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仮初

ー/ー



 宵の一門として叢雲寺の門をくぐったとき、私はまだ“音”というものの輪郭の中にいた。
 それが“生”という名で呼ばれることを、そのときの私は、まだ知らなかった。

 堂内では清らかな水音が響き、信楽様が穏やかな声で労わってくださった。
「良治先生は、捨身の行を果たされたのです。ですが、幼き貴方にはあまりにも重い苦だったでしょう。
 今は、この寺の静寂と宵の風に身を委ね、癒されなさい」

 その言葉は、父を喪った胸の奥に、微かな灯のように染み込んだ。
 涙は出なかった。けれど、紅葉に落ちる光が、どこか懐かしい祈りの残響のように見えた。

 剃髪を終え、僧衣に包まれた私は庭に出た。
 夕陽が沈み、夜の気配が寺を包みはじめていた。
 桜の下で、月を見上げていた少年が振り返った。
 その木はもう花を落としていたが、枝の影だけが、春の名残を揺らしていた。

「僕は……螢雪というんだ」
 名を口にする声が、風のように柔らかかった。
「昨日、一門に縁を結んだばかりで……」

 私は名乗った。「良宵」――その音を自分で言うたび、どこか、身体が軋むように痛んだ。
 螢雪は小さく笑った。
「良い名だね。夜の光だ」
 その言葉は、救いのようで、呪いのようでもあった。

 螢雪の瞳には、星のような光が宿っていた。
 けれど、その奥には、言葉にできぬ深い影が潜んでいた。
 私はその光と影のあわいに、息を呑んだ。

「良宵、君は何歳?」
「五つ。十五夜に生まれた」
「僕は新月。君の方が兄さんだね」
「そうかもしれない」
「でも、一門に入ったのは僕が先。なら僕が兄弟子だ」

 その笑い声のあとに訪れた沈黙――
 その底に、祈りの毒が滲みはじめていたことを、私はまだ知らなかった。

「――良宵……僕が君の兄になるよ」
 月は満ちても影を抱く。――その影に、灯が生まれた。
 螢雪の声は、風に揺れる木の葉のように柔らかく、夜の静寂に滲んだ。
 その笑みの奥に、かすかな痛みがあった。
 私はそれを見て、胸の奥が少しだけ温かく、少しだけ冷たくなった。
 その温度の差の中で、初めて“良宵”という名が、静かに息をした。

 光の名も、祈りの形も、まだ知らない。
 けれど、螢雪の光が呼び覚ますものの中に、何かが微かに芽生えた。
 灯は、小さくとも確かに在った。名を与えられたばかりの私の内で。

 * * *
 雲母坂に建つ叢雲寺は、京の鬼門に位置していた。
 霧が絶えず流れ、結界の内と外を曖昧にする山。
 螢雪と共に、祈りと修行の日々が続いた。

 比叡の阿闍梨は、かつて教えた。
「魔に情けを向けるな。祈りは境を清めるものであって、抱くものではない」と。
 けれど私は、その教えに従いきれなかった。
 比叡の山路で見た童鬼の怯えた瞳が、離れなかったからだ。
 あの目は、祓われることよりも、見つけてもらえないことを恐れていた。

 二年後の夏。七つになった私と螢雪は、森で薪を集めていた。
 陽が傾き、宵の風が雲母坂を包んでいく。
 そのとき、朽ちた祠の陰から、冷たい匂いが滲み出た。
 小さな影――童鬼だった。
 苔に沈む石を撫でながら、怯えた瞳でこちらを見ていた。
 螢雪の手が護符に伸びた。私はその手を包み、首を振った。
「怖がらなくていい」
 声が、境の縁を撫でるように森へ溶けた。

 童鬼の目から、一筋の涙がこぼれた。
 星の光に濡れ、苔の間で静かに消えた。
 私はその涙を見て、父の死を思い出した。
 ――あの時も、風が吹いていた。
 誰も、父の名を呼ばなかった。
 だから、今度は私が呼ぶ。
 私は童鬼をそっと抱きとめた。
 掌が触れた瞬間、確かに、祈りが形を持った。
 その祈りとは、誰かを救う光であるはずだった。
 けれど、光が光を映すとき、片方は形を失う。
 その揺らぎの中で、螢雪の輝きが、何かに隠されたように見えた。
 静かに、世界のどこかで軋みが生まれていた。
 だが、そのときの私は、まだ知らなかった。

 星が瞬いた。
 童鬼の姿は、数珠の光の中で静かに霧散していった。
 風が通り抜けた。
 祈りの余韻だけが、静かに残った。

 私は螢雪を振り返った。 彼は笑わなかった。
 月は満ちていたが、影は動かなかった。
 その夜、抱いた分だけ、指先が熱を帯びた。
 熱は届いた証のようで、同じだけ、相手を遠ざける気がした。
 その熱に、もし名をつけるなら――
 それはきっと、慈悲と呼ばれるものだった。


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 宵の一門として叢雲寺の門をくぐったとき、私はまだ“音”というものの輪郭の中にいた。
 それが“生”という名で呼ばれることを、そのときの私は、まだ知らなかった。
 堂内では清らかな水音が響き、信楽様が穏やかな声で労わってくださった。
「良治先生は、捨身の行を果たされたのです。ですが、幼き貴方にはあまりにも重い苦だったでしょう。
 今は、この寺の静寂と宵の風に身を委ね、癒されなさい」
 その言葉は、父を喪った胸の奥に、微かな灯のように染み込んだ。
 涙は出なかった。けれど、紅葉に落ちる光が、どこか懐かしい祈りの残響のように見えた。
 剃髪を終え、僧衣に包まれた私は庭に出た。
 夕陽が沈み、夜の気配が寺を包みはじめていた。
 桜の下で、月を見上げていた少年が振り返った。
 その木はもう花を落としていたが、枝の影だけが、春の名残を揺らしていた。
「僕は……螢雪というんだ」
 名を口にする声が、風のように柔らかかった。
「昨日、一門に縁を結んだばかりで……」
 私は名乗った。「良宵」――その音を自分で言うたび、どこか、身体が軋むように痛んだ。
 螢雪は小さく笑った。
「良い名だね。夜の光だ」
 その言葉は、救いのようで、呪いのようでもあった。
 螢雪の瞳には、星のような光が宿っていた。
 けれど、その奥には、言葉にできぬ深い影が潜んでいた。
 私はその光と影のあわいに、息を呑んだ。
「良宵、君は何歳?」
「五つ。十五夜に生まれた」
「僕は新月。君の方が兄さんだね」
「そうかもしれない」
「でも、一門に入ったのは僕が先。なら僕が兄弟子だ」
 その笑い声のあとに訪れた沈黙――
 その底に、祈りの毒が滲みはじめていたことを、私はまだ知らなかった。
「――良宵……僕が君の兄になるよ」
 月は満ちても影を抱く。――その影に、灯が生まれた。
 螢雪の声は、風に揺れる木の葉のように柔らかく、夜の静寂に滲んだ。
 その笑みの奥に、かすかな痛みがあった。
 私はそれを見て、胸の奥が少しだけ温かく、少しだけ冷たくなった。
 その温度の差の中で、初めて“良宵”という名が、静かに息をした。
 光の名も、祈りの形も、まだ知らない。
 けれど、螢雪の光が呼び覚ますものの中に、何かが微かに芽生えた。
 灯は、小さくとも確かに在った。名を与えられたばかりの私の内で。
 * * *
 雲母坂に建つ叢雲寺は、京の鬼門に位置していた。
 霧が絶えず流れ、結界の内と外を曖昧にする山。
 螢雪と共に、祈りと修行の日々が続いた。
 比叡の阿闍梨は、かつて教えた。
「魔に情けを向けるな。祈りは境を清めるものであって、抱くものではない」と。
 けれど私は、その教えに従いきれなかった。
 比叡の山路で見た童鬼の怯えた瞳が、離れなかったからだ。
 あの目は、祓われることよりも、見つけてもらえないことを恐れていた。
 二年後の夏。七つになった私と螢雪は、森で薪を集めていた。
 陽が傾き、宵の風が雲母坂を包んでいく。
 そのとき、朽ちた祠の陰から、冷たい匂いが滲み出た。
 小さな影――童鬼だった。
 苔に沈む石を撫でながら、怯えた瞳でこちらを見ていた。
 螢雪の手が護符に伸びた。私はその手を包み、首を振った。
「怖がらなくていい」
 声が、境の縁を撫でるように森へ溶けた。
 童鬼の目から、一筋の涙がこぼれた。
 星の光に濡れ、苔の間で静かに消えた。
 私はその涙を見て、父の死を思い出した。
 ――あの時も、風が吹いていた。
 誰も、父の名を呼ばなかった。
 だから、今度は私が呼ぶ。
 私は童鬼をそっと抱きとめた。
 掌が触れた瞬間、確かに、祈りが形を持った。
 その祈りとは、誰かを救う光であるはずだった。
 けれど、光が光を映すとき、片方は形を失う。
 その揺らぎの中で、螢雪の輝きが、何かに隠されたように見えた。
 静かに、世界のどこかで軋みが生まれていた。
 だが、そのときの私は、まだ知らなかった。
 星が瞬いた。
 童鬼の姿は、数珠の光の中で静かに霧散していった。
 風が通り抜けた。
 祈りの余韻だけが、静かに残った。
 私は螢雪を振り返った。 彼は笑わなかった。
 月は満ちていたが、影は動かなかった。
 その夜、抱いた分だけ、指先が熱を帯びた。
 熱は届いた証のようで、同じだけ、相手を遠ざける気がした。
 その熱に、もし名をつけるなら――
 それはきっと、慈悲と呼ばれるものだった。