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失われた日を"補完"して

ー/ー



 今日もいつものような日が訪れる。何事もない日が始まる。

 俺は玄関の扉を開けて、外へと出た。分かっている。次の曲がり角を超えた先で、トラックが走ってくるということを。

 見通しの良い大通りの交差点に差し掛かったところで、俺は走り出した。
「危ない!」

 横断歩道を渡っている女の子に気付かない、そんなトラックの暴走が見えた。颯爽として俺は蹴り上げて、トラックを弾き飛ばす。これで女の子は救われた。

「すっごいね! やったね!」

 女の子がはしゃいでいる。いや、違うな。こうじゃないな。

「あ、危ないところを、ありがとうございました」

 そうそう、こんな感じが丁度いい。

「当然のことをしたまでさ」

 などと言いながらも、俺は鼻高々にその場を去ろうとして、ふと立ち止まる。咄嗟に振り返ると、その交差点には誰の姿もなかった。

――何かがおかしい。

 そんな猛烈な違和感が湧いてくるのに、それが何か分からない。

 どうして俺は、トラックが走ってくることを知っていたんだっけ。
 どうして俺は、何トンもありそうなトラックを蹴り飛ばせるんだろう。
 どうして俺は、女の子の言葉を好きに変えることができたのか。

 突然、息が苦しくなる。上半身と下半身が真っ二つになってしまいそうなほどに、想像を絶する痛みが――いや、俺には想像できたはずだ。気付いてはいけないような気がする。あるいは、早く気付くべきなのだろうか。

『大丈夫だよ。もう、大丈夫だから気付いていいんだよ』
「――え!? だ、誰だ?」

 聞いたこともない声が俺を呼び止める。
 その声の主は、何処にいたのだろう。かなりの近く、耳元で囁かれたくらいの至近距離に思えたのに、姿が見えない。

『君は夢を見ているだけなんだ。この声が届いたら、少し勇気を出してみよう』

 脳みそを直接鷲掴みにされたみたいに、激しいめまいが俺を襲う。

 夢を見ている? 一体いつからだ? いつから俺は眠っていたんだ?

 今、俺は何処を歩いているのか分からなくなってきた。

 ついさっきまで自分が何処にいたのかさえも分からなくなる。

 激しい濁流に飲み込まれて、足をつけることも叶わず、掴まれるものも何もなく、流されるように延々と彷徨っているような、そんな感覚。

『怖くはないよ。ゆっくり、ゆっくりと、目を開くだけでいい』

 俺は言われるがまま、祈るような気持ちで、気を集中させた。
 するとどうしたことか、目の前に眩い光が迸る。

 俺の全てを照らすような、俺のいた世界を全部溶かしつくすような、そんな光。全部が真っ白になったところで、しばらくの間、俺は白いソレを見上げていた。

 ソレとは、天井だった。ぼんやりとした頭で理解する。

「おお、目が覚めたか」

 聞き覚えのある声。首を傾けると白衣の男性――おそらく医師が俺を見ていた。

「あれ? 俺は……、ここは一体」

 まだ上手く動かない頭をさすろうとして、手に何か当たる。何かと思ったら、どうやら俺はヘッドギアのようなものをつけていたらしい。

「君は半年間、眠り続けていたんだよ」
「は、半年?」

 そんな寝耳に水なことを言われても。
 いや、実際に寝ていたから正しいといえばそうなんだけど。

「本当にぎりぎりのところだった。今日、目を覚まさなかったらどうなっていたか」
「あの、まだよく分からない、んですけど」

 覚醒した頭が、圧縮された情報を解凍する。
 少しずつ、現状が見えてきた。

 ここは病院の病室で、俺はベッドの上に寝かされていた。
 それは医師がいたから理解できた。

「少しずつ思い出すといい。慌てることはない。ゆっくり、ゆっくりとね」

 夢うつつの中にあった俺の記憶が靄もやを晴らすみたいに明瞭になっていく。

 そう、確か、俺はあの日、トラックに轢かれそうになった女の子を助けたんだ。そこから先の記憶が途切れている。

「俺、そうだ、トラックに轢かれて……」
「手術で一命はとりとめた。だが、深い昏睡状態から意識だけは戻ってこなかった。そこで、新開発されたその夢装置で、君の中の記憶を補完させてもらったのだよ」
「夢装置?」

 多分、今、俺の頭についているもののことを言っているのだろう。

「事故のトラウマから心が覚醒を拒むことがある。それを緩和させるための処置さ」
「じゃ、じゃあ夢の中で聞こえたあの声は」
「そう、私の呼びかけだよ」

 急に一気に脱力してきた。これが安堵という気持ちなのだろう。
 なんだか、自然と涙も零れ落ちてきた。
 ずっとおかしいと思い続けてきたことは全部、夢だったんだ。

「人間の脳というものは実によくできていてね。防衛本能で記憶も都合のいいように書き換えられるものなんだ。この装置はそれを促すことができるのさ」
「最近はそういうものもあるんですね」

 技術の進歩には驚かされる。おかげで俺も無事快復できたというわけだ。
 医師には感謝の言葉もない。

「これで明日には退院だ」

 うーん? なんか、いまいちな感じだな。

「これからリハビリが長いが、しっかり頑張っていこう」

 そうそう、こんな感じだよな。

「――ん?」


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 今日もいつものような日が訪れる。何事もない日が始まる。
 俺は玄関の扉を開けて、外へと出た。分かっている。次の曲がり角を超えた先で、トラックが走ってくるということを。
 見通しの良い大通りの交差点に差し掛かったところで、俺は走り出した。
「危ない!」
 横断歩道を渡っている女の子に気付かない、そんなトラックの暴走が見えた。颯爽として俺は蹴り上げて、トラックを弾き飛ばす。これで女の子は救われた。
「すっごいね! やったね!」
 女の子がはしゃいでいる。いや、違うな。こうじゃないな。
「あ、危ないところを、ありがとうございました」
 そうそう、こんな感じが丁度いい。
「当然のことをしたまでさ」
 などと言いながらも、俺は鼻高々にその場を去ろうとして、ふと立ち止まる。咄嗟に振り返ると、その交差点には誰の姿もなかった。
――何かがおかしい。
 そんな猛烈な違和感が湧いてくるのに、それが何か分からない。
 どうして俺は、トラックが走ってくることを知っていたんだっけ。
 どうして俺は、何トンもありそうなトラックを蹴り飛ばせるんだろう。
 どうして俺は、女の子の言葉を好きに変えることができたのか。
 突然、息が苦しくなる。上半身と下半身が真っ二つになってしまいそうなほどに、想像を絶する痛みが――いや、俺には想像できたはずだ。気付いてはいけないような気がする。あるいは、早く気付くべきなのだろうか。
『大丈夫だよ。もう、大丈夫だから気付いていいんだよ』
「――え!? だ、誰だ?」
 聞いたこともない声が俺を呼び止める。
 その声の主は、何処にいたのだろう。かなりの近く、耳元で囁かれたくらいの至近距離に思えたのに、姿が見えない。
『君は夢を見ているだけなんだ。この声が届いたら、少し勇気を出してみよう』
 脳みそを直接鷲掴みにされたみたいに、激しいめまいが俺を襲う。
 夢を見ている? 一体いつからだ? いつから俺は眠っていたんだ?
 今、俺は何処を歩いているのか分からなくなってきた。
 ついさっきまで自分が何処にいたのかさえも分からなくなる。
 激しい濁流に飲み込まれて、足をつけることも叶わず、掴まれるものも何もなく、流されるように延々と彷徨っているような、そんな感覚。
『怖くはないよ。ゆっくり、ゆっくりと、目を開くだけでいい』
 俺は言われるがまま、祈るような気持ちで、気を集中させた。
 するとどうしたことか、目の前に眩い光が迸る。
 俺の全てを照らすような、俺のいた世界を全部溶かしつくすような、そんな光。全部が真っ白になったところで、しばらくの間、俺は白いソレを見上げていた。
 ソレとは、天井だった。ぼんやりとした頭で理解する。
「おお、目が覚めたか」
 聞き覚えのある声。首を傾けると白衣の男性――おそらく医師が俺を見ていた。
「あれ? 俺は……、ここは一体」
 まだ上手く動かない頭をさすろうとして、手に何か当たる。何かと思ったら、どうやら俺はヘッドギアのようなものをつけていたらしい。
「君は半年間、眠り続けていたんだよ」
「は、半年?」
 そんな寝耳に水なことを言われても。
 いや、実際に寝ていたから正しいといえばそうなんだけど。
「本当にぎりぎりのところだった。今日、目を覚まさなかったらどうなっていたか」
「あの、まだよく分からない、んですけど」
 覚醒した頭が、圧縮された情報を解凍する。
 少しずつ、現状が見えてきた。
 ここは病院の病室で、俺はベッドの上に寝かされていた。
 それは医師がいたから理解できた。
「少しずつ思い出すといい。慌てることはない。ゆっくり、ゆっくりとね」
 夢うつつの中にあった俺の記憶が靄もやを晴らすみたいに明瞭になっていく。
 そう、確か、俺はあの日、トラックに轢かれそうになった女の子を助けたんだ。そこから先の記憶が途切れている。
「俺、そうだ、トラックに轢かれて……」
「手術で一命はとりとめた。だが、深い昏睡状態から意識だけは戻ってこなかった。そこで、新開発されたその夢装置で、君の中の記憶を補完させてもらったのだよ」
「夢装置?」
 多分、今、俺の頭についているもののことを言っているのだろう。
「事故のトラウマから心が覚醒を拒むことがある。それを緩和させるための処置さ」
「じゃ、じゃあ夢の中で聞こえたあの声は」
「そう、私の呼びかけだよ」
 急に一気に脱力してきた。これが安堵という気持ちなのだろう。
 なんだか、自然と涙も零れ落ちてきた。
 ずっとおかしいと思い続けてきたことは全部、夢だったんだ。
「人間の脳というものは実によくできていてね。防衛本能で記憶も都合のいいように書き換えられるものなんだ。この装置はそれを促すことができるのさ」
「最近はそういうものもあるんですね」
 技術の進歩には驚かされる。おかげで俺も無事快復できたというわけだ。
 医師には感謝の言葉もない。
「これで明日には退院だ」
 うーん? なんか、いまいちな感じだな。
「これからリハビリが長いが、しっかり頑張っていこう」
 そうそう、こんな感じだよな。
「――ん?」