藤城皐月は体を隣の席に向け、
二橋絵梨花の読んでいる本を見た。それはハードカバーの本で、紙面の上部にイラストが描かれているものだった。
本文の漢字にはルビが振られていた。絵梨花にしては少し幼稚な感じに思えたので、後で何の本を読んでいるのか聞いてみようと思った。
右を向くと、
岩原比呂志はまだ問題を解いていた。比呂志ならこういう時、鉄道関係の本を読むだろう。
皐月の後ろで、比呂志の隣の席の
吉口千由紀もまだ問題を解いていた。千由紀はいつも
川端康成の文庫本を読んでいるので、きっと今日もそうだろう。
テストが始まって15分も経つと、解き終わる子も増えてきた。先生の前に児童が列を作って並ぶようになり、教室内も少しざわついてきた。
千由紀と比呂志も解き終わって席を立ったので、皐月は隣の席の絵梨花に何の本を読んでいるのか聞いてみた。絵梨花はまだ問題を解いている子に配慮して、黙って本を手渡してくれた。
その本は少年少女日本文学館シリーズの『トロッコ・鼻』だった。
芥川龍之介の作品を集めたもののようだ。
「どの話を読んでたの?」
「今読んでいるのは『
羅生門』。読むのは何度目になるかな……」
少し顔を近づけなければ聞き取りにくいくらいの小声だ。
「二橋さんって、同じ話を何回も読むの?」
「読むよ。だって回を重ねるごとに理解が深まって面白くなるから。藤城さんは一度読んで終わり?」
「小説はほとんど読まないから何も言えないけれど、確かに漫画は何度も繰り返して読むかな。台詞とか覚えちゃうよ」
「小説も漫画も同じだよ」
千由紀が席に戻って来て、机の中から文庫本を取りだした。ブックカバーがされているので、今日は川端康成の何の本なのかわからない。皐月は絵梨花と話を続けた。
「芥川龍之介って知ってるけど、読んだことないな……教科書に出てきたことってあったっけ?」
「教科書には載っていないみたいだよ。戦前の小説は言葉が難しくて表現も古いから、最近の小学校では習わないって塾の先生が言ってた」
皐月は絵梨花に手渡された本の最初に載っている『羅生門』の冒頭を読み始めた。
イラストだと思っていたものは頭注の挿絵で、羅生門が平安京のどの位置にあったかとか、
揉烏帽子が絵と共にどんな材料で作られたかまで説明されていた。
本文は漢字のすべてにルビが振られているだけでなく、本文中の語句に用語解説も書かれていた。これなら知らない漢字や言葉に詰まったり、飛ばし読みをしなくても読み進められる。
「俺、漢字超得意だから、難しい漢字がいっぱい載ってる小説って面白そう。
蟋蟀とか、ルビがなくても余裕で読めるんだけど……あれっ? ここではコオロギじゃなくてキリギリスって読ませるのか。……でも、やっぱり読めない字も多いな……
薪の料とか。
薪なら読めるけど
料なんて読めねーよ。意味は材料の料なんだろうけどさ……」
「昔の文学作品って
表外読みが多いからね」
皐月が夢中になって『羅生門』を読んでいると、珍しく千由紀が皐月たちの話に入ってきた。千由紀から話の輪に入ってくることは本当に稀で、今の席順になるまで見たことがなかった。
「吉口さん、表外読みって何?」
「常用漢字表に載っていない読み方のこと。時々クイズ番組に出てくるよ。小学校で習う難読漢字ってことで、インテリ芸能人でも結構読めなかったりする」
「吉口さんは読めるの?」
「漢字だけ単体で出されると難しいけど、小説の中だったら前後のつながりで大体読めるよ。でも
薪の料は読めないな……」
話を聞いていると千由紀の漢字力のレベルの高さがわかり、皐月はさっき漢字が得意だと言ったことが恥ずかしくなってきた。