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第三十二話 敵からアキ君を守る

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 病室の中、まず目に入ったのは包帯が巻かれた頭。
 頭から顎に向けて伸び、顔を囲うように巻かれている。
 左頬にはガーゼが貼られていて、そこから少し覗く青紫の痣が痛々しい。凍ったように動かない閉じた瞼は咲季の不安を駆り立てた。
 だからそんな兄の姿を見ていられず、俯いて目を逸らす。

 なんで。どうして。
 答える者はいない。ただ真っ白で無機質な壁とうるさいくらいの静寂があるだけ。

 櫻井からは咲季の入院しているこの病院に秋春が入院した事と、病室の場所だけ知らされた。彼女も出勤時の申し送りで知ったばかりで詳しい事は分からないそうだった。

 咲季は両親へ連絡をとったが、父は仕事で出てくれず、母からもなんの音沙汰も無いため、何があったのか分からないままただ秋春の手を握っているしかない。
 唯一の救いは命に別状は無いらしいという事だけ。
 だが、身体に障害が残る可能性もあると裏で看護師が話しているのを聞いてしまっていた。
 それが気が気でなくて、でも何も出来なくて、祈りだけが大きくなる。握る手に汗が滲んで、不安が溢れて涙が出る。
「神様お願いします」とうわ言のように繰り返す様はさながら狂気的に映るが、恥も外聞も気にしていられる余裕さえ無い。

「はぁ……っ、はぁっ……」

 だから、その極度のストレスが咲季の身体を蝕むのは当然の結果と言えた。
 心配で、不安で苦しい。
 それがあたかも身体に直結しているかのように、息が荒くなり、呼吸が苦しくなる。
 病に蝕まれた咲季の身体は外見とは裏腹にそれほどまでに脆くなっていた。
 目眩。耳鳴り。頭に血が行き渡っていないのか、意識が朦朧としてくる。

 ――あの時と同じだ。

 舞花との関係で悩んでいた時に倒れた時と同一の感覚。腹部の痛み。発汗。
 それが徐々に大きくなっていき……、

「咲季ちゃん」

 そこでふと、横合いから声が聞こえた。
 包み込むような優しい声。不思議と気分が落ち着いていくようなそれは、

「あ……」

 はらりと揺れる長い髪。
 赤坂結愛(あかさかゆあ)。姉のように慕っている幼馴染の女性だった。
 見舞いに来たのか、その手には手提げ袋があった。

「大丈夫?」
「ゆ、あちゃん……!」

 心配そうに覗き込む彼女の姿を見た瞬間、心の中に溜まっていた感情が溢れ出し、思わずその胸に飛び込んだ。

「どうしよう!お兄ちゃんが、お兄ちゃんがっ!」

 いきなり抱きつかれてあっけに取られる結愛だったが、薄く笑みを浮かべると、抱きしめ返して優しく背中を撫でた。
 泣きじゃくる咲季をあやすように。「大丈夫。きっと大丈夫よ」と、彼女が泣き止むまでそれを続けた。


 #


「どうして、お兄ちゃんが……」

 何度繰り返しただろう言葉を呟く。
 泣き止んでからも、出てきた言葉は秋春の事だった。
 未だ意識の戻らない彼。嫌な想像だけが頭を巡って離れてくれない。
 そんな咲季に結愛は目を細めて痛ましそうな表情を浮かべた。その完璧な仮面の奥には泥濘にも似た羨望があった事に、咲季は気づかない。

「ねえ……結愛ちゃんは何があったのか知ってるの?」

 秋春が病院に運ばれたのを知ったのは結愛のメッセージからだ。何か知っていると考えるのが自然だろう。
 その問いに結愛は一つ頷き、事の経緯を話し始めた。

 昨日、たまたま実家に帰って来ていた結愛は隣の家――秋春の家から叫び声を聞いた。
 大雨の中でも聞こえる大きな声。金切り声のようにも思えるそれに尋常ではないものを感じた彼女は、すぐに秋春の家へと向かった。
 チャイムを押してみたが反応は無し。その後も何度か押したが応える者は無かった。だが扉のすぐ向こうに確かな人の気配を感じ、なんとなしにドアノブに手をかけると鍵が開いていたため中を覗くと、血を流して倒れている秋春と、そばで放心したように座っている母親の明菜がいた。
 そしてすぐにスマホで救急車を呼んで今に至る。という事らしい。

 聞き終えた咲季は泣き出しそうな顔で俯き、唇を噛んでいたが、何かを振り払うように首を振って気丈に顔を上げた。

「お母さんは、今どうしてるの?」
「さあ……?咲季ちゃんに連絡無いの?」
「メッセ送ったり電話もしてるんだけど、何も反応無くて」

 釈然としない様子でポケットにしまっていたスマホを取り出して見つめる咲季。

「ふうん。まあ病院にも来てないのを踏まえると、そういう事じゃないかな」
「そういう事って?」
「アキ君をいじめた上で、お家でのんびりとくつろいでるのよ」
「……………………そんな」

 そんな事はない。
 続けようとした言葉が、途中で止まる。
 咲季は知っていた。母の秋春に対する態度を。自分の知らない所で彼がどう扱われていたかを。
 母の優しい笑顔と裏の冷たい一面。自分が知っているのは表のそれだから、うまく実感が湧かないのは道理だが、実際こうなってしまったのだから事実として受け入れるしかないだろう。

「お母さんが、やったの、かな……?」

 問うた。
 確認のために。

「お母さんが、お兄ちゃんを、こんなふうに……」

 いや、否定して欲しいのかも知れない。
 さっきの言葉が冗談だったのだと、結愛が見たものは違うものだったと。

「そうに決まってるじゃない」

 そんな咲季を嘲笑うかのように、冷たい声。
 普段聞き慣れないそれに咲季は戸惑い、

「な、なんで?どうしてっ!?」
「知らないわ。けどおばさんは昔からアキ君に冷たかったもの。特に中学校を過ぎた辺りからは、こうなっても不思議じゃないくらいの関係だったじゃない」
「け、けどそれはっ」
「……私のせい?」

 先読みするような結愛の言葉。
 失言。咲季はハッとして口を押さえた。彼女が思い浮かべたのは秋春と母の関係が完全に壊れた時の事。秋春が中学生の時、結愛のクラスで暴れたと事件だ。実際には誰もいない教室で結愛が暴れたのを秋春が庇ったのが真相……と、結愛から聞いていた。
 なぜ結愛がそんな事をしたのか、理由は話してくれなかったが、理由はともかく咲季が心の片隅で思ったのは〝お母さんとお兄ちゃんがこんなにも(こじ)れたのは結愛のせいではないか〟という恨み言だった。
 それが口に出てしまった。結愛の怒りを買うかと思われたが、しかし、咲季の危惧とは裏腹に結愛は穏やかに笑う。

「違うよ。確かに原因の一端だったかも知れないけれど、大元はおばさん自身の問題だもの。元からアキ君を邪険にしてた。どのみち、いつかは起きていたわ」
「そ、それなら、それが分かってたなら、なんで結愛ちゃんは誤解を解かなかったの!?お兄ちゃんは何もしてないのに!」

 悲しみと疑問が織り交ざった瞳。
 訴えかけるように結愛の服の端を掴む。
 対する結愛は一瞬目を伏せるも、またすぐいつもの薄い笑みを顔に貼り付け、

「……今その話は問題じゃない。問題なのは、アキ君をあんなにしたおばさんに対して咲季ちゃんはどうするのかって話」
「え……?」
「咲季ちゃん言ってたよね。アキ君とおばさんとおじさん、仲直りさせたいんだって。けどそれでいいの?」

 質問の意図が読めず、咲季は固まってしまう。

「呆けた顔しないで。そうね、言い方を変えよっか。アキ君を傷つけると一緒にみんな仲良く……なんて、本気で思ってるの?って事」
「て、き?」

 出てきた不穏な言葉に顔を強張らせた。

「おばさんはアキ君を殴ってあんなにしたくせに、アキ君に謝りもしないで、会いにも来ないで……親のする事じゃないわ。とても酷い事よ?」

 秋春の頬を慈しむように撫でながら、結愛。
 まるで映画のワンシーンのようだ、見惚れてしまうほどに綺麗で、それが何故か酷く恐ろしい。
 完璧な仮面の下に隠れた虚ろな心を感じ取ったからか。咲季は結愛の雰囲気に呑み込まれてしまっていた。

「それでも咲季ちゃんは誰もが笑って欲しいって言える?アキ君じゃなくて家族(みんな)を選ぶの?」
「……」
「黙っちゃうようじゃ駄目。ちゃんと、優先順位を考えなきゃいけないわ」
「優先、順位」
「そう、優先順位。二人の人間が海で溺れていたとして、その時どちらを助けるのかって……例えるならそういう単純な話」

 覗き込む目。精巧な硝子細工を思わせるそれが、今は昆虫のそれを思わせる。
 気圧されて息を飲んだ。

「な、何言ってるのか……分かんないよ」
「ふふ、混乱してる?じゃあ分かりやすいように、私が二つ提案してあげるわね」

 結愛は笑ってなんかいない笑顔で右手の指を二つ上げ、

「『家族で仲良くしようと頑張ってアキ君をまた傷つける』。『敵からアキ君を守る』」

 虚ろな笑みで期待するように咲季を見つめる。

「どっちがいいかしら?」





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 病室の中、まず目に入ったのは包帯が巻かれた頭。
 頭から顎に向けて伸び、顔を囲うように巻かれている。
 左頬にはガーゼが貼られていて、そこから少し覗く青紫の痣が痛々しい。凍ったように動かない閉じた瞼は咲季の不安を駆り立てた。
 だからそんな兄の姿を見ていられず、俯いて目を逸らす。
 なんで。どうして。
 答える者はいない。ただ真っ白で無機質な壁とうるさいくらいの静寂があるだけ。
 櫻井からは咲季の入院しているこの病院に秋春が入院した事と、病室の場所だけ知らされた。彼女も出勤時の申し送りで知ったばかりで詳しい事は分からないそうだった。
 咲季は両親へ連絡をとったが、父は仕事で出てくれず、母からもなんの音沙汰も無いため、何があったのか分からないままただ秋春の手を握っているしかない。
 唯一の救いは命に別状は無いらしいという事だけ。
 だが、身体に障害が残る可能性もあると裏で看護師が話しているのを聞いてしまっていた。
 それが気が気でなくて、でも何も出来なくて、祈りだけが大きくなる。握る手に汗が滲んで、不安が溢れて涙が出る。
「神様お願いします」とうわ言のように繰り返す様はさながら狂気的に映るが、恥も外聞も気にしていられる余裕さえ無い。
「はぁ……っ、はぁっ……」
 だから、その極度のストレスが咲季の身体を蝕むのは当然の結果と言えた。
 心配で、不安で苦しい。
 それがあたかも身体に直結しているかのように、息が荒くなり、呼吸が苦しくなる。
 病に蝕まれた咲季の身体は外見とは裏腹にそれほどまでに脆くなっていた。
 目眩。耳鳴り。頭に血が行き渡っていないのか、意識が朦朧としてくる。
 ――あの時と同じだ。
 舞花との関係で悩んでいた時に倒れた時と同一の感覚。腹部の痛み。発汗。
 それが徐々に大きくなっていき……、
「咲季ちゃん」
 そこでふと、横合いから声が聞こえた。
 包み込むような優しい声。不思議と気分が落ち着いていくようなそれは、
「あ……」
 はらりと揺れる長い髪。
 赤坂結愛《あかさかゆあ》。姉のように慕っている幼馴染の女性だった。
 見舞いに来たのか、その手には手提げ袋があった。
「大丈夫?」
「ゆ、あちゃん……!」
 心配そうに覗き込む彼女の姿を見た瞬間、心の中に溜まっていた感情が溢れ出し、思わずその胸に飛び込んだ。
「どうしよう!お兄ちゃんが、お兄ちゃんがっ!」
 いきなり抱きつかれてあっけに取られる結愛だったが、薄く笑みを浮かべると、抱きしめ返して優しく背中を撫でた。
 泣きじゃくる咲季をあやすように。「大丈夫。きっと大丈夫よ」と、彼女が泣き止むまでそれを続けた。
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「どうして、お兄ちゃんが……」
 何度繰り返しただろう言葉を呟く。
 泣き止んでからも、出てきた言葉は秋春の事だった。
 未だ意識の戻らない彼。嫌な想像だけが頭を巡って離れてくれない。
 そんな咲季に結愛は目を細めて痛ましそうな表情を浮かべた。その完璧な仮面の奥には泥濘にも似た羨望があった事に、咲季は気づかない。
「ねえ……結愛ちゃんは何があったのか知ってるの?」
 秋春が病院に運ばれたのを知ったのは結愛のメッセージからだ。何か知っていると考えるのが自然だろう。
 その問いに結愛は一つ頷き、事の経緯を話し始めた。
 昨日、たまたま実家に帰って来ていた結愛は隣の家――秋春の家から叫び声を聞いた。
 大雨の中でも聞こえる大きな声。金切り声のようにも思えるそれに尋常ではないものを感じた彼女は、すぐに秋春の家へと向かった。
 チャイムを押してみたが反応は無し。その後も何度か押したが応える者は無かった。だが扉のすぐ向こうに確かな人の気配を感じ、なんとなしにドアノブに手をかけると鍵が開いていたため中を覗くと、血を流して倒れている秋春と、そばで放心したように座っている母親の明菜がいた。
 そしてすぐにスマホで救急車を呼んで今に至る。という事らしい。
 聞き終えた咲季は泣き出しそうな顔で俯き、唇を噛んでいたが、何かを振り払うように首を振って気丈に顔を上げた。
「お母さんは、今どうしてるの?」
「さあ……?咲季ちゃんに連絡無いの?」
「メッセ送ったり電話もしてるんだけど、何も反応無くて」
 釈然としない様子でポケットにしまっていたスマホを取り出して見つめる咲季。
「ふうん。まあ病院にも来てないのを踏まえると、そういう事じゃないかな」
「そういう事って?」
「アキ君をいじめた上で、お家でのんびりとくつろいでるのよ」
「……………………そんな」
 そんな事はない。
 続けようとした言葉が、途中で止まる。
 咲季は知っていた。母の秋春に対する態度を。自分の知らない所で彼がどう扱われていたかを。
 母の優しい笑顔と裏の冷たい一面。自分が知っているのは表のそれだから、うまく実感が湧かないのは道理だが、実際こうなってしまったのだから事実として受け入れるしかないだろう。
「お母さんが、やったの、かな……?」
 問うた。
 確認のために。
「お母さんが、お兄ちゃんを、こんなふうに……」
 いや、否定して欲しいのかも知れない。
 さっきの言葉が冗談だったのだと、結愛が見たものは違うものだったと。
「そうに決まってるじゃない」
 そんな咲季を嘲笑うかのように、冷たい声。
 普段聞き慣れないそれに咲季は戸惑い、
「な、なんで?どうしてっ!?」
「知らないわ。けどおばさんは昔からアキ君に冷たかったもの。特に中学校を過ぎた辺りからは、こうなっても不思議じゃないくらいの関係だったじゃない」
「け、けどそれはっ」
「……私のせい?」
 先読みするような結愛の言葉。
 失言。咲季はハッとして口を押さえた。彼女が思い浮かべたのは秋春と母の関係が完全に壊れた時の事。秋春が中学生の時、結愛のクラスで暴れたと《《思われていた》》事件だ。実際には誰もいない教室で結愛が暴れたのを秋春が庇ったのが真相……と、結愛から聞いていた。
 なぜ結愛がそんな事をしたのか、理由は話してくれなかったが、理由はともかく咲季が心の片隅で思ったのは〝お母さんとお兄ちゃんがこんなにも拗《こじ》れたのは結愛のせいではないか〟という恨み言だった。
 それが口に出てしまった。結愛の怒りを買うかと思われたが、しかし、咲季の危惧とは裏腹に結愛は穏やかに笑う。
「違うよ。確かに原因の一端だったかも知れないけれど、大元はおばさん自身の問題だもの。元からアキ君を邪険にしてた。どのみち、いつかは起きていたわ」
「そ、それなら、それが分かってたなら、なんで結愛ちゃんは誤解を解かなかったの!?お兄ちゃんは何もしてないのに!」
 悲しみと疑問が織り交ざった瞳。
 訴えかけるように結愛の服の端を掴む。
 対する結愛は一瞬目を伏せるも、またすぐいつもの薄い笑みを顔に貼り付け、
「……今その話は問題じゃない。問題なのは、アキ君をあんなにしたおばさんに対して咲季ちゃんはどうするのかって話」
「え……?」
「咲季ちゃん言ってたよね。アキ君とおばさんとおじさん、仲直りさせたいんだって。けどそれでいいの?」
 質問の意図が読めず、咲季は固まってしまう。
「呆けた顔しないで。そうね、言い方を変えよっか。アキ君を傷つける《《敵》》と一緒にみんな仲良く……なんて、本気で思ってるの?って事」
「て、き?」
 出てきた不穏な言葉に顔を強張らせた。
「おばさんはアキ君を殴ってあんなにしたくせに、アキ君に謝りもしないで、会いにも来ないで……親のする事じゃないわ。とても酷い事よ?」
 秋春の頬を慈しむように撫でながら、結愛。
 まるで映画のワンシーンのようだ、見惚れてしまうほどに綺麗で、それが何故か酷く恐ろしい。
 完璧な仮面の下に隠れた虚ろな心を感じ取ったからか。咲季は結愛の雰囲気に呑み込まれてしまっていた。
「それでも咲季ちゃんは誰もが笑って欲しいって言える?アキ君じゃなくて家族《みんな》を選ぶの?」
「……」
「黙っちゃうようじゃ駄目。ちゃんと、優先順位を考えなきゃいけないわ」
「優先、順位」
「そう、優先順位。二人の人間が海で溺れていたとして、その時どちらを助けるのかって……例えるならそういう単純な話」
 覗き込む目。精巧な硝子細工を思わせるそれが、今は昆虫のそれを思わせる。
 気圧されて息を飲んだ。
「な、何言ってるのか……分かんないよ」
「ふふ、混乱してる?じゃあ分かりやすいように、私が二つ提案してあげるわね」
 結愛は笑ってなんかいない笑顔で右手の指を二つ上げ、
「『家族で仲良くしようと頑張ってアキ君をまた傷つける』。『敵からアキ君を守る』」
 虚ろな笑みで期待するように咲季を見つめる。
「どっちがいいかしら?」