往還
ー/ー
叢雲寺の庭。
風がひとひらの紅葉を攫い、宙に留まった。
幼い私――いや、螢雪が、その一枚を見上げていた。
紅が朱に滲み、母の面影が揺らいだ。
だが、次の瞬間、血がその色を塗り潰した。
足音。
顔を上げると、幼い僧が立っていた。
背に満月、瞳に光。
その姿が、遠い誰かの微笑に似ていた。
「おお、良宵……もう一度、お前に会いたかったのだ」
言葉の意味が消え、名だけが残った。
良宵の微笑が、篠の微笑に重なった。
――篠? 記憶の縁が、音もなくほどけていく。
童の笑い声。
月の下で影が跳ね、やがて散った。
私は呟いた。「見よ、良宵……俺にも、力がある!」
そのとき、良宵の姿は歪み、青年の形を取った。
光が顔を裂き、涙が溢れた。
「なぜ――お前は泣く」
叢雲寺の庭が赤く染まり、
良宵の姿は白い光に包まれて消えた。
私は手を伸ばした。
光の中で、彼もまた手を伸ばした。
指先が触れかけた刹那――
背後から闇が襲う。
熊の咆哮。
牙が脚を噛み、地が傾く。
叫びは音を持たず、ただ血だけが流れた。
「放せ! 俺はまだ終われぬ!
祈りに守られ、願いに繋がれ、慈しみに育まれた!
だから――俺は灯となるのだ!」
拳が虚空を叩く。
熊の姿は消え、掌に血が滲んだ。
目を落とすと、母が倒れていた。
手には、短刀。刃が微かに震え、呼吸を映した。
木陰に、幼い雪政が子熊を抱いて立っていた。
その瞳は感情を失い、鏡のように私を映した。
視線を戻すと、母は熊に変わっていた。
「母を失い、熊を殺し、戒律を踏みにじった。
何を得た? どこへ辿り着きたかった?」
背後で白衣が舞う。
白い巫女が枝に腰かけ、鏡を抱いて歌っていた。
「いろはにほへと ちりぬるを……」
錫杖の音が夜を裂いた。
足もとには霞のような童の亡魂。
白衣が月光に滲む。
「丑の刻、死霊に満ちた奥山に、白い巫女がひとり……不可思議だが、そなたを知っている」
巫女は微笑んだ。
「巫です。梓巫女の篠と申すものです」
白骨が露わになり、月光が祈りを照らす。
私は屍に膝を折り、囁いた。
「……雪政、いや、螢雪よ。
母を失い、良宵を追い、戒律を背負い、熊に襲われ……
俺は、どこへ辿り着きたかったのだ」
篠は枝から降り、白衣が夜を包んだ。
「彷徨える意識と邂逅したなれば、慈しみを以て教えて差し上げるのです。
あなたはもう、此の岸の者ではないのだと――」
指先が瞼に触れる。
光と闇の境が、音もなく溶けた。
世界が沈み、記憶が閉じた。
「……あと少しです。あなたは、何処へ辿り着きたかったのですか。螢雪さま」
涙が頬を伝い、白骨に落ちた。
――辿り着く場所など、どこにもなかった。
ただ、光があった。
その光は、闇に触れた途端、形を失った。
月が歪み、母熊の咆哮がこだました。
首筋が疼き、指先が痕に触れる。
そこは冷たく、記憶のように沈黙していた。
そのとき、理解した。
良宵は、最初から知っていたのだ。
――この魂がすでに、終焉の側にあることを。
光が遠のく。篠の姿も消える。
温もりの痕だけが空気に漂い、
闇がその形を覚えていた。
誰が誰を離したのか――
その区別は、もう意味を持たなかった。
闇が呼吸を始めた。
その息が、息に似た何かと重なる。
重なりのたび、何かが静かに壊れていく。
光を求めた心が、光そのものを焼こうとしていた。
祈りを拒む祈り――その始まりは、沈黙の中にあった。
光の記憶が、闇の底でわずかに瞬いた。
それが、最後の祈りだった。
風がひとすじ吹き、枝が鳴る。
その音に混じって、声がしたように思った。
「あなたを赦せる存在は、神や仏ではありません。
あなたを赦せる存在とは――」
風が渡り、声は夜に溶けた。
鴉が一羽、屍の上に降り、ひと声鳴いた。
その影の中で、篠は己の骸に触れた。
指先が微かに震え、微笑が零れた。
その笑みは、涙の形をしていた。
白衣が淡く揺れ、風がそれを攫う。
その揺れが消えたあと、そこには誰の姿もなかった。
――彼岸に囚われた魂が、己の残影に触れていた。
それを、風だけが見ていた。
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紅が朱に滲み、母の面影が揺らいだ。
だが、次の瞬間、血がその色を塗り潰した。
足音。
顔を上げると、幼い僧が立っていた。
背に満月、瞳に光。
その姿が、遠い誰かの微笑に似ていた。
「おお、良宵……もう一度、お前に会いたかったのだ」
言葉の意味が消え、名だけが残った。
良宵の微笑が、篠の微笑に重なった。
――篠? 記憶の縁が、音もなくほどけていく。
童の笑い声。
月の下で影が跳ね、やがて散った。
私は呟いた。「見よ、良宵……俺にも、力がある!」
そのとき、良宵の姿は歪み、青年の形を取った。
光が顔を裂き、涙が溢れた。
「なぜ――お前は泣く」
叢雲寺の庭が赤く染まり、
良宵の姿は白い光に包まれて消えた。
私は手を伸ばした。
光の中で、彼もまた手を伸ばした。
指先が触れかけた刹那――
背後から闇が襲う。
熊の咆哮。
牙が脚を噛み、地が傾く。
叫びは音を持たず、ただ血だけが流れた。
「放せ! 俺はまだ終われぬ!
祈りに守られ、願いに繋がれ、慈しみに育まれた!
だから――俺は灯となるのだ!」
拳が虚空を叩く。
熊の姿は消え、掌に血が滲んだ。
目を落とすと、母が倒れていた。
手には、短刀。刃が微かに震え、呼吸を映した。
木陰に、幼い雪政が子熊を抱いて立っていた。
その瞳は感情を失い、鏡のように私を映した。
視線を戻すと、母は熊に変わっていた。
「母を失い、熊を殺し、戒律を踏みにじった。
何を得た? どこへ辿り着きたかった?」
背後で白衣が舞う。
白い巫女が枝に腰かけ、鏡を抱いて歌っていた。
「いろはにほへと ちりぬるを……」
錫杖の音が夜を裂いた。
足もとには霞のような童の亡魂。
白衣が月光に滲む。
「丑の刻、死霊に満ちた奥山に、白い巫女がひとり……不可思議だが、そなたを知っている」
巫女は微笑んだ。
「巫です。梓巫女の篠と申すものです」
白骨が露わになり、月光が祈りを照らす。
私は屍に膝を折り、囁いた。
「……雪政、いや、螢雪よ。
母を失い、良宵を追い、戒律を背負い、熊に襲われ……
俺は、どこへ辿り着きたかったのだ」
篠は枝から降り、白衣が夜を包んだ。
「彷徨える意識と邂逅したなれば、慈しみを以て教えて差し上げるのです。
あなたはもう、此の岸の者ではないのだと――」
指先が瞼に触れる。
光と闇の境が、音もなく溶けた。
世界が沈み、記憶が閉じた。
「……あと少しです。あなたは、何処へ辿り着きたかったのですか。螢雪さま」
涙が頬を伝い、白骨に落ちた。
――辿り着く場所など、どこにもなかった。
ただ、光があった。
その光は、闇に触れた途端、形を失った。
月が歪み、母熊の咆哮がこだました。
首筋が疼き、指先が痕に触れる。
そこは冷たく、記憶のように沈黙していた。
そのとき、理解した。
良宵は、最初から知っていたのだ。
――この魂がすでに、終焉の側にあることを。
光が遠のく。篠の姿も消える。
温もりの痕だけが空気に漂い、
闇がその形を覚えていた。
誰が誰を離したのか――
その区別は、もう意味を持たなかった。
闇が呼吸を始めた。
その息が、息に似た何かと重なる。
重なりのたび、何かが静かに壊れていく。
光を求めた心が、光そのものを焼こうとしていた。
祈りを拒む祈り――その始まりは、沈黙の中にあった。
光の記憶が、闇の底でわずかに瞬いた。
それが、最後の祈りだった。
風がひとすじ吹き、枝が鳴る。
その音に混じって、声がしたように思った。
「あなたを赦せる存在は、神や仏ではありません。
あなたを赦せる存在とは――」
風が渡り、声は夜に溶けた。
鴉が一羽、屍の上に降り、ひと声鳴いた。
その影の中で、篠は己の骸に触れた。
指先が微かに震え、微笑が零れた。
その笑みは、涙の形をしていた。
白衣が淡く揺れ、風がそれを攫う。
その揺れが消えたあと、そこには誰の姿もなかった。
――彼岸に囚われた魂が、己の残影に触れていた。
それを、風だけが見ていた。