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リアル

ー/ー



 決戦の日の朝は、またカオスから始まった。
 いつもなら寝起きの悪い翼が、今日に限って妙にハイテンションだったのが運の尽きだ。彼は「あー! あー!」と歓喜の歌を口ずさみながら、牛乳をたっぷりとかけたチョコレート味のシリアルボウルを、フリスビーのごとく宙に放った。
「もう知らん! 私の管轄外だ!」
 母は本日三度目となる匙投げ宣言を行い、自室へと撤退していった。私は悲鳴を上げる暇もなく、雑巾片手に床を這いずり回る。
 そんなカオスの中、朝早くやってきた涼子だけは違っていた。彼女は我が家のリビングの鏡の前で、イベント用フルメイクを完成させていたのだ。
「美咲さん、準備できた? 健太さん、もう下に着いてるってライン来たわよ」
 涼子の凛とした声に、私は現実に引き戻された。
 私は翼に、夜なべして作った「NOOON」と書かれた手作り団扇を持たせた。翼はそれを凶器かブーメランのように振り回そうとしたが、なんとか宥めすかして靴を履かせ、私たちはドタバタと玄関を飛び出した。
 秋晴れの空の下、マンションのエントランス前には見慣れたミニバンが停まっていた。
 運転席のドアが開き、夫・健太が降りてくる。
「おう、久しぶり」
 その姿を見た瞬間、私と涼子は時が止まったように言葉を失った。
 そこに立っていたのは、私の記憶にある少し野暮ったいサラリーマン風の夫ではなかった。朝日を浴びて青白く輝く、つややかに剃り上げられた、まごうことなき「坊主頭」の男だったのだ。
「……え、なに? 野球部に入り直したの?」
 あまりの衝撃に、私の口から素っ頓狂な問いが飛び出す。
 健太は自分の頭をジョリジョリと撫で、「あ、ああ。これ? 心機一転だよ、心機一転! ハハハ!」と、やけに明るく、しかしどこか悟りを開いたような乾いた笑い声を上げながら、私たちを車内へと促した。
 車内は、表現しがたい奇妙な空気に包まれていた。
 後部座席では、翼が涼子に買ってもらったばかりのミニカーを窓ガラスに押し当てて遊んでいる。平和なのは彼だけだ。
 助手席の私は、推しに会えるという爆発寸前の興奮と、夫の謎すぎるイメチェンに対する困惑とで、感情のミキサーにかけられている気分だった。
 東関東自動車道に入り、窓の外を流れる景色が単調なものに変わる。
 沈黙に耐えきれず、私は恐る恐る口を開いた。
「あのさ、健太。今日なんだけど……実は、私と涼子も……」
 海に行くふりをして、イベント会場に行くこと。それを白状しようとした瞬間、健太はハンドルを握ったまま、穏やかな微笑みを浮かべて遮った。
「分かってるよ。幕張メッセだろ?」
「えっ」
「なんとなく察しはついていたよ」
 健太の声に、怒りの色は全くなかった。むしろ、全てを受け入れたような慈愛すら感じる。たぶん同乗している涼子に気を使っているのだろうが、それにしても様子がおかしい。この「仏」のようなオーラは一体何なのだ。
 やがて、巨大な流線型の屋根が見えてきた。オタクたちの聖地、幕張メッセだ。
 周辺の歩道には、すでにグッズを身につけたファンの群れが見える。その光景を目にした瞬間、私の心臓が早鐘を打ち、指先が痺れ出した。
「着いた! 健太、ここで降ろして! 翼のこと、本当に頼んだから!」
 車が路肩に停まるやいなや、私と涼子は転がるようにスライドドアを開けた。私たちの戦場(フィールド)は、もう目の前だ。
「じゃあ、終わったら連絡するね! 海、楽しんできて! ありがと!」
 私は早口でまくし立て、推しの待つ方角へ走り出そうとした。
 その時だった。
「美咲、ちょっと待って」
 引き止める健太の声。それはいつになく真剣で、低く響いた。
 私は思わず足を止め、振り返った。
 その空気を敏感に察知した涼子が、「あ、私、翼くんとあっちの自販機でジュース買ってくるわね。翼くん、行こうか」と、神がかった気遣いを見せ、翼の手を引いて少し離れた場所へと移動してくれた。
 健太が、私をまっすぐに見つめていた。その瞳は、出会った頃よりもずっと深く、澄んでいた。
「美咲、大事な話があるんだ」
 このタイミングで? 
 嫌な予感が背筋を走る。推しに会う直前に、現実的なトラブルは勘弁してほしい。
「え、何? 急に。家のローンの繰り上げ返済の話?」
 私の現実的すぎる返答に、健太は少し悲しそうな顔をして、首を横に振った。
 そして、一度深く息を吸い込み、意を決したように口を開いた。
「実は、この間の奈良への出張の時……俺、お寺で自分を見つめ直して……出家したんだ」
「……は?」
 出家? シュッケ? 家を出るってこと? いや、物理的に坊主になってるし。フリーターになるとか、そういう比喩?
 私の脳が理解を拒み、再起動を繰り返す。
「そこで……好きな人ができたんだ」
 その言葉で、ようやく思考回路が繋がった。
 ああ、なんだ。やっぱり女か。
 出張先での浮気。単身赴任のよくある結末。そうか、そうか。
 私の頭の中では、瞬時に冷徹な計算機が作動し始めた。慰謝料の相場、財産分与、そして養育費。
 だが、健太が続けた言葉は、私の全ての計算と、常識と、世界観を、根底から破壊した。
「相手は……修行中のお坊さんなんだ」
 …………。
 ………………は?
 時が止まった。
 遠くから聞こえるイベント会場の喧騒も、涼子たちの話し声も、風の音さえも、全てが遠のいていく。
「もし離婚を考えるなら応じてもいい。でも、これは俺の我儘だけど、美咲と翼とは、これまで通り家族でいたいと思ってる」
 健太の目は真剣そのものだった。
 私の脳内で、中学時代に初めて読んだやおい本の記憶から、昨日までピクシブで読み漁っていた推しカップリングの幻覚まで、全ての腐女子ライフが走馬灯のように駆け巡った。
 男同士の恋愛。それは私にとって、神聖で、美しく、そして何より「妄想(ファンタジー)」だからこそ尊い世界だったはずだ。画面の向こうのタイの俳優たちが演じるからこそ、輝くものだったはずだ。
 それが、なぜ。
 よりにもよって、私の夫(リアル)で。
 しかも、相手は僧職(モンク)? 属性過多にも程がある。
 健太の、剃り上げた頭が太陽に反射して光る。その真剣な眼差しが、私に突き刺さる。
 容量オーバー。システムダウン。
 それが、引き金になった。
「私は中学から腐っていた筋金入りの腐女子だけど、リアルは求めてないぃぃぃぃぃ!!!!」
 私の魂の絶叫が、幕張の晴れ渡った空に虚しく、そして鋭く響き渡った。
 カラン、コロン……。
 遠くで、涼子が買ったばかりの缶ジュースを地面に落とす音が聞こえた。
 推しとの夢の祭典が始まる、ほんの数分前の出来事だった。



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 いつもなら寝起きの悪い翼が、今日に限って妙にハイテンションだったのが運の尽きだ。彼は「あー! あー!」と歓喜の歌を口ずさみながら、牛乳をたっぷりとかけたチョコレート味のシリアルボウルを、フリスビーのごとく宙に放った。
「もう知らん! 私の管轄外だ!」
 母は本日三度目となる匙投げ宣言を行い、自室へと撤退していった。私は悲鳴を上げる暇もなく、雑巾片手に床を這いずり回る。
 そんなカオスの中、朝早くやってきた涼子だけは違っていた。彼女は我が家のリビングの鏡の前で、イベント用フルメイクを完成させていたのだ。
「美咲さん、準備できた? 健太さん、もう下に着いてるってライン来たわよ」
 涼子の凛とした声に、私は現実に引き戻された。
 私は翼に、夜なべして作った「NOOON」と書かれた手作り団扇を持たせた。翼はそれを凶器かブーメランのように振り回そうとしたが、なんとか宥めすかして靴を履かせ、私たちはドタバタと玄関を飛び出した。
 秋晴れの空の下、マンションのエントランス前には見慣れたミニバンが停まっていた。
 運転席のドアが開き、夫・健太が降りてくる。
「おう、久しぶり」
 その姿を見た瞬間、私と涼子は時が止まったように言葉を失った。
 そこに立っていたのは、私の記憶にある少し野暮ったいサラリーマン風の夫ではなかった。朝日を浴びて青白く輝く、つややかに剃り上げられた、まごうことなき「坊主頭」の男だったのだ。
「……え、なに? 野球部に入り直したの?」
 あまりの衝撃に、私の口から素っ頓狂な問いが飛び出す。
 健太は自分の頭をジョリジョリと撫で、「あ、ああ。これ? 心機一転だよ、心機一転! ハハハ!」と、やけに明るく、しかしどこか悟りを開いたような乾いた笑い声を上げながら、私たちを車内へと促した。
 車内は、表現しがたい奇妙な空気に包まれていた。
 後部座席では、翼が涼子に買ってもらったばかりのミニカーを窓ガラスに押し当てて遊んでいる。平和なのは彼だけだ。
 助手席の私は、推しに会えるという爆発寸前の興奮と、夫の謎すぎるイメチェンに対する困惑とで、感情のミキサーにかけられている気分だった。
 東関東自動車道に入り、窓の外を流れる景色が単調なものに変わる。
 沈黙に耐えきれず、私は恐る恐る口を開いた。
「あのさ、健太。今日なんだけど……実は、私と涼子も……」
 海に行くふりをして、イベント会場に行くこと。それを白状しようとした瞬間、健太はハンドルを握ったまま、穏やかな微笑みを浮かべて遮った。
「分かってるよ。幕張メッセだろ?」
「えっ」
「なんとなく察しはついていたよ」
 健太の声に、怒りの色は全くなかった。むしろ、全てを受け入れたような慈愛すら感じる。たぶん同乗している涼子に気を使っているのだろうが、それにしても様子がおかしい。この「仏」のようなオーラは一体何なのだ。
 やがて、巨大な流線型の屋根が見えてきた。オタクたちの聖地、幕張メッセだ。
 周辺の歩道には、すでにグッズを身につけたファンの群れが見える。その光景を目にした瞬間、私の心臓が早鐘を打ち、指先が痺れ出した。
「着いた! 健太、ここで降ろして! 翼のこと、本当に頼んだから!」
 車が路肩に停まるやいなや、私と涼子は転がるようにスライドドアを開けた。私たちの戦場(フィールド)は、もう目の前だ。
「じゃあ、終わったら連絡するね! 海、楽しんできて! ありがと!」
 私は早口でまくし立て、推しの待つ方角へ走り出そうとした。
 その時だった。
「美咲、ちょっと待って」
 引き止める健太の声。それはいつになく真剣で、低く響いた。
 私は思わず足を止め、振り返った。
 その空気を敏感に察知した涼子が、「あ、私、翼くんとあっちの自販機でジュース買ってくるわね。翼くん、行こうか」と、神がかった気遣いを見せ、翼の手を引いて少し離れた場所へと移動してくれた。
 健太が、私をまっすぐに見つめていた。その瞳は、出会った頃よりもずっと深く、澄んでいた。
「美咲、大事な話があるんだ」
 このタイミングで? 
 嫌な予感が背筋を走る。推しに会う直前に、現実的なトラブルは勘弁してほしい。
「え、何? 急に。家のローンの繰り上げ返済の話?」
 私の現実的すぎる返答に、健太は少し悲しそうな顔をして、首を横に振った。
 そして、一度深く息を吸い込み、意を決したように口を開いた。
「実は、この間の奈良への出張の時……俺、お寺で自分を見つめ直して……出家したんだ」
「……は?」
 出家? シュッケ? 家を出るってこと? いや、物理的に坊主になってるし。フリーターになるとか、そういう比喩?
 私の脳が理解を拒み、再起動を繰り返す。
「そこで……好きな人ができたんだ」
 その言葉で、ようやく思考回路が繋がった。
 ああ、なんだ。やっぱり女か。
 出張先での浮気。単身赴任のよくある結末。そうか、そうか。
 私の頭の中では、瞬時に冷徹な計算機が作動し始めた。慰謝料の相場、財産分与、そして養育費。
 だが、健太が続けた言葉は、私の全ての計算と、常識と、世界観を、根底から破壊した。
「相手は……修行中のお坊さんなんだ」
 …………。
 ………………は?
 時が止まった。
 遠くから聞こえるイベント会場の喧騒も、涼子たちの話し声も、風の音さえも、全てが遠のいていく。
「もし離婚を考えるなら応じてもいい。でも、これは俺の我儘だけど、美咲と翼とは、これまで通り家族でいたいと思ってる」
 健太の目は真剣そのものだった。
 私の脳内で、中学時代に初めて読んだやおい本の記憶から、昨日までピクシブで読み漁っていた推しカップリングの幻覚まで、全ての腐女子ライフが走馬灯のように駆け巡った。
 男同士の恋愛。それは私にとって、神聖で、美しく、そして何より「妄想(ファンタジー)」だからこそ尊い世界だったはずだ。画面の向こうのタイの俳優たちが演じるからこそ、輝くものだったはずだ。
 それが、なぜ。
 よりにもよって、私の夫(リアル)で。
 しかも、相手は僧職(モンク)? 属性過多にも程がある。
 健太の、剃り上げた頭が太陽に反射して光る。その真剣な眼差しが、私に突き刺さる。
 容量オーバー。システムダウン。
 それが、引き金になった。
「私は中学から腐っていた筋金入りの腐女子だけど、リアルは求めてないぃぃぃぃぃ!!!!」
 私の魂の絶叫が、幕張の晴れ渡った空に虚しく、そして鋭く響き渡った。
 カラン、コロン……。
 遠くで、涼子が買ったばかりの缶ジュースを地面に落とす音が聞こえた。
 推しとの夢の祭典が始まる、ほんの数分前の出来事だった。