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巫の篠

ー/ー



 天満月さまと出会って以降、澪姉さまは、少しずつ変わっていかれました。
 よく笑うようになり、感情を表に出されるようになったのです。それまで、人の前で笑みを見せることなど、ほとんどなかった方でしたのに。
 篠にも、よく話しかけてくださるようになりました。歩き巫女としての務めの合間、焚き火の前で、あるいは山道を歩きながら、ぽつり、ぽつりと語られる言葉の多くは、天満月さまのことに結びついておりました。

「天満月さまは、童らの魂を、ああして抱きしめておられたでしょう」
「祈りで縛るのではなく、遊びの灯で包まれていましたね」

 そうして、ある夜、姉さまは静かに言われました。

「……あの方のように、私も祈りたいの」
 その声は憧れのようでいて、どこか切実な響きを帯びておりました。

 その頃からでしょうか。姉さまの意識は、より深く彼岸へと傾いていかれたのは。神懸りのあと、此岸へ戻ってこられるまでの間が、少しずつ長くなっていったのです。肩を揺すっても、瞳だけがどこか別の場所を見つめている――そのような間が増えていったのです。
 篠は、その変化をただ観察しておりました。姉さまの背が、歩くたびに、少しずつ遠い岸へ傾いていくような気がしました。姉さまの言葉が揺らいでも、篠の内では、何ひとつ動きませんでした。
 ある夜、焚き火のそばで、姉さまがふいに口を開かれました。

「天満月さまのように、私も、御霊を撫でてあげたいの」
 姉さまは火を見つめたまま、続けられました。

「私には、あの方のような力はありません。けれど、力がなくとも……我々もまた、俗世には理解されぬ孤高の存在。篠、よく聞きなさい」
 そう言って、姉さまは、かつておばあさまから授けられたであろう言葉を、ひとつずつ思い出すように紡いでいかれました。

「巫は、生と死の狭間に識を置き、ある時は御霊に寄り添い、ある時は魔を祓い、すべての御霊が静かに還れるよう祈り続けるのです。彷徨える御霊と邂逅した時、慈しみをもって、何度も何度もそっと語り続けなさい。そして教えてあげるのです――あなたはもう、此の岸の者ではないのだと」
 言葉そのものは、教えとして正しかったのでしょう。ただ、そのときの姉さまの眼差しは、遠くの彼岸の灯を見つめているようでございました。

 思えば……姉さまが壊れはじめたのは、あの夜――天満月さまと出会われてからだったのかもしれません。
 自分を遥かに凌ぐ霊命の力を宿す祈りの器と邂逅して、姉さまは、無意識のうちに、救済を求められたのでしょうか。あの方が放つ光に、魂を撫でられたかったのでしょうか。孤独な祈りを、天満月さまの慈悲によって抱きしめてほしかったのでしょうか。

 その後も、姉さまは繰り返し、同じような言葉を口にされました。

「篠、よく聞いてね……巫は、生と死の狭間に身を置き、祈り続ける者。彷徨える意識と邂逅したとき、慈しみを持って、何度も何度も、そっと語り続けるのです。そして教えてあげるのです――あなたはもう、終焉を迎えたのだと……」

 最初は教えとして整っていたその言葉が、少しずつ、ほつれはじめました。

「我々もまた、俗世には理解されぬ孤高の存在……全ての……御霊が……彷徨える、意識……何度も何度も、そっと、語り……あなたはもう……あなたは……」

 言葉が、途中で途切れ、順序を失い、同じところをぐるぐるとまわり始めたのです。その声は、もはや教えではなく、祈りの残響のようでございました。
 姉さまの瞳は、そのたびに、どこか遠くを見ておられました。篠のすぐそばに立ちながら、もう半分ほどは、別の岸に身を置いておられるような気配でした。

 * * *
 その頃になると、篠の内にも、巫としての力が微かに目覚めはじめておりました。
 澪姉さまの焦がれるような願いが、篠の中に眠っていた御影巫の血を、そっと揺り起こしたのかもしれません。

 ある夜、神懸りのあとで、姉さまは長く戻ってこられませんでした。篠は、面丸鏡を胸に抱き、焚き火の傍らで、静かにその時を待っておりました。
 やがて、姉さまの唇が、かすかな声を漏らしました。

「……私は……あの方のように……
 御霊を……ああ……抱きしめたい……
 我々は……孤の……存在……
 生と死の……狭間……
 ……あなたは……もう……」

 その言葉が、完全に形を失っていく様子を、篠はただ見つめておりました。声は、もはやこの世に語りかけるものではなく、どこか遠い場所に向けて放たれる、ひび割れた祈りのようでした。

 焚き火が、ぱち、と小さく割れました。そのとき、篠の胸の奥で、何かが小さく灯りました。それは感情と呼ぶには拙く、けれど、ただの観察とも少し違う、小さな熱でした。
 篠は、面丸鏡をそっと持ち上げ、姉さまの方へと向けました。そして、生まれてからほとんど使ったことのない唇を、ゆっくりと動かしました。

「澪姉さまは……すでに数多の御霊のために尽くしてこられました」

 自分の声が、自分のものとは思えませんでした。けれど、言葉は続いていきました。

「姉さまの御霊を抱きしめるのが篠であることを、どうかお許しください。篠はずっと、ずっと姉さまの御霊に寄り添い、語ります。澪姉さまは、もう此の岸のお方ではないのだと」

 その瞬間、姉さまの瞳がはっきりと揺れました。篠の手にある面丸鏡を見つめ、その鏡に、自分の姿が映っていないことに、ようやく気づかれたのです。姉さまは、ゆっくりと項垂れ、震える声を漏らされました。

『……私は……いつ、終焉を迎えていたの――?』

 焚き火の光が、篠の影だけを揺らしました。
 篠の瞳から、ひと筋の雫が零れました。それは、悲しみとは少し違いました。ただ、あまりにも哀れだと思ったのです。姉さまという存在の結末が。御霊を導いてきた澪姉さまが、己が死したる事実だけには、最後まで気づけなかったということが。
 天満月さまのように御霊に慈悲を注げる存在になりたいと願われたその祈りが、そのまま姉さま自身を此岸から遠ざけてしまったということが、哀れであったのです。

* * *
 篠は、ときおり思うのです。
 もし天満月さまと出会われなければ、姉さまは死に至ることはなかったのではないか、と。
 けれど――その思いは、巫には相応しからぬ“もしも”でございます。
 因果はほどけず、祈りは戻らず。

 彼岸へ渡られた姉さまを見送り、ただひとり残された篠は、今もいろは歌を紡ぎながら思うのです。

 天満月さまの祈りは、澪姉さまには眩しすぎたのだと。そしてその眩さこそが、ひとりの巫を壊し、もうひとりの巫を目覚めさせたのだと――


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 天満月さまと出会って以降、澪姉さまは、少しずつ変わっていかれました。
 よく笑うようになり、感情を表に出されるようになったのです。それまで、人の前で笑みを見せることなど、ほとんどなかった方でしたのに。
 篠にも、よく話しかけてくださるようになりました。歩き巫女としての務めの合間、焚き火の前で、あるいは山道を歩きながら、ぽつり、ぽつりと語られる言葉の多くは、天満月さまのことに結びついておりました。
「天満月さまは、童らの魂を、ああして抱きしめておられたでしょう」
「祈りで縛るのではなく、遊びの灯で包まれていましたね」
 そうして、ある夜、姉さまは静かに言われました。
「……あの方のように、私も祈りたいの」
 その声は憧れのようでいて、どこか切実な響きを帯びておりました。
 その頃からでしょうか。姉さまの意識は、より深く彼岸へと傾いていかれたのは。神懸りのあと、此岸へ戻ってこられるまでの間が、少しずつ長くなっていったのです。肩を揺すっても、瞳だけがどこか別の場所を見つめている――そのような間が増えていったのです。
 篠は、その変化をただ観察しておりました。姉さまの背が、歩くたびに、少しずつ遠い岸へ傾いていくような気がしました。姉さまの言葉が揺らいでも、篠の内では、何ひとつ動きませんでした。
 ある夜、焚き火のそばで、姉さまがふいに口を開かれました。
「天満月さまのように、私も、御霊を撫でてあげたいの」
 姉さまは火を見つめたまま、続けられました。
「私には、あの方のような力はありません。けれど、力がなくとも……我々もまた、俗世には理解されぬ孤高の存在。篠、よく聞きなさい」
 そう言って、姉さまは、かつておばあさまから授けられたであろう言葉を、ひとつずつ思い出すように紡いでいかれました。
「巫は、生と死の狭間に識を置き、ある時は御霊に寄り添い、ある時は魔を祓い、すべての御霊が静かに還れるよう祈り続けるのです。彷徨える御霊と邂逅した時、慈しみをもって、何度も何度もそっと語り続けなさい。そして教えてあげるのです――あなたはもう、此の岸の者ではないのだと」
 言葉そのものは、教えとして正しかったのでしょう。ただ、そのときの姉さまの眼差しは、遠くの彼岸の灯を見つめているようでございました。
 思えば……姉さまが壊れはじめたのは、あの夜――天満月さまと出会われてからだったのかもしれません。
 自分を遥かに凌ぐ霊命の力を宿す祈りの器と邂逅して、姉さまは、無意識のうちに、救済を求められたのでしょうか。あの方が放つ光に、魂を撫でられたかったのでしょうか。孤独な祈りを、天満月さまの慈悲によって抱きしめてほしかったのでしょうか。
 その後も、姉さまは繰り返し、同じような言葉を口にされました。
「篠、よく聞いてね……巫は、生と死の狭間に身を置き、祈り続ける者。彷徨える意識と邂逅したとき、慈しみを持って、何度も何度も、そっと語り続けるのです。そして教えてあげるのです――あなたはもう、終焉を迎えたのだと……」
 最初は教えとして整っていたその言葉が、少しずつ、ほつれはじめました。
「我々もまた、俗世には理解されぬ孤高の存在……全ての……御霊が……彷徨える、意識……何度も何度も、そっと、語り……あなたはもう……あなたは……」
 言葉が、途中で途切れ、順序を失い、同じところをぐるぐるとまわり始めたのです。その声は、もはや教えではなく、祈りの残響のようでございました。
 姉さまの瞳は、そのたびに、どこか遠くを見ておられました。篠のすぐそばに立ちながら、もう半分ほどは、別の岸に身を置いておられるような気配でした。
 * * *
 その頃になると、篠の内にも、巫としての力が微かに目覚めはじめておりました。
 澪姉さまの焦がれるような願いが、篠の中に眠っていた御影巫の血を、そっと揺り起こしたのかもしれません。
 ある夜、神懸りのあとで、姉さまは長く戻ってこられませんでした。篠は、面丸鏡を胸に抱き、焚き火の傍らで、静かにその時を待っておりました。
 やがて、姉さまの唇が、かすかな声を漏らしました。
「……私は……あの方のように……
 御霊を……ああ……抱きしめたい……
 我々は……孤の……存在……
 生と死の……狭間……
 ……あなたは……もう……」
 その言葉が、完全に形を失っていく様子を、篠はただ見つめておりました。声は、もはやこの世に語りかけるものではなく、どこか遠い場所に向けて放たれる、ひび割れた祈りのようでした。
 焚き火が、ぱち、と小さく割れました。そのとき、篠の胸の奥で、何かが小さく灯りました。それは感情と呼ぶには拙く、けれど、ただの観察とも少し違う、小さな熱でした。
 篠は、面丸鏡をそっと持ち上げ、姉さまの方へと向けました。そして、生まれてからほとんど使ったことのない唇を、ゆっくりと動かしました。
「澪姉さまは……すでに数多の御霊のために尽くしてこられました」
 自分の声が、自分のものとは思えませんでした。けれど、言葉は続いていきました。
「姉さまの御霊を抱きしめるのが篠であることを、どうかお許しください。篠はずっと、ずっと姉さまの御霊に寄り添い、語ります。澪姉さまは、もう此の岸のお方ではないのだと」
 その瞬間、姉さまの瞳がはっきりと揺れました。篠の手にある面丸鏡を見つめ、その鏡に、自分の姿が映っていないことに、ようやく気づかれたのです。姉さまは、ゆっくりと項垂れ、震える声を漏らされました。
『……私は……いつ、終焉を迎えていたの――?』
 焚き火の光が、篠の影だけを揺らしました。
 篠の瞳から、ひと筋の雫が零れました。それは、悲しみとは少し違いました。ただ、あまりにも哀れだと思ったのです。姉さまという存在の結末が。御霊を導いてきた澪姉さまが、己が死したる事実だけには、最後まで気づけなかったということが。
 天満月さまのように御霊に慈悲を注げる存在になりたいと願われたその祈りが、そのまま姉さま自身を此岸から遠ざけてしまったということが、哀れであったのです。
* * *
 篠は、ときおり思うのです。
 もし天満月さまと出会われなければ、姉さまは死に至ることはなかったのではないか、と。
 けれど――その思いは、巫には相応しからぬ“もしも”でございます。
 因果はほどけず、祈りは戻らず。
 彼岸へ渡られた姉さまを見送り、ただひとり残された篠は、今もいろは歌を紡ぎながら思うのです。
 天満月さまの祈りは、澪姉さまには眩しすぎたのだと。そしてその眩さこそが、ひとりの巫を壊し、もうひとりの巫を目覚めさせたのだと――