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2 婚約者

ー/ー



 乾いた口づけだった。

 さりげなく素早く、避ける間もない。しかし背中に伸びた腕をやんわりと押さえ、シャールは身を(ひるがえ)して窓辺に逃げた。

「赤い月の日でな、頭が痛いのじゃ」

 空には黄色い半月があり、星は程々見えている。乾いた夜風は涼しく心地良かった。

 今のシャールは、薄紅色の絹のチャフィーブだけを着ている。化粧はしているが、装飾品はわずかな指輪と首飾りのみ。公務を終えた後の、自由な時間のはずだった。

 シェルバの王都サルームの中心にある王宮は、箱型の巨大な城であり、三十もの階層の二十八階に、女王シャールの休息所があった。下層には豪奢(ごうしゃ)な寝室があるが、この小ぢんまりした部屋にも一揃いの家具と寝具があり、寝室代わりに使うことができた。

 ここまで上ってしまえば、足の弱った高官たちは面倒がって滅多に来ない。一人になって心を落ち着かせたい時に都合がよいのだ。もちろん部屋の外には衛兵が、別室には侍女たちが控えている。

「頭痛に効く精油をお作りしましょう」

 婚約者のハーリルの手が、シャールの両肩に触れる。背中から、甘さの中に塩気を感じる独特の香りが襲ってくる。

 (かぐわ)しい……魅力的な男が(まと)えば、なおさら心を惹かれる。

「ハドラム王家の(たしな)みじゃな?」

「あるいは雲に乗る心地の香を焚きましょうか? それとも波に揺蕩(たゆた)いながら眠りに落ちる香でも?」

「死人(しびと)が生き返る香もありそうじゃ」

 ハーリルは(ささや)くように笑った。

「さすがに、それはありません」

 声には落ち着きと華やかさが同居しており、耳に心地よい。

 元々は父王が決めた政略結婚だった。王女だったシャールを東の隣国ハドラムの皇太子に嫁がせ、両国の関係を強化する。ハドラムの産する香料とシェルバの小麦を交換し、仕入れた香料を西の国々に流通させる商いでシェルバは大きな富を得ていた。

 婚約の儀式のため皇太子の一行がサルームを訪れ、シャールは皇太子マスルと面会したことがある。シャールが十二歳の時だ。礼儀正しい健康そうな青年は、幼いシャールの目にも好ましく映った。結婚など実感がなかったが、シャールは淡い憧れを抱いた。

 しかし父王が亡くなり、内乱期を経てシャールが即位したことで、婚約は解消された。そう考えていたのだが、今になって代わりの第三王子をジャーフィルが勧めてきた。以前の取り決めでは、王女だったシャールがハドラム王家に入るはずだったが、今回は反対に王子ハーリルにシェルバ王家に来てもらう。両国の関係強化の目的は同じで、悪い話ではない。早く結婚して世継ぎを、という周囲の重圧は年々強まるばかりでもあった。



 シャールは青いタイルが貼られた窓枠をギュッと(つか)み、ハーリルに触れられた肩から伝わる快感に耐えた。

「ハーリル殿、そなたの父ヤダイール王への使者を頼みたい。サルームに来られて二週間、そなたの帰りを待ちわびている姫も多かろう」

「……わたしの心は、お会いした時からシャール様のものでございます。それなのに、結婚のお約束はいただけないのですか?」

 嘘だとわかっているのに、信じてしまいたくなる。

 シャールがくるりと振り返ると、予想通りの微笑みが待っていた。茶褐色の整えられた髪、濃い碧眼。端正な美しい顔。

 先夜この部屋で身体を重ねた時の、何度も気を失いそうな営みは、まるで性技による決闘のようだった。王になるまでは処女を保ったシャールは、しかし将来の夫を虜にするための技術を教え込まれていた。王になってからは何人か愛人を持ち、その技を試してもいたが、ハーリルには通用しなかった。

 宮廷育ちの軟弱な王子だと思っていたのに、その裸体は逞しく、実戦で付けられたと思しき多くの傷が刻まれていた。魅惑的な香りと手技、力強い腕と腰にシャールは(とろ)けた。

 だがシェルバの王としての意地が、快楽に遊んでも(とりこ)になることを許さなかった。だから遠ざけなければならない。この危険で魅力的な男を。

「ハウリヤが帰ってこない」

 シャールは、ハーリルの碧い眼を見据えた。

「ハウリヤ?」

「即位する前から付いてくれた、われの侍女では一番の古株じゃ。歳は変わらないが」

「彼女がどうかしましたか?」

「休みも兼ねて、市場(スーク)へ買い物へ行かせた。だが、夜になっても帰ってこない」

「おおかた、久しぶりの休みで羽目を外しているのでしょう」

 怒りが湧いたが、顔には出さない。

「ハーリル殿も街へ行かれたな?」

「王宮の外へは、毎日のように出ていますよ。役務もなくて暇ですから。陛下がお命じ下されば、どんな仕事でも喜んでお引き受けするのですが」

「……この下の階には鳩部屋がある」

 シャールは窓枠を軽く叩いた。

「侍女は戻らなかったが、鳩は帰ってきたのじゃ」

 ハーリルは表情を変えない。だがハウリヤが鳩で何を知らせたかは察したようだ。甘い香りが、急に冷涼さを帯びた気がする。

「王宮に用意した部屋では、ハーリル殿には手狭だったようじゃ。郊外にお持ちの屋敷の様子が書かれていたが、わざわざ内容を言わずともよかろうな?」

「父が心配して付けてくれた者たちですよ。わたしは要らないと言ったのですが、父の心遣いですから断れなくて……」

 この期に及んでも名残惜しい。ハウリヤが無事に戻り、すべては勘違いだったと告げてくれれば、どんなに嬉しいことか。

「ヤダイール王の心配はもっともじゃ。王には、われの即位後一度もお会いしておらぬ。近い内にハドラムの王都スムラマウトにお訪ねしたいと、そのようにお伝えしておくれ。両国の未来を左右する結婚。慎重に進めねばな」

 ハーリルが退室するのを、シャールは笑顔で見送った。

(これで見納めだ)

 もう迷いたくない。後のことはジャーフィルに任せ、顔を合わせるのも止めよう。

 シャールは窓辺にもたれ、サルームの街を見下ろした。王宮の窓は砂と日差しを避けるために小窓ばかりだが、この部屋の窓は大きい。景色が良く見えるように、シャールが広げさせたのだ。

 街には星よりも多くの光の点が散らばっている。夜になっても贅沢に明かりを(とも)し、酒を飲んだり語らったり、口説いたり口説かれたりしているのだろう。それはシェルバの繁栄の証だった。

 地上の星々は、この王宮を中心に広がり、遠くなるほど(まば)らになっている。それがある一線で横に途切れ、星空との間に黒い帯ができていた。そこにはワディ・アルマカから流れる川と、その両岸に広がる農地があるのだ。

 ハドラムの王都へ行く気などなかった。適当に理由を付けて先延ばしにするつもりだ。

「ああ……」

 今宵もあの腕に抱かれ、溺れてしまいたかった。

(わたしが王ではなく王女のままであったなら……)

 兄たちは何故あんなにも玉座を望み、そして死んでしまったのか。王になっても、楽しいことなど何も無いではないか。

(風よ、早くあやつの残り香を吹き消しておくれ)

 

 シャールは長い間、窓辺で物思いに(ふけ)っていた。

 ギィッ、ギィッ、と(きし)むような音がする。

 窓から身を乗り出し、音のする方を見ると、壁に沿って黒い縄が垂れ下がり、それが左右に揺れていた。揺れながら、小刻みに震えている。

 縄を辿って見下ろすと、暗いが城壁の中腹に人影が見えた。

 多少の傾斜はあるが、ほぼ垂直なこの城壁を、まさか登って侵入しようとする者がいようとは!

 衛兵を呼ぼうと開きかけた口を、突然粗い布で鼻ごと塞がれた。

 目の前に、逆さまになった女の顔が見える。

 部屋の明かりに照らされ、真っ白な顔が陶器のように照っている。表情がない。ツヤのある赤銅(しゃくどう)色の髪は何故か垂れることなく、黒いハブルだけが垂れ下がり、その裾でシャールの口を塞いでいるのだ。

 女は片手でシャールの顔を押さえたまま、もう一方の手を窓枠に置き、その手を軸に体を折って旋回し、部屋の中に滑り込んだ。小柄なシャールからは見上げるように背が高い。ハブルごしにも肩幅が広いのが分かる。

「おとなしくしていれば殺さない」

 女は冷ややかな落ち着いた声で言った。

 口を塞いでいる手は、まるで鉄の口輪を()められたように固く、首を動かすことができない。シャールは女の腕を(つか)み、胸を叩き、足を蹴ったが、ぶにっとした弾力のある感触の下に石のような硬さが感じられただけで、微動だにしない。

(これは特別な兵士だ)

 シャールは早々に抵抗する気を失った。特殊な任務を担うために、どこの国にも密かに育成された兵士がいるという。どこの差し金かわからないが、そうした一人に違いない。

(まさか、ハドラムの……?)



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 乾いた口づけだった。
 さりげなく素早く、避ける間もない。しかし背中に伸びた腕をやんわりと押さえ、シャールは身を翻《ひるがえ》して窓辺に逃げた。
「赤い月の日でな、頭が痛いのじゃ」
 空には黄色い半月があり、星は程々見えている。乾いた夜風は涼しく心地良かった。
 今のシャールは、薄紅色の絹のチャフィーブだけを着ている。化粧はしているが、装飾品はわずかな指輪と首飾りのみ。公務を終えた後の、自由な時間のはずだった。
 シェルバの王都サルームの中心にある王宮は、箱型の巨大な城であり、三十もの階層の二十八階に、女王シャールの休息所があった。下層には豪奢《ごうしゃ》な寝室があるが、この小ぢんまりした部屋にも一揃いの家具と寝具があり、寝室代わりに使うことができた。
 ここまで上ってしまえば、足の弱った高官たちは面倒がって滅多に来ない。一人になって心を落ち着かせたい時に都合がよいのだ。もちろん部屋の外には衛兵が、別室には侍女たちが控えている。
「頭痛に効く精油をお作りしましょう」
 婚約者のハーリルの手が、シャールの両肩に触れる。背中から、甘さの中に塩気を感じる独特の香りが襲ってくる。
 香《かぐわ》しい……魅力的な男が纏《まと》えば、なおさら心を惹かれる。
「ハドラム王家の嗜《たしな》みじゃな?」
「あるいは雲に乗る心地の香を焚きましょうか? それとも波に揺蕩《たゆた》いながら眠りに落ちる香でも?」
「死人《しびと》が生き返る香もありそうじゃ」
 ハーリルは囁《ささや》くように笑った。
「さすがに、それはありません」
 声には落ち着きと華やかさが同居しており、耳に心地よい。
 元々は父王が決めた政略結婚だった。王女だったシャールを東の隣国ハドラムの皇太子に嫁がせ、両国の関係を強化する。ハドラムの産する香料とシェルバの小麦を交換し、仕入れた香料を西の国々に流通させる商いでシェルバは大きな富を得ていた。
 婚約の儀式のため皇太子の一行がサルームを訪れ、シャールは皇太子マスルと面会したことがある。シャールが十二歳の時だ。礼儀正しい健康そうな青年は、幼いシャールの目にも好ましく映った。結婚など実感がなかったが、シャールは淡い憧れを抱いた。
 しかし父王が亡くなり、内乱期を経てシャールが即位したことで、婚約は解消された。そう考えていたのだが、今になって代わりの第三王子をジャーフィルが勧めてきた。以前の取り決めでは、王女だったシャールがハドラム王家に入るはずだったが、今回は反対に王子ハーリルにシェルバ王家に来てもらう。両国の関係強化の目的は同じで、悪い話ではない。早く結婚して世継ぎを、という周囲の重圧は年々強まるばかりでもあった。
 シャールは青いタイルが貼られた窓枠をギュッと掴《つか》み、ハーリルに触れられた肩から伝わる快感に耐えた。
「ハーリル殿、そなたの父ヤダイール王への使者を頼みたい。サルームに来られて二週間、そなたの帰りを待ちわびている姫も多かろう」
「……わたしの心は、お会いした時からシャール様のものでございます。それなのに、結婚のお約束はいただけないのですか?」
 嘘だとわかっているのに、信じてしまいたくなる。
 シャールがくるりと振り返ると、予想通りの微笑みが待っていた。茶褐色の整えられた髪、濃い碧眼。端正な美しい顔。
 先夜この部屋で身体を重ねた時の、何度も気を失いそうな営みは、まるで性技による決闘のようだった。王になるまでは処女を保ったシャールは、しかし将来の夫を虜にするための技術を教え込まれていた。王になってからは何人か愛人を持ち、その技を試してもいたが、ハーリルには通用しなかった。
 宮廷育ちの軟弱な王子だと思っていたのに、その裸体は逞しく、実戦で付けられたと思しき多くの傷が刻まれていた。魅惑的な香りと手技、力強い腕と腰にシャールは蕩《とろ》けた。
 だがシェルバの王としての意地が、快楽に遊んでも虜《とりこ》になることを許さなかった。だから遠ざけなければならない。この危険で魅力的な男を。
「ハウリヤが帰ってこない」
 シャールは、ハーリルの碧い眼を見据えた。
「ハウリヤ?」
「即位する前から付いてくれた、われの侍女では一番の古株じゃ。歳は変わらないが」
「彼女がどうかしましたか?」
「休みも兼ねて、市場《スーク》へ買い物へ行かせた。だが、夜になっても帰ってこない」
「おおかた、久しぶりの休みで羽目を外しているのでしょう」
 怒りが湧いたが、顔には出さない。
「ハーリル殿も街へ行かれたな?」
「王宮の外へは、毎日のように出ていますよ。役務もなくて暇ですから。陛下がお命じ下されば、どんな仕事でも喜んでお引き受けするのですが」
「……この下の階には鳩部屋がある」
 シャールは窓枠を軽く叩いた。
「侍女は戻らなかったが、鳩は帰ってきたのじゃ」
 ハーリルは表情を変えない。だがハウリヤが鳩で何を知らせたかは察したようだ。甘い香りが、急に冷涼さを帯びた気がする。
「王宮に用意した部屋では、ハーリル殿には手狭だったようじゃ。郊外にお持ちの屋敷の様子が書かれていたが、わざわざ内容を言わずともよかろうな?」
「父が心配して付けてくれた者たちですよ。わたしは要らないと言ったのですが、父の心遣いですから断れなくて……」
 この期に及んでも名残惜しい。ハウリヤが無事に戻り、すべては勘違いだったと告げてくれれば、どんなに嬉しいことか。
「ヤダイール王の心配はもっともじゃ。王には、われの即位後一度もお会いしておらぬ。近い内にハドラムの王都スムラマウトにお訪ねしたいと、そのようにお伝えしておくれ。両国の未来を左右する結婚。慎重に進めねばな」
 ハーリルが退室するのを、シャールは笑顔で見送った。
(これで見納めだ)
 もう迷いたくない。後のことはジャーフィルに任せ、顔を合わせるのも止めよう。
 シャールは窓辺にもたれ、サルームの街を見下ろした。王宮の窓は砂と日差しを避けるために小窓ばかりだが、この部屋の窓は大きい。景色が良く見えるように、シャールが広げさせたのだ。
 街には星よりも多くの光の点が散らばっている。夜になっても贅沢に明かりを灯《とも》し、酒を飲んだり語らったり、口説いたり口説かれたりしているのだろう。それはシェルバの繁栄の証だった。
 地上の星々は、この王宮を中心に広がり、遠くなるほど疎《まば》らになっている。それがある一線で横に途切れ、星空との間に黒い帯ができていた。そこにはワディ・アルマカから流れる川と、その両岸に広がる農地があるのだ。
 ハドラムの王都へ行く気などなかった。適当に理由を付けて先延ばしにするつもりだ。
「ああ……」
 今宵もあの腕に抱かれ、溺れてしまいたかった。
(わたしが王ではなく王女のままであったなら……)
 兄たちは何故あんなにも玉座を望み、そして死んでしまったのか。王になっても、楽しいことなど何も無いではないか。
(風よ、早くあやつの残り香を吹き消しておくれ)
 シャールは長い間、窓辺で物思いに耽《ふけ》っていた。
 ギィッ、ギィッ、と軋《きし》むような音がする。
 窓から身を乗り出し、音のする方を見ると、壁に沿って黒い縄が垂れ下がり、それが左右に揺れていた。揺れながら、小刻みに震えている。
 縄を辿って見下ろすと、暗いが城壁の中腹に人影が見えた。
 多少の傾斜はあるが、ほぼ垂直なこの城壁を、まさか登って侵入しようとする者がいようとは!
 衛兵を呼ぼうと開きかけた口を、突然粗い布で鼻ごと塞がれた。
 目の前に、逆さまになった女の顔が見える。
 部屋の明かりに照らされ、真っ白な顔が陶器のように照っている。表情がない。ツヤのある赤銅《しゃくどう》色の髪は何故か垂れることなく、黒いハブルだけが垂れ下がり、その裾でシャールの口を塞いでいるのだ。
 女は片手でシャールの顔を押さえたまま、もう一方の手を窓枠に置き、その手を軸に体を折って旋回し、部屋の中に滑り込んだ。小柄なシャールからは見上げるように背が高い。ハブルごしにも肩幅が広いのが分かる。
「おとなしくしていれば殺さない」
 女は冷ややかな落ち着いた声で言った。
 口を塞いでいる手は、まるで鉄の口輪を嵌《は》められたように固く、首を動かすことができない。シャールは女の腕を掴《つか》み、胸を叩き、足を蹴ったが、ぶにっとした弾力のある感触の下に石のような硬さが感じられただけで、微動だにしない。
(これは特別な兵士だ)
 シャールは早々に抵抗する気を失った。特殊な任務を担うために、どこの国にも密かに育成された兵士がいるという。どこの差し金かわからないが、そうした一人に違いない。
(まさか、ハドラムの……?)