作戦成功の熱狂から数日が過ぎた、平日の昼下がり。
私と涼子は、新大久保の雑居ビルにあるタイ料理店「バーン・タム」の奥まったテーブル席に陣取っていた。
店内に充満するナンプラーとパクチーの濃厚な香り、そして厨房から聞こえる激しい鍋振りの音が、私たちの戦闘意欲を掻き立てる。テーブルの上には、生春巻きの皿と、昼間から堂々と鎮座する琥珀色の液体――シンハービール。そしてそれらの隙間を埋め尽くすように、今回の幕張イベントで投入予定のFC(ファンクラブ)特製団扇のデザイン案が、カオスな曼荼羅のように広げられていた。
「だから! なんでノンの尊い顔の真横に、千葉のゆるキャラ『チーバくん』を配置する必要があるわけ?」
涼子が、私が自信満々に描き上げたラフ画を指さし、眉間に深い皺を寄せて唸った。まるで理解不能な現代アートを見せられた評論家のような顔だ。
彼女の隣では、今回助っ人として召喚されたFC会計担当の現役女子大生、ユイちゃんが、引きつった笑みを浮かべて固まっている。
「美咲さん……。『CHIBAにようこそ!』という歓迎の意図は痛いほど分かります。でも、この美咲さん作画のチーバくん、目が完全にイッちゃってて、ホラーなんですけど……」
「『推しとご当地キャラの融合』って、斬新でエモいと思わない?」
「エモいどころか、ノンのパブリックイメージが崩壊するわ」
涼子が一刀両断した。その声には、私のセンスに対する長年の諦観と、一抹の殺意が混じっている。
結局、デザイン論争は涼子の鶴の一声で幕を閉じた。「シンプルに、タイ語と日本語で愛を叫ぶ。余計なイラストは一切排除」という、極めて無難かつ賢明な結論だ。
気を取り直して、次の議題へ移る。布スローガンのキャッチコピーだ。
「やっぱり王道で『王子様、降臨』とか?」
「昭和のアイドルか。ベタすぎ。却下」
涼子は生春巻きを口に放り込みながら即答する。
「じゃあ……『あなたの瞳にガパオライス』とか……」
「意味不明」
涼子のツッコミが冴えわたる。私のボキャブラリーが貧困なのか、空腹が思考を鈍らせているのか。
その時、それまで控えめに相槌を打っていたユイちゃんが、おずおずと手を挙げた。
「あの、シンプルに、『NON is NO.1』とかはどうでしょう。NONとNO.1で韻も踏めますし」
一瞬の静寂の後、私と涼子は顔を見合わせた。
「……ユイちゃん、あんた天才か!」
私は膝を打った。シンプル・イズ・ベスト。なぜその境地に辿り着けなかったのか。ユイちゃんが安堵の表情を浮かべ、涼子は満足げに頷くと、結露したグラスを傾けシンハービールを喉に流し込んだ。
やがて、メインディッシュのカオマンガイが運ばれてきた。茹で鶏とジャスミンライスのスパイシーな香りが鼻腔をくすぐる。
一口頬張り、至福の味に表情を緩ませたところで、涼子がふっと深く、重い息を吐いた。
「はぁ……。実はさ、息子の個人面談のときに」
さっきまでの鬼軍曹のような参謀の顔は消え失せ、そこには一人の疲弊した母親がいた。
「先生に『集中力が足りません』『お友達との距離感が独特です』って言われてさ。仕事休んで面談行ったのに、聞かされるのは遠回しなダメ出しばっかり。面と向かって言われると、心がバキバキに折れるのよね」
ビールの泡が弾ける微かな音が聞こえるほど、空気が沈んだ。
私も、手元のスプーンを置いて口を開いた。
「分かる……。うちはこの前、スーパーで癇癪起こしてさ。床に寝そべって、テコでも動かなくなっちゃって」
脳裏に蘇る、あの冷たい床の感触と、周囲の視線。
「『あーあ、躾がなってないわね』みたいな視線が、もう槍みたいに全方向から突き刺さってくるの」
私たちは、推しの話をする時の少女のような瞳とは真逆の、生活に摩耗した淀んだ目で互いを見つめ合った。
これが、私たちの現実(リアル)。キラキラしたタイの俳優を追いかける時間の裏側には、泥臭く、出口の見えない日常が横たわっている。
「でもさ」と、私はグラスを握りしめ、言葉に力を込めた。
「だからこそ、幕張に行かなきゃならないんだよね。この槍でボロボロに蜂の巣にされた心を、推しの発する聖なる光で治癒しないと、私たち、もう立ち上がれない」
「……それ、真理ね」
涼子は深く頷き、グラスに残ったビールをぐいっと呷った。
その時だった。
テーブルの上に置かれた涼子のスマホが、「ピコン!」という通知音を鳴らした。
条件反射で画面を見た彼女の目が、限界までカッと見開かれる。
「嘘……タワンがインスタライブ始めた!」
その一言で、店内の空気は一変した。
湿っぽい愚痴大会は強制終了。テーブルは一瞬にして「最前線のライブ会場」へと変貌を遂げた。私たちはスマホの小さな画面に頭を寄せ合い、食い入るように見つめた。
画面の中には、移動車の中と思われるタワンの姿。彼はカメラに向かって手を振り、得意の流暢な日本語で語りかけてきた。
『サワディークラップ! みんな、元気? 幕張のイベント、すっごく楽しみだよ! みんなに早く会いたいな。あ、それとね……サプライズも、あるよ』
サプライズ。
私と涼子は同時に息をのんだ。
その時だ。タワンがカメラのアングルを少しずらし、隣の人物を映し出した。
『ほら、ノン。挨拶して』
画面の端から、見慣れた、しかし神々しい笑顔がひょっこりと現れた。
――ノンだ。
私は歓喜のあまり、喉の奥から「ひいいいいッ!」という文字にならない悲鳴を上げた。
ノンがいる。タワンと一緒にいる。背景の景色、あの高速道路の防音壁……あれは間違いなく日本だ。
「ノンが……日本に……空気が……!」
同じ日本の空気を吸っている。それだけで、酸素濃度が上がった気がした。
あまりにうるさかったのか、涼子に無言で後頭部を小突かれたが、痛みなど感じない。隣のユイちゃんに至っては、だらしなく口を開けたまま、瞬きすら忘れて石化している。
ほんの数分の配信。しかし、それは私たちにとって永遠にも等しい至福の時間だった。
ライブが終わり、黒くなった画面に自分の間抜けな顔が映り込む。
目の前のカオマンガイはとっくに冷めている。しかし、心臓は灼熱のように熱い。
「……帰りましょう」
火照った心を鎮めるように、涼子が静かに、厳かに口火を切った。
「……うん。帰って、戦(いくさ)の準備をしなきゃ」
私たちは戦友のように深く頷き合い、会計を済ませて店を出た。
総武線の無機質な揺れに身を任せながら、私は徐々に、ゆっくりと現実へと引き戻されていく。
スマホを開くと、夫・健太からLINEが届いていた。
『週末のプラン考えたよ! 翼が好きそうな、海の近くの大きな公園を見つけたんだ。その後、海沿いのカフェで休憩なんてどうかな?』
添付された地図アプリのスクリーンショット。そこには、几帳面な彼らしく、ルートや所要時間までメモされている。
彼の、父親として頑張ろうとするウキウキした気持ちが文面から透けて見えて、胸の奥がチクリと痛んだ。
スマン。本当にスマン。
でも、仕事第一人間で「趣味? なにそれ?」な健太が、私たちの推し活の手助けに使われると知ったら、きっとへそを曲げるどころか、理解不能でフリーズするだろう。
マンションの玄関ドアを開けると、嗅ぎ慣れた家の匂いがした。
リビングに入ると、案の定、床はおもちゃと絵本で盛大に爆撃された後のような惨状だった。ソファーでぐったりしている母が、私を見て「おかえり……」と力なく笑う。魂が半分口から出ているようだ。
「あー! ママ!」
翼は、私が買ってきた電車のキーホルダーを見つけると、奇声をあげて飛びついてきた。
その小さな体の重みと体温が、私を完全に「母」へと戻す。
でも、悪くない。この子の笑顔があるから、私はまた頑張れる。そして、推しがいるから、この笑顔を守れるのだ。