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ー/ー



 もう、なりふり構ってはいられない。
 
 白い、素っ気ないドアの前で、詩鶴(しづる)は両の拳をぎゅっと握った。
 不安はあった。でもこれは、ただの未知のものに対する不安。別に命を取られる訳じゃない。

 進まざる者は必ず退き、退かざる者は必ず進む。
 昔の偉い人も、そんな事を言っていたじゃないか。

 そう自分を奮い立たせて、そのドアを開けた。

 
♢♢♢


うっすら汚れた白い長机の向こうで、一人の壮年男性が心なしかふんぞり返った姿勢でパイプ椅子にもたれている。
 「佐木(さき)詩鶴(しづる)さん、27歳ね。他に登録してる結婚相談所とかマッチングアプリ、ありますかね?」
 「ないです」
 固い声と固い表情で、詩鶴は短く答えた。
 「そうですか。ご希望は…半年以内の結婚と、三十五までに二、三人、出産ね。その他の希望条件は、産後も現在の職場で勤務継続すること、結婚後の居住地は職場から通勤一時間圏内、転勤に同伴は不可…」
 眼鏡のつるを(いじ)りながら、一枚の紙の上でゆっくりと視線を動かし、読み上げる。少し黄ばんだ安っぽいそのプリント用紙は、ついさっき詩鶴自身が十五分ほど時間を掛けて記入したものだ。
 「特記事項は、酒やギャンブルの依存症でないこと。前科がないこと。無職でないこと。はは。そこはまぁね、大丈夫。そういう人は登録出来ないから。一応ね、ある程度身元の保証はしてますのでね。あとは、奨学金返済以外の借金がないこと…。うん、はい、結構ですよ。申請書は問題ないので、隣の部屋で検体採取して。あと、結果を見るのに静脈認証が必要だから、その登録もして帰ってくださいな」
 七十代半ばの年頃だろうか、ほとんど真っ白になった寒々しい頭髪を撫で付けて、男性は指に挟んでいるボールペンで壁の向こうを指し示した。
 「あの、結果はいつ出ますか」
 「あぁ、それね。十日から二週間くらいかな。佐木さんの登録が完了して結果が出ると、こう…ランキング形式みたいな感じでね。相性がいい順にずらっと候補者が表示されるから。それをね、見て、良さそうな人いたら紹介希望の申請してくださいな。アナタは条件が大らかな方だから、きっとたくさんお相手見つかると思いますよ。大丈夫、いけるいける」
 気安く太鼓判を押す男性に、はぁ、どうも、と詩鶴は不安気な声を漏らした。
 「書類の手続きはこれで終了。いい出逢いに恵まれて、希望通りの結婚と出産が出来るようにお祈りしてますよ」
 決して心が込もっているとは言い難い激励の言葉には、そこはかとなく漂うやる気のなさが漂う。ほどよく雑な言葉遣いに、サービス精神に欠ける必要最低限の説明。いわゆるお役所仕事だ。
 まぁそれも当然と言えば当然だろう。だって実際、ここは詩鶴が住む地域のコミュニティセンター、区役所に隣接した公共施設の一室なのだ。

 少子化が右肩上がりに進む昨今。未婚・晩婚化は少子化の要因という理由の下、婚活業は国を挙げての公共事業となった。今しがた詩鶴が提出したのは、昨今流行りの出産特化型マッチングサービスへの利用申込書だ。

 振り返ってみれば、男女のマッチングサービスはここ数年ですっかり様相を変えていた。それは20XX年、ある日本人研究者が新たな遺伝子解析システムを開発したことに端を発する。
 出生率0.49。未曾有の少子化に頭を抱える社会の中、その研究成果は国難を脱するための光明として、大きく世間を賑わせた。

 その解析システムは、妊娠・出産成功確率が高い相手を遺伝子レベルで分析することを可能にする。

 国はすぐにこのシステムの運用に動き出した。地方自治団体に多額の補助金を出し、無料のマッチングサービス事業を行うよう推進。勿論ただの婚活事業ではなく、最新鋭の遺伝子解析システムを導入した出産に特化した婚活事業だ。
 国家ぐるみのその事業は瞬く間に日本全国へ拡がっていった。より多くの人が、より多くの子供を、より効率良く産めるように。躍起になってこの事業を推進する政治家達の心中は、こうだ。
 
 恋愛?そんな夢みたいなものは後回し。
 贅沢言わず、とにかく子供を産みなさい。

 少子化対策の最後の一手、出産特化型マッチングサービス〈vita〉は、こうして誕生した。
 
 とはいえ、恋愛感情を完全に蚊帳の外に追いやって出産という目的だけにスポットを当てたこの事業に、違和感や抵抗を抱く人は多かった。見境がないとか情緒がないとか人の命の誕生まで効率化するのかとか、道徳的な観点の批判に加え、自らの遺伝子情報を提供することへの不安を口にする者も少なくなかった。
 しかし批判の声があると同時に、歓迎する声もまた多く聞こえてきた。
 需要は、あった。
 まずは多子を望む人。この遺伝子解析技術の利用者カップルは、子作りを始めてから妊娠までの期間が非利用者達に比べて圧倒的に短いとのデータが出ていた。複数の子供を望むのであれば、妊娠までに費やす時間は短い方が都合がいい。
 そして、高年齢や持病など、身体的事情で妊孕(にんよう)性が低下している男女。不妊治療の技術の進歩は、ここ数十年停滞している。長い時間とお金をかけて不妊治療をするのなら、初めから妊娠成功率の高い相手を選んだ方が効率的だと考える人も少なくなかった。
 そして何より、登録費が無料。登録時に遺伝子の提供は必須になるが、相手の年収や年齢、住居地域や家族構成等、条件に合う相手を探せるという点では他のマッチングサービスと変わらない。多額の登録料を払って民間のマッチングサービスに登録するくらいなら、遺伝情報を提出して無料で〈vita〉を利用した方がいい。妊娠成功率の確認はオプション程度と捉え、登録する人も多くいた。
 こうした事情を背景に、〈vita〉利用者は増加の一途を辿っている。

 ──そう、TVの向こうのアナウンサーは解説していた。

 「そうは言っても、やっぱり何となく抵抗あるよなぁ」
 点けっぱなしにしていたテレビを見るともなく眺めていた光稀(こうき)が、独り言のように感想を漏らす。夕飯後の皿洗いを終えた詩鶴は、そう?と首を傾げた。
 「マッチングサービスで結婚相手見つける人なんて昔からたくさんいたじゃない。それと変わらない気がするけど」
 「俺、そもそもマッチングサービスとかお見合いとか自体に、なんとなく抵抗ある。自然に出会ってゆっくり仲を深めて、結婚はその先にあるものって思っちゃうんだよな。そういうのすっ飛ばして最初から子作りありきみたいなの、虚しくない?」
 「光稀は意外とロマンチストだからねぇ」
 詩鶴はあははと笑って、ダイニングテーブルを挟んだ向かいの席に腰を下ろした。
 「でも、皆がみんな完全にすっ飛ばしてる訳じゃないんじゃない?知り合うきっかけのひとつっていうか、そこから始まる恋愛もあると思うよ。友達の友達もマッチングアプリで結婚したけど、結婚してから恋愛始まった感じで毎日楽しいって言ってたらしいよ」
 「ふぅん。そんなもんかね」
 画面は、アナウンサーの解説から利用者へのインタビューに切り替わっていた。顔面にモザイクを掛けた夫婦が、出会って二ヶ月半で妊娠が発覚した喜びを語っている、
 缶ビールをグラスに移しながら、光稀は鼻で息を吐いた。
 「まぁどっちにしろ、俺らには無縁の話だな」
 そう言って光稀は腕を伸ばし、テーブルの上に置かれた詩鶴の手を取った。
 「週末の式場見学、十一時からだったよな」
 「うん。料理の試食フルコースだから、豪華なランチ食べられるよ」
 「楽しみだな」
 「うん、コース料理なんて久しぶり」
 「それもだけど」
 詩鶴の左手の薬指に()められた指輪を、光稀は指先でそっと撫でる。
 「…結婚。楽しみだよな」
 重ねた手に視線を落としたまま、光稀はどこか照れ臭そうに口元だけで微笑(わら)った。
 二人が付き合い始めて、もう四年近く経つ。光稀はどちらかと言えば口下手で、簡単に甘い言葉を吐く人ではない。だけどこうして丁寧に優しく触れられる度に、自分は彼にとって大切な存在なのだと実感することが出来た。
 『結婚してくれる?』
 不器用に、けれど実直にそう請われた時も、詩鶴は迷いなく頷いた。
 「うん。私もすごく楽しみ」
 照れた顔を見られたくないのだろう、伏目がちなままの光稀を見つめて、詩鶴も小さく笑った。


 それは、ほんの三ヶ月前の話。


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 もう、なりふり構ってはいられない。
 白い、素っ気ないドアの前で、|詩鶴《しづる》は両の拳をぎゅっと握った。
 不安はあった。でもこれは、ただの未知のものに対する不安。別に命を取られる訳じゃない。
 進まざる者は必ず退き、退かざる者は必ず進む。
 昔の偉い人も、そんな事を言っていたじゃないか。
 そう自分を奮い立たせて、そのドアを開けた。
♢♢♢
うっすら汚れた白い長机の向こうで、一人の壮年男性が心なしかふんぞり返った姿勢でパイプ椅子にもたれている。
 「佐木《さき》詩鶴《しづる》さん、27歳ね。他に登録してる結婚相談所とかマッチングアプリ、ありますかね?」
 「ないです」
 固い声と固い表情で、詩鶴は短く答えた。
 「そうですか。ご希望は…半年以内の結婚と、三十五までに二、三人、出産ね。その他の希望条件は、産後も現在の職場で勤務継続すること、結婚後の居住地は職場から通勤一時間圏内、転勤に同伴は不可…」
 眼鏡のつるを弄《いじ》りながら、一枚の紙の上でゆっくりと視線を動かし、読み上げる。少し黄ばんだ安っぽいそのプリント用紙は、ついさっき詩鶴自身が十五分ほど時間を掛けて記入したものだ。
 「特記事項は、酒やギャンブルの依存症でないこと。前科がないこと。無職でないこと。はは。そこはまぁね、大丈夫。そういう人は登録出来ないから。一応ね、ある程度身元の保証はしてますのでね。あとは、奨学金返済以外の借金がないこと…。うん、はい、結構ですよ。申請書は問題ないので、隣の部屋で検体採取して。あと、結果を見るのに静脈認証が必要だから、その登録もして帰ってくださいな」
 七十代半ばの年頃だろうか、ほとんど真っ白になった寒々しい頭髪を撫で付けて、男性は指に挟んでいるボールペンで壁の向こうを指し示した。
 「あの、結果はいつ出ますか」
 「あぁ、それね。十日から二週間くらいかな。佐木さんの登録が完了して結果が出ると、こう…ランキング形式みたいな感じでね。相性がいい順にずらっと候補者が表示されるから。それをね、見て、良さそうな人いたら紹介希望の申請してくださいな。アナタは条件が大らかな方だから、きっとたくさんお相手見つかると思いますよ。大丈夫、いけるいける」
 気安く太鼓判を押す男性に、はぁ、どうも、と詩鶴は不安気な声を漏らした。
 「書類の手続きはこれで終了。いい出逢いに恵まれて、希望通りの結婚と出産が出来るようにお祈りしてますよ」
 決して心が込もっているとは言い難い激励の言葉には、そこはかとなく漂うやる気のなさが漂う。ほどよく雑な言葉遣いに、サービス精神に欠ける必要最低限の説明。いわゆるお役所仕事だ。
 まぁそれも当然と言えば当然だろう。だって実際、ここは詩鶴が住む地域のコミュニティセンター、区役所に隣接した公共施設の一室なのだ。
 少子化が右肩上がりに進む昨今。未婚・晩婚化は少子化の要因という理由の下、婚活業は国を挙げての公共事業となった。今しがた詩鶴が提出したのは、昨今流行りの出産特化型マッチングサービスへの利用申込書だ。
 振り返ってみれば、男女のマッチングサービスはここ数年ですっかり様相を変えていた。それは20XX年、ある日本人研究者が新たな遺伝子解析システムを開発したことに端を発する。
 出生率0.49。未曾有の少子化に頭を抱える社会の中、その研究成果は国難を脱するための光明として、大きく世間を賑わせた。
 その解析システムは、妊娠・出産成功確率が高い相手を遺伝子レベルで分析することを可能にする。
 国はすぐにこのシステムの運用に動き出した。地方自治団体に多額の補助金を出し、無料のマッチングサービス事業を行うよう推進。勿論ただの婚活事業ではなく、最新鋭の遺伝子解析システムを導入した出産に特化した婚活事業だ。
 国家ぐるみのその事業は瞬く間に日本全国へ拡がっていった。より多くの人が、より多くの子供を、より効率良く産めるように。躍起になってこの事業を推進する政治家達の心中は、こうだ。
 恋愛?そんな夢みたいなものは後回し。
 贅沢言わず、とにかく子供を産みなさい。
 少子化対策の最後の一手、出産特化型マッチングサービス〈vita〉は、こうして誕生した。
 とはいえ、恋愛感情を完全に蚊帳の外に追いやって出産という目的だけにスポットを当てたこの事業に、違和感や抵抗を抱く人は多かった。見境がないとか情緒がないとか人の命の誕生まで効率化するのかとか、道徳的な観点の批判に加え、自らの遺伝子情報を提供することへの不安を口にする者も少なくなかった。
 しかし批判の声があると同時に、歓迎する声もまた多く聞こえてきた。
 需要は、あった。
 まずは多子を望む人。この遺伝子解析技術の利用者カップルは、子作りを始めてから妊娠までの期間が非利用者達に比べて圧倒的に短いとのデータが出ていた。複数の子供を望むのであれば、妊娠までに費やす時間は短い方が都合がいい。
 そして、高年齢や持病など、身体的事情で妊孕《にんよう》性が低下している男女。不妊治療の技術の進歩は、ここ数十年停滞している。長い時間とお金をかけて不妊治療をするのなら、初めから妊娠成功率の高い相手を選んだ方が効率的だと考える人も少なくなかった。
 そして何より、登録費が無料。登録時に遺伝子の提供は必須になるが、相手の年収や年齢、住居地域や家族構成等、条件に合う相手を探せるという点では他のマッチングサービスと変わらない。多額の登録料を払って民間のマッチングサービスに登録するくらいなら、遺伝情報を提出して無料で〈vita〉を利用した方がいい。妊娠成功率の確認はオプション程度と捉え、登録する人も多くいた。
 こうした事情を背景に、〈vita〉利用者は増加の一途を辿っている。
 ──そう、TVの向こうのアナウンサーは解説していた。
 「そうは言っても、やっぱり何となく抵抗あるよなぁ」
 点けっぱなしにしていたテレビを見るともなく眺めていた光稀《こうき》が、独り言のように感想を漏らす。夕飯後の皿洗いを終えた詩鶴は、そう?と首を傾げた。
 「マッチングサービスで結婚相手見つける人なんて昔からたくさんいたじゃない。それと変わらない気がするけど」
 「俺、そもそもマッチングサービスとかお見合いとか自体に、なんとなく抵抗ある。自然に出会ってゆっくり仲を深めて、結婚はその先にあるものって思っちゃうんだよな。そういうのすっ飛ばして最初から子作りありきみたいなの、虚しくない?」
 「光稀は意外とロマンチストだからねぇ」
 詩鶴はあははと笑って、ダイニングテーブルを挟んだ向かいの席に腰を下ろした。
 「でも、皆がみんな完全にすっ飛ばしてる訳じゃないんじゃない?知り合うきっかけのひとつっていうか、そこから始まる恋愛もあると思うよ。友達の友達もマッチングアプリで結婚したけど、結婚してから恋愛始まった感じで毎日楽しいって言ってたらしいよ」
 「ふぅん。そんなもんかね」
 画面は、アナウンサーの解説から利用者へのインタビューに切り替わっていた。顔面にモザイクを掛けた夫婦が、出会って二ヶ月半で妊娠が発覚した喜びを語っている、
 缶ビールをグラスに移しながら、光稀は鼻で息を吐いた。
 「まぁどっちにしろ、俺らには無縁の話だな」
 そう言って光稀は腕を伸ばし、テーブルの上に置かれた詩鶴の手を取った。
 「週末の式場見学、十一時からだったよな」
 「うん。料理の試食フルコースだから、豪華なランチ食べられるよ」
 「楽しみだな」
 「うん、コース料理なんて久しぶり」
 「それもだけど」
 詩鶴の左手の薬指に嵌《は》められた指輪を、光稀は指先でそっと撫でる。
 「…結婚。楽しみだよな」
 重ねた手に視線を落としたまま、光稀はどこか照れ臭そうに口元だけで微笑《わら》った。
 二人が付き合い始めて、もう四年近く経つ。光稀はどちらかと言えば口下手で、簡単に甘い言葉を吐く人ではない。だけどこうして丁寧に優しく触れられる度に、自分は彼にとって大切な存在なのだと実感することが出来た。
 『結婚してくれる?』
 不器用に、けれど実直にそう請われた時も、詩鶴は迷いなく頷いた。
 「うん。私もすごく楽しみ」
 照れた顔を見られたくないのだろう、伏目がちなままの光稀を見つめて、詩鶴も小さく笑った。
 それは、ほんの三ヶ月前の話。