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第十九話 大海原で大冒険をしだす前に

ー/ー



 もしかしたら。
 可能性としては考えていた。
 だが、誰かに明確な悪意を向けられた経験がほとんどない咲季にとって、その〝もしかしたら〟は想像の中でしか存在しないもので。

「……なんの、冗談ですか?」

 だから、頭がその言葉を理解するのに時間を要した。

「冗談じゃねぇよ。今すぐここで服脱いで、裸見せろっての。二度も言わせんな」

 卑劣に、冷徹に、辻堂は言い放った。

「…………………」

 冷や汗が手のひらに滲む。
 同時に染み出したのは、恐怖。想像ではなく実際に体感する身の危険。
 身体が、思考が、固まって動かない。

「あァ、別に写真とか撮らねぇよ。そこまで鬼畜じゃねェし?ただ、オレも話したくないコト話してやるんだから、そっちも誠意見せろって言ってるだけ。分かる?」

 辻堂は笑っていた。
 嗜虐的な笑みだ。人を辱めて愉しんでいる。人が苦しむのを何とも思っていない、そんな醜い表情。

 彼ははどれだけ、こうして人を傷つけてきたのだろう。嘲笑ってきたのだろう。

「…………」
「あァ?何固まってんの?もしかして無理です〜とか言うつもりじゃねぇよな?」

 向けられる悪意に、咲季は思う。
 こうやって、秋春も傷つけられたのだろうか。味方になってくれる人も居らず、一人で悪意に晒され続けてきたのだろうか。

「……………………」

 過去の自分は、秋春に何もしなかった。当時の自分は彼に対する好意なんて持っていなかったから。
 ただ、大好きな父や母の、兄に対するぎすぎすとした空気が怖くて、家族が壊れていくような気がして、なんとか今までの状態に戻したくて、必死に普通の態度を取っていただけだった。
 何も知ろうとしていなかった。故に両親と兄の関係は冷めきってしまって、がんじがらめになった糸のように、どうやっても解けない(こじ)れを残してしまった。
 父と母は咲季だけを愛し、秋春を見放したのだ。

 ――だからきっと、私はお兄ちゃんから恨まれる。

 そう思っていた。
 だけど秋春はそんな素振りは一切見せず、不器用ながらも愛情を注いでくれた。
 優しい(ひと)なのだ。
 こんなに酷い自分を家族だと言ってくれた。それは恐らく、父や母に対しても同様で。見放されていようと、罵られようと、最後の最後で切り捨てる事が出来ないでいる。
 そんな人だから好きになった。
 好きだから、幸せになって欲しい。
 自分の身を犠牲にしてでも幸せにしたい。少しぐらい汚れたって構わない。

「自分で無理ってんならオレがやってもいいぜ?」
「…………」

 辻堂が立ち上がり、近づいてくる。咲季の病院着を乱雑に掴み、

「ほら、脱げよ。手伝ってやる」

 服を脱がせようと引っ張った。
 しかしその腕は掴まれ、振り払われる。

「……やめてください」
「あァ?」
「お願いです……やめてください」

 俯いたまま、懇願。

「ハッ、おいおい、震えちゃってんじゃんよ!泣いてんのか?さっきまでの威勢はどうしたのかな?さーきちゃん!」
「やめてください」
「うるせぇなやれよ早く」
「それ以上するなら、叫びます」

 今度は見上げて、まっすぐに視線を合わせた。
 示したのは抵抗の意思。

「あ、そう」

 しかしそれは辻堂にとって逆効果だった。

「――――――っ!?」

 口を弓なりに歪ませ、前触れなく咲季の首を掴んだ。
 突然のそれに彼女の息が詰まり、意識が一瞬揺らぐ。

「……ぁ…………ぐ」
「ほーら、どうすんの?叫んでみ?叫べよ。なあオイ!」

 食い込む指の力が強まった。
 苦しむ姿を見て愉しんでいる、辻堂の愉悦の表情。

 彼の本性が剥き出しになっていた。
 自分主義のサディスト。自分が良ければなんだっていい。自分以外は全て下で、逆らう奴は許さない。目の前で他人が苦しんでいるのが心地良い。面白い。そういう最低な性質(タチ)

 確信する。
 やはりこの男は過去に何かをしでかしたのだ。秋春が激怒するような何かを。

「んっ!!」

 首を掴んでいる腕に思い切り爪を立てた。

「ってぇな!」

 辻堂は苦悶の声を上げ、力を緩めて咲季の首から手を離す。
 咲季は弾かれたように後退し、窓際の壁に背中からぶつかる。

「がっ、は、げほっ、げほっ!」

 首への圧迫が解かれ、再び供給された空気に身体が対応出来ず(むせ)る。

「お前さぁ、馬鹿?叫んだら助けは来るかも知んねぇけど、お兄ちゃんのお話は聞けなくなんぜ?分かんねぇの?それでいいの?なあ?」

 小馬鹿にしたような口調。しかし僅かに混じった焦燥が声音から垣間見えた。
 こういう風に思い切った行動に出られるのは困るのだと確信。

「…………………」

 恐怖を押し殺すように深く息を吐いた。
 心情的には避けたかったが、仕方が無い。やむ無しだ。

「な。分かったかクソガキ」
「…………分かり、ました」

 咲季の応えに、辻堂は満足気に首を傾け、口に弧を描く。

「そうそう、そうやって素直に言うこと聞いてりゃ……」
「あなたが楽観的で、深く物事を考えない人なのは、良く分かりました」
「あ?」

 相手が何かを察する前に行動。
 すぐ逃げられるよう、素早くドアの前に移動した。

 そして、電源をつけたままのスマホをポケットから取り出して、数回指で操作し、

『うーっす、さーきちゃん』

『えっと、辻堂明さん……でよかったですよね』

『そうそう、アキラでいいよ。いやァ、まさか君から逆ナンされるとは思わなかったわ。もしかして一目惚れ?』

 

「な……」

 驚愕の表情。
 よほど予想外だったのだろう。口と目が大きく開き、固まっている。
 咲季は冷静に、無感情に辻堂を見つめ、ただ事実だけを述べる。

「録音しておきました。あなたとの会話、最初から」

 音声を停止させ、スマホを上着のポケットにしまった。

「これ、どういう使い方をするか想像つきますよね」
「こ、の、女(アマ)……っ!」
「もしかしたらこんな事になるんじゃないかって考えていただけなので、保険のつもりだったんですけど、役に立ってしまいました。こういう風に逆に脅されるなんて考えもしなかったですか?」

 咲季の言葉に辻堂が歯噛みする。
 そう、彼女の言うとおり、辻堂はこうやって反撃される事など考えてなどいなかった。
 年下の少女。人の良さそうな雰囲気。そんな咲季を見て彼は、どうにかして虐めてやりたい、陵辱してやりたいという気持ちは抱けど、一切の危機感を感じる事は無かった。
 悪意など受けた事もないような弱者であり、獲物。それだけだった。
 有り体に言えば舐めていた。
 今までこの手の人間に何かをして反撃された経験は無かった。だから今回も自分の欲求を満たしてそれで終わるはずだった。
 なのに何故こうなるのか。疑問が頭を埋めていく。

 彼は知らなかった。理解が及ばなかった。

 自分の内に自分だけしかいない彼には夢物語でしか無かったのだ。
 誰かのために本気になれる人間がいるなんて事実も。
 そういう人が持つ、意志の強さも。

「これがネットという大海原で大冒険をしだす前に、さあどうぞ。話してください」







みんなのリアクション

 もしかしたら。
 可能性としては考えていた。
 だが、誰かに明確な悪意を向けられた経験がほとんどない咲季にとって、その〝もしかしたら〟は想像の中でしか存在しないもので。
「……なんの、冗談ですか?」
 だから、頭がその言葉を理解するのに時間を要した。
「冗談じゃねぇよ。今すぐここで服脱いで、裸見せろっての。二度も言わせんな」
 卑劣に、冷徹に、辻堂は言い放った。
「…………………」
 冷や汗が手のひらに滲む。
 同時に染み出したのは、恐怖。想像ではなく実際に体感する身の危険。
 身体が、思考が、固まって動かない。
「あァ、別に写真とか撮らねぇよ。そこまで鬼畜じゃねェし?ただ、オレも話したくないコト話してやるんだから、そっちも誠意見せろって言ってるだけ。分かる?」
 辻堂は笑っていた。
 嗜虐的な笑みだ。人を辱めて愉しんでいる。人が苦しむのを何とも思っていない、そんな醜い表情。
 彼ははどれだけ、こうして人を傷つけてきたのだろう。嘲笑ってきたのだろう。
「…………」
「あァ?何固まってんの?もしかして無理です〜とか言うつもりじゃねぇよな?」
 向けられる悪意に、咲季は思う。
 こうやって、秋春も傷つけられたのだろうか。味方になってくれる人も居らず、一人で悪意に晒され続けてきたのだろうか。
「……………………」
 過去の自分は、秋春に何もしなかった。当時の自分は彼に対する好意なんて持っていなかったから。
 ただ、大好きな父や母の、兄に対するぎすぎすとした空気が怖くて、家族が壊れていくような気がして、なんとか今までの状態に戻したくて、必死に普通の態度を取っていただけだった。
 何も知ろうとしていなかった。故に両親と兄の関係は冷めきってしまって、がんじがらめになった糸のように、どうやっても解けない拗《こじ》れを残してしまった。
 父と母は咲季だけを愛し、秋春を見放したのだ。
 ――だからきっと、私はお兄ちゃんから恨まれる。
 そう思っていた。
 だけど秋春はそんな素振りは一切見せず、不器用ながらも愛情を注いでくれた。
 優しい兄《ひと》なのだ。
 こんなに酷い自分を家族だと言ってくれた。それは恐らく、父や母に対しても同様で。見放されていようと、罵られようと、最後の最後で切り捨てる事が出来ないでいる。
 そんな人だから好きになった。
 好きだから、幸せになって欲しい。
 自分の身を犠牲にしてでも幸せにしたい。少しぐらい汚れたって構わない。
「自分で無理ってんならオレがやってもいいぜ?」
「…………」
 辻堂が立ち上がり、近づいてくる。咲季の病院着を乱雑に掴み、
「ほら、脱げよ。手伝ってやる」
 服を脱がせようと引っ張った。
 しかしその腕は掴まれ、振り払われる。
「……やめてください」
「あァ?」
「お願いです……やめてください」
 俯いたまま、懇願。
「ハッ、おいおい、震えちゃってんじゃんよ!泣いてんのか?さっきまでの威勢はどうしたのかな?さーきちゃん!」
「やめてください」
「うるせぇなやれよ早く」
「それ以上するなら、叫びます」
 今度は見上げて、まっすぐに視線を合わせた。
 示したのは抵抗の意思。
「あ、そう」
 しかしそれは辻堂にとって逆効果だった。
「――――――っ!?」
 口を弓なりに歪ませ、前触れなく咲季の首を掴んだ。
 突然のそれに彼女の息が詰まり、意識が一瞬揺らぐ。
「……ぁ…………ぐ」
「ほーら、どうすんの?叫んでみ?叫べよ。なあオイ!」
 食い込む指の力が強まった。
 苦しむ姿を見て愉しんでいる、辻堂の愉悦の表情。
 彼の本性が剥き出しになっていた。
 自分主義のサディスト。自分が良ければなんだっていい。自分以外は全て下で、逆らう奴は許さない。目の前で他人が苦しんでいるのが心地良い。面白い。そういう最低な性質《タチ》。
 確信する。
 やはりこの男は過去に何かをしでかしたのだ。秋春が激怒するような何かを。
「んっ!!」
 首を掴んでいる腕に思い切り爪を立てた。
「ってぇな!」
 辻堂は苦悶の声を上げ、力を緩めて咲季の首から手を離す。
 咲季は弾かれたように後退し、窓際の壁に背中からぶつかる。
「がっ、は、げほっ、げほっ!」
 首への圧迫が解かれ、再び供給された空気に身体が対応出来ず咽《むせ》る。
「お前さぁ、馬鹿?叫んだら助けは来るかも知んねぇけど、お兄ちゃんのお話は聞けなくなんぜ?分かんねぇの?それでいいの?なあ?」
 小馬鹿にしたような口調。しかし僅かに混じった焦燥が声音から垣間見えた。
 こういう風に思い切った行動に出られるのは困るのだと確信。
「…………………」
 恐怖を押し殺すように深く息を吐いた。
 心情的には避けたかったが、仕方が無い。やむ無しだ。
「な。分かったかクソガキ」
「…………分かり、ました」
 咲季の応えに、辻堂は満足気に首を傾け、口に弧を描く。
「そうそう、そうやって素直に言うこと聞いてりゃ……」
「あなたが楽観的で、深く物事を考えない人なのは、良く分かりました」
「あ?」
 相手が何かを察する前に行動。
 すぐ逃げられるよう、素早くドアの前に移動した。
 そして、電源をつけたままのスマホをポケットから取り出して、数回指で操作し、
『うーっす、さーきちゃん』
『えっと、辻堂明さん……でよかったですよね』
『そうそう、アキラでいいよ。いやァ、まさか君から逆ナンされるとは思わなかったわ。もしかして一目惚れ?』
 《《録音していた音声を流した》》。
「な……」
 驚愕の表情。
 よほど予想外だったのだろう。口と目が大きく開き、固まっている。
 咲季は冷静に、無感情に辻堂を見つめ、ただ事実だけを述べる。
「録音しておきました。あなたとの会話、最初から」
 音声を停止させ、スマホを上着のポケットにしまった。
「これ、どういう使い方をするか想像つきますよね」
「こ、の、女《アマ》……っ!」
「もしかしたらこんな事になるんじゃないかって考えていただけなので、保険のつもりだったんですけど、役に立ってしまいました。こういう風に逆に脅されるなんて考えもしなかったですか?」
 咲季の言葉に辻堂が歯噛みする。
 そう、彼女の言うとおり、辻堂はこうやって反撃される事など考えてなどいなかった。
 年下の少女。人の良さそうな雰囲気。そんな咲季を見て彼は、どうにかして虐めてやりたい、陵辱してやりたいという気持ちは抱けど、一切の危機感を感じる事は無かった。
 悪意など受けた事もないような弱者であり、獲物。それだけだった。
 有り体に言えば舐めていた。
 今までこの手の人間に何かをして反撃された経験は無かった。だから今回も自分の欲求を満たしてそれで終わるはずだった。
 なのに何故こうなるのか。疑問が頭を埋めていく。
 彼は知らなかった。理解が及ばなかった。
 自分の内に自分だけしかいない彼には夢物語でしか無かったのだ。
 誰かのために本気になれる人間がいるなんて事実も。
 そういう人が持つ、意志の強さも。
「これがネットという大海原で大冒険をしだす前に、さあどうぞ。話してください」