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章末 2 ビターフロート

ー/ー



 雨が降っていた。

「田中静雄(たなかしずお)37歳。フリーター。灯夏市在住。アパートで一人住まい」

 大学の、今の時間は使っていない空き講義室。
 電気がついていない薄暗い室内で、女性の声が淡々と響く。

「20代の時に初めて出来た彼女に一年足らずで突然捨てられ、さらに当時勤務していた会社でも酷いいじめに遭い、退社。その鬱憤を晴らすために夜な夜な女性を襲う」

 まるで記事でも読み上げるように(そら)んじた女は、言い終えると視線を横にいる男へと移した。
 女は、誰もが振り返るほどの美しさを持った容貌。Tシャツにデニムといったラフな格好ではあるが、日常生活において見ることの無い妖艶さがそこにはあった。

「可哀想。ね、アキ君」
「なんの話だよ」

 仏頂面で壁に寄りかかった、所々に包帯を巻いた男――片桐秋春(かたぎりあきはる)はその顔を崩す事無く、女――赤坂結愛(あかさかゆあ)へ返事する。

「何って、城ヶ崎さんの強姦未遂事件の話よ?その犯人」
「あんたそれなんで知ってる」

 秋春は視線を合わせず、しかし不快そうに眉間に皺を寄せた。
 秋春の心は今、不快感と怒り、恐怖が入り混じっていて穏やかとは言えない。
 それは話し相手である結愛によるものだが、ならば何故大人しく結愛の話に付き合っているのか。

 様々な理由があるが結局は秋春がお人好しなのが主な理由だろう。
 彼にとって結愛は敵意を向ける対象であると同時に幼馴染でもある。情を捨てきれないのだ。

「なんでって、近所でそんな事件が起きれば噂も広がるでしょ?あとはネットと、私の予想」
「知ったのに少しも悪いとか思わないんだな」
「酷いなぁ、ここまで大事になるなんて思わなかったもの。罪悪感くらいあるよ」
「は。そーですか」

 秋春は鼻で笑った。
 この女の言葉で信頼出来るものはほとんど無い。

「それで?たまたますれ違って、いきなり呼び止めといてクソ野郎の素性聞かせるだけか?こっちは今日の講義も終わって早く帰りたいんだけど」
「どう思った?」
「は?」
「田中静雄さんの事聞いて、どう思った?」

 秋春の態度など意に介さず、結愛は長机が並べられた室内をゆったりと歩き、微笑む。

「……それ聞いて何になる」
「私がアキ君の事をもっと好きになる」

 思わず舌打ちした。

「ね、どう?」

 秋春から見て正面の、机を一つ挟んだ場所で、覗き込むような仕草。
 どうせ結愛が満足するまで無事に解放されないんだろう。
 そう自棄気味に考え、そのまま会話を続ける。

「どんな理由があろうと自ら進んで誰かを傷つけて喜ぶなんて、屑だろ」

 遠回しの結愛への非難。
 聞いて、結愛は嬉しそうに含み笑った。

「やっぱりアキ君は面白い。昔自分でも同じようなことやってたくせに」

 昔とは中学生の時の話だろう。言い返せず、自然、苦い表情になる。

「ううん、やってたからこそ、なのよね。許したくないんだ」
「…………………」
「けどやっぱり、少しでも情があれば簡単に切って捨てる事はしない。優しいね」
「意味がわからないな」

 獲物を弄ぶような視線。秋春は不快感を声にのせた。

「私の事、嫌いでしょう?嫌いで、理解出来なくて、怖くて、腹が立って仕方ない。それなのにまだ私の事、少しでも想ってくれてる」

 言った。瞬間、結愛の表情が華やいだ。

「そんなアキ君が私は好きよ」

 万人が息を飲むであろう柔らかな表情。
 しかし秋春はにべにもなく、

「知った風に俺を騙るな」
「知ってる。だって幼馴染だもの」

 返ってきた苛立ち混じりの表情に、結愛は嬉しそうに頬を赤らめた。
 机と机の間をゆっくりと縫い、秋春の目の前へ。
 吸い込まれるように彼の頬に両手を添え、包んだ。
 至近距離で視線が交差する。

「だからアキ君が何か訊きたそうにしてるなぁっていうのも、分かるの」

 見透かすような瞳。
 秋春は手を振り払った。なるほど、何か言いたげにしてたからわざわざそっちから声をかけてやったと言うことか。
 納得し、ため息。
 表情に出ていた。それはつまり、自分が咲季の選択に納得出来ていない事の証左に他ならず。
 自分を情けなく思いながらも、折角の機会。視線を合わせず尋ねた。

退、あんたか?」
「そうよ?」

「……………………」

 即答。
 適当な事を言われると思っていた分、驚く。

「怒ってる?」
「返答次第では」
「あら怖い。でも、先に言ったでしょう?「なるべくあの子が笑って過ごせるような選択を」って。それが全て」

 それは先日結愛と秋春が病院の前で会った時に言っていた言葉。
 あの時に彼女が咲季へ持ちかけたんだろう。ほとんど勘のようなものだったが、当たっていたようだ。
「お兄ちゃんに話したいことがあるの」
そう言われた時に嫌な予感はしたのだ。その後すぐに「退院したいと思ってる」なんて言われて真っ先に結愛の顔が浮かんだ。

「それが信じられるとでも?」
「信じて欲しいな」

 ふざけた口調に秋春は一層、眉根を寄せた。

「あんたな、今回の件といい、これといい、度が過ぎてるんだよ…。悪ふざけじゃ済まない」
「悪ふざけなんかじゃ無いわ。私は本気」
「どの口が…」

 瞬間、結愛の表情が消えた。

「私はね、本当が見たいの」
「は……?」
「世界って、欺瞞で溢れているでしょう」

 数歩、秋春から遠ざかるように進む結愛。
 突拍子もない話に、秋春は怪訝そうに眇める。

「色んなものを誤魔化しながら進んでいる。少なくとも私の周りはそうだった」

 いつもの悠然とした雰囲気は霧散し、どこか無機質な、機械的な様相を纏う。

「誰かのためとか言って結局自分の事しか考えてない人達ばっかり。それが悪いわけじゃないけれど、そういう自分を隠して良い人のフリをする人間が、私は嫌いなの」

 ちらりと閉め切られたカーテンの隙間へ視線を遣り、外して、また一歩、秋春の方へ。

「だけどあなた達兄妹は違う。違うから特別で、もっと色んな姿がみたいって思う。だから咲季ちゃんが私の提案に対してどういう選択をするか見たかったの。命と幸せ、どちらを取るか。アキ君の反応を見ると、私の期待通りみたいで嬉しいわ」
「お前、軽々しく、そんな……」
「咲季ちゃんが受けてるの、。しかもあの子は今のところ、多分。大方病院関係者にコネのあるおじさんのワガママで入院させてもらってるんでしょう?」
「……!」

 当たっていた。
 咲季にも知らされてない事実。
 父のコネであの病院の医院長へ頼み込み、本来まだ自宅療養でいいはずの咲季を入院させていた。少しでも長く咲季生き長らえさせるため。その術を病院側が持っていたから。
 知らせず、勝手に。
 そしてそれを秋春は黙って受け入れていた。エゴだと分かっていても、咲季が幾らか長く生きてくれるならと。
 しかし先日咲季から告げられたのは「退院したい」と言う願い。
 直感的に結愛を疑った。何かを吹き込んだに違いないと。
 怒りを覚えた。

 だが、そんなものはお門違いだと気づいていた。

「でもそれって咲季ちゃんのためって言えるのかな?視野狭窄になってるんじゃない?狭い箱に閉じ込めるより、まだ元気な今の内に思い出をいっぱい作ってあげることの方が大切よ」

 (もっと)もだ。心の底では分かっているし、賛同している。
 しかしそれを素直に認めれば、自分よりも結愛の方が咲季を理解しているのだとでも言われているようで、咲季の事を何も考えていないと言われているようで、認められなかった。

 結愛が秋春の顔を覗き込む。

「ねぇ、どうなの?」

 いつの間にか、結愛の顔が穏やかなものに変わっている。
 それがどうにも癪に障って、

「うる、せぇよ」
「咲季ちゃん、退院したいって言ったんでしょう?なら、アキ君はちゃんと味方してあげなきゃ。ね」
「詭弁だろ。あんたは誰かが必死になってる様を見て愉しんでるだけだろうが!分かった風に語ってんじゃねぇよ!」
「あまり大きな声を出さない方がいいわ。人に見つかったら大変よ?」

 人差し指を口に当てて嗜めるように、結愛。
 舐めきった態度に煮えたぎった怒りが溢れた。
 身体が勝手に動く。
 結愛のシャツの胸ぐらを掴んで廊下側の壁に叩きつけた。

「黙れ!あんたはいつもそうやって……!必死に生きてる奴がそんなに可笑しいかよ!」
「可笑しいだなんて思わないわ。素敵だとは思うけれど」

 殴られるかも知れないと思わせるほどの、本気の怒号。
 しかし結愛の笑顔は崩れない。

「………っ!」

 そんな態度が尚更、秋春を苛立たせた。

 彼がこれ以上の暴力を振るう事は無いと分かっているからか、もしくは振るわれそうになってもどうとでも対処出来るからか。
 おそらく両方だろう。
 事実、秋春は手を振り上げない。彼の中の良心がそれを許さないから。

「……結局、あんたも同じだ。自分が愉しめれば他はどうでもいいって、そういう事だろうが…!」

 ありったけの怒りを込めて、睨みつける。
 彼女はそれを聞いて、自嘲気味に薄く笑い、

「そうね。だから私、自分が嫌い」
「…………は…?」

 言った。
 あまりに、赤坂結愛に似つかわしくないセリフ。表情。
 怒りが戸惑いへと転じ、秋春の心をざわつかせる。

「嫌いよ。一番、大嫌い」

 腕の力が自然と緩んだ。

 見た事が無かった。
 何だそれは。何でそんな顔をする。
 今の結愛にあるのは悪意と悠然とが溶けあったような昏い笑み。そのはずだ。
 なのに何だその人間味を帯びた表情は。「自分が嫌い」?

 それではまるでのようではないか。

「なんだよ…なんだってんだ」

 戸惑いが秋春の身体に巡る。
 もうどうしたらいいのか分からなくなった。

「あーあ、シャツ、ちょっとよれちゃった」

 そんな秋春を意に介した様子も無く、Tシャツの襟を摘んで独りごちる結愛。
 次いで、彼を上目遣いで見上げ、

「訊きたい事はもう終わり……かな?」
「………ああ」

 戸惑いを消せない秋春に上品に微笑む。

「ねぇ、アキ君」
「……………」

 呼びかけに、無言で結愛を見遣ったのを確認し、その横を通り過ぎる。
 通り過ぎて、講義室の扉の前へ。

「アキ君は、そのままでいてね」

 呟き。

 扉が閉められた。

「…………………………」

 後には静寂だけが残る。

「くそ………」

 乱された感情はしばらく、戻りそうに無い。


 #

 カシャ、と、雨の音に混じり、シャッター音がした。

「へーぇ」

 窓の外。
 傘をさした誰かが興味深げに声を上げる。

「この絵面は使えそうだ」

 スマートフォンの画面を見つめる。
 あの赤坂結愛に掴みかかっている男。
 これは中々に面白い事が出来るであろう。

 影は人知れず一人、含み笑った。











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みんなのリアクション

 雨が降っていた。
「田中静雄《たなかしずお》37歳。フリーター。灯夏市在住。アパートで一人住まい」
 大学の、今の時間は使っていない空き講義室。
 電気がついていない薄暗い室内で、女性の声が淡々と響く。
「20代の時に初めて出来た彼女に一年足らずで突然捨てられ、さらに当時勤務していた会社でも酷いいじめに遭い、退社。その鬱憤を晴らすために夜な夜な女性を襲う」
 まるで記事でも読み上げるように諳《そら》んじた女は、言い終えると視線を横にいる男へと移した。
 女は、誰もが振り返るほどの美しさを持った容貌。Tシャツにデニムといったラフな格好ではあるが、日常生活において見ることの無い妖艶さがそこにはあった。
「可哀想。ね、アキ君」
「なんの話だよ」
 仏頂面で壁に寄りかかった、所々に包帯を巻いた男――片桐秋春《かたぎりあきはる》はその顔を崩す事無く、女――赤坂結愛《あかさかゆあ》へ返事する。
「何って、城ヶ崎さんの強姦未遂事件の話よ?その犯人」
「あんたそれなんで知ってる」
 秋春は視線を合わせず、しかし不快そうに眉間に皺を寄せた。
 秋春の心は今、不快感と怒り、恐怖が入り混じっていて穏やかとは言えない。
 それは話し相手である結愛によるものだが、ならば何故大人しく結愛の話に付き合っているのか。
 様々な理由があるが結局は秋春がお人好しなのが主な理由だろう。
 彼にとって結愛は敵意を向ける対象であると同時に幼馴染でもある。情を捨てきれないのだ。
「なんでって、近所でそんな事件が起きれば噂も広がるでしょ?あとはネットと、私の予想」
「知ったのに少しも悪いとか思わないんだな」
「酷いなぁ、ここまで大事になるなんて思わなかったもの。罪悪感くらいあるよ」
「は。そーですか」
 秋春は鼻で笑った。
 この女の言葉で信頼出来るものはほとんど無い。
「それで?たまたますれ違って、いきなり呼び止めといてクソ野郎の素性聞かせるだけか?こっちは今日の講義も終わって早く帰りたいんだけど」
「どう思った?」
「は?」
「田中静雄さんの事聞いて、どう思った?」
 秋春の態度など意に介さず、結愛は長机が並べられた室内をゆったりと歩き、微笑む。
「……それ聞いて何になる」
「私がアキ君の事をもっと好きになる」
 思わず舌打ちした。
「ね、どう?」
 秋春から見て正面の、机を一つ挟んだ場所で、覗き込むような仕草。
 どうせ結愛が満足するまで無事に解放されないんだろう。
 そう自棄気味に考え、そのまま会話を続ける。
「どんな理由があろうと自ら進んで誰かを傷つけて喜ぶなんて、屑だろ」
 遠回しの結愛への非難。
 聞いて、結愛は嬉しそうに含み笑った。
「やっぱりアキ君は面白い。昔自分でも同じようなことやってたくせに」
 昔とは中学生の時の話だろう。言い返せず、自然、苦い表情になる。
「ううん、やってたからこそ、なのよね。許したくないんだ」
「…………………」
「けどやっぱり、少しでも情があれば簡単に切って捨てる事はしない。優しいね」
「意味がわからないな」
 獲物を弄ぶような視線。秋春は不快感を声にのせた。
「私の事、嫌いでしょう?嫌いで、理解出来なくて、怖くて、腹が立って仕方ない。それなのにまだ私の事、少しでも想ってくれてる」
 言った。瞬間、結愛の表情が華やいだ。
「そんなアキ君が私は好きよ」
 万人が息を飲むであろう柔らかな表情。
 しかし秋春はにべにもなく、
「知った風に俺を騙るな」
「知ってる。だって幼馴染だもの」
 返ってきた苛立ち混じりの表情に、結愛は嬉しそうに頬を赤らめた。
 机と机の間をゆっくりと縫い、秋春の目の前へ。
 吸い込まれるように彼の頬に両手を添え、包んだ。
 至近距離で視線が交差する。
「だからアキ君が何か訊きたそうにしてるなぁっていうのも、分かるの」
 見透かすような瞳。
 秋春は手を振り払った。なるほど、何か言いたげにしてたからわざわざそっちから声をかけてやったと言うことか。
 納得し、ため息。
 表情に出ていた。それはつまり、自分が咲季の選択に納得出来ていない事の証左に他ならず。
 自分を情けなく思いながらも、折角の機会。視線を合わせず尋ねた。
「《《咲季に退院を勧めたの》》、あんたか?」
「そうよ?」
「……………………」
 即答。
 適当な事を言われると思っていた分、驚く。
「怒ってる?」
「返答次第では」
「あら怖い。でも、先に言ったでしょう?「なるべくあの子が笑って過ごせるような選択を」って。それが全て」
 それは先日結愛と秋春が病院の前で会った時に言っていた言葉。
 あの時に彼女が咲季へ持ちかけたんだろう。ほとんど勘のようなものだったが、当たっていたようだ。
「お兄ちゃんに話したいことがあるの」
そう言われた時に嫌な予感はしたのだ。その後すぐに「退院したいと思ってる」なんて言われて真っ先に結愛の顔が浮かんだ。
「それが信じられるとでも?」
「信じて欲しいな」
 ふざけた口調に秋春は一層、眉根を寄せた。
「あんたな、今回の件といい、これといい、度が過ぎてるんだよ…。悪ふざけじゃ済まない」
「悪ふざけなんかじゃ無いわ。私は本気」
「どの口が…」
 瞬間、結愛の表情が消えた。
「私はね、本当が見たいの」
「は……?」
「世界って、欺瞞で溢れているでしょう」
 数歩、秋春から遠ざかるように進む結愛。
 突拍子もない話に、秋春は怪訝そうに眇める。
「色んなものを誤魔化しながら進んでいる。少なくとも私の周りはそうだった」
 いつもの悠然とした雰囲気は霧散し、どこか無機質な、機械的な様相を纏う。
「誰かのためとか言って結局自分の事しか考えてない人達ばっかり。それが悪いわけじゃないけれど、そういう自分を隠して良い人のフリをする人間が、私は嫌いなの」
 ちらりと閉め切られたカーテンの隙間へ視線を遣り、外して、また一歩、秋春の方へ。
「だけどあなた達兄妹は違う。違うから特別で、もっと色んな姿がみたいって思う。だから咲季ちゃんが私の提案に対してどういう選択をするか見たかったの。命と幸せ、どちらを取るか。アキ君の反応を見ると、私の期待通りみたいで嬉しいわ」
「お前、軽々しく、そんな……」
「咲季ちゃんが受けてるの、《《延命治療よね》》。しかもあの子は今のところ、多分《《まだ入院するレベルじゃない》》。大方病院関係者にコネのあるおじさんのワガママで入院させてもらってるんでしょう?」
「……!」
 当たっていた。
 咲季にも知らされてない事実。
 父のコネであの病院の医院長へ頼み込み、本来まだ自宅療養でいいはずの咲季を入院させていた。少しでも長く咲季生き長らえさせるため。その術を病院側が持っていたから。
 知らせず、勝手に。
 そしてそれを秋春は黙って受け入れていた。エゴだと分かっていても、咲季が幾らか長く生きてくれるならと。
 しかし先日咲季から告げられたのは「退院したい」と言う願い。
 直感的に結愛を疑った。何かを吹き込んだに違いないと。
 怒りを覚えた。
 だが、そんなものはお門違いだと気づいていた。
「でもそれって咲季ちゃんのためって言えるのかな?視野狭窄になってるんじゃない?狭い箱に閉じ込めるより、まだ元気な今の内に思い出をいっぱい作ってあげることの方が大切よ」
 尤《もっと》もだ。心の底では分かっているし、賛同している。
 しかしそれを素直に認めれば、自分よりも結愛の方が咲季を理解しているのだとでも言われているようで、咲季の事を何も考えていないと言われているようで、認められなかった。
 結愛が秋春の顔を覗き込む。
「ねぇ、どうなの?」
 いつの間にか、結愛の顔が穏やかなものに変わっている。
 それがどうにも癪に障って、
「うる、せぇよ」
「咲季ちゃん、退院したいって言ったんでしょう?なら、アキ君はちゃんと味方してあげなきゃ。ね」
「詭弁だろ。あんたは誰かが必死になってる様を見て愉しんでるだけだろうが!分かった風に語ってんじゃねぇよ!」
「あまり大きな声を出さない方がいいわ。人に見つかったら大変よ?」
 人差し指を口に当てて嗜めるように、結愛。
 舐めきった態度に煮えたぎった怒りが溢れた。
 身体が勝手に動く。
 結愛のシャツの胸ぐらを掴んで廊下側の壁に叩きつけた。
「黙れ!あんたはいつもそうやって……!必死に生きてる奴がそんなに可笑しいかよ!」
「可笑しいだなんて思わないわ。素敵だとは思うけれど」
 殴られるかも知れないと思わせるほどの、本気の怒号。
 しかし結愛の笑顔は崩れない。
「………っ!」
 そんな態度が尚更、秋春を苛立たせた。
 彼がこれ以上の暴力を振るう事は無いと分かっているからか、もしくは振るわれそうになってもどうとでも対処出来るからか。
 おそらく両方だろう。
 事実、秋春は手を振り上げない。彼の中の良心がそれを許さないから。
「……結局、あんたも同じだ。自分が愉しめれば他はどうでもいいって、そういう事だろうが…!」
 ありったけの怒りを込めて、睨みつける。
 彼女はそれを聞いて、自嘲気味に薄く笑い、
「そうね。だから私、自分が嫌い」
「…………は…?」
 言った。
 あまりに、赤坂結愛に似つかわしくないセリフ。表情。
 怒りが戸惑いへと転じ、秋春の心をざわつかせる。
「嫌いよ。一番、大嫌い」
 腕の力が自然と緩んだ。
 見た事が無かった。
 何だそれは。何でそんな顔をする。
 今の結愛にあるのは悪意と悠然とが溶けあったような昏い笑み。そのはずだ。
 なのに何だその人間味を帯びた表情は。「自分が嫌い」?
 それではまるで《《昔の結愛》》のようではないか。
「なんだよ…なんだってんだ」
 戸惑いが秋春の身体に巡る。
 もうどうしたらいいのか分からなくなった。
「あーあ、シャツ、ちょっとよれちゃった」
 そんな秋春を意に介した様子も無く、Tシャツの襟を摘んで独りごちる結愛。
 次いで、彼を上目遣いで見上げ、
「訊きたい事はもう終わり……かな?」
「………ああ」
 戸惑いを消せない秋春に上品に微笑む。
「ねぇ、アキ君」
「……………」
 呼びかけに、無言で結愛を見遣ったのを確認し、その横を通り過ぎる。
 通り過ぎて、講義室の扉の前へ。
「アキ君は、そのままでいてね」
 呟き。
 扉が閉められた。
「…………………………」
 後には静寂だけが残る。
「くそ………」
 乱された感情はしばらく、戻りそうに無い。
 #
 カシャ、と、雨の音に混じり、シャッター音がした。
「へーぇ」
 窓の外。
 傘をさした誰かが興味深げに声を上げる。
「この絵面は使えそうだ」
 スマートフォンの画面を見つめる。
 あの赤坂結愛に掴みかかっている男。
 これは中々に面白い事が出来るであろう。
 影は人知れず一人、含み笑った。