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母親面

ー/ー




 人は誰しも様々な顔を持っている。
 日常の中で仮面を被り変身しているのだ。
 本条里美は仮面を一つ増やす事になる。
 
 ───その忍び寄る正体に彼女はまだ気づいていなかった。
 
 _______________

 この世界に誕生したばかりの娘は、小さな音がする度に指がピクリと動く。柔らかなこの肌を毛布で包まなければ何かに傷つけられてしまいそうだ。
 私は無垢な娘に『心美』と名付けた。
 「やっと会えたね」
 手のひらに収まってしまう頭をガラス玉を触るように撫でた。心美はろうそくの灯りのように暖かい常夜灯の下、新生児カートの中でスースーと眠っている。
 「……やっぱり我慢できない。傷がついちゃったらどうするのよ!」
 小さな足首にはピンク色をしたバンドが巻かれている。
 枕の横にある丸いボタンを探し、親指の色が白くなるほどナースコールを押し続けた。
 スタ、スタと、のんびりとした足音が聞こえる。ノックされる前に取っ手を握り、綱引きのようにドアを右に引いた。
 「どういうことなの!っていうか、もっと急いで来なさいよ!ノロノロしちゃて」
 「本庄さん?大丈夫ですか」
 看護師の冷たいグラスのような表情が更に私の心に火をつけた。
「傷がついたらどうしてくれるのよ。今すぐ取りなさい!」
 ピンク色を指さし声を震わせた。
「IDバンドのことですか?……大丈夫ですよ。今まで傷がついた子なんていないですから」
 軽くため息をつき、相変わらず冷たい表情をしている。
「今までいなかった?そんなこと関係ない!心美が最初の犠牲者になったらどうするのよ!責任取れるの!」
「……犠牲者だなんて。とにかく落ち着いてください。出産されたばかりで疲れているんですよ」
「話しを逸らさないで。私のこと、めんどくさいと思っているのね。顔を見れば分かるわ」
 思わず涙声になってしまう。
「大丈夫ですよ。小さなことに目くじらを立てないでください。本庄さんはとても、穏やかで優しい人です。私たちの間でもよく話してます。『素敵なお母さんになりそうな人ですよね』って」
 看護師に背中をさすられ、慰めらた。
「ほら、あの時だって文句一つ言わずに、笑顔でお待ちになってくれたでしょ。こちらの手違いで診察予約が取れてなくて申し訳なかったです」

 ──────『穏やかな人』
 その言葉が頭の中で反響する。そして、あの音楽も一緒に。
 
 ……ラン、ララ、ラララン
 さぁ笑って
 ラン、ララ、ラララン


 頭を振り、脳内を払拭した。
「ご、ごめんなさい。取り乱してしまって」
「いいんですよ。命懸けで出産されたんですから疲れていて当たり前です。今夜はゆっくり休んでくださいね」
「ありがとうございます」
「笑顔に戻られて安心しました」
 私の顔を見ることなく言葉を残し、出て行った。
「絶対にめんどくさがってた。とても本心だと思えない」
 新生児カートを覗きながら、真ん中に穴が空いたドーナツ形のクッションに腰をおろそうとした時、心美の表情が豹変した。まるで痛みをグッと堪えているかのように眉間に皺が集まっていく。
「ど、どうしたの?どこか痛いの?」
 頭が混乱し、心美の小さな体を揺らした次の瞬間、『ギャーン』と響く音が耳に飛び込んできた。目には透明な涙も溢れている。
「泣いてるのね。びっくりしちゃった。お腹すいたのかな」
 軟体動物のような心美の体をそっと抱き上げ、ドーナツクッションに座った。
「抱っこしたんだから泣かないで。今、おっぱいもあげるから」
 慣れない手つきで片方の胸に心美の顔を近づける。それでも泣き止まず、逆に体を反らせている。
「お腹空いたんじゃないの?」
 肩で深い息を吐き、目の前にある姿見へ視線を向けた。
 そこには片乳を出し、泣きわめく軟体動物を抱えた笑顔の私がいた。

 ……ラン、ララ、ラララン
 さぁ笑って
 ラン、ララ、ラララン

「心美、さぁ笑って」
 トントンとお尻を叩きながら繰り返す。
「さぁ笑って」
 もう一度お尻をトントンし、違和感を感じた。
「あぁ。オムツが気持ち悪かったのね」
 新生児カートに心美を戻し、ビリビリとテープを剥がす。真っ白だったオムツは黄色く汚れていた。
「これは、気持ち悪かったわよね。気づかなくてごめんね」
 素早く取り替え、肌着を着せた。すると、穏やかな表情になり胸をそっと撫で下ろす。片方だけ自分の肌に触れ、胸をしまい忘れていたことに気がついた。
「やだ。心美のママはあわてんぼうさんね」
 マシュマロのような頬っぺたを擦りながら話かける。
 私だけの心美。だって、命懸けで産んだんだもの。

 あっという間に出産してから四日が経ち、母子ともに健康で無事に退院出来る日がやってきた。心美の泣き声に驚くことも無くなり、母親らしくなってきたなと思う。
 退院の準備をしているとスーっとドアが引かれ、主人の太一さんがズカズカと部屋に入ってきた。
「準備はできた?」
「あ、はい。お仕事が忙しいのに、お迎えをお願いしてすみません」
 手を止め、柔らかな表情で頭を下げた。しかし、私の言葉など聞きもせずに心美へ近づいていく。
「赤ん坊ってこんなに小さいんだな」
 太一さんの手が新生児カートにのびている。
「触らないで」
「ん?なんか言った?」
 自分の口から出た言葉を、切り刻むように全力で首を横にふった。
「立派な親にならないとな」
「はい。そうですね。二人で頑張りましょ」
「まぁ僕は、仕事が忙しいし里美に任せる」
「はい。わかりました」
 笑顔を崩さないように『さぁ笑って』と何度も心の中で呟いた。
 太一さんはバッグを持ち、片方の手でドアの取っ手を握りしめている。私がナースコールを押した時のように指が白くなっていく。
「もう、行くぞ」
 待つことを嫌う主人を気遣い、慌てて心美を抱き上げたせいで驚いてしまったのだろう。『ギャーン』と泣き声を上げた。
「泣かないで。一緒にお家へ帰りましょうね」
 太一さんに笑顔を向けるのも忘れずに心美のお尻をトントンしながら病室を後にした。
 心美は廊下に響くほどの泣き声をあげている。その理由は分かっている。オムツの中が黄色くなっているからだ。
 今すぐにでも取り替えてあげたい。しかし、振り向いた太一さんの氷柱のような視線が刺さって抜けず、背中を追いかけるしかなかった。
 私の腕から抜け出そうと体を反らせる軟体動物に向かって、そっと囁くしかない。

 ……ラン、ララ、ラララン
 さぁ笑って
 ラン、ラン、ラララン

 効果的面。この四日間で心美を落ち着かせることに成功していた。でもまだ完璧ではない。だから退院してしまう前に、看護師さんに聞かなければならないことがある。
 先を歩く太一さんに懇願し時間を与えてもらい、ナースセンターに足を向けた。
「すみません。今日退院する本条と申します。大変お世話になりました」
 軽く頭を下げてお礼を言うと何人かの声が重なった。
「おめでとうございます」
 病室に来てくれた看護師さんがスタスタと近づいてきた。
「もうすっかりお母さんの顔ですね。心美ちゃんもすごく安心した表情ですし、本条さんなら大丈夫です」
 
 『お母さんの顔』
 
 ──その言葉が、頬の筋肉を無理やり引き上げた。
 
「ありがとうございます。皆様のおかげです」
「困ったことがあったら遠慮なく、いつでも言ってくださいね。子育てはこれからですから」
「はい。早速で申し訳ないのですか、お聞きしたいことがありまして」
 看護師さんは片眉をピクリと動かし身構えている。
「心美は私の言ってることを聞いてくれないんです」
「なるほど。心美ちゃんとお話をしているんですね。それは、赤ちゃんのときから大事なことなんですよ。お母さんの声は安心しますから」
「違います。そういうことではなくて」
 看護師さんの頭にハテナが浮かんでいるようだ。そんなことはお構い無しに続ける。
「だから、言うことを聞いてくれないの!何度も、何度も『さぁ笑って』って言っているのに」
 笑顔のまま声だけが震えてしまう。
 
 「……心美は頭がおかしいんでしょうか」
 
 一瞬にしてみんなの視線が私に注がれた。目の前の看護師さんは、まばたきをするのも忘れてしまったらしい。空気が凍りつくとはまさに、今の状況なのだろう。
 それでも私は続けた。

「どうしたらいいですか」



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 日常の中で仮面を被り変身しているのだ。
 本条里美は仮面を一つ増やす事になる。
 ───その忍び寄る正体に彼女はまだ気づいていなかった。
 _______________
 この世界に誕生したばかりの娘は、小さな音がする度に指がピクリと動く。柔らかなこの肌を毛布で包まなければ何かに傷つけられてしまいそうだ。
 私は無垢な娘に『心美』と名付けた。
 「やっと会えたね」
 手のひらに収まってしまう頭をガラス玉を触るように撫でた。心美はろうそくの灯りのように暖かい常夜灯の下、新生児カートの中でスースーと眠っている。
 「……やっぱり我慢できない。傷がついちゃったらどうするのよ!」
 小さな足首にはピンク色をしたバンドが巻かれている。
 枕の横にある丸いボタンを探し、親指の色が白くなるほどナースコールを押し続けた。
 スタ、スタと、のんびりとした足音が聞こえる。ノックされる前に取っ手を握り、綱引きのようにドアを右に引いた。
 「どういうことなの!っていうか、もっと急いで来なさいよ!ノロノロしちゃて」
 「本庄さん?大丈夫ですか」
 看護師の冷たいグラスのような表情が更に私の心に火をつけた。
「傷がついたらどうしてくれるのよ。今すぐ取りなさい!」
 ピンク色を指さし声を震わせた。
「IDバンドのことですか?……大丈夫ですよ。今まで傷がついた子なんていないですから」
 軽くため息をつき、相変わらず冷たい表情をしている。
「今までいなかった?そんなこと関係ない!心美が最初の犠牲者になったらどうするのよ!責任取れるの!」
「……犠牲者だなんて。とにかく落ち着いてください。出産されたばかりで疲れているんですよ」
「話しを逸らさないで。私のこと、めんどくさいと思っているのね。顔を見れば分かるわ」
 思わず涙声になってしまう。
「大丈夫ですよ。小さなことに目くじらを立てないでください。本庄さんはとても、穏やかで優しい人です。私たちの間でもよく話してます。『素敵なお母さんになりそうな人ですよね』って」
 看護師に背中をさすられ、慰めらた。
「ほら、あの時だって文句一つ言わずに、笑顔でお待ちになってくれたでしょ。こちらの手違いで診察予約が取れてなくて申し訳なかったです」
 ──────『穏やかな人』
 その言葉が頭の中で反響する。そして、あの音楽も一緒に。
 ……ラン、ララ、ラララン
 さぁ笑って
 ラン、ララ、ラララン
 頭を振り、脳内を払拭した。
「ご、ごめんなさい。取り乱してしまって」
「いいんですよ。命懸けで出産されたんですから疲れていて当たり前です。今夜はゆっくり休んでくださいね」
「ありがとうございます」
「笑顔に戻られて安心しました」
 私の顔を見ることなく言葉を残し、出て行った。
「絶対にめんどくさがってた。とても本心だと思えない」
 新生児カートを覗きながら、真ん中に穴が空いたドーナツ形のクッションに腰をおろそうとした時、心美の表情が豹変した。まるで痛みをグッと堪えているかのように眉間に皺が集まっていく。
「ど、どうしたの?どこか痛いの?」
 頭が混乱し、心美の小さな体を揺らした次の瞬間、『ギャーン』と響く音が耳に飛び込んできた。目には透明な涙も溢れている。
「泣いてるのね。びっくりしちゃった。お腹すいたのかな」
 軟体動物のような心美の体をそっと抱き上げ、ドーナツクッションに座った。
「抱っこしたんだから泣かないで。今、おっぱいもあげるから」
 慣れない手つきで片方の胸に心美の顔を近づける。それでも泣き止まず、逆に体を反らせている。
「お腹空いたんじゃないの?」
 肩で深い息を吐き、目の前にある姿見へ視線を向けた。
 そこには片乳を出し、泣きわめく軟体動物を抱えた笑顔の私がいた。
 ……ラン、ララ、ラララン
 さぁ笑って
 ラン、ララ、ラララン
「心美、さぁ笑って」
 トントンとお尻を叩きながら繰り返す。
「さぁ笑って」
 もう一度お尻をトントンし、違和感を感じた。
「あぁ。オムツが気持ち悪かったのね」
 新生児カートに心美を戻し、ビリビリとテープを剥がす。真っ白だったオムツは黄色く汚れていた。
「これは、気持ち悪かったわよね。気づかなくてごめんね」
 素早く取り替え、肌着を着せた。すると、穏やかな表情になり胸をそっと撫で下ろす。片方だけ自分の肌に触れ、胸をしまい忘れていたことに気がついた。
「やだ。心美のママはあわてんぼうさんね」
 マシュマロのような頬っぺたを擦りながら話かける。
 私だけの心美。だって、命懸けで産んだんだもの。
 あっという間に出産してから四日が経ち、母子ともに健康で無事に退院出来る日がやってきた。心美の泣き声に驚くことも無くなり、母親らしくなってきたなと思う。
 退院の準備をしているとスーっとドアが引かれ、主人の太一さんがズカズカと部屋に入ってきた。
「準備はできた?」
「あ、はい。お仕事が忙しいのに、お迎えをお願いしてすみません」
 手を止め、柔らかな表情で頭を下げた。しかし、私の言葉など聞きもせずに心美へ近づいていく。
「赤ん坊ってこんなに小さいんだな」
 太一さんの手が新生児カートにのびている。
「触らないで」
「ん?なんか言った?」
 自分の口から出た言葉を、切り刻むように全力で首を横にふった。
「立派な親にならないとな」
「はい。そうですね。二人で頑張りましょ」
「まぁ僕は、仕事が忙しいし里美に任せる」
「はい。わかりました」
 笑顔を崩さないように『さぁ笑って』と何度も心の中で呟いた。
 太一さんはバッグを持ち、片方の手でドアの取っ手を握りしめている。私がナースコールを押した時のように指が白くなっていく。
「もう、行くぞ」
 待つことを嫌う主人を気遣い、慌てて心美を抱き上げたせいで驚いてしまったのだろう。『ギャーン』と泣き声を上げた。
「泣かないで。一緒にお家へ帰りましょうね」
 太一さんに笑顔を向けるのも忘れずに心美のお尻をトントンしながら病室を後にした。
 心美は廊下に響くほどの泣き声をあげている。その理由は分かっている。オムツの中が黄色くなっているからだ。
 今すぐにでも取り替えてあげたい。しかし、振り向いた太一さんの氷柱のような視線が刺さって抜けず、背中を追いかけるしかなかった。
 私の腕から抜け出そうと体を反らせる軟体動物に向かって、そっと囁くしかない。
 ……ラン、ララ、ラララン
 さぁ笑って
 ラン、ラン、ラララン
 効果的面。この四日間で心美を落ち着かせることに成功していた。でもまだ完璧ではない。だから退院してしまう前に、看護師さんに聞かなければならないことがある。
 先を歩く太一さんに懇願し時間を与えてもらい、ナースセンターに足を向けた。
「すみません。今日退院する本条と申します。大変お世話になりました」
 軽く頭を下げてお礼を言うと何人かの声が重なった。
「おめでとうございます」
 病室に来てくれた看護師さんがスタスタと近づいてきた。
「もうすっかりお母さんの顔ですね。心美ちゃんもすごく安心した表情ですし、本条さんなら大丈夫です」
 『お母さんの顔』
 ──その言葉が、頬の筋肉を無理やり引き上げた。
「ありがとうございます。皆様のおかげです」
「困ったことがあったら遠慮なく、いつでも言ってくださいね。子育てはこれからですから」
「はい。早速で申し訳ないのですか、お聞きしたいことがありまして」
 看護師さんは片眉をピクリと動かし身構えている。
「心美は私の言ってることを聞いてくれないんです」
「なるほど。心美ちゃんとお話をしているんですね。それは、赤ちゃんのときから大事なことなんですよ。お母さんの声は安心しますから」
「違います。そういうことではなくて」
 看護師さんの頭にハテナが浮かんでいるようだ。そんなことはお構い無しに続ける。
「だから、言うことを聞いてくれないの!何度も、何度も『さぁ笑って』って言っているのに」
 笑顔のまま声だけが震えてしまう。
 「……心美は頭がおかしいんでしょうか」
 一瞬にしてみんなの視線が私に注がれた。目の前の看護師さんは、まばたきをするのも忘れてしまったらしい。空気が凍りつくとはまさに、今の状況なのだろう。
 それでも私は続けた。
「どうしたらいいですか」