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腐女子の悪だくみ

ー/ー



 ドスン、ドスン、と鈍い衝撃が尻に伝わってくる。
 息子の翼が、三人がけのソファーをトランポリン代わりにして跳ね回っているのだ。視界の隅で何かが宙を舞ったかと思うと、プラスチックが硬い床に打ち付けられる乾いた破砕音がリビングに響き渡った。
 私は反射的に顔を上げた。テレビのリモコンだ。電池カバーが弾け飛び、単三電池がコロコロとフローリングに転がっていく。
「翼、やめなさい! 壊れるでしょ!」
 私の制止など、彼の耳には届かない。あるいは、雑音程度にしか認識されていないのか。彼はソファーから飛び降りると、今度は床をドタドタと踏み鳴らし始めた。ここはお世辞にも防音性が高いとは言えないマンションの二階だ。階下の住人からの苦情という時限爆弾のタイマーが、刻一刻と進んでいる気がして胃が痛む。
「おかあさん、ちゃんと翼を見ててよ!」
 私の叫びに対する母の返事は、ベランダの窓越しにくぐもって聞こえた。
「洗濯物干してるの! あんたが見てなさいよ!」
「私は今、手が離せないの……!」
 嘘です。そんなことはありません。
 私は今、現実逃避という名の極上の果実を貪っている最中なのです。
 母が家事をしてくれている以上、文句は言えない。私はため息を一つ飲み込み、観念して立ち上がった。翼の背後に回り込み、その小さな体を優しく、しかし確固たる意志を込めてホールドする。暴れるな、と念じるように。
「落ち着いて」
 耳元で低く、強めに囁く。私のトーンが変わったことを敏感に察知したのか、翼はピタリと動きを止め、バツが悪そうに身をよじると、脱兎のごとく自分の部屋――兼、私の寝室へと駆け込んでいった。
 ふう、と息を吐き出し、私は散乱したリビングのテーブルに向き直った。そこにあるノートパソコンの画面には、タイ語の文字列と、ファン同士の熱狂的なチャットログが滝のように流れている。
 画面の向こうにいるのは、私の生きる希望。タイの人気俳優、ノンだ。彼のファンイベントに向けたログである。
 今日は日曜日。翼が通う特別支援学校は休みだ。多動傾向のある彼を受け入れてくれるデイサービスは、日曜日はどこも満員か休業。つまり、朝から晩まで、一秒たりとも気の休まる時間がない「完全ワンオペ拘束日」である。
 これが、キツイ。
 突発的に何をしでかすか分からない息子を監視し、彼が撒き散らすカオスを片っ端から収集する。壁を見れば、翼画伯による前衛的な落書きが広がっている。中性洗剤で擦りすぎて壁紙が毛羽立った跡は、私の敗北の証だ。入学時に夫の健太が買ったランドセルは、戦場をくぐり抜けたかのようにボロボロで、そこにぶら下がった奈良出張土産のお守りは、もはや何の御利益もなさそうなほど薄汚れている。
 この閉塞した日常の中で、唯一私が呼吸できる場所。それが、画面の中の「タイ」だった。
 ピンポーン、と無機質なチャイムが空気を切り裂いた。
 私は心臓が跳ね上がるのを感じた。宅配便か、あるいは階下からの苦情か。
 げんなりとした足取りで玄関へ向かい、ドアを開ける。
「……美咲さん」
 そこに立っていたのは、いつもの柔和な笑みを消し去り、戦場に向かう兵士のような張り詰めた空気を纏った涼子だった。
 彼女は私のタイ沼の師匠であり、同志。語学堪能な彼女は、供給される動画を瞬時に翻訳し、我々のような迷える子羊に糧を与えてくれる猛者である。
「どうしたの? そんな顔して」
「事件です」
 涼子は有無を言わさず、スマホの画面を私の眼前に突きつけた。
 そこに映し出されていたのは、彼女の最推しであるタワンがMCを務める、タイ俳優の合同ファンミーティングの告知。場所は幕張メッセ。
 そして、出演者リストの中に――私の推し、「ノン」の名前が輝いていた。
 ドクン、と心臓が早鐘を打つ。
 日常の喧騒、翼の介護疲れ、壁の落書き、床の電池。すべてが遠のき、まばゆい光の奔流が脳髄を貫いた。
「えっ……ここ、これ、マジ?」
 ろれつが回らない。喉が渇く。
「ノンの事務所、何も言ってなかった?……」
「私も寝耳に水よ」
 涼子の声が上ずっている。
 突然の決定か。タイ俳優にはよくあることだ。大人の事情か、急なオファーか。理由はなんだっていい。
 重要なのは、ノンが日本に来るということ。私が住むこの国に、彼が降り立つということだ。
 会いたい。推しの呼吸と同じ空気を吸いたい。その本能的な欲求が、疲れ切った私の細胞を一つ一つ叩き起こしていく。
「行く以外の選択肢はないわ。私たちの推しが、海を越えて目の前に来るのよ?」
 背後で、翼が何かを壁に投げつける音がした。いつもなら即座に反応するその音が、今は遠い世界の出来事のように思える。
 玄関先で、私たちの間に目に見えない「緊急作戦本部」が立ち上がった。
 涼子はカオスと化したリビングにズカズカと上がり込むと、床に散らばるブロックやミニカーを華麗なステップで避け、ソファーの背もたれに全体重を預けた。
「で、どうするの? チケットは何とかなるとして、最大の問題は……あなたが外出できるか、よ」
「イベントは……日曜日?」
「イエス。再来週の日曜」
 涼子の短い肯定が、死刑宣告のように響いた。
「……行けそう?」
 その問いかけで、私は一気に幸福の絶頂から現実の底へと引きずり戻された。
 そうだ。私には翼がいる。
 平日ならデイサービスがある。でも日曜は、私が命綱なのだ。
「……デスヨネー」
 口から漏れたのは、乾いた笑いを含んだ情けない声だった。
 翼を連れて幕張のイベント会場へ? 不可能だ。多動の彼を何時間もパイプ椅子に座らせておくなんて。
 その時、キッチンからカランカランと氷の音がした。
 母の和江が、麦茶の入ったグラスを二つ盆に載せて現れた。「やれやれ」という表情が、顔の皺に深く刻まれている。
「あんたたち、また何か企んでるね。目が血走ってるよ」
 涼子は悪びれもせず、母にスマホ画面を見せた。
「おば様、緊急事態なんです。美咲さんと、私の今後の生命活動に関わる重大プロジェクトが始動したんです」
「大げさだねぇ。どうせまた、色の白い外国の男の子かい?」
 母は呆れつつも画面を覗き込む。キラキラした笑顔のタイ人俳優を見ても、彼女の表情筋はピクリとも動かない。
 私は藁にもすがる思いで手を合わせた。
「お母さん、お願い! この日だけ! 一日だけでいいの、翼のこと……」
「無理だね。あの子の体力に、私一人で一日中付き合うのはもう限界だよ」
 拒絶は明確だった。そして、それは正論だった。老いた母に翼を押し付けるのは、あまりに酷だ。
「それにね、あんた。その生き生きした顔、たまには旦那さんにも見せてやったらどうだい」
 旦那。
 その単語が、私の脳内でスパークした。
 絶望の淵に、一筋の、少々邪悪な光明が差し込んだ。
「……そうだ! 健太だ。健太を呼ぼう!」
 私が叫ぶと、涼子の眼鏡の奥がキラーンと光った。「作戦内容を報告せよ」という目だ。
「健太にこう言うの。『最近、翼がパパに会いたがってて情緒不安定なの。広い海とか見せてあげたら落ち着くと思うんだけど……幕張あたり、どうかな?』って!」
「……ブラボー」
 涼子が低い声で唸った。
「健太さんは仕事で忙しいんでしょ? 悪いよ」と母が眉をひそめるが、今の私には馬耳東風だ。
 私と健太は別居して長い。不仲というより、彼の激務と転勤による物理的な距離が、心の距離も広げてしまった結果だ。翼の障害が発覚してから、私は実家の母を頼り、健太は単身赴任を続けている。
 だが、利用できるものは利用する。それが推し活に生きる女の流儀だ。
 私はスマホを手に取ると、深呼吸をして「健気な妻」の仮面を被った。スピーカーモードにし、涼子に合図を送る。
 プルルル……プルルル……。
 3コール目。
『……もしもし? どうした?』
 少し疲労の滲む、懐かしいような、他人のような夫の声。
「健太? ごめんね、仕事中に。あのね、ちょっと相談があって……」
 私は声を震わせ、翼がいかに父親を求めているか、その欠落がどれほど家庭に暗い影を落としているかを切々と訴えた。
 その時、部屋の奥から「あー!」「ううー!」という翼の奇声が聞こえた。
 ナイスタイミングだ、翼!
「……でね、再来週の日曜日なんだけど、こっちに来られないかな? 翼が海を見たいって……」
 沈黙。スマホ越しに、彼が手帳を確認している気配が伝わる。
 彼は日曜でも仕事する男だ。
 頼む、騙されてくれ。いや、父親としての責任を果たしてくれ。
『……そうか。翼が……そんなにか』
 重苦しい、しかし決意を含んだ声が返ってきた。
『わかった。なんとか調整する。週末、幕張に行こう。俺が車を出すよ』
 釣れた。
 罪悪感という釣り針に、見事にかかった。
 もし彼が、妻の目的が「タイのイケメン俳優を拝むこと」だと知ったら、その真面目な顔を真っ赤にして激怒するだろう。だが、知らぬが仏。翼が海でパパと遊べて喜ぶなら、それはそれで真実なのだから。
「ありがとう……! 翼もきっと喜ぶわ」
『ああ。じゃあ、また連絡する』
 通話が切れた瞬間、静寂が戻ったリビングで、私と涼子は音もなく立ち上がり、無言のまま力強いハイタッチを交わした。
「あんたは昔から、そういう悪知恵だけは回る子だったよ……」
 母の呆れ声さえ、今の私には凱旋のファンファーレに聞こえる。
 待っててね、ノン。必ず会いに行くから。



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 息子の翼が、三人がけのソファーをトランポリン代わりにして跳ね回っているのだ。視界の隅で何かが宙を舞ったかと思うと、プラスチックが硬い床に打ち付けられる乾いた破砕音がリビングに響き渡った。
 私は反射的に顔を上げた。テレビのリモコンだ。電池カバーが弾け飛び、単三電池がコロコロとフローリングに転がっていく。
「翼、やめなさい! 壊れるでしょ!」
 私の制止など、彼の耳には届かない。あるいは、雑音程度にしか認識されていないのか。彼はソファーから飛び降りると、今度は床をドタドタと踏み鳴らし始めた。ここはお世辞にも防音性が高いとは言えないマンションの二階だ。階下の住人からの苦情という時限爆弾のタイマーが、刻一刻と進んでいる気がして胃が痛む。
「おかあさん、ちゃんと翼を見ててよ!」
 私の叫びに対する母の返事は、ベランダの窓越しにくぐもって聞こえた。
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「私は今、手が離せないの……!」
 嘘です。そんなことはありません。
 私は今、現実逃避という名の極上の果実を貪っている最中なのです。
 母が家事をしてくれている以上、文句は言えない。私はため息を一つ飲み込み、観念して立ち上がった。翼の背後に回り込み、その小さな体を優しく、しかし確固たる意志を込めてホールドする。暴れるな、と念じるように。
「落ち着いて」
 耳元で低く、強めに囁く。私のトーンが変わったことを敏感に察知したのか、翼はピタリと動きを止め、バツが悪そうに身をよじると、脱兎のごとく自分の部屋――兼、私の寝室へと駆け込んでいった。
 ふう、と息を吐き出し、私は散乱したリビングのテーブルに向き直った。そこにあるノートパソコンの画面には、タイ語の文字列と、ファン同士の熱狂的なチャットログが滝のように流れている。
 画面の向こうにいるのは、私の生きる希望。タイの人気俳優、ノンだ。彼のファンイベントに向けたログである。
 今日は日曜日。翼が通う特別支援学校は休みだ。多動傾向のある彼を受け入れてくれるデイサービスは、日曜日はどこも満員か休業。つまり、朝から晩まで、一秒たりとも気の休まる時間がない「完全ワンオペ拘束日」である。
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 この閉塞した日常の中で、唯一私が呼吸できる場所。それが、画面の中の「タイ」だった。
 ピンポーン、と無機質なチャイムが空気を切り裂いた。
 私は心臓が跳ね上がるのを感じた。宅配便か、あるいは階下からの苦情か。
 げんなりとした足取りで玄関へ向かい、ドアを開ける。
「……美咲さん」
 そこに立っていたのは、いつもの柔和な笑みを消し去り、戦場に向かう兵士のような張り詰めた空気を纏った涼子だった。
 彼女は私のタイ沼の師匠であり、同志。語学堪能な彼女は、供給される動画を瞬時に翻訳し、我々のような迷える子羊に糧を与えてくれる猛者である。
「どうしたの? そんな顔して」
「事件です」
 涼子は有無を言わさず、スマホの画面を私の眼前に突きつけた。
 そこに映し出されていたのは、彼女の最推しであるタワンがMCを務める、タイ俳優の合同ファンミーティングの告知。場所は幕張メッセ。
 そして、出演者リストの中に――私の推し、「ノン」の名前が輝いていた。
 ドクン、と心臓が早鐘を打つ。
 日常の喧騒、翼の介護疲れ、壁の落書き、床の電池。すべてが遠のき、まばゆい光の奔流が脳髄を貫いた。
「えっ……ここ、これ、マジ?」
 ろれつが回らない。喉が渇く。
「ノンの事務所、何も言ってなかった?……」
「私も寝耳に水よ」
 涼子の声が上ずっている。
 突然の決定か。タイ俳優にはよくあることだ。大人の事情か、急なオファーか。理由はなんだっていい。
 重要なのは、ノンが日本に来るということ。私が住むこの国に、彼が降り立つということだ。
 会いたい。推しの呼吸と同じ空気を吸いたい。その本能的な欲求が、疲れ切った私の細胞を一つ一つ叩き起こしていく。
「行く以外の選択肢はないわ。私たちの推しが、海を越えて目の前に来るのよ?」
 背後で、翼が何かを壁に投げつける音がした。いつもなら即座に反応するその音が、今は遠い世界の出来事のように思える。
 玄関先で、私たちの間に目に見えない「緊急作戦本部」が立ち上がった。
 涼子はカオスと化したリビングにズカズカと上がり込むと、床に散らばるブロックやミニカーを華麗なステップで避け、ソファーの背もたれに全体重を預けた。
「で、どうするの? チケットは何とかなるとして、最大の問題は……あなたが外出できるか、よ」
「イベントは……日曜日?」
「イエス。再来週の日曜」
 涼子の短い肯定が、死刑宣告のように響いた。
「……行けそう?」
 その問いかけで、私は一気に幸福の絶頂から現実の底へと引きずり戻された。
 そうだ。私には翼がいる。
 平日ならデイサービスがある。でも日曜は、私が命綱なのだ。
「……デスヨネー」
 口から漏れたのは、乾いた笑いを含んだ情けない声だった。
 翼を連れて幕張のイベント会場へ? 不可能だ。多動の彼を何時間もパイプ椅子に座らせておくなんて。
 その時、キッチンからカランカランと氷の音がした。
 母の和江が、麦茶の入ったグラスを二つ盆に載せて現れた。「やれやれ」という表情が、顔の皺に深く刻まれている。
「あんたたち、また何か企んでるね。目が血走ってるよ」
 涼子は悪びれもせず、母にスマホ画面を見せた。
「おば様、緊急事態なんです。美咲さんと、私の今後の生命活動に関わる重大プロジェクトが始動したんです」
「大げさだねぇ。どうせまた、色の白い外国の男の子かい?」
 母は呆れつつも画面を覗き込む。キラキラした笑顔のタイ人俳優を見ても、彼女の表情筋はピクリとも動かない。
 私は藁にもすがる思いで手を合わせた。
「お母さん、お願い! この日だけ! 一日だけでいいの、翼のこと……」
「無理だね。あの子の体力に、私一人で一日中付き合うのはもう限界だよ」
 拒絶は明確だった。そして、それは正論だった。老いた母に翼を押し付けるのは、あまりに酷だ。
「それにね、あんた。その生き生きした顔、たまには旦那さんにも見せてやったらどうだい」
 旦那。
 その単語が、私の脳内でスパークした。
 絶望の淵に、一筋の、少々邪悪な光明が差し込んだ。
「……そうだ! 健太だ。健太を呼ぼう!」
 私が叫ぶと、涼子の眼鏡の奥がキラーンと光った。「作戦内容を報告せよ」という目だ。
「健太にこう言うの。『最近、翼がパパに会いたがってて情緒不安定なの。広い海とか見せてあげたら落ち着くと思うんだけど……幕張あたり、どうかな?』って!」
「……ブラボー」
 涼子が低い声で唸った。
「健太さんは仕事で忙しいんでしょ? 悪いよ」と母が眉をひそめるが、今の私には馬耳東風だ。
 私と健太は別居して長い。不仲というより、彼の激務と転勤による物理的な距離が、心の距離も広げてしまった結果だ。翼の障害が発覚してから、私は実家の母を頼り、健太は単身赴任を続けている。
 だが、利用できるものは利用する。それが推し活に生きる女の流儀だ。
 私はスマホを手に取ると、深呼吸をして「健気な妻」の仮面を被った。スピーカーモードにし、涼子に合図を送る。
 プルルル……プルルル……。
 3コール目。
『……もしもし? どうした?』
 少し疲労の滲む、懐かしいような、他人のような夫の声。
「健太? ごめんね、仕事中に。あのね、ちょっと相談があって……」
 私は声を震わせ、翼がいかに父親を求めているか、その欠落がどれほど家庭に暗い影を落としているかを切々と訴えた。
 その時、部屋の奥から「あー!」「ううー!」という翼の奇声が聞こえた。
 ナイスタイミングだ、翼!
「……でね、再来週の日曜日なんだけど、こっちに来られないかな? 翼が海を見たいって……」
 沈黙。スマホ越しに、彼が手帳を確認している気配が伝わる。
 彼は日曜でも仕事する男だ。
 頼む、騙されてくれ。いや、父親としての責任を果たしてくれ。
『……そうか。翼が……そんなにか』
 重苦しい、しかし決意を含んだ声が返ってきた。
『わかった。なんとか調整する。週末、幕張に行こう。俺が車を出すよ』
 釣れた。
 罪悪感という釣り針に、見事にかかった。
 もし彼が、妻の目的が「タイのイケメン俳優を拝むこと」だと知ったら、その真面目な顔を真っ赤にして激怒するだろう。だが、知らぬが仏。翼が海でパパと遊べて喜ぶなら、それはそれで真実なのだから。
「ありがとう……! 翼もきっと喜ぶわ」
『ああ。じゃあ、また連絡する』
 通話が切れた瞬間、静寂が戻ったリビングで、私と涼子は音もなく立ち上がり、無言のまま力強いハイタッチを交わした。
「あんたは昔から、そういう悪知恵だけは回る子だったよ……」
 母の呆れ声さえ、今の私には凱旋のファンファーレに聞こえる。
 待っててね、ノン。必ず会いに行くから。