
「じゃあさ、試しに化け猫らしいこと言ってみてよ」
「|ツナ《つにゃ》缶の油がいちばん旨い」
「たしかに言いそうで突っ込みづらい」
 化け猫を対象にアンケートをとったら、半数以上がそう答えそうだ。
 統計がとれるほど化け猫がいたら嫌だけども。
 しかしまあ――
「なんかさ、にびって本当に怖くないよね」
「そうにゃのか?」
「うん。もう少し妖怪としての自覚を持った方がいいんじゃない?」
「ちくちく言葉だにゃ……」
 妖怪だって|涙《にゃみだ》は出るにゃ……。
 と、部屋の隅でしゅんと小さくなる化け猫。
 妖怪も落ち込むことあるんだ……。
 ごめんごめん。
 しかし、私は思ったままの疑問を口にした。
「でもさ、そうじゃない? 妖怪って人を怖がらせるのが本分な訳でしょ? 怖がらせられなかったら、存在意義が薄れない?」
「はい、そうです……私は存在する意味のにゃい、路傍のごみのようにゃ妖怪でございます……すみません……」
「思ったより傷が深い……」
 自分で落ち込ませといてなんだが、正直面倒臭かった。
 面倒臭いが、このまま放っておくとより面倒臭いことになりそうだ。
 さっさと励まして、仕切りなおそう。
「怖がらせることだけが妖怪の役目ってわけではにゃいんだが、まあ、難しい|話《はにゃし》は別の機会にするにゃ。今の俺には、難しいことはわかんにゃいからにゃ」
 と、案外すぐに立ち直ったにびは、よくわからないことを言って、こう続けた。
「結論から言うと、存在意義はあるにゃ」
「それはどうして?」
「|花那《かにゃ》が俺の存在に意義を見出しているからにゃ」
「私が?」
「そうにゃ。|花那《かにゃ》が俺という存在を認識して、解釈して、意味付けしているのにゃ。つまり、|花那《かにゃ》が怖くにゃい俺を望んでいる。だからそういう風になるにゃ。妖怪は人間の期待に応えるものだからにゃ」
「はあ……」
 よくわからないが、つまりは私の望んだものが今、私の目の前にあるということだろうか。
「じゃあ、あなたが妙にふりふりなエプロンを着けているのも、そういう事なの?」
「そういうことにゃ」
 なるほど。
 家事ができないのになぜエプロンを着けているのかと疑問に思っていたのだが、やっと納得がいった。
 私がそういう風に待っていて欲しいと思ったから、そうなった。
 ということだろう。
 しかし、納得がいかないこともあった。
「は? 待って。じゃあなんで猫耳が生えてないの?」
「え、にゃんでキレてるにゃ?」
「だっておかしいよ! これまでさんざん猫娘のように振る舞っておいて、実は猫耳ついてませんでしたーなんて、そんなの納得できるか! 猫耳のついてない猫娘なんて、イチゴの乗ってないショートケーキみたいなもんだ! 馬鹿にするもの大概にしろ!」
「意味わかんにゃい怒られ方したにゃ! こいつ怖いにゃ! えーん!」
「あまり人間を舐めるなよ!」
 妖怪相手に理不尽な怒りをぶつけて泣かせた挙句、馬鹿みたいな台詞で追い打ちをかける大人の姿が、そこにはあった。
 ていうか私だった。
 普通に悪い人だ。
「ごめん、ついかっとなってしまって……」
「ぐすっ、うん……大丈夫……」
 明らかに大丈夫じゃなさそうだった。
 マンションの一室で、人間が妖怪に怯えられている奇怪《きっかい》な図が繰り広げられていた。
 この流れはよくない。
 そうだ。話題を変えよう。
「ほーら、にびちゃん。にびちゃんの大好きなかつおぶしだよー」
 私は削りぶしの入ったパックをキッチンから取ってきて、にびに見せる。
「かつぶし?!」
 それを目にした途端、にびは打って変わって元気になり「くれにゃ~」と言いながら、細い身体を私の足にすり寄せてくる。
 うわぁ……。
 なんだろう、この罪悪感。
 結局、悪いことをしている気がする。
 妖怪相手に悪いことをしている気がする。
「ほら、ちょっと待って」
 背を刺すような罪の意識を強烈に感じながら、興奮しているにびを座らせて、小皿にかつおぶしを盛る。
 にびの顔は「もう待てない」と言っていた。
「どうぞ」
 と、私が言い切る前に、にびは皿に顔を突っ込んでいた。
 ぼふっと、かつおぶしが舞う。
 しかし、にびはそんなのお構いなしで、ちゃつちゃつと音を立てながら美味しそうに食べ始めた。
「で、結局、なんで猫耳が付いてないの? 私の望み通りっていうなら、生えてないとおかしいと思うんだけど」
 周りに飛び散ったかつおぶしを拾い集めながら、改めて訊いてみると、にびはかつおぶしまみれの顔で答えてくれる。
「期待を裏切ることもまた妖怪だからにゃ。それに、ちと難しいかもしれにゃいが、決して俺は|花那《かにゃ》の望みを|叶《かにゃ》えているわけじゃにゃいんだにゃ」
「そうなの?」
「うん」
 なるほど。
 思ったよりも複雑だ。
 うーん……。
「じゃあつまり、にびは私の期待する心に反応するってこと?」
「そうかもしれにゃいし、そうじゃにゃいかもしれにゃい」
「はっきりしないわね」
「はっきりしにゃいのが妖怪にゃ」
「そっか。まあ、それもそうね」
 納得した、というよりかは諦めに近かった。
 あまり深く考えてもしょうがないことのような気がしたのだ。
 なにせ、にびはこの世の|理《ことわり》から外れた存在なのだ。常識で考えていたって、全てを理解できるはずはないだろう。
 とりあえず今は、私の思いが形になる場合もある。そんな程度の認識でいよう。
 しかしまあ、こうして一心不乱にかつおぶしを食べるにびを見て、改めて思うのは――
「本当に化け猫なの?」
 ということだけだ。
「そんにゃに信じられにゃいのにゃ?」
「まあ、そういうことになるね」
 私は素直に答える。
「そうかそうか、そんにゃに信じられにゃいと言うのにゃら、特別に俺の秘密を教えてやるにゃ」
「秘密?」
「そう、秘密にゃ。あえて言うなら――俺のアイデンティティにゃ」
 と、どこかで聞いたことあるような前置きをして、にびが口にしたのは、にびを化け猫たらしめる、ある秘密――。
「俺は忘れられにゃいのにゃ」
 ぺろりと、口に付いたかつおぶしを舐めとって、にびは言った。
「人間の血の味が忘れられにゃいのにゃ」
 けけっ、と。猫が卑しく笑った。