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200 疑似家族の団欒

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 芸妓(げいこ)明日美(あすみ)藤城皐月(ふじしろさつき)検番(けんばん)を出る時に芸妓(げいこ)組合長の京子(きょうこ)に見送られた。皐月は明日美を家まで送ってから、帰途についた。
 明日美と別れて一人になると、皐月は服に移っていた明日美の匂いが気になった。
 この日は皐月の母の小百合(さゆり)にお座敷が入っていないことを京子に教えてもらった。家に帰れば母がいることがわかれば、いつもならホッとする。しかし、今日ばかりは少し緊張する。
 皐月の母は鼻が利く。嗅覚が敏感なうえ洞察力にも優れているので、明日美と会っていたことは必ず見抜かれる。
 うかつなことを口にすると明日美との関係を疑われかねない。明日美のことを聞かれたらどんな風に話すのか、いろいろなパターンの想定問答を用意しておかないと安心できない。
 余韻に浸ることもなく、あっという間に家についてしまった。小百合寮の行燈(あんどん)にはすでに明かりが灯っていた。
 皐月が小学校から帰る時間になると、住み込みの及川頼子(おいかわよりこ)がいつも玄関の鍵を開けておいてくれるが、皐月の帰りが遅くなると、防犯を考えて鍵をかけてしまう。皐月のランドセルの肩ベルトのDカンにはキーケースがぶら下がっている。皐月はキーケースから鍵を付けたリールを引っ張り出し、玄関の鍵を開けた。
 三和土(たたき)にはスニーカーがなかった。及川祐希(おいかわゆうき)はまだ高校から帰ってきていないようだ。居間には誰もいないので、小百合と頼子は台所にいるのだろう。

「ただいま」
 二人は楽しそうにおしゃべりをしながら食事の用意をしていた。頼子がこの家に来てから、母はいつも楽しそうだ。
「遅かったね」
「うん。委員会が終わった後、検番に寄ってたら遅くなっちゃった」
「ふ〜ん。明日美に会ってたの?」
 小百合とは距離が離れているので、明日美の匂いはわからないはずだ。当てずっぽうで言われたことだと思うが、母の勘の良さに皐月は震えた。
「うん。帰り道に検番の稽古場の窓から声をかけられた」
「明日美ちゃん、元気だった?」
「ん……少し疲れてたかな。根を詰めて稽古に打ち込んでいたみたいだから」
 小百合が明日美のことをちゃん付けで呼ぶのは珍しい。皐月にはその意図を測りかねたが、少なくとも明日美と会っていたことに悪感情を抱いているわけではなさそうなので安心した。
「あの子らしいわね。休みの日くらい、家でゴロゴロしていればいいのに」
「お母さんも心配していたみたいで、俺に明日美の稽古の邪魔をしてこいって言ってきた」
「うちの芸妓(げいこ)組合のレベルだと、明日美がこれ以上研鑽(けんさん)を積んでも、あまり意味がないんだけどね……」
 京子が明日美のことを心配しているのと対照的に、母は明日美の行動に若干の不快感を感じているようだ。皐月にはそれが寂しくて、これ以上、母の心境を深く推し測る気にはなれなかった。

 小百合と頼子が珍しい料理を作っていた。家では食べたことのないビーフシチューだ。
 部屋が少しお酒臭いな、と思って台所を観察してみると、輸入物の赤ワインと、ワインを飲んだ形跡のあるグラスが二つ見えた。これならアルコールの臭いに紛れて明日美の匂いに気付かれずに済むかもしれない。
 皐月に少し遅れて祐希が帰ってきた。祐希はいつも同じ時間の電車に乗り、夕食の時間に間に合うように気を使っている。
 一度だけ電車を一本送らせて帰ってきた時、祐希は頼子にひどく怒られたことがあった。二人の様子を見ていた皐月には、頼子がなぜ祐希に怒っていたのかがわからなかった。その件以来、夕食の時間の午後6時が祐希の門限になり、それが皐月の門限にもなっている。
 門限は祐希が恋人と会う時間を制限している。及川母娘(おやこ)が家に来るまでは家に帰る時間なんて気にしたことがなかった。しかし、祐希が門限を気にするようになって、皐月は初めて門限を鬱陶しく思った。
 この日、皐月は夕食に間に合わせるためだけに、明日美と一緒にいたい気持ちを振り切って、明日美のマンションに寄らずに帰ってきた。

 この家では疑似家族の団欒の時間が大切なものだとされている。
 小百合が家にいる時の夕食は楽しい時間だ。しかしそれは小百合が上手く場の空気を治めているからだ。宴席の客をさばくことに長けている小百合にとって、この疑似家族をまとめることなど容易(たやす)いことだ。
 頼子と祐希と三人の時は皐月にとってまだ、心から安らげる時間ではない。決してギクシャクしているわけではないけれど、及川親子が皐月に気を使っているのがわかって心苦しい。
 皐月は母のように上手く二人を扱うことができない。学校での様子を面白おかしく話すことで、少しでも二人を楽しませるように心掛けている。祐希と頼子は皐月の話を笑って聞いてくれるが、本当に楽しんでいるのか、愛想笑いをしているのかは皐月にはまだわからない。



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 |芸妓《げいこ》の|明日美《あすみ》と|藤城皐月《ふじしろさつき》は|検番《けんばん》を出る時に|芸妓《げいこ》組合長の|京子《きょうこ》に見送られた。皐月は明日美を家まで送ってから、帰途についた。
 明日美と別れて一人になると、皐月は服に移っていた明日美の匂いが気になった。
 この日は皐月の母の|小百合《さゆり》にお座敷が入っていないことを京子に教えてもらった。家に帰れば母がいることがわかれば、いつもならホッとする。しかし、今日ばかりは少し緊張する。
 皐月の母は鼻が利く。嗅覚が敏感なうえ洞察力にも優れているので、明日美と会っていたことは必ず見抜かれる。
 うかつなことを口にすると明日美との関係を疑われかねない。明日美のことを聞かれたらどんな風に話すのか、いろいろなパターンの想定問答を用意しておかないと安心できない。
 余韻に浸ることもなく、あっという間に家についてしまった。小百合寮の|行燈《あんどん》にはすでに明かりが灯っていた。
 皐月が小学校から帰る時間になると、住み込みの|及川頼子《おいかわよりこ》がいつも玄関の鍵を開けておいてくれるが、皐月の帰りが遅くなると、防犯を考えて鍵をかけてしまう。皐月のランドセルの肩ベルトのDカンにはキーケースがぶら下がっている。皐月はキーケースから鍵を付けたリールを引っ張り出し、玄関の鍵を開けた。
 |三和土《たたき》にはスニーカーがなかった。|及川祐希《おいかわゆうき》はまだ高校から帰ってきていないようだ。居間には誰もいないので、小百合と頼子は台所にいるのだろう。
「ただいま」
 二人は楽しそうにおしゃべりをしながら食事の用意をしていた。頼子がこの家に来てから、母はいつも楽しそうだ。
「遅かったね」
「うん。委員会が終わった後、検番に寄ってたら遅くなっちゃった」
「ふ〜ん。明日美に会ってたの?」
 小百合とは距離が離れているので、明日美の匂いはわからないはずだ。当てずっぽうで言われたことだと思うが、母の勘の良さに皐月は震えた。
「うん。帰り道に検番の稽古場の窓から声をかけられた」
「明日美ちゃん、元気だった?」
「ん……少し疲れてたかな。根を詰めて稽古に打ち込んでいたみたいだから」
 小百合が明日美のことをちゃん付けで呼ぶのは珍しい。皐月にはその意図を測りかねたが、少なくとも明日美と会っていたことに悪感情を抱いているわけではなさそうなので安心した。
「あの子らしいわね。休みの日くらい、家でゴロゴロしていればいいのに」
「お母さんも心配していたみたいで、俺に明日美の稽古の邪魔をしてこいって言ってきた」
「うちの|芸妓《げいこ》組合のレベルだと、明日美がこれ以上|研鑽《けんさん》を積んでも、あまり意味がないんだけどね……」
 京子が明日美のことを心配しているのと対照的に、母は明日美の行動に若干の不快感を感じているようだ。皐月にはそれが寂しくて、これ以上、母の心境を深く推し測る気にはなれなかった。
 小百合と頼子が珍しい料理を作っていた。家では食べたことのないビーフシチューだ。
 部屋が少しお酒臭いな、と思って台所を観察してみると、輸入物の赤ワインと、ワインを飲んだ形跡のあるグラスが二つ見えた。これならアルコールの臭いに紛れて明日美の匂いに気付かれずに済むかもしれない。
 皐月に少し遅れて祐希が帰ってきた。祐希はいつも同じ時間の電車に乗り、夕食の時間に間に合うように気を使っている。
 一度だけ電車を一本送らせて帰ってきた時、祐希は頼子にひどく怒られたことがあった。二人の様子を見ていた皐月には、頼子がなぜ祐希に怒っていたのかがわからなかった。その件以来、夕食の時間の午後6時が祐希の門限になり、それが皐月の門限にもなっている。
 門限は祐希が恋人と会う時間を制限している。及川|母娘《おやこ》が家に来るまでは家に帰る時間なんて気にしたことがなかった。しかし、祐希が門限を気にするようになって、皐月は初めて門限を鬱陶しく思った。
 この日、皐月は夕食に間に合わせるためだけに、明日美と一緒にいたい気持ちを振り切って、明日美のマンションに寄らずに帰ってきた。
 この家では疑似家族の団欒の時間が大切なものだとされている。
 小百合が家にいる時の夕食は楽しい時間だ。しかしそれは小百合が上手く場の空気を治めているからだ。宴席の客をさばくことに長けている小百合にとって、この疑似家族をまとめることなど|容易《たやす》いことだ。
 頼子と祐希と三人の時は皐月にとってまだ、心から安らげる時間ではない。決してギクシャクしているわけではないけれど、及川親子が皐月に気を使っているのがわかって心苦しい。
 皐月は母のように上手く二人を扱うことができない。学校での様子を面白おかしく話すことで、少しでも二人を楽しませるように心掛けている。祐希と頼子は皐月の話を笑って聞いてくれるが、本当に楽しんでいるのか、愛想笑いをしているのかは皐月にはまだわからない。