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170 一人で食べる夕食には戻れない

ー/ー



 藤城皐月(ふじしろさつき)は台所で今晩の献立の麻婆豆腐を作っているところを見ながら、住み込みの及川頼子(おいかわよりこ)と雑談をしていた。二人で話していたからなのか、料理の話から離婚の話になってしまった。古傷に触れたような気がして気まずくなったので、食事の準備ができるまでは自分の部屋に戻ることにした。
 頼子の娘の祐希(ゆうき)が高校から帰宅するまで食事を待たなければならない。祐希が遅くなるようなら頼子と二人で夕食になるが、特に何も言われなかったので、もうすぐ祐希は帰ってくるのだろう。
 ランドセルの中のものを机の上に出すと、図書室で借りた『るるぶ』が出てきた。皐月はこれと同じ本を自分で買い、借りている本を明日返却するつもりだ。
 夕食まではまだ時間がある。『るるぶ』が欲しいのなら、急いで本屋まで行って買ってこなければならない。スマホと財布を手提げ袋に入れ、慌てて階段を下りた。
「頼子さん、ちょっと本を買いに行ってくる。すぐ戻るから」
「もう暗いから気をつけてね」
 玄関を出るとすでに日が落ち、夜の帳が下りていた。小百合寮の行燈(あんどん)には明かりが灯っている。家の前の路地にあるスナックの電飾スタンドや、焼肉屋『五十鈴川』のガラスブロックの窓から漏れる照明の光が細く暗い路地を優しく照らしていた。

 皐月は駅前大通りのスクランブル交差点を渡って書店まで急いだ。もしかしたら自分と同じことを考えている奴がいるかもしれない。自分の思いついたことは他の誰かも気がつくはずだ、と皐月はいつも不安になる。
 書店に入り、旅行ガイドのコーナーを見ていると、誰にも買われていない『るるぶ』の新刊があった。書店の『るるぶ』は学校の古いものと違い、誌面がより華やかだった。
 文庫本のコーナーに行くと、江嶋華鈴(えじまかりん)の部屋で見た太宰治の『人間失格』があった。図書室で探していた川端康成の『雪国』もあった。
 古本屋の竹井書店には『雪国』は置いてなかったが、『人間失格』ならあるかもしれない。今ここで新刊を買うか、古本屋で安く買うかは悩みどころだ。少ない小遣いで新刊を買うのは『るるぶ』を買う今の経済状況ではきつい。それに修学旅行が終わるまでは本を読む暇がなさそうなので、今日は小説を買うのをやめることにした。
 家に帰り、玄関に入ると祐希の靴があった。皐月のいない間に帰宅していたようだ。台所を覗いてみると頼子が餃子を焼いていた。
「ただいま」
「お腹すいちゃったね。もうすぐご飯ができるからね」
「配膳手伝うよ」
「ありがとう。じゃあ、できたものから持ってって」

 皐月はトレーにグラスと烏龍茶、各種調味料を載せて居間へ運んだ。台所に戻る時に階段から祐希が降りてきた。
「あれ? 皐月、お手伝いしてるんだ。私も手伝うよ」
「じゃあ、ご飯をよそってよ。俺は麻婆豆腐をよそうから」
「はいはい。皐月は大盛りね」
「普通でいいよ、普通で」
 一人で食事をしていた頃はこんな何気ない会話もなかった。皐月はまだ頼子や祐希に気を使いながら暮らしているが、家族以外の人とでも一緒に食事をする生活は悪くない。
「ちょっと祐希、それ盛り過ぎ!」
「男の子ならこれくらい食べられるでしょ。どうせお代わりするんだから、いいじゃない」
 華鈴は今頃、一人で親子丼を食べているのだろうか……そんなことを思うと、今の生活に馴染む前の自分は本当は寂しかったんだ、ということに改めて気づかされた。
 一人で親子丼を食べている華鈴は絶対に寂しいはずだ。一人で受験勉強をしながらご飯を食べている栗林真理(くりばやしまり)も同じだと思う。もしかしたらこの家に来る前の祐希も同じ思いだったのかもしれない。
 今の暮らしが始まってまだ一月ほどしか過ぎていないが、皐月は今さら元の生活に戻れる気がしなくなっていた。お互いに赤の他人だからまだぎこちないところはあるが、この奇妙な関係がいつまでも続くことを望むようになっていた。



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 |藤城皐月《ふじしろさつき》は台所で今晩の献立の麻婆豆腐を作っているところを見ながら、住み込みの|及川頼子《おいかわよりこ》と雑談をしていた。二人で話していたからなのか、料理の話から離婚の話になってしまった。古傷に触れたような気がして気まずくなったので、食事の準備ができるまでは自分の部屋に戻ることにした。
 頼子の娘の|祐希《ゆうき》が高校から帰宅するまで食事を待たなければならない。祐希が遅くなるようなら頼子と二人で夕食になるが、特に何も言われなかったので、もうすぐ祐希は帰ってくるのだろう。
 ランドセルの中のものを机の上に出すと、図書室で借りた『るるぶ』が出てきた。皐月はこれと同じ本を自分で買い、借りている本を明日返却するつもりだ。
 夕食まではまだ時間がある。『るるぶ』が欲しいのなら、急いで本屋まで行って買ってこなければならない。スマホと財布を手提げ袋に入れ、慌てて階段を下りた。
「頼子さん、ちょっと本を買いに行ってくる。すぐ戻るから」
「もう暗いから気をつけてね」
 玄関を出るとすでに日が落ち、夜の帳が下りていた。小百合寮の|行燈《あんどん》には明かりが灯っている。家の前の路地にあるスナックの電飾スタンドや、焼肉屋『五十鈴川』のガラスブロックの窓から漏れる照明の光が細く暗い路地を優しく照らしていた。
 皐月は駅前大通りのスクランブル交差点を渡って書店まで急いだ。もしかしたら自分と同じことを考えている奴がいるかもしれない。自分の思いついたことは他の誰かも気がつくはずだ、と皐月はいつも不安になる。
 書店に入り、旅行ガイドのコーナーを見ていると、誰にも買われていない『るるぶ』の新刊があった。書店の『るるぶ』は学校の古いものと違い、誌面がより華やかだった。
 文庫本のコーナーに行くと、|江嶋華鈴《えじまかりん》の部屋で見た太宰治の『人間失格』があった。図書室で探していた川端康成の『雪国』もあった。
 古本屋の竹井書店には『雪国』は置いてなかったが、『人間失格』ならあるかもしれない。今ここで新刊を買うか、古本屋で安く買うかは悩みどころだ。少ない小遣いで新刊を買うのは『るるぶ』を買う今の経済状況ではきつい。それに修学旅行が終わるまでは本を読む暇がなさそうなので、今日は小説を買うのをやめることにした。
 家に帰り、玄関に入ると祐希の靴があった。皐月のいない間に帰宅していたようだ。台所を覗いてみると頼子が餃子を焼いていた。
「ただいま」
「お腹すいちゃったね。もうすぐご飯ができるからね」
「配膳手伝うよ」
「ありがとう。じゃあ、できたものから持ってって」
 皐月はトレーにグラスと烏龍茶、各種調味料を載せて居間へ運んだ。台所に戻る時に階段から祐希が降りてきた。
「あれ? 皐月、お手伝いしてるんだ。私も手伝うよ」
「じゃあ、ご飯をよそってよ。俺は麻婆豆腐をよそうから」
「はいはい。皐月は大盛りね」
「普通でいいよ、普通で」
 一人で食事をしていた頃はこんな何気ない会話もなかった。皐月はまだ頼子や祐希に気を使いながら暮らしているが、家族以外の人とでも一緒に食事をする生活は悪くない。
「ちょっと祐希、それ盛り過ぎ!」
「男の子ならこれくらい食べられるでしょ。どうせお代わりするんだから、いいじゃない」
 華鈴は今頃、一人で親子丼を食べているのだろうか……そんなことを思うと、今の生活に馴染む前の自分は本当は寂しかったんだ、ということに改めて気づかされた。
 一人で親子丼を食べている華鈴は絶対に寂しいはずだ。一人で受験勉強をしながらご飯を食べている|栗林真理《くりばやしまり》も同じだと思う。もしかしたらこの家に来る前の祐希も同じ思いだったのかもしれない。
 今の暮らしが始まってまだ一月ほどしか過ぎていないが、皐月は今さら元の生活に戻れる気がしなくなっていた。お互いに赤の他人だからまだぎこちないところはあるが、この奇妙な関係がいつまでも続くことを望むようになっていた。