平日の
豊川稲荷表参道は参拝客はほとんどいなく、程良く落ち着いている。表参道にある店は参拝客相手の店だけでなく、地元の人が普通に利用する店もある。
藤城皐月の行きつけの古本屋、竹井書店もその一つだ。
皐月と
江嶋華鈴が学校帰りに竹井書店の前を通りかかった時、店の中で本の整理をしていた店主の娘と目が合った。彼女は父が始めた古本屋の後を継ぐべく店番をしている。皐月が軽く頭を下げると、竹井さんに手招きをされた。
「江嶋、ちょっとだけ本屋さんに寄ってもいい? 今、店の人に呼ばれちゃってさ」
「いいよ。私も一緒に行こうかな。前からこの店のこと気になってたんだよね。古本屋さんって一人じゃ入りにくいから、藤城君がいてくれると心強いな」
「ははは。別に怖い店じゃないよ」
硝子戸を開け、皐月と華鈴が一緒に店内に入ると、竹井さんが一冊の文庫本を手にして皐月を待っていた。
「皐月君、今日はデート?」
「まあ、そんなとこ」
「あら、いいわね〜。ところで『雪国』、入荷したよ。もしかして新刊で買っちゃった?」
「ううん。まだ買ってない。修学旅行が終わってから読もうと思ってたからね」
「修学旅行か……。稲荷小学校は京都・奈良?」
「そうだよ。知ってるの?」
「私が稲荷小に通っていた時も、修学旅行は京都・奈良だったのね。昔から変わらないんだな……」
皐月は竹井さんの年齢を知らないが、おそらく20年前くらいの話だと思った。母の小百合や住み込みの頼子も京都・奈良へ行ったと言っていた。1200年以上も前からある京の都にしてみれば、20年や30年なんてほんの束の間なのかもしれない。
「ところで『雪国』はどうする?」
「もちろん買うよ。いくら?」
「100円でいいよ。文庫本だし、ちょっと古いから安くしておくね」
「ありがとー」
その『雪国』は古いもののようだ。
装丁が少しくたびれているが、紺色の背景に白い樹木が描かれた日本画が印象的だ。白抜きされてた本のタイトルや著者名がよく映えている。
前回、竹井書店で買った芥川龍之介の『歯車』は200円だった。川端康成の『雪国』が100円なのは格安だ。竹井さんは明らかにまけてくれている。小学生の皐月にとって、100円の差は大きい。
学校近くの新刊書店なら定価で『雪国』を売っていたが、『るるぶ』を買った皐月はこの日に買わなかった。先送りをしたことは小さな幸運だった。
「ところで太宰治の『人間失格』ってある?」
「えっ?」
華鈴がびっくりした顔で皐月を見た。
「『人間失格』か……。確かお店にはなかったかな……。ちょっと待っててね」
店主は店の奥に引っ込んで行ってしまった。店内には皐月と華鈴の二人しかいない。
「ねえ、どうして『人間失格』?」
皐月が『人間失格』を読んでみたいと思ったのは華鈴の部屋に『人間失格』があったのを見つけたからだ。『人間失格』というタイトルが衝撃的だったし、優等生の華鈴は人間失格からは程遠い存在だと思ったからだ。
教室で皐月の後ろの席に座っている文学少女の
吉口千由紀は『人間失格』を『歯車』と同じくらい好きと言っていた。彼女は『歯車』を一番好きな小説だと言っていたので、『人間失格』も千由紀にとっては最も好きな小説の一つということだ。千由紀が好きな小説だから、『人間失格』はおそらくヤバい小説だ。
「前に江嶋の部屋に行っただろ。その時、部屋に『人間失格』があったのを見たんだ」
「やだっ! そんなとこ見てたの?」
皐月は好奇心に抗えなかった。華鈴がなぜ『人間失格』に興味を持ったのか、気になる。
「たまたま目に入ったんだよ。ちょうど文学に興味を持ち始めた頃だからさ、自然と目に飛び込んでくるんだよ」
「まあ、見えるところに置いていた私が悪いんだけどさ……。あの本を読んだって思われるのは、ちょっと恥ずかしいかな……」
「別に恥ずかしがらなくてもいいんじゃないの?」
「まあ、藤城君は読んでいないからわかんないと思うけど、見られたくない心の中を覗かれたような感じ? あーっ、もういいや!」
竹井さんが店の奥から戻って来た。手には一冊の文庫本があった。
「お待たせ。私の蔵書から持ってきたよ。これ、よかったらあげる」
皐月が手渡されたのはモノトーンの抽象画のような装丁の文庫本、太宰治の『人間失格』だった。カバーが掛けられていたのか、丁寧に読まれていたのか、とても状態の良いものだった。
「いいよ、くれなくても。竹井さんは古本屋なんだから売ろうよ。俺、いくらでも買うからさ。でも定価以上は勘弁してね」
「そう? じゃあこれも100円でいいよ。皐月君が大事に読んでくれるんだったら」
「いいの? ……ありがとう」
皐月は本を2冊受け取って代金を払った。皐月はランドセルにいつも500円を忍ばせている。
「皐月君は『雪国』といい『人間失格』といい、小学生が読まない本を読みたがるね。今日買った本はちょっと難しいよ」
「難しいって、言葉が難しいってこと?」
「言葉はそんなに難しくないけれど、内容が大人向けかな。高校生や大学生でも難しいかも」
千由紀も似たようなことを言っていた。あの小説は経験がないとわからない、小学生の想像力の限界を超えてる、と。
「じゃあお薦めしないってこと?」
「そんなことないよ。小学生なりに読めばいいと思う。それに精神的に背伸びしなきゃ成長はないからね。大人になってから読み返すのもいいわね。まあ、わからないことがあったら竹井書店にいらっしゃい。若い子と文学の話ができるなんて楽しいわ」
「ありがとう。じゃあ聞きたいことがあったら、竹井さんのところに聞きに来るね」
皐月と華鈴は竹井書店を出て、豊川稲荷表参道の入り口の辻のところで立ち止まった。昭和の時代の広告の
琺瑯看板がベタベタと張られているところで皐月は華鈴と別れなければならない。
「じゃあ、俺はここで。もうちょっと江嶋と話がしたかったな……」
「友達と約束があるんでしょ。お家で待っているんだから、早く行ってあげないと」
「そうだな」
「私、帰るね」
「ああ」
「バイバイ」
「……じゃあ、また明日」
華鈴は
豊川進雄神社方面へ歩いて行き、皐月は右手の細い路地に入っていった。