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第43話 存在しないはずの記憶

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 蒸し蒸しとした暑さも落ち着き、幾分過ごしやすい気候になった晩夏のその日は、朝から細かい雨が降りしきっていた。雨音が屋根や窓に当たり、一種リズミカルな音を刻んでいる。

 その音を赤い傘を通じて感じながら、沙夜子は山門を抜けた先の茶色の木製の引戸の前で躊躇していた。

 頭上には雨天に似合う鈍色の瓦屋根が沙夜子の行く手を阻むように威圧感を放っている。屋根の下、引戸の右上に置かれた扁額(へんがく)にはなかなかの達筆だが、素っ気なく鬼救寺と書かれていた。

(鬼救寺なんて、やっぱり変な名前ね)

 沙夜子は、改めてそう思った。自宅から電車で5駅とさほど離れていない位置に長年佇んでいたが、来るのは初めてだった。存在を知ったのもついこの間のことだ。

 調べてみると、鬼救寺の歴史は意外にも古く、天文13年、1544年、つまり戦国時代に建立されたことがわかった。それから現在の鬼神御言の代まで戦禍を逃れ脈々と受け継がれている。

 問題はそれくらいしか情報が出てこなかったことだ。沙夜子は、インターネット以外に市立図書館へも行き郷土資料などを漁った。しかし、どこにも鬼救寺の名前は出てこないのだ。これだけ歴史が古く、確実に南柳市で最も古い寺がほとんど何も資料がないということは、情報がないのではなく、意図的に隠されているのではないか──と沙夜子は考えていた。

 沙夜子は再び鬼救寺の文字に目を向けた。屋根で庇いきれない雨が滴り落ち、濡れている。

 鬼──の一文字がクローズアップされ、沙夜子の脳裏には先日の夜の出来事、そして、それ以前の怪異に遭遇した出来事が瞬時に流れ過ぎていった。謎の男、火車、樹木子、足長手長──そして、鬼神紙都。

 あれだけ怪異を待ち望んでいたはずなのに、沙夜子の心は今の天気のように重苦しかった。

 あの日以降、海の水が一斉に引いたように奥深くに隠れていた記憶が浮かび上がった。なかったはずの記憶が次々とフラッシュバックのように思い出されるなかで、多くの人の死が、妖怪の脅威が沙夜子を急襲した。一人で家にいて絶叫してしまったときもあった。

 沙夜子は傘の柄を握った。今でも思い出すだけで、体が震えてしまう。最も嫌なのは、あの目。紙都の──いや、鬼の血の色のようなあの赤い紅い瞳だった。それを思い出すと、体が凍りついたように強張り、動かなくなってしまう。そして、数秒後じっとりと冷たい嫌な汗が背中を濡らし、息が止まっていたことに気づくのだ。

 沙夜子はそして、同時に自分がどんなに浅薄だったか知った。人々の死を見て、本物の怪異は興味本位で探るようなものじゃなかったと思った。

 雨音が一段と強まった。このままここに突っ立っていればびしょ濡れになってしまうかもしれない。

 それでも、沙夜子はここに来たのだ。オカルト研究部としての興味ではなく、自分の身に何が起こったのか、そして何より紙都がどんな存在なのか、命を掛けてでも知りたい、知らなければいけない、と決意して。

 意を決して引戸に手を伸ばすと、するすると引戸が開き、中から白衣(びゃくえ)を纏った若い女性が現れた。

「あなたが柳田沙夜子さんね。風邪引くから、ひとまず中に入って」

 鬼神御言はいつもの如く無表情のままで、しかし柔らかく優しい声色で案内した。

 鬼救寺に連なる居住部分の居間に通された沙夜子は、雨粒が窓を叩く音を聞きながら畳の縁をずっと見つめていた。どこかでこの光景を見たような気がする。

 静かに襖が開く音がして、振り返ると、お茶を乗せたお盆を持った御言が視線を合わせて会釈する。沙夜子もそれにつられて軽く頭を下げた。

「ごめんなさいね。寺の前に誰かが来ていたのは知っていたのだけど、来客中で」

 言いながら沙夜子と自分の前にお茶を置く。

「あ、いえ、こちらこそ不躾にお邪魔してすみません」

 沙夜子は神妙な顔をして体の前で手を振ると、いただきますと言って湯気の立つお茶を一口、口に含んだ。甘い玉露の味わいが口いっぱいに広がる。

「ところで私のことご存知なんですか?」

「ええ、紙都からよく話を聞いているから」

「紙都が私の話を?」

 どんなことを? と聞きたくなったが、本題からずれていきそうと、思いとどまる。

 御言は色白の細長い指で上品に湯飲みに手を添えてお茶を啜った。

「それに。あなたにはずいぶん昔に一度会ったことがあるの。覚えているかしら? いえ、思い出せた? と聞いた方がいいわね」

 沙夜子の目が少し大きく見開かれる。

「この部屋見覚えがある気がするんですが、まさか」

 御言は柔らかく頷いた。

「そう。ここで少し話をしたわね。あれはまだ私の夫──紙都の父、怜強(れいじ)が生きていたとき、妖怪に襲われたあなたをここに連れてきたのよ」

 衝撃の言葉に持っていた湯飲みを落としそうになる。

「私が妖怪に!?」

「ええ。あなたを襲った妖怪は取りつく類いの妖怪で、怜強だけじゃ対処しきれなくてここへ連れてきたのよ」

「ここへ連れてきたって何をしたんですか?」

 御言は持っていた湯呑みを畳の上にそっと置いた。


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 蒸し蒸しとした暑さも落ち着き、幾分過ごしやすい気候になった晩夏のその日は、朝から細かい雨が降りしきっていた。雨音が屋根や窓に当たり、一種リズミカルな音を刻んでいる。
 その音を赤い傘を通じて感じながら、沙夜子は山門を抜けた先の茶色の木製の引戸の前で躊躇していた。
 頭上には雨天に似合う鈍色の瓦屋根が沙夜子の行く手を阻むように威圧感を放っている。屋根の下、引戸の右上に置かれた扁額《へんがく》にはなかなかの達筆だが、素っ気なく鬼救寺と書かれていた。
(鬼救寺なんて、やっぱり変な名前ね)
 沙夜子は、改めてそう思った。自宅から電車で5駅とさほど離れていない位置に長年佇んでいたが、来るのは初めてだった。存在を知ったのもついこの間のことだ。
 調べてみると、鬼救寺の歴史は意外にも古く、天文13年、1544年、つまり戦国時代に建立されたことがわかった。それから現在の鬼神御言の代まで戦禍を逃れ脈々と受け継がれている。
 問題はそれくらいしか情報が出てこなかったことだ。沙夜子は、インターネット以外に市立図書館へも行き郷土資料などを漁った。しかし、どこにも鬼救寺の名前は出てこないのだ。これだけ歴史が古く、確実に南柳市で最も古い寺がほとんど何も資料がないということは、情報がないのではなく、意図的に隠されているのではないか──と沙夜子は考えていた。
 沙夜子は再び鬼救寺の文字に目を向けた。屋根で庇いきれない雨が滴り落ち、濡れている。
 鬼──の一文字がクローズアップされ、沙夜子の脳裏には先日の夜の出来事、そして、それ以前の怪異に遭遇した出来事が瞬時に流れ過ぎていった。謎の男、火車、樹木子、足長手長──そして、鬼神紙都。
 あれだけ怪異を待ち望んでいたはずなのに、沙夜子の心は今の天気のように重苦しかった。
 あの日以降、海の水が一斉に引いたように奥深くに隠れていた記憶が浮かび上がった。なかったはずの記憶が次々とフラッシュバックのように思い出されるなかで、多くの人の死が、妖怪の脅威が沙夜子を急襲した。一人で家にいて絶叫してしまったときもあった。
 沙夜子は傘の柄を握った。今でも思い出すだけで、体が震えてしまう。最も嫌なのは、あの目。紙都の──いや、鬼の血の色のようなあの赤い紅い瞳だった。それを思い出すと、体が凍りついたように強張り、動かなくなってしまう。そして、数秒後じっとりと冷たい嫌な汗が背中を濡らし、息が止まっていたことに気づくのだ。
 沙夜子はそして、同時に自分がどんなに浅薄だったか知った。人々の死を見て、本物の怪異は興味本位で探るようなものじゃなかったと思った。
 雨音が一段と強まった。このままここに突っ立っていればびしょ濡れになってしまうかもしれない。
 それでも、沙夜子はここに来たのだ。オカルト研究部としての興味ではなく、自分の身に何が起こったのか、そして何より紙都がどんな存在なのか、命を掛けてでも知りたい、知らなければいけない、と決意して。
 意を決して引戸に手を伸ばすと、するすると引戸が開き、中から白衣《びゃくえ》を纏った若い女性が現れた。
「あなたが柳田沙夜子さんね。風邪引くから、ひとまず中に入って」
 鬼神御言はいつもの如く無表情のままで、しかし柔らかく優しい声色で案内した。
 鬼救寺に連なる居住部分の居間に通された沙夜子は、雨粒が窓を叩く音を聞きながら畳の縁をずっと見つめていた。どこかでこの光景を見たような気がする。
 静かに襖が開く音がして、振り返ると、お茶を乗せたお盆を持った御言が視線を合わせて会釈する。沙夜子もそれにつられて軽く頭を下げた。
「ごめんなさいね。寺の前に誰かが来ていたのは知っていたのだけど、来客中で」
 言いながら沙夜子と自分の前にお茶を置く。
「あ、いえ、こちらこそ不躾にお邪魔してすみません」
 沙夜子は神妙な顔をして体の前で手を振ると、いただきますと言って湯気の立つお茶を一口、口に含んだ。甘い玉露の味わいが口いっぱいに広がる。
「ところで私のことご存知なんですか?」
「ええ、紙都からよく話を聞いているから」
「紙都が私の話を?」
 どんなことを? と聞きたくなったが、本題からずれていきそうと、思いとどまる。
 御言は色白の細長い指で上品に湯飲みに手を添えてお茶を啜った。
「それに。あなたにはずいぶん昔に一度会ったことがあるの。覚えているかしら? いえ、思い出せた? と聞いた方がいいわね」
 沙夜子の目が少し大きく見開かれる。
「この部屋見覚えがある気がするんですが、まさか」
 御言は柔らかく頷いた。
「そう。ここで少し話をしたわね。あれはまだ私の夫──紙都の父、怜強《れいじ》が生きていたとき、妖怪に襲われたあなたをここに連れてきたのよ」
 衝撃の言葉に持っていた湯飲みを落としそうになる。
「私が妖怪に!?」
「ええ。あなたを襲った妖怪は取りつく類いの妖怪で、怜強だけじゃ対処しきれなくてここへ連れてきたのよ」
「ここへ連れてきたって何をしたんですか?」
 御言は持っていた湯呑みを畳の上にそっと置いた。