藤城皐月が家に帰ると、母の
小百合と住み込みの
及川頼子がお座敷に出る準備をしていた。
芸妓にとって金曜日は毎週のようにお座敷が入る書き入れ時だ。この日は芸妓が足りないのか、頼子も急遽お座敷に出ることになったようだ。
「皐月、あんたには悪いけど、今日は一人で夕飯を食べてもらうね」
懐かしい言われ方だった。今は頼子も
祐希も一緒に住んでいるのでこのような言われ方をしない。一人で夕食をとるということは、祐希の帰りが遅くなるということだ。皐月は頼子に祐希のことを確かめた。
「頼子さんもお座敷になったんだね。祐希って帰りが遅いんだ」
「私がお座敷に出るってメッセージを送ったら、外で晩御飯を食べてくるんだって。ごめんね、皐月ちゃんのこと一人にさせちゃって」
「別に俺はいいけど。それに晩飯だったら何か買って食べてもいいし、自分で作ったっていいし。たまにジャンクな物を食べたくなっちゃうんだよね。だから気にしないで、頼子さん」
皐月は独りで夕食を食べろと言われ、チャンスだと喜んだ。真理と一緒にいられる時間が長くなる。その浮き立つ気持ちを紛らせるために皐月は頼子を安心させる話をひねり出した。
「皐月、あんたジャンクな物って何を食べるつもりの?」
「え〜っ、例えば菓子パンとか、カップ麺とか……。そういうのって昔よく食べてたからさ、ときどき無性に食べたくなるんだよね」
「じゃあ食事代は500円もあればいいわね」
「うわっ、いつもの半額かよ!」
そんなつもりはなかったが、ジャンクフードの話をしているうちに皐月は本当に菓子パンが食べたくなってきた。菓子パンなら真理の家からゴミを持ちかえれば物的証拠にもなる。
「そっか……。私がここに来てから皐月ちゃんは一度も菓子パンとかカップ麺とか食べていないよね。私は独りでお昼を食べる時に、時々パンやカップ麺を食べたりしてたからね。祐希だって高校の購買で買い食いしているみたいだし。……ごめんね、皐月ちゃん。今まで気づかなくて」
「いいよ、そんなことで謝らなくたって。いつも美味しいご飯を食べさせてもらっているんだから、感謝しかないよ」
皐月は二階の自分の部屋へ行き、ランドセルを下ろし、体操服から私服に着替えた。真理にメッセージを送り、小百合と頼子を送り出してから家を出ることを伝えた。夕食を一人で食べることはあえて伝えなかった。
小百合と頼子を見送った後、皐月はすぐに家を出た。駅前のコンビニで夕食のパンを買ってから真理の家に行こうと思ったが、思い直して何も買わずに手ぶらで行くことにした。
豊川駅の東西自由通路を渡って東口を出ると、相変わらず人も車もいなかった。背徳感と寂しさを抱えながら、皐月は真理の住むマンションへと早歩きで向かった。
真理の部屋のインターホンを鳴らすと、学校とは違う雰囲気の真理が出てきた。ドキッとした。
「どうしたの? やけにかわいいじゃん」
「ちょっとメイクしたの」
今日の真理はリップだけでなく、目元もメイクをしていた。皐月は真理にかわいいと言ったが、本当は綺麗だと言いたかった。とっさのことで本心を言えず、つい女子を喜ばせる時に言うような軽薄な言葉を使ってしまった。
「服も着替えたんだ。こんなお洒落な格好して学校に来たことないよな」
真理はファッション雑誌から抜け出したような服を着ていた。こういう真理を皐月はあまり見たことがない。
「これは名古屋に行く時に着る服。明日、塾に着ていくつもりだったの」
「そんなの今日着ちゃってもいいのかよ?」
「明日もこの服で行くからいい。まあ入って」
真理に促されるまま、皐月は部屋に上がった。いつものように真理がじゃれついてきたが、今日はキスをしてこない。真理は皐月の顔を見つめながら、ずっと妖しく微笑んでいる。香水は前に皐月が真理の部屋に来た時と同じものだ。
皐月は真理と二人でいる時は真理のことだけしか考えないようにと思っていた。だが、挑発的な真理を見ていると、児童会室でキスした後の恥ずかしそうに微笑んでいた華鈴のことを思い出す。真理と二人でいるのに、皐月は華鈴のことを急に愛おしく感じた。
華鈴の記憶を振り払おうと真理にキスを迫ると、顔を引かれ、かわされてしまった。少しイラっとした。
「皐月、私とキスしたいの?」
「当たり前じゃん」
「だめ〜」
真理は皐月から身体を引き離し、笑いながら自分の部屋へ行ってしまった。すぐに追いかけるのも癪だから、皐月はゆっくりと真理の部屋へ入った。
真理はベッドに座っていた。皐月も真理の隣に座った。体の重みでマットがたわみ、体と体が密着した。
「なんで拒むんだよ」
「だって、せっかくかわいくメイクしたんだよ。もうちょっと私のこと見てよ。それに皐月はエッチだから、すぐにメイクをぐちゃぐちゃにするでしょ?」
「しないように気をつけるよ」
皐月は真理の肩を抱き、髪に優しくキスをした。香水と整髪料の匂いの混じった、女の濃い香りがした。皐月に体を預けたまま真理が話し始めた。
「皐月ってさぁ……野上さんと仲がいいんだね」
真理は放課後の皐月と
野上実果子のやり取りを見ていた。何か聞かれるだろうな、とは予想していたが、何も聞かれないよりはいい展開だと思っていた。
「まあね。去年同じクラスだったし、北川に半年も隣同士の席にさせられてたからな」
「先生が席を決めてたの?」
「そう。北川の奴、俺と野上のことを問題児扱いしててさ、それで俺たちをくっつけて江嶋に監視させてたんだ」
「皐月が問題児? 嘘でしょ?」
「なんかそうだったみたい。授業中におしゃべりしたり、宿題を出さなかったりしてたからかな。それでいてテストは全部満点だったし、俺のことが気に食わなかったんだろ」
「あれ? もしかして自慢しちゃってる?」
真理がくすくすと笑った。
「五年生の時はクラスに真理がいなかったからな。俺みたいな奴でもクラスでトップになれたんだよ」
真理や絵梨花と同じクラスにいると、成績のことで自慢できないことくらいはわかっている。皐月は時々、無双していた五年生の時を思い出すことがある。あの頃の自分と今の自分を比べると、プライドがズタズタになる。
「俺と野上はしょっちゅう喧嘩してたんだ。あいつって気性が荒いからさ、気に障ることを言われるとすぐに怒るんだ。まあ、いつもの喧嘩だよ。それを見ていた奴らが大げさに騒いだだけだ」
「へぇ〜。じゃあ皐月、気に障るようなことを言ったんだ」
「言ったのかな? 俺、よくわかんないんだ。あいつが何を怒ったのか。まあ怒ったって言っても、大して怒ってなかったけど」
「ふ〜ん」
本当はある程度わかっていた。だが実果子と自分のプライドを守るため、このことは絶対に人には話せない。
「久しぶりに喧嘩をしたから、距離感を間違えたのかな。クラスが離れてからだいぶ時間が経ったから、お互い五年生の頃とは変わったってことに気付かなかったのかもしれない」
皐月はすっかり興醒めしてしまった。抱いていた肩から手を離し、立ち上がって窓辺に移動した。
夕暮れの外の景色を眺めていると、真理の部屋に来たばかりなのに、もう家に帰りたいと思い始めた。