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185 読書特有の体力

ー/ー



 昼休みの掃除の時間が終わりに近づき、藤城皐月(ふじしろさつき)たちの班は階段を拭き終えた。
「ねえ藤城さん、さっきの話の続きを聞かせてもらえないかしら?」
 皐月は掃除をしていれば有耶無耶になると淡い期待を抱いていたが、二橋絵梨花(にはしえりか)はいつまでも皐月の母の仕事への興味を失わなかった。
 絵梨花の関心が皐月への個人的な興味なのか、それとも芸妓や置屋といった日本文化への興味なのかはわからない。ただ絵梨花のことだから、ゴシップ的な興味で聞いているわけではないのは確かだろう。
「そうだね。ええと……置屋のことか。よその置屋のことは知らないけれど、俺ん()は住み込みのお弟子さんが一緒に住む寮みたいな感じかな。こんなんでわかる?」
「なんとなくだけど……」
「で、俺の母親が芸妓をやっててね、新しいお弟子さんが夏休みの終わり頃に家にやって来て、俺の家に住み込むようになったんだ。ここまでが話の前振り」
「長い前振りだね」
「うん」
 花柳界の話が小学生にどのくらい伝わるかはわからない。話している皐月自身もよくわかっていない。
「で、そのお弟子さんの娘さんも一緒に引っ越してきたんだ。その人がさっき話に出てきた祐希(ゆうき)っていう女子高生」
「女子高生! マジか、皐月(こーげつ)。今度遊びに行くぞ」
「おう、いつでも来てくれ。ちょっと部屋が狭くなっちゃったけどな」

 神谷秀真(かみやしゅうま)岩原比呂志(いわはらひろし)は一学期や夏休みに時々家に遊びに来ていたが、及川祐希(おいかわゆうき)たち母娘が引っ越して来てからはまだ一度も遊びに来ていない。以前、彼らが遊びに来た時も、親の仕事に関しては全く話題にならなかった。
「じゃあ藤城さんはその祐希さんっていう高校生の女の人と一緒に住んでいるのね」
「まあ、そういうことになるかな……」
 皐月は自分でもどうしてこんな口ごもった言い方になるのかわからなかった。絵梨花や一緒にいる吉口千由紀(よしぐちちゆき)に女子高生と同居していることで後ろめたさを感じているのかもしれない。
 あるいは親の仕事が芸妓だということを恥ずかしく思っているのか。さらに追及されると母子家庭だということまで話さなければならなくなることを恐れているのか。
「それならお姉さんみたいな人って言われても納得しちゃうな。真理ちゃんはその祐希さんって人のこと知ってたんだね」
「うん。会ったことあるよ」
「えっ? 会ったことがあるの?」
「おい、真理!」
「いいの」
 皐月はあえて自分と栗林真理(くりばやしまり)との関係を伏せてきた。この話になると、どうしても真理の母親も芸妓だということを言わなければならなくなる。家の事情の暴露なんて自分だけでたくさんだ。
「私のお母さんも皐月のお母さんと同じ芸妓だから、私たちが小さかった頃から家族付き合いしてるの。皐月の家にお弟子さんが来た時の歓迎会に呼ばれて、その時に祐希さんに会ったよ」
「そうなんだ……なんか真理ちゃんまで私の好奇心に巻き込んじゃってごめんね」
「いいよ、別に。隠しておきたかったわけじゃないから。絵梨花ちゃんとは一緒に中学受験するし、これから二人で話す機会が増えると思ってたから、いつか話す時が来ると思ってた」
「じゃあ、このお話はここまでにしておくね。もう後片付けしようよ。また手洗い場が混んじゃうから」
 絵梨花にしては焦った感じでみんなに行動を促した。皐月たちは真理の手を引っ張って先導する絵梨花について行った。手洗い場はすでに混雑していた。

 水道を使う順番を待っている間、皐月は千由紀に聞きたいことがあったので聞いてみた。
「吉口さんって『城の崎にて』って読んだことある?」
「あるよ」
「じゃあ『人間失格』は?」
「あるけど、どうしたの?」
「『城の崎にて』は芸妓のお姉さんに面白いって言われたから、今日図書室で借りてきた。『人間失格』は昨日たまたま知って、ちょっと興味を持ったんだ」
 皐月は最近、嘘ばかりついている。『城の崎にて』は年下の女友達の入屋千智(いりやちさと)から、『人間失格』は児童会長の江嶋華鈴(えじまかりん)から教わった。
「藤城君、読みたい本が増えてきたね」
「そうなんだよ。なかなか読めなくて、ちょっと焦る」
「読書も体力がいるからね。読書特有の体力が」
「読書特有の体力?」
「そう。読書に限った話じゃないけど、同じことをし続けるのって慣れるまではキツいよね。私だとゲームなんかすぐに疲れちゃって、30分もできない」
「えーっ! 俺なら朝までだってやれるよ」
「そういうこと。読書も体力が付けば朝までだって読み続けられるようになるよ」
「じゃあ読書がんばって体力つけようかな」

 皐月たちの順番が来たので雑巾を洗い、教室の窓の外に干した。校舎の窓の外に後付けされたパイプが雑巾を干す場所になっている。窓際の席の子たちはきっとこの時間を鬱陶しいと思っているだろう。
 窓際にある月花博紀(げっかひろき)の席の周りには、いつまでも席に戻ろうとしない女子がたむろしている。その中心には松井晴香(まついはるか)がいる。
 博紀の後ろの席が筒井美耶(つついみや)の席なので、晴香は美耶と話をしながら博紀のそばにいようとしている。皐月は面倒に関わりたくないので、博紀や美耶に近づかないように雑巾を干した。

 先生が教室に来るまでまだ少しだけ時間がある。席に戻った皐月は寸暇を惜しんで千由紀に文学の話を持ちかけた。
「ねえ、『城の崎にて』と『人間失格』って面白かった?」
「面白かったよ。特に『人間失格』は『歯車』と同じくらい好き」
「おお……そんなにか」
「でも正直、今の私には意味がわからないところがありすぎるな……まだ子どもだし」
「へぇ……そうなんだ。吉口さんでもわからないことなんてあるんだね」
「当たり前でしょ。小学生が背伸びして大人の小説を読んでいるだけだから」
「『人間失格』は小学生向けじゃないんだね。だから図書室には置いてなかったのか」
「あの小説は大人のいろいろな経験がないとわからないから。小学生の想像力の限界を超えてる」
「そうか……それは面白そうだな」
 皐月は『人間失格』が千由紀でもわからない本だということに期待で胸が高まった。そんな小説を千由紀に先立って自分がわかるようになりたいと、変な対抗心が湧いてきた。
 皐月はそんな『人間失格』を蔵書にしている江嶋華鈴のことも気になった。華鈴は『人間失格』を読んで何を思ったのだろうか。



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 昼休みの掃除の時間が終わりに近づき、|藤城皐月《ふじしろさつき》たちの班は階段を拭き終えた。
「ねえ藤城さん、さっきの話の続きを聞かせてもらえないかしら?」
 皐月は掃除をしていれば有耶無耶になると淡い期待を抱いていたが、|二橋絵梨花《にはしえりか》はいつまでも皐月の母の仕事への興味を失わなかった。
 絵梨花の関心が皐月への個人的な興味なのか、それとも芸妓や置屋といった日本文化への興味なのかはわからない。ただ絵梨花のことだから、ゴシップ的な興味で聞いているわけではないのは確かだろう。
「そうだね。ええと……置屋のことか。よその置屋のことは知らないけれど、俺ん|家《ち》は住み込みのお弟子さんが一緒に住む寮みたいな感じかな。こんなんでわかる?」
「なんとなくだけど……」
「で、俺の母親が芸妓をやっててね、新しいお弟子さんが夏休みの終わり頃に家にやって来て、俺の家に住み込むようになったんだ。ここまでが話の前振り」
「長い前振りだね」
「うん」
 花柳界の話が小学生にどのくらい伝わるかはわからない。話している皐月自身もよくわかっていない。
「で、そのお弟子さんの娘さんも一緒に引っ越してきたんだ。その人がさっき話に出てきた|祐希《ゆうき》っていう女子高生」
「女子高生! マジか、|皐月《こーげつ》。今度遊びに行くぞ」
「おう、いつでも来てくれ。ちょっと部屋が狭くなっちゃったけどな」
 |神谷秀真《かみやしゅうま》や|岩原比呂志《いわはらひろし》は一学期や夏休みに時々家に遊びに来ていたが、|及川祐希《おいかわゆうき》たち母娘が引っ越して来てからはまだ一度も遊びに来ていない。以前、彼らが遊びに来た時も、親の仕事に関しては全く話題にならなかった。
「じゃあ藤城さんはその祐希さんっていう高校生の女の人と一緒に住んでいるのね」
「まあ、そういうことになるかな……」
 皐月は自分でもどうしてこんな口ごもった言い方になるのかわからなかった。絵梨花や一緒にいる|吉口千由紀《よしぐちちゆき》に女子高生と同居していることで後ろめたさを感じているのかもしれない。
 あるいは親の仕事が芸妓だということを恥ずかしく思っているのか。さらに追及されると母子家庭だということまで話さなければならなくなることを恐れているのか。
「それならお姉さんみたいな人って言われても納得しちゃうな。真理ちゃんはその祐希さんって人のこと知ってたんだね」
「うん。会ったことあるよ」
「えっ? 会ったことがあるの?」
「おい、真理!」
「いいの」
 皐月はあえて自分と|栗林真理《くりばやしまり》との関係を伏せてきた。この話になると、どうしても真理の母親も芸妓だということを言わなければならなくなる。家の事情の暴露なんて自分だけでたくさんだ。
「私のお母さんも皐月のお母さんと同じ芸妓だから、私たちが小さかった頃から家族付き合いしてるの。皐月の家にお弟子さんが来た時の歓迎会に呼ばれて、その時に祐希さんに会ったよ」
「そうなんだ……なんか真理ちゃんまで私の好奇心に巻き込んじゃってごめんね」
「いいよ、別に。隠しておきたかったわけじゃないから。絵梨花ちゃんとは一緒に中学受験するし、これから二人で話す機会が増えると思ってたから、いつか話す時が来ると思ってた」
「じゃあ、このお話はここまでにしておくね。もう後片付けしようよ。また手洗い場が混んじゃうから」
 絵梨花にしては焦った感じでみんなに行動を促した。皐月たちは真理の手を引っ張って先導する絵梨花について行った。手洗い場はすでに混雑していた。
 水道を使う順番を待っている間、皐月は千由紀に聞きたいことがあったので聞いてみた。
「吉口さんって『城の崎にて』って読んだことある?」
「あるよ」
「じゃあ『人間失格』は?」
「あるけど、どうしたの?」
「『城の崎にて』は芸妓のお姉さんに面白いって言われたから、今日図書室で借りてきた。『人間失格』は昨日たまたま知って、ちょっと興味を持ったんだ」
 皐月は最近、嘘ばかりついている。『城の崎にて』は年下の女友達の|入屋千智《いりやちさと》から、『人間失格』は児童会長の|江嶋華鈴《えじまかりん》から教わった。
「藤城君、読みたい本が増えてきたね」
「そうなんだよ。なかなか読めなくて、ちょっと焦る」
「読書も体力がいるからね。読書特有の体力が」
「読書特有の体力?」
「そう。読書に限った話じゃないけど、同じことをし続けるのって慣れるまではキツいよね。私だとゲームなんかすぐに疲れちゃって、30分もできない」
「えーっ! 俺なら朝までだってやれるよ」
「そういうこと。読書も体力が付けば朝までだって読み続けられるようになるよ」
「じゃあ読書がんばって体力つけようかな」
 皐月たちの順番が来たので雑巾を洗い、教室の窓の外に干した。校舎の窓の外に後付けされたパイプが雑巾を干す場所になっている。窓際の席の子たちはきっとこの時間を鬱陶しいと思っているだろう。
 窓際にある|月花博紀《げっかひろき》の席の周りには、いつまでも席に戻ろうとしない女子がたむろしている。その中心には|松井晴香《まついはるか》がいる。
 博紀の後ろの席が|筒井美耶《つついみや》の席なので、晴香は美耶と話をしながら博紀のそばにいようとしている。皐月は面倒に関わりたくないので、博紀や美耶に近づかないように雑巾を干した。
 先生が教室に来るまでまだ少しだけ時間がある。席に戻った皐月は寸暇を惜しんで千由紀に文学の話を持ちかけた。
「ねえ、『城の崎にて』と『人間失格』って面白かった?」
「面白かったよ。特に『人間失格』は『歯車』と同じくらい好き」
「おお……そんなにか」
「でも正直、今の私には意味がわからないところがありすぎるな……まだ子どもだし」
「へぇ……そうなんだ。吉口さんでもわからないことなんてあるんだね」
「当たり前でしょ。小学生が背伸びして大人の小説を読んでいるだけだから」
「『人間失格』は小学生向けじゃないんだね。だから図書室には置いてなかったのか」
「あの小説は大人のいろいろな経験がないとわからないから。小学生の想像力の限界を超えてる」
「そうか……それは面白そうだな」
 皐月は『人間失格』が千由紀でもわからない本だということに期待で胸が高まった。そんな小説を千由紀に先立って自分がわかるようになりたいと、変な対抗心が湧いてきた。
 皐月はそんな『人間失格』を蔵書にしている江嶋華鈴のことも気になった。華鈴は『人間失格』を読んで何を思ったのだろうか。