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2.禁忌の解放

ー/ー



 地上に戻ると、さっきの泥のようなものが通った道筋が、すっかり枯れ朽ちた草木によってくっきりと出来上がっていた。泥のようだと思ったものは、月明りの下で見ると、赤黒い粘液のように見えた。


「何故だ……何故これ(・・)が目覚めている……?! とにかく下がれ、皆の者ッ!」


 家の者たちも、この(おぞ)ましい気配を感じないはずがない。父様を先頭に、皆が裏庭に出てきていた。桜の木の根元から出てきたわたしたちに気付いた父様は、息を呑む音が聞こえるほどに目を見開いて、言葉もなく(かす)かに口元を震わせていた。


「ご覧よ、志岐(しき)郁夜(かぐや)。あれが志岐家が必死に隠してきた罪だ。己の利権のために一族の者を箱に詰め、地下に封印したのさ」


 あの赤黒い泥は、確かに亡者の成れの果て、(かくり)だ。肉体を失った魂魄(こんぱく)が何らかの理由でこの世に留まったもの。でもそれは、自然的に発生するものだ。人為的に作ったなんて話、聞いたことがない。いや、聞かせなかったのか? この事実を伏せるために、勘付かせないように、あえて知らされなかったのだろうか。考えれば考えるほど、何もかもが疑わしくなってくる。


「お前、この街から出たことあるか?」


 不意に、彼がわたしに尋ねる。


「いや、ない、けど……」


 自分で言うのも恥ずかしいが、わたしは箱入り娘として丁重に育てられた。まるでガラス細工でも扱うみたいに大事にされ過ぎて、危ないことはさせてもらえない、目の届かないところへは行かせてもらえない。そんな生活を送っていた。だけれどそれも、わたしにあの幽の存在を気付かせないためだったのだろうか。


「一度街の外からこの街を見てみるといい。そうすれば、この街の異質さに嫌でも気付くはずだ。そしてその異質さを作り上げているのが……」


「あの幽、ってこと……?」


 わたしの答えに、彼は満足そうに頷く。


 わたしだって志岐家の人間だ。家の悪行をみすみす信じたくはない。それは違うと言いたい。でもこの現実を見せられては、わたしの頭では何を信じていいのか正常な判断ができそうにはなかった。


「貴様が封印を解いたのか! 何てことをしてくれる!」


 父様の怒鳴り声で、(ほう)けていたわたしははっと我に返る。呑気(のんき)に話している場合じゃない。まずはあの幽をどうにかしないと。


「封印を解いたのは俺じゃない。一族の者しかあの封印を解けないのは、あんたも知ってるだろう? 解いたのは次期当主様さ」


「知れたこと。貴様が言いくるめたのだろう? 私の娘がそんな愚かな真似をするはずがない。こんなことをして、何が目的だ?」


 呑気に話している場合じゃないはずなのに、わたしの脇に立つ男と父様は嫌味を言い合っている。
 こんなことをしている間に幽に動きはないのか目を向けてみると、赤黒い泥の塊から人間の手や足や顔のパーツやらが浮き出てきている。ただ貼り付けただけの無造作な工作のように、通常の人のあるべき形を保ってなどいない、まさに異形と呼ぶべき存在へと成り果てていた。


 離れ離れになったそれぞれの目玉で父様の方とこちらとをそれぞれ視界に収めた幽は、狙いを付けたように父様の方へ一心不乱に進みだす。無造作に生えた腕や足を使い、クモのような恰好になってじたばたと這い回りながら向かっていく。
 この幽は両方を確認した結果、この男よりも父様の方が弱いと判断したのだろうか。


「皆、下がれ!」


 父様が後ろに控えていた家の者に逃げの指示を出す。父様以外では到底手に負えないと判断してのことだろう。その様子に、わたしの隣の男は意地の悪い笑みを浮かべていた。


「さて、志岐家当主のお手並み拝見といこうか」


 父様が向かってくる幽に対して手のひらを向け、何かを呟いた。


(きよ)らかにして(しず)めの(ほむら)よ、焼き(はら)(たま)え」


 すると、父様の手のひらにぼんやりとした何かが浮かぶ。ゆらゆらと揺らめくそれは、陽炎(かげろう)のように、こちらから見える父様の姿を歪めていた。熱か何かが発生しているのだろうか。


 父様がその手で幽を受け止めると、幽は苦しそうに飛び退()いて、父様の手のひらが触れた箇所をしきりに振り回していた。やはり父様の手のひらから何かが出ていたんだろう。そしてそれが、幽にとっては嫌なものだったのだ。


 今度は幽の方が、生えている腕の一つを伸ばして父様の足を掴んだ。こちらも触れた途端、父様の足から煙が上がり、父様は苦しそうにそれを振り払う。
 父様の方は、掴まれた左足首を庇うようにしてその場に(ひざまず)いてしまった。触れられた箇所の痛み方を見れば、どちらかと言えば、幽の方が優勢に見える。父様はこれ以上、幽に触れられるわけにはいかないだろう。


「父様、大丈夫ですか!?」


 わたしが駆け寄ろうとすると、父様は手のひらを向けてそれを制した。


「下がっていろと言っただろう! お前も例外ではない!」


「ですが、わたしだって次期当主という身です。皆をこの背に守る責務があるはずです!」


「いいや、お前はあれに近づいてはならん!」


 (かたく)なにわたしが手を貸すのを拒もうとする父様。どう見ても、このままでは父様は死んでしまう。わたしはただそれを見ていろと言うのだろうか。そんなことができるとでも言うのだろうか。


「ここで当主と次期当主を一度に失うわけにいかないだろ。察してやれ」


 横にいた男がそう冷たく言い放つので、わたしはそれに食ってかかる。わたしと父様はあの幽を(はら)うことができずにここで死ぬと勝手に決めつけているのが、無性に腹立たしかったのだ。


「なら、アンタがあれをどうにかしなさいよ。大体、あれを目覚めさせたのはアンタでしょ?」


「別に構わないが、相応の報酬はもらいたいものだな。祓霊師(ふつれいし)とはそういう仕事だろう?」


 父様がこんなに苦戦しているというのに、どうしてこんなに余裕そうなのだろう、この男は。それがどうも(しゃく)(さわ)り、できるものならやってみろと、そんな挑戦的な気持ちで、わたしは彼のこの要求を()んでしまった。


「わかったわよ。ちゃんと報酬も払うから、あれを何とかしなさい」


「いいだろう。その言葉、忘れるなよ」


 言ってしまってから気付いた。これは悪魔の契約だ。迂闊(うかつ)に取引をするべきじゃなかった。
 父様でも苦戦するのだから、こんな若い男がこの幽を祓えるわけがない。そう勝手に決めつけていた。でも、彼の余裕は崩れない。ゆっくりと幽に歩み寄っていく。
 出てしまった言葉は今更取り消せるわけがない。わたしの言葉は次期当主の言葉。わたし自身が思っている以上に重い意味を持つ。わたしはそれを、まだきちんと自覚していなかった。


 男に気付いて向かってくる赤黒い泥が、男を丸呑みにするように覆い被さった。その光景に、彼の身を案じて胸がざわつくような、それでいてどこかほっとしたような、複雑な思いを抱いてしまう。
 しかし刹那のうちに、その思いは真逆のものへと変わる。
 男を呑み込んだはずの幽が、()ぜるようにして瞬く間に消滅したのだ。


「ど、どういう絡繰りだ!? 本当に祓ったのか?!」


 父様が狼狽(うろた)えるのも無理はない。わたしだって半信半疑だ。でもさっきまでの嫌な気配は完全に消えている。それはつまり、幽の気配が消えているということに他ならない。とても信じ難いが、彼がこの一瞬であれを祓ったのは、疑いようのない事実なのだ。


「さて、報酬についてだが……」


 にやりとした彼がそう口にして、わたしは先ほどまでとは違う理由での嫌な汗が出始める。
 しかし彼は、わたしから視線を外して父様の方へと向き直った。


「その前に、一つ明らかにしておかないといけないよなぁ。あの幽を隠してきた本当の理由を。祓えなかったから封印した、なんてのは嘘だよな? 当代の当主では祓えなかったのかもしれないが、それならそれで、祓える者に依頼するのが筋というもの。志岐家のプライドがそれを許さなかったんだとしたら、そのちっぽけなプライドのためにこの街全体を脅威に(さら)したわけだが……どうなんだ?」



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 地上に戻ると、さっきの泥のようなものが通った道筋が、すっかり枯れ朽ちた草木によってくっきりと出来上がっていた。泥のようだと思ったものは、月明りの下で見ると、赤黒い粘液のように見えた。
「何故だ……何故|これ《・・》が目覚めている……?! とにかく下がれ、皆の者ッ!」
 家の者たちも、この|悍《おぞ》ましい気配を感じないはずがない。父様を先頭に、皆が裏庭に出てきていた。桜の木の根元から出てきたわたしたちに気付いた父様は、息を呑む音が聞こえるほどに目を見開いて、言葉もなく|微《かす》かに口元を震わせていた。
「ご覧よ、|志岐《しき》|郁夜《かぐや》。あれが志岐家が必死に隠してきた罪だ。己の利権のために一族の者を箱に詰め、地下に封印したのさ」
 あの赤黒い泥は、確かに亡者の成れの果て、|幽《かくり》だ。肉体を失った|魂魄《こんぱく》が何らかの理由でこの世に留まったもの。でもそれは、自然的に発生するものだ。人為的に作ったなんて話、聞いたことがない。いや、聞かせなかったのか? この事実を伏せるために、勘付かせないように、あえて知らされなかったのだろうか。考えれば考えるほど、何もかもが疑わしくなってくる。
「お前、この街から出たことあるか?」
 不意に、彼がわたしに尋ねる。
「いや、ない、けど……」
 自分で言うのも恥ずかしいが、わたしは箱入り娘として丁重に育てられた。まるでガラス細工でも扱うみたいに大事にされ過ぎて、危ないことはさせてもらえない、目の届かないところへは行かせてもらえない。そんな生活を送っていた。だけれどそれも、わたしにあの幽の存在を気付かせないためだったのだろうか。
「一度街の外からこの街を見てみるといい。そうすれば、この街の異質さに嫌でも気付くはずだ。そしてその異質さを作り上げているのが……」
「あの幽、ってこと……?」
 わたしの答えに、彼は満足そうに頷く。
 わたしだって志岐家の人間だ。家の悪行をみすみす信じたくはない。それは違うと言いたい。でもこの現実を見せられては、わたしの頭では何を信じていいのか正常な判断ができそうにはなかった。
「貴様が封印を解いたのか! 何てことをしてくれる!」
 父様の怒鳴り声で、|呆《ほう》けていたわたしははっと我に返る。|呑気《のんき》に話している場合じゃない。まずはあの幽をどうにかしないと。
「封印を解いたのは俺じゃない。一族の者しかあの封印を解けないのは、あんたも知ってるだろう? 解いたのは次期当主様さ」
「知れたこと。貴様が言いくるめたのだろう? 私の娘がそんな愚かな真似をするはずがない。こんなことをして、何が目的だ?」
 呑気に話している場合じゃないはずなのに、わたしの脇に立つ男と父様は嫌味を言い合っている。
 こんなことをしている間に幽に動きはないのか目を向けてみると、赤黒い泥の塊から人間の手や足や顔のパーツやらが浮き出てきている。ただ貼り付けただけの無造作な工作のように、通常の人のあるべき形を保ってなどいない、まさに異形と呼ぶべき存在へと成り果てていた。
 離れ離れになったそれぞれの目玉で父様の方とこちらとをそれぞれ視界に収めた幽は、狙いを付けたように父様の方へ一心不乱に進みだす。無造作に生えた腕や足を使い、クモのような恰好になってじたばたと這い回りながら向かっていく。
 この幽は両方を確認した結果、この男よりも父様の方が弱いと判断したのだろうか。
「皆、下がれ!」
 父様が後ろに控えていた家の者に逃げの指示を出す。父様以外では到底手に負えないと判断してのことだろう。その様子に、わたしの隣の男は意地の悪い笑みを浮かべていた。
「さて、志岐家当主のお手並み拝見といこうか」
 父様が向かってくる幽に対して手のひらを向け、何かを呟いた。
「|浄《きよ》らかにして|鎮《しず》めの|焔《ほむら》よ、焼き|祓《はら》い|給《たま》え」
 すると、父様の手のひらにぼんやりとした何かが浮かぶ。ゆらゆらと揺らめくそれは、|陽炎《かげろう》のように、こちらから見える父様の姿を歪めていた。熱か何かが発生しているのだろうか。
 父様がその手で幽を受け止めると、幽は苦しそうに飛び|退《の》いて、父様の手のひらが触れた箇所をしきりに振り回していた。やはり父様の手のひらから何かが出ていたんだろう。そしてそれが、幽にとっては嫌なものだったのだ。
 今度は幽の方が、生えている腕の一つを伸ばして父様の足を掴んだ。こちらも触れた途端、父様の足から煙が上がり、父様は苦しそうにそれを振り払う。
 父様の方は、掴まれた左足首を庇うようにしてその場に|跪《ひざまず》いてしまった。触れられた箇所の痛み方を見れば、どちらかと言えば、幽の方が優勢に見える。父様はこれ以上、幽に触れられるわけにはいかないだろう。
「父様、大丈夫ですか!?」
 わたしが駆け寄ろうとすると、父様は手のひらを向けてそれを制した。
「下がっていろと言っただろう! お前も例外ではない!」
「ですが、わたしだって次期当主という身です。皆をこの背に守る責務があるはずです!」
「いいや、お前はあれに近づいてはならん!」
 |頑《かたく》なにわたしが手を貸すのを拒もうとする父様。どう見ても、このままでは父様は死んでしまう。わたしはただそれを見ていろと言うのだろうか。そんなことができるとでも言うのだろうか。
「ここで当主と次期当主を一度に失うわけにいかないだろ。察してやれ」
 横にいた男がそう冷たく言い放つので、わたしはそれに食ってかかる。わたしと父様はあの幽を|祓《はら》うことができずにここで死ぬと勝手に決めつけているのが、無性に腹立たしかったのだ。
「なら、アンタがあれをどうにかしなさいよ。大体、あれを目覚めさせたのはアンタでしょ?」
「別に構わないが、相応の報酬はもらいたいものだな。|祓霊師《ふつれいし》とはそういう仕事だろう?」
 父様がこんなに苦戦しているというのに、どうしてこんなに余裕そうなのだろう、この男は。それがどうも|癪《しゃく》に|障《さわ》り、できるものならやってみろと、そんな挑戦的な気持ちで、わたしは彼のこの要求を|呑《の》んでしまった。
「わかったわよ。ちゃんと報酬も払うから、あれを何とかしなさい」
「いいだろう。その言葉、忘れるなよ」
 言ってしまってから気付いた。これは悪魔の契約だ。|迂闊《うかつ》に取引をするべきじゃなかった。
 父様でも苦戦するのだから、こんな若い男がこの幽を祓えるわけがない。そう勝手に決めつけていた。でも、彼の余裕は崩れない。ゆっくりと幽に歩み寄っていく。
 出てしまった言葉は今更取り消せるわけがない。わたしの言葉は次期当主の言葉。わたし自身が思っている以上に重い意味を持つ。わたしはそれを、まだきちんと自覚していなかった。
 男に気付いて向かってくる赤黒い泥が、男を丸呑みにするように覆い被さった。その光景に、彼の身を案じて胸がざわつくような、それでいてどこかほっとしたような、複雑な思いを抱いてしまう。
 しかし刹那のうちに、その思いは真逆のものへと変わる。
 男を呑み込んだはずの幽が、|爆《は》ぜるようにして瞬く間に消滅したのだ。
「ど、どういう絡繰りだ!? 本当に祓ったのか?!」
 父様が|狼狽《うろた》えるのも無理はない。わたしだって半信半疑だ。でもさっきまでの嫌な気配は完全に消えている。それはつまり、幽の気配が消えているということに他ならない。とても信じ難いが、彼がこの一瞬であれを祓ったのは、疑いようのない事実なのだ。
「さて、報酬についてだが……」
 にやりとした彼がそう口にして、わたしは先ほどまでとは違う理由での嫌な汗が出始める。
 しかし彼は、わたしから視線を外して父様の方へと向き直った。
「その前に、一つ明らかにしておかないといけないよなぁ。あの幽を隠してきた本当の理由を。祓えなかったから封印した、なんてのは嘘だよな? 当代の当主では祓えなかったのかもしれないが、それならそれで、祓える者に依頼するのが筋というもの。志岐家のプライドがそれを許さなかったんだとしたら、そのちっぽけなプライドのためにこの街全体を脅威に|晒《さら》したわけだが……どうなんだ?」