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第1話:輪廻の始まり

ー/ー



(……っ!)


海里は、ゆっくりと瞼を持ち上げた。最初に感じたのは、ひんやりとした湿った空気と、鼻を突く土と草の匂い。視界に広がったのは、見慣れない薄暗い森だった。彼の身体は、固い地面の上に横たわっていた。


(どこだ、ここ……?)


全身に力を込め、ゆっくりと身体を起こそうとする。驚くべきことに、身体に痛みはない。触れてみると、傷一つ見当たらないのだ。着ている服は、事故に遭った時と同じで、泥や草の汚れが少々ついているだけ。致命的な衝撃を受けたはずの痕跡は、どこにも見当たらなかった。


(……俺は、死んでいない、のか?)


理解が追いつかない。意識が暗い感覚へと落ちていく寸前、彼が心から願ったのは、ただ一つ。「鏡花にもう一度会いたい」という、切なる願いだけだった。その鏡花の形見のペンダントだけは何故か懐にあった。


「はは。そんなことを願ったから、こんな状況に繋がったっていうのか……?」


形見のペンダントを握りしめながら馬鹿げた考えがよぎる。そう考えても、確証はない。しかし、いつまでもこの場で立ち止まっているわけにはいかない。


まずは、自分が置かれている現状を理解することが最優先だ。海里は立ち上がり、木々の隙間からわずかに光が差し込む方向へと、歩き始めた。


不思議と迷うという感覚はなく、まるで目に見えない糸が指先に絡み、特定の方向へ引かれているような、奇妙な感覚を彼は覚えていた。



                             □■□■□■□




それから、一体どれほどの時間が経過したのだろうか。彼は森の中を、ひたすら歩き続けた。喉の渇きと空腹が、容赦なく彼の体力を奪っていく。


周囲の木々は、異様に太く、鬱蒼と生い茂っていた。耳に届くのは、風が葉を揺らす音や、遠くで鳥が鳴く声だけ。


その時、近くの草むらの奥から、ガサガサと不自然な物音が聞こえてきた。反射的に、海里は身をかがめ、木の幹の陰に潜み、息を殺した。


音の正体は、異様なものだった。体長一メートル程度の全身が緑色の皮膚に覆われた小型の生き物たち。


それは、手に粗末な木製の棍棒を握っていた。顔は、豚と爬虫類を合わせたような醜悪な相貌で、殺気に満ちた目をギラつかせている。


海里は、その異様な姿に、心臓が凍りつくのを感じた。


(なんだ、……あれは、化け物か?)


緑色の化け物たちは、海里の存在に全く気づくことなく、低い唸り声を上げながら、そのまま森の奥へと去っていった。海里は、その姿が完全に消え去るまで、恐怖と緊張で硬直したまま、身を潜め続けた。


遠ざかった物音が完全に聞こえなくなり、ようやく海里は張り詰めていた息を吐き出した。全身から冷や汗が噴き出している。しかし、彼の置かれた状況が、決して冗談や夢ではないことを、強烈に突きつけてきた。


それから、さらに歩き続けると、木々の合間から開けた場所が見えてきた。そこには、整備された、人の往来を思わせる街道らしきものがあり、その先に、粗末な木造の家々が寄り集まった、小さな村が佇んでいるのが見えた。


情報を得るためにも、まずは人との接触を試みるのが賢明だろう。化け物が徘徊する森の中よりも、人間が暮らす場所の方が、遥かに安全なはずだ。海里は村へと向かった。


村の入り口に差し掛かると、三人の村人が立ち話をしているのが見えた。男二人と、少女が一人。海里に気づくと、三人の会話が途切れ、珍しさと警戒の色を浮かべながら、こちらに目を向けた。


ロルカ村の人々


一人は、粗野な革の服越しに覗く筋骨隆々な肉体から、威圧感を漂わせていた。


真ん中に立つもう一人の男は、長年の経験が刻まれた顔をしていた。雪のように白い髭を豊かに蓄え、恰幅の良い体躯をしており、毛皮をあしらった外套を羽織っていた。


一番右の少女は、春の若葉のような明るい緑のワンピースを纏っていた。淡い桃色の髪と大きな瞳をしていて、小柄で控えめな佇まいではあるが、彼女の純粋な性格を映し出しているようだった。


そのうちの一人、村長と思しき、深い皺が刻まれた禿頭の老人、エルドリックが、ゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。


「そこの若者。ずいぶんと変わった服を着ているが、一体どこから来たんじゃ? この辺りでは見かけない顔じゃのう」


海里は、戸惑いながらも、事実を正直に伝えることにした。自分が、見知らぬ森で目を覚ましたこと、森の中を彷徨ったこと、そして緑色の化け物から身を隠しながら、この村に辿り着いたことを。


老人の隣に立っていた、筋骨たくましく、目つきの鋭い青年、バルドが、海里の全身を値踏みするようにじろじろと見ながら、口を開いた。


「へぇ、そんなことがあんのか。記憶喪失かぁ? それとも、訳ありか。森で目を覚ますなんて話、聞いたことねぇな……なあ、エルドリック爺さん。こいつはひょっとして.....」


バルドの言葉に、エルドリックは一瞬、顔を曇らせ、何かを思い留まったように、すぐに笑顔を取り繕った。


「よさんか、バルド。詮索するもんじゃない。ああ、すまんのう、若者。驚かせてしまった。……見ての通り、貧しい村じゃが、旅人をもてなす心は持っておる。温かい食事くらいは用意できる。ゆっくりと休んでいくといい」


エルドリックの隣に立っていた、桃色の髪を持つ少女、リーファが、屈託のない、純粋な笑顔で頷いた。


「お兄さん、休んでからでいいから、畑仕事を手伝ってくれないかしら? 最近、人手が足りなくて、私たちだけじゃ、なかなか大変で……」


海里は、リーファが指差す畑に目をやった。そこは、痩せた土地にまばらに作物が植えられているだけで、厳しい光景だった。村人たちの表情にも疲れと、将来への漠然とした不安が、色濃く滲んでいるように見えた。


「ありがとうございます。俺の名前は海里です。ぜひ、お手伝いさせてください。お世話になります」


その純粋な眼差しと、偽りのない歓迎の態度に、海里は心の奥底で安堵した。


「それにしても、海里だったな。お前さん、丸腰でゴブリンみたいな魔物が出る森を抜けてきたのか? よく生きてたな」


バルドが、驚いたような声で言った。


(丸腰で森を抜けることが、そんなに珍しいことなのか……?それにあの緑色の化け物はゴブリンっていうのか)


海里は内心驚いた。彼の知る世界では、一般人が武装することなど、考えられない。


エルドリックは、この村の名がロルカ村であること、村が自給自足で生活していること、そして、ゴブリンのような魔物から身を守るために、村の周囲に木の柵を巡らせ、櫓のような見張り台を設けていることを語った。


さらに、村の倉庫には、自衛のために使われる、簡単な槍や剣といった武器も常備してあると教えられた。


海里は、その常識の違いに、改めて驚きを覚えた。彼の知る世界では、治安は警察が維持し、個人の武装は厳しく制限されている。


しかし、この世界では、それが当たり前のようだ。ゴブリンのような魔物が徘徊する世界で生きるには、自衛手段は必須なのだろう。そう自分を納得させ、海里は、この異世界での生活を始める覚悟を決めた。



□■□■□■□



数日後、海里はロルカ村で畑作業に汗を流していた。久しぶりに思える肉体労働だったが、不思議と身体はよく動いた。村人たちは熱心に働く新たな労働者として、海里を歓迎しているようだった。


ある日の夜、エルドリックの家で夕食を済ませた後、海里は、エルドリックと、後から家に入ってきたバルドに、改めて話しかけられた。いつもは一緒にいるリーファの姿は見当たらない。静まり返った部屋の空気は、昼間とは違い、どこか張り詰めていた。


バルドの鋭い視線が、海里を貫いた。


「海里、単刀直入に聞くが、お前は、この世界の人間じゃないだろう?」


海里は、心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受け、思わず息をのんだ。何故、そう言い切れるのか?と、問い返す間もなく、バルドが冷たい声で続けた。


「お前みたいな奴は、転生者って呼ばれてるそうだ。五十年前に、アステル大陸に大混乱をもたらした大戦を引き起こした元凶で、このリグリア王国では、危険な存在として見る風潮もあるんだよ」


バルドは、海里の着ている服を指さした。


「お前が着てる服もそうだ。俺たちが今まで見たこともねぇ素材だ。しかも黒髪黒目っていう昔聞いた転生者の特徴もそのままだ」


バルドの言葉はなおも続くが、海里はその剣幕に一言も口を挟めなかった。


「そして何より、お前は魔法のことを知らねぇみたいだ。大なり小なり魔力はあるはずなんだよ。森でゴブリンを見たそうだが、その存在自体に心底驚いていた。このリグリア王国内で生まれ育っていて、魔法や魔物を知らねぇなんて、あり得ねぇんだよ……。違ぇねぇ、お前は、話に聞く転生者だ」


バルドの言葉が、冷たく室内に響いた。海里の背筋に、嫌な汗が伝う。


同時に、エルドリックが震える声で、バルドに囁いた。


「バルド、本当にいいんじゃな……。転生者を捕まえるなんて、恐ろしいことじゃぞ。もし失敗でもしたら……」


「いいんだよ、爺さん。俺たちは、このまま貧しい生活を続けるわけにはいかない。転生者なんて、あの輪廻教団になら、高く売れるだろうさ。しかも、知ってるか? ちょうど今、王都にその教団のお偉いさんが来てるんだとよ。めったにない好機だ」


「本当か? 何をしにこのリグリア王国に来たのやら……」


「何だっていいさ、俺たちには関係ねぇだろ。俺たちが苦しんでるのは、上にいるこのクソみたいな宰相が悪いんだ。……転生者を教団に売って、その金で、俺たちの村の生活の足しになってもらおうぜ」


バルドの言葉を聞きながら、海里は胸の奥底に、鈍く重い痛みを覚えた。彼らが海里を温かく迎え入れ、親切にしてくれたのは、畑仕事の人手が欲しかったからではない。最初から、海里を売り飛ばすという目的があったからなのか。


「……待ってくれ。俺は、あなたたちを騙すつもりはなかった。だが、その転生者とか、危険って一体どういうことだ? 教団に売るって、何を言っているんだ?」


海里がそう言いかけた、その時だった。


「お前自身は、正直、危険そうには見えねぇけどな。でもな……」


バルドが言葉を、途中で一拍置くようにきった。それを合図としたかのように、海里の視界が、急にぐにゃりと歪み始める。


(眠り薬……?)


そう気づいた時には、既に遅かった。身体から急速に力が抜け、地面に倒れ込む海里。意識が薄れていく中、彼の耳に、バルドの、どこか嘲りの混じった声が響いた。


「おぉ、転生者って奴でも、眠り薬はちゃんと効くんだな。良かったぜ、念のため何人か村人を外で待機させてたけど、要らぬ心配だったか。お前には悪いが、俺たちの村の、生活の足しになってくれや」


意識が遠のく中、海里は今更ながら、エルドリックの家の外に、複数の人の気配が潜んでいることに気が付いた。


(……っ、最初から、逃がさないつもりだったのか)


全身の感覚が麻痺し、海里の意識は暗く、深い闇へと沈んでいく。その時、彼の胸ポケットにいつも忍ばせていた、故郷で手に入れたペンダントが、微かに熱を帯びたように感じられた。それは、暗闇に消える寸前の、唯一の感覚だった。


次に海里が目を覚ましたのは、土壁に囲まれた、暗く狭い、冷たい倉庫のような空間の中だった。手足は縄で縛られ、身動き一つ取れなかった。





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次のエピソードへ進む 第2話:因縁の片鱗


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(……っ!)
海里は、ゆっくりと瞼を持ち上げた。最初に感じたのは、ひんやりとした湿った空気と、鼻を突く土と草の匂い。視界に広がったのは、見慣れない薄暗い森だった。彼の身体は、固い地面の上に横たわっていた。
(どこだ、ここ……?)
全身に力を込め、ゆっくりと身体を起こそうとする。驚くべきことに、身体に痛みはない。触れてみると、傷一つ見当たらないのだ。着ている服は、事故に遭った時と同じで、泥や草の汚れが少々ついているだけ。致命的な衝撃を受けたはずの痕跡は、どこにも見当たらなかった。
(……俺は、死んでいない、のか?)
理解が追いつかない。意識が暗い感覚へと落ちていく寸前、彼が心から願ったのは、ただ一つ。「鏡花にもう一度会いたい」という、切なる願いだけだった。その鏡花の形見のペンダントだけは何故か懐にあった。
「はは。そんなことを願ったから、こんな状況に繋がったっていうのか……?」
形見のペンダントを握りしめながら馬鹿げた考えがよぎる。そう考えても、確証はない。しかし、いつまでもこの場で立ち止まっているわけにはいかない。
まずは、自分が置かれている現状を理解することが最優先だ。海里は立ち上がり、木々の隙間からわずかに光が差し込む方向へと、歩き始めた。
不思議と迷うという感覚はなく、まるで目に見えない糸が指先に絡み、特定の方向へ引かれているような、奇妙な感覚を彼は覚えていた。
                             □■□■□■□
それから、一体どれほどの時間が経過したのだろうか。彼は森の中を、ひたすら歩き続けた。喉の渇きと空腹が、容赦なく彼の体力を奪っていく。
周囲の木々は、異様に太く、鬱蒼と生い茂っていた。耳に届くのは、風が葉を揺らす音や、遠くで鳥が鳴く声だけ。
その時、近くの草むらの奥から、ガサガサと不自然な物音が聞こえてきた。反射的に、海里は身をかがめ、木の幹の陰に潜み、息を殺した。
音の正体は、異様なものだった。体長一メートル程度の全身が緑色の皮膚に覆われた小型の生き物たち。
それは、手に粗末な木製の棍棒を握っていた。顔は、豚と爬虫類を合わせたような醜悪な相貌で、殺気に満ちた目をギラつかせている。
海里は、その異様な姿に、心臓が凍りつくのを感じた。
(なんだ、……あれは、化け物か?)
緑色の化け物たちは、海里の存在に全く気づくことなく、低い唸り声を上げながら、そのまま森の奥へと去っていった。海里は、その姿が完全に消え去るまで、恐怖と緊張で硬直したまま、身を潜め続けた。
遠ざかった物音が完全に聞こえなくなり、ようやく海里は張り詰めていた息を吐き出した。全身から冷や汗が噴き出している。しかし、彼の置かれた状況が、決して冗談や夢ではないことを、強烈に突きつけてきた。
それから、さらに歩き続けると、木々の合間から開けた場所が見えてきた。そこには、整備された、人の往来を思わせる街道らしきものがあり、その先に、粗末な木造の家々が寄り集まった、小さな村が佇んでいるのが見えた。
情報を得るためにも、まずは人との接触を試みるのが賢明だろう。化け物が徘徊する森の中よりも、人間が暮らす場所の方が、遥かに安全なはずだ。海里は村へと向かった。
村の入り口に差し掛かると、三人の村人が立ち話をしているのが見えた。男二人と、少女が一人。海里に気づくと、三人の会話が途切れ、珍しさと警戒の色を浮かべながら、こちらに目を向けた。
一人は、粗野な革の服越しに覗く筋骨隆々な肉体から、威圧感を漂わせていた。
真ん中に立つもう一人の男は、長年の経験が刻まれた顔をしていた。雪のように白い髭を豊かに蓄え、恰幅の良い体躯をしており、毛皮をあしらった外套を羽織っていた。
一番右の少女は、春の若葉のような明るい緑のワンピースを纏っていた。淡い桃色の髪と大きな瞳をしていて、小柄で控えめな佇まいではあるが、彼女の純粋な性格を映し出しているようだった。
そのうちの一人、村長と思しき、深い皺が刻まれた禿頭の老人、エルドリックが、ゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。
「そこの若者。ずいぶんと変わった服を着ているが、一体どこから来たんじゃ? この辺りでは見かけない顔じゃのう」
海里は、戸惑いながらも、事実を正直に伝えることにした。自分が、見知らぬ森で目を覚ましたこと、森の中を彷徨ったこと、そして緑色の化け物から身を隠しながら、この村に辿り着いたことを。
老人の隣に立っていた、筋骨たくましく、目つきの鋭い青年、バルドが、海里の全身を値踏みするようにじろじろと見ながら、口を開いた。
「へぇ、そんなことがあんのか。記憶喪失かぁ? それとも、訳ありか。森で目を覚ますなんて話、聞いたことねぇな……なあ、エルドリック爺さん。こいつはひょっとして.....」
バルドの言葉に、エルドリックは一瞬、顔を曇らせ、何かを思い留まったように、すぐに笑顔を取り繕った。
「よさんか、バルド。詮索するもんじゃない。ああ、すまんのう、若者。驚かせてしまった。……見ての通り、貧しい村じゃが、旅人をもてなす心は持っておる。温かい食事くらいは用意できる。ゆっくりと休んでいくといい」
エルドリックの隣に立っていた、桃色の髪を持つ少女、リーファが、屈託のない、純粋な笑顔で頷いた。
「お兄さん、休んでからでいいから、畑仕事を手伝ってくれないかしら? 最近、人手が足りなくて、私たちだけじゃ、なかなか大変で……」
海里は、リーファが指差す畑に目をやった。そこは、痩せた土地にまばらに作物が植えられているだけで、厳しい光景だった。村人たちの表情にも疲れと、将来への漠然とした不安が、色濃く滲んでいるように見えた。
「ありがとうございます。俺の名前は海里です。ぜひ、お手伝いさせてください。お世話になります」
その純粋な眼差しと、偽りのない歓迎の態度に、海里は心の奥底で安堵した。
「それにしても、海里だったな。お前さん、丸腰でゴブリンみたいな魔物が出る森を抜けてきたのか? よく生きてたな」
バルドが、驚いたような声で言った。
(丸腰で森を抜けることが、そんなに珍しいことなのか……?それにあの緑色の化け物はゴブリンっていうのか)
海里は内心驚いた。彼の知る世界では、一般人が武装することなど、考えられない。
エルドリックは、この村の名がロルカ村であること、村が自給自足で生活していること、そして、ゴブリンのような魔物から身を守るために、村の周囲に木の柵を巡らせ、櫓のような見張り台を設けていることを語った。
さらに、村の倉庫には、自衛のために使われる、簡単な槍や剣といった武器も常備してあると教えられた。
海里は、その常識の違いに、改めて驚きを覚えた。彼の知る世界では、治安は警察が維持し、個人の武装は厳しく制限されている。
しかし、この世界では、それが当たり前のようだ。ゴブリンのような魔物が徘徊する世界で生きるには、自衛手段は必須なのだろう。そう自分を納得させ、海里は、この異世界での生活を始める覚悟を決めた。
□■□■□■□
数日後、海里はロルカ村で畑作業に汗を流していた。久しぶりに思える肉体労働だったが、不思議と身体はよく動いた。村人たちは熱心に働く新たな労働者として、海里を歓迎しているようだった。
ある日の夜、エルドリックの家で夕食を済ませた後、海里は、エルドリックと、後から家に入ってきたバルドに、改めて話しかけられた。いつもは一緒にいるリーファの姿は見当たらない。静まり返った部屋の空気は、昼間とは違い、どこか張り詰めていた。
バルドの鋭い視線が、海里を貫いた。
「海里、単刀直入に聞くが、お前は、この世界の人間じゃないだろう?」
海里は、心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受け、思わず息をのんだ。何故、そう言い切れるのか?と、問い返す間もなく、バルドが冷たい声で続けた。
「お前みたいな奴は、転生者って呼ばれてるそうだ。五十年前に、アステル大陸に大混乱をもたらした大戦を引き起こした元凶で、このリグリア王国では、危険な存在として見る風潮もあるんだよ」
バルドは、海里の着ている服を指さした。
「お前が着てる服もそうだ。俺たちが今まで見たこともねぇ素材だ。しかも黒髪黒目っていう昔聞いた転生者の特徴もそのままだ」
バルドの言葉はなおも続くが、海里はその剣幕に一言も口を挟めなかった。
「そして何より、お前は魔法のことを知らねぇみたいだ。大なり小なり魔力はあるはずなんだよ。森でゴブリンを見たそうだが、その存在自体に心底驚いていた。このリグリア王国内で生まれ育っていて、魔法や魔物を知らねぇなんて、あり得ねぇんだよ……。違ぇねぇ、お前は、話に聞く転生者だ」
バルドの言葉が、冷たく室内に響いた。海里の背筋に、嫌な汗が伝う。
同時に、エルドリックが震える声で、バルドに囁いた。
「バルド、本当にいいんじゃな……。転生者を捕まえるなんて、恐ろしいことじゃぞ。もし失敗でもしたら……」
「いいんだよ、爺さん。俺たちは、このまま貧しい生活を続けるわけにはいかない。転生者なんて、あの輪廻教団になら、高く売れるだろうさ。しかも、知ってるか? ちょうど今、王都にその教団のお偉いさんが来てるんだとよ。めったにない好機だ」
「本当か? 何をしにこのリグリア王国に来たのやら……」
「何だっていいさ、俺たちには関係ねぇだろ。俺たちが苦しんでるのは、上にいるこのクソみたいな宰相が悪いんだ。……転生者を教団に売って、その金で、俺たちの村の生活の足しになってもらおうぜ」
バルドの言葉を聞きながら、海里は胸の奥底に、鈍く重い痛みを覚えた。彼らが海里を温かく迎え入れ、親切にしてくれたのは、畑仕事の人手が欲しかったからではない。最初から、海里を売り飛ばすという目的があったからなのか。
「……待ってくれ。俺は、あなたたちを騙すつもりはなかった。だが、その転生者とか、危険って一体どういうことだ? 教団に売るって、何を言っているんだ?」
海里がそう言いかけた、その時だった。
「お前自身は、正直、危険そうには見えねぇけどな。でもな……」
バルドが言葉を、途中で一拍置くようにきった。それを合図としたかのように、海里の視界が、急にぐにゃりと歪み始める。
(眠り薬……?)
そう気づいた時には、既に遅かった。身体から急速に力が抜け、地面に倒れ込む海里。意識が薄れていく中、彼の耳に、バルドの、どこか嘲りの混じった声が響いた。
「おぉ、転生者って奴でも、眠り薬はちゃんと効くんだな。良かったぜ、念のため何人か村人を外で待機させてたけど、要らぬ心配だったか。お前には悪いが、俺たちの村の、生活の足しになってくれや」
意識が遠のく中、海里は今更ながら、エルドリックの家の外に、複数の人の気配が潜んでいることに気が付いた。
(……っ、最初から、逃がさないつもりだったのか)
全身の感覚が麻痺し、海里の意識は暗く、深い闇へと沈んでいく。その時、彼の胸ポケットにいつも忍ばせていた、故郷で手に入れたペンダントが、微かに熱を帯びたように感じられた。それは、暗闇に消える寸前の、唯一の感覚だった。
次に海里が目を覚ましたのは、土壁に囲まれた、暗く狭い、冷たい倉庫のような空間の中だった。手足は縄で縛られ、身動き一つ取れなかった。