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出発は唐突に

ー/ー



 明くる空は眠って逃して、眼が覚めたのは夕方でした。

 目線の霞を払うように瞬きしていると、差し込む蛍光灯の光が目に飛び込みます。身体は以前よりも軽くて、腕に力を入れると少しだけ痛みました。

 そして、目の前にいたあのお方の素顔もなく、慌てていつの間にか掛けられていた布団を剥ぎました。

「あらおはよう」

 まず耳にした透き通る肉声。もう決して聞き間違えることのない声に私は眼を向けます。

 私の机を拝借して、端麗な紅い眼光を据える体躯は見るからに少女のそのお方は、見紛いませんクリスカさんです。蒼白の指でキーボードをさぞ忙しなく打ち込む彼女にまるで付け入る隙がなく、たじろいでいます。

 ですが、何をしているのでしょうか。ちゃっかり私のパソコンを使っているようにも見えるのですが。

「五月蠅かった?」
「い、いえ。むしろ心地良いです」

 ぼんやりする思考回路と腑抜けた私の声音にクリスカさんがタイプに励む手を止めました。

「あっ寝るなぁ!」
「ごめんにゃひゃい」
「まったく」

 背中に腕を回してくれて、倒れかけた私は仕方ないので起きることにしました。

 するとクリスカさんは眼を眇めて私の首筋を見つめます。

「……なんでしょう?」
「ちょっと痛そうだったから、どうなのかなって」

 その痛そうな傷を作ったのは昨晩のクリスカさんですよと、頭の中で一言。

「痛みはないんですが、熱を帯びていてちょっと落ち着かないです。腫れてしまっているような感覚です」

 と素直に告げました。

 クリスカさんの介護を糧に自力で立ち上がって、窓際の椅子に腰かけます。彼女も仕事の続きを始めながら、まるで医者のように体調を伺ってきました。

「吸血の量は?」
「身体に異常はありませんし、大丈夫です。それと」
「それと?」
「クリスカ様の吸血を拒んだことを謝りたくて……申し訳ないです」
「些細な事よ。気負うことはないわ」

 些細と一蹴。トラウマも克服する努力をしなければいけませんね。

「この仕事が片付いたら、話の続きをしましょう」
「話の続き?」
「あなたの進退よ。私に付き従うか否かのね」
「あ……はい」

 気まずく眼を細めて反らす私。考えは未だ纏まっていません。

 きっと、父が差し伸ばした庇護で暮らしていければ、不自由のないことは自明。二度と病むことのない世界は私の理想です。

 仮に手を引かれたとしても彼女はまるで私を使用人とは見ようとしてくれません。私は使用人一家の娘で、吸血鬼の使用人として働くことが天命だった。それは叶えられそうになくとも、この家に留まって仕えることになっています。それが運命だったのです。

 そう生きるようにプログラムされた人間がいきなり主となる筈の身分の方と対等な関係になるなど、無茶苦茶も良い所でした。

 けれど、今すぐにでも飛び出して行きたい気持ちは私の中で燻っていました。クリスカさんにお供して、色んな場所に赴くなんて言う人生も、悪くない。父が下した決断、私の痛みを打ち消す鎮痛剤を拒んで、空高く羽ばたく鳥のように、見たことのない景色を見てからでも、歩む道を選ぶのを、良いのではないのか、と。

 両極端の想いに収集がつけられず、迷い続けていました。時間がないというのに、私は決断し切れず、だけど口に出すこともできないジレンマに陥っていたのでした。

「……まぁ難しいかしらね」

 手を止めて諦めた物言いをクリスカさんはしました。しかしそれが、私の紡いだ口をこじ開けます。

「——私は、行ってみたいです。クリスカさんの隣で色んな景色を見たい。いずれは貴方様にお仕えする使用人になりたいです。吸血鬼の主様に仕えることが私の夢です……一度は折れましたけど、私はクリスカ様のお傍でずっと」

 思わず漏れた本望。クリスカさんは立ち上がり傍へ寄って、

「なら、決まりね」

 そう言って、ノートパソコンを消して私の手を取りました。

「決まりなのですか」
「行ってみたいんでしょう。旅に」

 その通りなのですが、私には返せるものは何もない。だから正直に言います。「私が返せるものなんてありませんよ」
「あるじゃない。その身体に」
「身体……?」
「なぜ顔を赤くするのよ」
「だって、私の身体って申しましたので」

 そりゃ、身体を求めるなんて言われたら赤くなります。

「あぁそういう事。勘違いしないでよ。私はあなたの血で贖ってと言っているの。年下の幼気な少女を抱く趣味なんてないわよ?」
「はいごめんなさい」
「よろしい」

 嘆息されながらも、お許しをいただけました。私は視線が外れているのを良い事に微笑みます。

「これがひと段落したら、出発するわよ」
「もう、ですか!?」
「思い立ったが吉日。もうチケットも取っちゃってるから」

 薄青の切符を背のまま誇らしげに掲げていました。いつ取られたんでしょうか。未来でも見据えているような行動力です。

 私は立ち上がりました。門出は唐突ですが、それもまた旅の楽しみ方というものなのか、今の私にはわかりません。

 私物の入ったトランクを開けて、私は荷物を入れ替えました。いらない私物は乱雑に放り投げて、数日分の着替えと、カメラと、正装でもある給仕服、棚の中にいつしか主となる方にと用意した紅茶の茶葉のボトルを詰め込んで、私は吸血鬼と旅に出ることにしました。


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 明くる空は眠って逃して、眼が覚めたのは夕方でした。
 目線の霞を払うように瞬きしていると、差し込む蛍光灯の光が目に飛び込みます。身体は以前よりも軽くて、腕に力を入れると少しだけ痛みました。
 そして、目の前にいたあのお方の素顔もなく、慌てていつの間にか掛けられていた布団を剥ぎました。
「あらおはよう」
 まず耳にした透き通る肉声。もう決して聞き間違えることのない声に私は眼を向けます。
 私の机を拝借して、端麗な紅い眼光を据える体躯は見るからに少女のそのお方は、見紛いませんクリスカさんです。蒼白の指でキーボードをさぞ忙しなく打ち込む彼女にまるで付け入る隙がなく、たじろいでいます。
 ですが、何をしているのでしょうか。ちゃっかり私のパソコンを使っているようにも見えるのですが。
「五月蠅かった?」
「い、いえ。むしろ心地良いです」
 ぼんやりする思考回路と腑抜けた私の声音にクリスカさんがタイプに励む手を止めました。
「あっ寝るなぁ!」
「ごめんにゃひゃい」
「まったく」
 背中に腕を回してくれて、倒れかけた私は仕方ないので起きることにしました。
 するとクリスカさんは眼を眇めて私の首筋を見つめます。
「……なんでしょう?」
「ちょっと痛そうだったから、どうなのかなって」
 その痛そうな傷を作ったのは昨晩のクリスカさんですよと、頭の中で一言。
「痛みはないんですが、熱を帯びていてちょっと落ち着かないです。腫れてしまっているような感覚です」
 と素直に告げました。
 クリスカさんの介護を糧に自力で立ち上がって、窓際の椅子に腰かけます。彼女も仕事の続きを始めながら、まるで医者のように体調を伺ってきました。
「吸血の量は?」
「身体に異常はありませんし、大丈夫です。それと」
「それと?」
「クリスカ様の吸血を拒んだことを謝りたくて……申し訳ないです」
「些細な事よ。気負うことはないわ」
 些細と一蹴。トラウマも克服する努力をしなければいけませんね。
「この仕事が片付いたら、話の続きをしましょう」
「話の続き?」
「あなたの進退よ。私に付き従うか否かのね」
「あ……はい」
 気まずく眼を細めて反らす私。考えは未だ纏まっていません。
 きっと、父が差し伸ばした庇護で暮らしていければ、不自由のないことは自明。二度と病むことのない世界は私の理想です。
 仮に手を引かれたとしても彼女はまるで私を使用人とは見ようとしてくれません。私は使用人一家の娘で、吸血鬼の使用人として働くことが天命だった。それは叶えられそうになくとも、この家に留まって仕えることになっています。それが運命だったのです。
 そう生きるようにプログラムされた人間がいきなり主となる筈の身分の方と対等な関係になるなど、無茶苦茶も良い所でした。
 けれど、今すぐにでも飛び出して行きたい気持ちは私の中で燻っていました。クリスカさんにお供して、色んな場所に赴くなんて言う人生も、悪くない。父が下した決断、私の痛みを打ち消す鎮痛剤を拒んで、空高く羽ばたく鳥のように、見たことのない景色を見てからでも、歩む道を選ぶのを、良いのではないのか、と。
 両極端の想いに収集がつけられず、迷い続けていました。時間がないというのに、私は決断し切れず、だけど口に出すこともできないジレンマに陥っていたのでした。
「……まぁ難しいかしらね」
 手を止めて諦めた物言いをクリスカさんはしました。しかしそれが、私の紡いだ口をこじ開けます。
「——私は、行ってみたいです。クリスカさんの隣で色んな景色を見たい。いずれは貴方様にお仕えする使用人になりたいです。吸血鬼の主様に仕えることが私の夢です……一度は折れましたけど、私はクリスカ様のお傍でずっと」
 思わず漏れた本望。クリスカさんは立ち上がり傍へ寄って、
「なら、決まりね」
 そう言って、ノートパソコンを消して私の手を取りました。
「決まりなのですか」
「行ってみたいんでしょう。旅に」
 その通りなのですが、私には返せるものは何もない。だから正直に言います。「私が返せるものなんてありませんよ」
「あるじゃない。その身体に」
「身体……?」
「なぜ顔を赤くするのよ」
「だって、私の身体って申しましたので」
 そりゃ、身体を求めるなんて言われたら赤くなります。
「あぁそういう事。勘違いしないでよ。私はあなたの血で贖ってと言っているの。年下の幼気な少女を抱く趣味なんてないわよ?」
「はいごめんなさい」
「よろしい」
 嘆息されながらも、お許しをいただけました。私は視線が外れているのを良い事に微笑みます。
「これがひと段落したら、出発するわよ」
「もう、ですか!?」
「思い立ったが吉日。もうチケットも取っちゃってるから」
 薄青の切符を背のまま誇らしげに掲げていました。いつ取られたんでしょうか。未来でも見据えているような行動力です。
 私は立ち上がりました。門出は唐突ですが、それもまた旅の楽しみ方というものなのか、今の私にはわかりません。
 私物の入ったトランクを開けて、私は荷物を入れ替えました。いらない私物は乱雑に放り投げて、数日分の着替えと、カメラと、正装でもある給仕服、棚の中にいつしか主となる方にと用意した紅茶の茶葉のボトルを詰め込んで、私は吸血鬼と旅に出ることにしました。