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プロローグ 夢の跡②

ー/ー



 黄昏に染まる街並みは記憶の中のものと変わらない。夕陽が長い影を落とし、行き交う人々の笑い声が穏やかに響く。遠くでは楽師たちが奏でる音楽が、心地よく流れていた。

 それでも、どこかが違う。何かが欠けている。

 不安を押し殺しながら、ヘルメスは足を踏み出した。目指すのは、彼女がいるはずの場所。彼は確かに過去を改変し、彼女を救ったはずだ。この世界では、彼女は生きているはずなのだ。

 角を曲がり、馴染み深い路地へ入る。煉瓦造りの建物の壁には夕陽が反射し、温かみのある橙色の光を放っていた。その一角に、小さな花屋があった。

 扉を押すと、乾いた鈴の音が響く。店内は淡い花の香りで満たされていた。カウンターの奥に佇む女性の姿を見つけた瞬間、ヘルメスの胸が強く高鳴る。

 彼女は、間違いなくそこにいた。

「……エリス」

 女性が顔を上げ、穏やかな微笑みを浮かべる。しかし、その表情に一瞬の戸惑いが走った。

「すみません、お客様……。どこかでお会いしましたか?」

 その言葉に、ヘルメスの心臓が凍りつく。

「何……だと?」

 彼女は微笑みを崩さずに続ける。

「どなたかに似ているような気はするのですが……。でも、私の勘違いかもしれませんね」

 目の前の彼女は、確かにエリスだった。しかし、彼を知らない。

 頭の奥に鈍い痛みが走る。脳の奥底を何かが揺さぶるような感覚。ヘルメスは動揺を隠しながら、なんとか口を開いた。

「いや、こっちの勘違いだったかもしれない。失礼した」

 そう言って、彼は店を後にした。外の空気が肌に冷たく突き刺さる。

 彼女は生きている。しかし、それは彼が知るエリスではなかった。

 彼は過去を変えた。その結果、この世界における彼の存在もまた、変質してしまったのではないか。

 胸の内に広がる焦燥感を振り払うように、ヘルメスは額を押さえながら歩き出す。しかし、歩くほどに違和感は増していった。

 すれ違う人々の顔、見たことがあるはずの風景。すべてが不自然だ。

 自分は、何をしようとしていたのか。何のために、ここにいるのか。

 彼は確かに、誰かを救うために過去を変えたはずだった。しかし、その誰かの名前が、輪郭が、少しずつ霞んでいく。

 胸を締め付ける恐怖を抱えながら、ヘルメスは立ち止まる。

 (待て。俺は、本当にヘルメスだったのか?)

 その疑問が脳裏をよぎったとき、彼の中にあった記憶の断片が、一つ、また一つと剥がれ落ちていく気がした。

 無意識に唇を嚙みしめていたのか、喉の奥に鉄の味が広がる。

 ヘルメスは荒い呼吸で床に膝をつくと、空間の歪みを感じた。全身が冷たい汗に覆われ、指先が震る。時間跳躍の直後は、いつもこうだ。神経が焦げるような痛み、内臓がねじれるような違和感。だが、それよりも彼を苛むのは、何度繰り返しても結果が変わらないという絶望だった。

「くそっ、またダメか!」

 床に拳を叩きつける。そこは彼がよく知る神殿の書斎だった。しかし、部屋の調度品がわずかに異なっている。机の上にあったはずの古文書が消え、代わりに見覚えのない水晶の置物が置かれている。些細な違いだが、それが何よりも恐ろしかった。

「違う……。違うんだ……」

 ヘルメスはふらつきながら立ち上がり、机の引き出しを開けた。そこにあるはずの記録を探す。しかし、ページをめくるごとに、書かれている内容が以前と異なることを実感する。見知ったはずの歴史が、別のものに書き換えられている。

 また、失敗したのか。

 彼は何度も過去へと遡り、エリスを救おうとしてきた。ある時は火事の前に駆けつけ、ある時は脅威から遠くへ逃がし、そしてある時は彼女自身に時間跳躍の術を教えた。

その度に何かが壊れていく。

 今回の跳躍では、彼女の命は確かに助かっていた。だが、ヘルメスという存在が彼女の記憶から消え去っていた。彼女はただの見知らぬ人となっていた。

「これが、代償なのか?」

 ヘルメスは鏡を見る。そこに映るはずの自分の顔が、ぼやけていた。

 輪郭が揺らぎ、目の色すら判然としない。彼は震える指で鏡に触れる。ひやりとした感触の中で、自分自身がどこにいるのか分からなくなっていくようだった。

 そしてある瞬間、彼は自分の名前を思い出せなくなった。

 ほんの一瞬、意識の端に浮かんだはずの自分という概念が、霧のように消えかけた。

「何が起こっている。分からん。俺は……俺はヘルメスだ!」

 声に出して確認する。だが、その言葉に確信が持てなかった。存在そのものが、崩壊しつつあるかのように。

 時間を操るということは、神の領域に足を踏み入れる行為だ。それは分かっていた。だが、ここまでの代償を払うことになるとは思っていなかった。

 彼はふと机に目をやった。そこには、時間跳躍の術式が記された書物がある。

 まだやれる。

 まだ、繰り返せる。

 しかし、それを繰り返した先に望んだ未来が待っている保証は、どこにもない。

「俺は、間違っているのか……?」

 ヘルメスは震える手で本を開いた。視界の端では、鏡に映る自分の姿がさらに薄れた気がした。

 世界が崩れ始める音がした。

 ヘルメスが繰り返した過去改変の余波が積み重なり、現実そのものが歪んでいく。空はひび割れ、街の建物は異なる時代の姿を同時に映し出していた。子供が遊んでいた広場は、ほんの一瞬で廃墟へと変貌し、また元に戻る。人々は自分の存在が揺らぐような感覚に襲われ、恐怖に悲鳴を上げた。

「俺は……。こんなはずでは……」

 ヘルメスは膝をついた。彼の身体もまた、この世界の崩壊に巻き込まれつつあった。指先が透けていく。次の瞬間には元に戻るが、その間隔はどんどん長くなっている。

 彼はただ、彼女を救おうとしただけなのだ。望んだ結末には辿り着くことは決してなかったというのに、世界そのものを危機に追いやっている。

「これは、神の領域なのだ……」

 声に出してようやく、彼は理解した。時間とは、人が操るべきものではない。たとえ、どれほどの知識を積み重ねても、それは手に余る力なのだ。

「やめなくては……」

 彼は立ち上がると、震える手で永遠の輪を取り出した。それは今までと違う光を放っている。どこまでも深く、闇のようにすら見える漆黒の輝き。円環の中心には、幾重にも絡まり合った無数の時間が渦巻いていた。

「すべてを、終わらせる」

 ヘルメスは決意した。永遠の輪は、もはや存在してはならない。

 彼はそれを両手で強く握りしめ、己の魔力を込めた。轟音と共に、永遠の輪は砕け散り、その破片は七つの光となって天へ舞い上がった。世界の各地へと散らばるそれらは、二度と一つに戻ることはないだろう。

 時の流れが収束していく。ひび割れていた空は元に戻り、異なる時代が混ざり合っていた街も、ひとつの現実に落ち着いた。

 ヘルメスは荒れ果てた神殿の壁に手をついた。最後の力を振り絞り、そこに言葉を刻む。

 ──永遠を求めるな。
 ──すべてを知ろうとするな。
 ──与えられた定めを……全うするのだ。

 彼は、静かに目を閉じた。

 その後、千年の時が流れ、人々はいつしかその警告を忘れ去った。

 そして、再び運命の歯車が回り始める。



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次のエピソードへ進む 第1章 変わりゆく世界①


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 黄昏に染まる街並みは記憶の中のものと変わらない。夕陽が長い影を落とし、行き交う人々の笑い声が穏やかに響く。遠くでは楽師たちが奏でる音楽が、心地よく流れていた。
 それでも、どこかが違う。何かが欠けている。
 不安を押し殺しながら、ヘルメスは足を踏み出した。目指すのは、彼女がいるはずの場所。彼は確かに過去を改変し、彼女を救ったはずだ。この世界では、彼女は生きているはずなのだ。
 角を曲がり、馴染み深い路地へ入る。煉瓦造りの建物の壁には夕陽が反射し、温かみのある橙色の光を放っていた。その一角に、小さな花屋があった。
 扉を押すと、乾いた鈴の音が響く。店内は淡い花の香りで満たされていた。カウンターの奥に佇む女性の姿を見つけた瞬間、ヘルメスの胸が強く高鳴る。
 彼女は、間違いなくそこにいた。
「……エリス」
 女性が顔を上げ、穏やかな微笑みを浮かべる。しかし、その表情に一瞬の戸惑いが走った。
「すみません、お客様……。どこかでお会いしましたか?」
 その言葉に、ヘルメスの心臓が凍りつく。
「何……だと?」
 彼女は微笑みを崩さずに続ける。
「どなたかに似ているような気はするのですが……。でも、私の勘違いかもしれませんね」
 目の前の彼女は、確かにエリスだった。しかし、彼を知らない。
 頭の奥に鈍い痛みが走る。脳の奥底を何かが揺さぶるような感覚。ヘルメスは動揺を隠しながら、なんとか口を開いた。
「いや、こっちの勘違いだったかもしれない。失礼した」
 そう言って、彼は店を後にした。外の空気が肌に冷たく突き刺さる。
 彼女は生きている。しかし、それは彼が知るエリスではなかった。
 彼は過去を変えた。その結果、この世界における彼の存在もまた、変質してしまったのではないか。
 胸の内に広がる焦燥感を振り払うように、ヘルメスは額を押さえながら歩き出す。しかし、歩くほどに違和感は増していった。
 すれ違う人々の顔、見たことがあるはずの風景。すべてが不自然だ。
 自分は、何をしようとしていたのか。何のために、ここにいるのか。
 彼は確かに、誰かを救うために過去を変えたはずだった。しかし、その誰かの名前が、輪郭が、少しずつ霞んでいく。
 胸を締め付ける恐怖を抱えながら、ヘルメスは立ち止まる。
 (待て。俺は、本当にヘルメスだったのか?)
 その疑問が脳裏をよぎったとき、彼の中にあった記憶の断片が、一つ、また一つと剥がれ落ちていく気がした。
 無意識に唇を嚙みしめていたのか、喉の奥に鉄の味が広がる。
 ヘルメスは荒い呼吸で床に膝をつくと、空間の歪みを感じた。全身が冷たい汗に覆われ、指先が震る。時間跳躍の直後は、いつもこうだ。神経が焦げるような痛み、内臓がねじれるような違和感。だが、それよりも彼を苛むのは、何度繰り返しても結果が変わらないという絶望だった。
「くそっ、またダメか!」
 床に拳を叩きつける。そこは彼がよく知る神殿の書斎だった。しかし、部屋の調度品がわずかに異なっている。机の上にあったはずの古文書が消え、代わりに見覚えのない水晶の置物が置かれている。些細な違いだが、それが何よりも恐ろしかった。
「違う……。違うんだ……」
 ヘルメスはふらつきながら立ち上がり、机の引き出しを開けた。そこにあるはずの記録を探す。しかし、ページをめくるごとに、書かれている内容が以前と異なることを実感する。見知ったはずの歴史が、別のものに書き換えられている。
 また、失敗したのか。
 彼は何度も過去へと遡り、エリスを救おうとしてきた。ある時は火事の前に駆けつけ、ある時は脅威から遠くへ逃がし、そしてある時は彼女自身に時間跳躍の術を教えた。
その度に何かが壊れていく。
 今回の跳躍では、彼女の命は確かに助かっていた。だが、ヘルメスという存在が彼女の記憶から消え去っていた。彼女はただの見知らぬ人となっていた。
「これが、代償なのか?」
 ヘルメスは鏡を見る。そこに映るはずの自分の顔が、ぼやけていた。
 輪郭が揺らぎ、目の色すら判然としない。彼は震える指で鏡に触れる。ひやりとした感触の中で、自分自身がどこにいるのか分からなくなっていくようだった。
 そしてある瞬間、彼は自分の名前を思い出せなくなった。
 ほんの一瞬、意識の端に浮かんだはずの自分という概念が、霧のように消えかけた。
「何が起こっている。分からん。俺は……俺はヘルメスだ!」
 声に出して確認する。だが、その言葉に確信が持てなかった。存在そのものが、崩壊しつつあるかのように。
 時間を操るということは、神の領域に足を踏み入れる行為だ。それは分かっていた。だが、ここまでの代償を払うことになるとは思っていなかった。
 彼はふと机に目をやった。そこには、時間跳躍の術式が記された書物がある。
 まだやれる。
 まだ、繰り返せる。
 しかし、それを繰り返した先に望んだ未来が待っている保証は、どこにもない。
「俺は、間違っているのか……?」
 ヘルメスは震える手で本を開いた。視界の端では、鏡に映る自分の姿がさらに薄れた気がした。
 世界が崩れ始める音がした。
 ヘルメスが繰り返した過去改変の余波が積み重なり、現実そのものが歪んでいく。空はひび割れ、街の建物は異なる時代の姿を同時に映し出していた。子供が遊んでいた広場は、ほんの一瞬で廃墟へと変貌し、また元に戻る。人々は自分の存在が揺らぐような感覚に襲われ、恐怖に悲鳴を上げた。
「俺は……。こんなはずでは……」
 ヘルメスは膝をついた。彼の身体もまた、この世界の崩壊に巻き込まれつつあった。指先が透けていく。次の瞬間には元に戻るが、その間隔はどんどん長くなっている。
 彼はただ、彼女を救おうとしただけなのだ。望んだ結末には辿り着くことは決してなかったというのに、世界そのものを危機に追いやっている。
「これは、神の領域なのだ……」
 声に出してようやく、彼は理解した。時間とは、人が操るべきものではない。たとえ、どれほどの知識を積み重ねても、それは手に余る力なのだ。
「やめなくては……」
 彼は立ち上がると、震える手で永遠の輪を取り出した。それは今までと違う光を放っている。どこまでも深く、闇のようにすら見える漆黒の輝き。円環の中心には、幾重にも絡まり合った無数の時間が渦巻いていた。
「すべてを、終わらせる」
 ヘルメスは決意した。永遠の輪は、もはや存在してはならない。
 彼はそれを両手で強く握りしめ、己の魔力を込めた。轟音と共に、永遠の輪は砕け散り、その破片は七つの光となって天へ舞い上がった。世界の各地へと散らばるそれらは、二度と一つに戻ることはないだろう。
 時の流れが収束していく。ひび割れていた空は元に戻り、異なる時代が混ざり合っていた街も、ひとつの現実に落ち着いた。
 ヘルメスは荒れ果てた神殿の壁に手をついた。最後の力を振り絞り、そこに言葉を刻む。
 ──永遠を求めるな。
 ──すべてを知ろうとするな。
 ──与えられた定めを……全うするのだ。
 彼は、静かに目を閉じた。
 その後、千年の時が流れ、人々はいつしかその警告を忘れ去った。
 そして、再び運命の歯車が回り始める。